SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#356 冬眠カプセルの悪夢 Nightmare in the Cryosleep Pod

第一章:暗黒の揺りかご

 

 

 


その場所には、音というものが存在しない。宇宙船『アイギス号』の最下層にある冬眠室。そこには、何百もの細長いカプセルが、まるで巨大な昆虫の卵のように整然と並んでいて、カプセルの表面は薄い霜に覆われ、内部からは青白い光が漏れている。船内の空気は、生命を維持するためだけの最低限の酸素と、骨まで凍てつくような冷気で満たされている。

 

 

 

 


カプセルの一つ、第108号。その中に横たわっているのは、若き技師のタクヤ。彼は地球を出発する際、愛する妻と幼い娘に「すぐに会えるからね!」と約束した。目的地である新天地への航海は、冬眠している間に終わるはずだったのだ。数十年という月日は、眠っている彼にとっては一瞬の夢に過ぎないはずだった。

 

 

 

 


しかし、その「一瞬」は、残酷な不具合によって永遠の地獄へと変わってしまった。カプセルの制御システムに、目に見えないほどの小さな亀裂(フラクチャー)が生じ、肉体を凍結させ、脳の活動を停止させるはずの冷却ガスが、微かに漏れ出した。

 

 

 

 

 


本来ならば、システムは異常を検知して強制覚醒させるはずだった。しかし、アイギス号のメインコンピュータは、この異常を「省エネモードの最適化」と誤認した。結果として、タクヤの肉体は凍りついたまま、その意識だけが、暗闇の中でパチリと目を覚ました。

 

 

 

 

 


「……? ここは……」

 

 

 

 


タクヤは目を開けようとした。しかし、まぶたは氷の膜で固められ、ピクリとも動かない。呼吸をしようとした。しかし、肺は凍結した溶液で満たされ、空気を取り込む隙間もない。指を動かそうとした。しかし、神経を流れる電気信号は、零下百度近い冷気によって遮断されていた。

 

 

 

 

 


彼は自分の体が、自分のものではない「冷たい彫刻」になってしまったことを悟った。動けない。喋れない。そして、見ることができない。ただ、鋭敏になった聴覚と、皮膚の表面を這い回るような冷たさの感覚だけが、彼を現世に繋ぎ止めていた。

 

 

 

 

 


「これは、何かの間違いだ。誰か、助けてくれ!」

 

 

 

 


心の中で、いくら叫んでも、それは沈黙の海に吸い込まれていくだけだった。カプセルの外では、宇宙船のエンジンが刻む一定の振動音が響いている。

 

 

 

 


ズーン、ズーン、ズーン……。

 

 

 

 


それは、まるで巨大な怪物の鼓動のよう。タクヤは、この暗闇の中で、どれほどの時間を過ごさなければならないのかを考え、絶望に震えた。

 

 

 

 


一分、一時間、一日。

 

 

 

 


視覚を奪われた世界では、時間の感覚が恐ろしいほどに引き伸ばされる。タクヤは、自分の心臓が止まっているのか、それとも極限までゆっくりと動いているのかさえ分からなかった。ただ、脳だけが、凍った檻の中で、熱を持ったまま回転を続けていた。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:思考の迷宮、零下の対話

 

 

 

 


冬眠室の静寂は、時折、機械的なアナウンスによって破られた。

 

 

 

 


『――航海開始から二十五年。船内環境、正常。全乗組員の生命反応、安定…』

 

 

 

 


その無機質な声を聞くたびに、タクヤは狂おしいほどの怒りを感じた。

 

 

 

 


「正常なわけない! 俺は起きているんだ! この冷たさを、今すぐ止めてくれ!」

 

 

 

 


二十五年。その長い年月を、タクヤはただ「考える」ことだけで過ごしてきた。最初の数年間は、家族との思い出を何度も思い返した。娘の笑い声、妻の手料理の匂い。しかし、十年を過ぎる頃には、記憶のディテールが少しずつ削り取られていった。娘の顔が、どんな風だったか思い出せない。妻の名前が、冷たい霧の中に消えていく。

 

 

 

 


記憶という「熱」は、カプセルを包む「冷気」によって、少しずつ奪われていった。思考を止めようとしても、脳は勝手に働き続ける。タクヤは暗闇の中で、複雑な数式を組み立て、宇宙の構造を想像し、そして自分を陥れたカプセルの回路図を脳内に描いた。どれほど深く思考を掘り下げても、現実は一ミリも変わらない。肉体は依然として凍りついたまま、感覚は「痛いほどの冷たさ」という一点に集中していた。血の巡らない体。冷血な機械の一部。タクヤは、自分が人間であることを忘れそうになっていた。

 

 

 

 

 


ある時、カプセルの外で人の気配がした。メンテナンスロボットのキャタピラが床を擦る音。カチャリ、カチャリと、カプセルの点検口を操作する金属音。

 

 

 

 


「頼む、気づいてくれ。俺の脳波をスキャンしてくれ…」

 

 

 

 


タクヤは、全力で脳に意識を集中させた。念じれば、何かが伝わるのではないかと。しかし、ロボットはプログラムされた通りの動作を終えると、無情にも去っていってしまった。残されたのは、以前よりもさらに深くなった沈黙だけだった。

 

 

 

 


「……ああ、冷たい。冷たい……」

 

 

 

 


タクヤの意識は、次第に「冷気」そのものと同化していった。かつて彼を苦しめていた氷の感覚は、今や彼という存在を形作る唯一の「芯」になっていた。心臓は動いていない。宇宙の冷たい波動が、胸を一定のリズムで叩いている。タクヤは、熱を持った「人間」という存在を、汚らしく、不器用な生き物だと感じ始めていた。これほどまでに澄み渡り、静寂に満ちた「冷血」の世界があるというのに…

 

 

 

 

 

 

 


第三章:蓋の開く音、歪んだ再会

 

 

 


それから、さらにどれほどの月日が流れ去ったか。
ついに、その時がやってきた。

 

 

 

 

 


『――目的地に到達。着陸プロセス、完了。生命維持システム、解凍モードに移行します…』

 

 

 

 


カプセル内の温度が、わずかに上昇を始めた。タクヤの皮膚に、数十年ぶりに「熱」という刺激が戻ってきた。それは決して心地よい温もりではなかった。凍りついていた細胞たちが、急激な温度変化によって破壊され、灼熱の針で刺されるような激痛が全身を走る。

 

 

 

 


「あ……あああああ!」

 

 

 

 


数十年ぶりに、タクヤの口から微かな呻き声が漏れた。肺に酸素が流れ込み、凍った血液が無理やり心臓へと押し流されていく。まぶたの氷が溶け、視界が開けた。

 

 

 

 


冬眠室の照明は壊れ、非常用の赤いランプが不気味に点滅している。カプセルの蓋が、プシュッという音を立ててゆっくりと開いた。

 

 

 

 


タクヤは、震える腕でカプセルの縁を掴み、外へと這い出した。床は氷で覆われ、天井からは黒い液体が滴り落ちている。他のカプセルを見渡すと、そこには凄惨な光景が広がっていた。蓋が無理やりこじ開けられ、中の乗組員たちは、解凍される前に「何か」によって中身を抉り取られていた。肉は剥ぎ取られ、骨だけが白く光っている。

 

 

 

 

 


「……何なんだ、これは。何が起きたんだ……」

 

 

 

 


タクヤは、よろよろと歩き出した。廊下には、かつて人間だった者たちの残骸が散らばっている。そして、奇妙なことに、そこには「血の跡」が全くなかった。すべての犠牲者は、凍ったまま、まるで氷細工を壊すようにして解体されていた。

 

 

 

 

 


タクヤは、通路の奥から聞こえてくる「バリ、バリ」という硬い音に耳を澄ませた。それは、凍った肉を噛み砕く、不気味な咀嚼音。

 

 

 

 


曲がり角の向こう側に、影が見える。それは、人間の形をしているが、肌は青白く、不自然なほどに痩せ細っていた。床に転がった頭部を、無表情のまま両手で抱え、かじりついている。タクヤは息を殺した。その瞬間、背後から冷たい気配がした。

 

 

 

 

 


「……お前、……解凍、……されたのか?」

 

 

 

 


振り向くと、そこにはアイギス号の船長が立っていた。目は白濁し、唇は紫色に染まっている。船長の胸には、本来あるはずの「温かい鼓動」がないように見えた。代わりに、彼の胸の開いた傷口からは、冷たい冷気が常に噴き出していた。

 

 

 

 


「……腹が、……減った。……熱い、……肉が、……食いたい…」

 

 

 

 


船長の手が、ゆっくりとタクヤの肩に置かれた。
 

 

 

 

 

 


第四章:冷血の新人類、氷の支配

 

 

 

 


「やめろ、……俺だ、タクヤだ! わからないのか!」

 

 

 

 


タクヤは船長の腕を振り払おうとした。
 

 

 


「……タクヤ? ……そんな、……名前、……忘れた。……今は、……ただ、……冷たい。……もっと、……熱を……」

 

 

 

 


船長の口が、大きく裂けるように開いた。そこには、サメのように鋭い氷の歯が何重にも生え揃っていた。宇宙船の中は、もはや生存者のためのシェルターではなく、変異した「冷血種」たちの巨大な冷蔵庫と化していた。

 

 

 

 


アイギス号は、目的地の惑星に不時着していた。大気は窒素が凍るほどの極寒に包まれ、太陽の光は厚い雲に遮られている惑星。冬眠システムの故障によって、タクヤよりも早く目覚めた者たちは、この極限の環境に適応するために、自らの肉体を改造せざるを得なかった。彼らは「熱」を失う代わりに、永久に凍りつくことのない「冷たい命」を手に入れた。そして、その「冷たい命」を維持するために、彼らが求めたのは、まだ温かさを保っている同胞たちの肉だった。

 

 

 

 

 


タクヤは操縦室に逃げ込み、内側からロックをかけた。外では、船長や他の乗組員たちが、爪で金属のドアを引っ掻いている。

 

 

 

 


キィィ、キィィ……。

 

 

 

 


 
タクヤはモニターを確認した。船の周囲には、無数の影が蠢いている。彼らは氷の地面を這い回り、墜落した船から這い出してくる「新鮮な熱」を、獲物として待ち構えている。

 

 

 

 


「ダメだ。もう逃げ場なんて、どこにもない……」

 

 

 

 

 


タクヤは、操縦席の隅で丸くなった。ふと、自分の手を見た。指先が、再び白く変わり始めている。解凍モードが停止し、船内の温度が急激に低下し始めている。メインコンピュータは、外部の環境に合わせて、船内の温度をマイナス二百度まで下げようとしていた。

 

 

 

 

 


呼吸が、再び白く凍り始めた。激痛だったはずの感覚が、次第に麻痺し、心地よい眠気へと変わっていく。カプセルの中で過ごした数十年の暗闇。あの時、タクヤは「冷たさ」を拒絶していた。

 

 

 

 

 

 

 


けれど、今は違う…

 

 

 

 

 

 

 


第五章:凍てつく意識、永遠の放置

 

 

 

 


操縦室のドアを叩く音が、止まった。外の「彼ら」は、タクヤが完全に冷え切るのを待っている。熱を失った肉体は、彼らにとってはもはや食べ物ではない。それは、新しい「冷血な同胞」の誕生を意味している。

 

 

 

 

 


タクヤは、モニターに映る極寒の風景をじっと見つめた。雪が降り積もる大地に、アイギス号は巨大な墓標のように突き刺さっている。人々の叫び声も、文明の音も、ここには届かない。ただ、凍った風が、金属の船体を叩く音だけが、永遠に繰り返されている。脳裏から、妻の顔も、娘の笑い声も、完全に消え去っていこうとしている。自分がなぜこの場所に来たのかさえ思い出せずにいる。

 

 

 

 

 


「……静かだ。……本当に、……静かだ…」

 

 

 

 


唇が、最後の一言を紡いだ。瞳は白濁し、体温計の針は、生者の領域を完全に超えて振り切れた。タクヤは立ち上がり、ゆっくりとドアのロックを解除した。ドアが開くと、そこには霧のような冷気が立ち込めていた。廊下に立っていた「彼ら」は、タクヤの顔を見ると、頷き、道を譲った。タクヤは、その仲間たちの中へと、静かに歩みを進めた。足音は、雪を乱すことも、氷を割ることもなかった。

 

 

 

 

 


アイギス号のメインコンピュータが、最期のログを記録した。

 

 

 

 

 


『――全乗組員の体温、周囲環境と一致。生命維持システム、不要と判断し、シャットダウンします。お疲れ様でした…』

 

 

 

 

 


船内の照明が、一斉に消えた。真っ暗になった船内で、「冷血な集団」は、何をするでもなく、ただそこに立ち尽くしていた。目的も、感情も、未来もない。ただ、氷の彫刻のように、これから何百年、何千年とその場所に留まり続ける。外では、猛吹雪がすべてを覆い隠そうとしている。やがて、宇宙船の姿さえも見えなくなるだろう。

 

 

 

 

 


この先、誰かがここを訪れることは、あるのだろうか。もし、誰かが訪れたとしても、そこに見つけるのは、生きたまま凍りつき、心を持たないまま放置された、かつての人間たちの残骸。タクヤは、その闇の中心で、瞬き一つせずに、存在しない何かを待ち続けている。

 

 

 

 

 


彼の頬を、一粒の氷の結晶が伝い落ちた…
 
 

SCENE#355 国難… National Panic

第一章:消失した秘伝の書

 

 

 

 


その日の朝、日出処(ひいづるところ)の国、瑞穂国(みずほのくに)の宮廷は、かつてない戦慄に包まれていた。事の始まりは、宮廷菓子職人の長、源内(げんない)が上げた悲鳴だった。彼は、代々の天皇や貴族たちを唸らせてきた「究極の菓子レシピ」が保管されている宝物庫の扉が、何者かによってこじ開けられているのを発見したのである。

 

 

 

 

 


そのレシピは、一文字たりとも外部に漏らしてはならない国宝中の国宝。もしこれが敵対する隣国に渡れば、瑞穂国の文化的優位性は失われ、外交上の大きな切り札を失うことを意味していた。

 

 

 

 


「大変だ、大変だ! 国難であるぞ!」

 

 

 

 


源内は白装束を振り乱しながら、政務官たちの集まる議場へと駆け込んだ。

 

 

 

 


「静かにせよ。宮廷で騒ぎ立てるとは何事だ!」

 

 

 

 


眉をひそめて彼を制したのは、外務大臣の橘(たちばな)であった。彼は理知的で、常に沈着冷静を装うことを信条とする男。

 

 

 

 

 


「大臣! レシピが……我が国の魂とも言える、あの菓子の製法が盗まれました!」

 

 

 

 


橘の顔から、一瞬にして血の気が引いた。

 

 

 

 

 


「何だと……。まさか、今夜の『万国和親茶会』はどうするのだ!」

 

 

 

 


今夜の茶会には、世界中から名だたる王族や外交官が集まることになっていた。この茶会の成否は、現在進行中の貿易交渉を有利に進めるための鍵であり、瑞穂国の国威を世界に示す絶好の機会だったのである。

 

 

 

 

 


「ならば、今すぐ代わりの菓子を作れ! 我が国の威信をかけた、最高の一品をだ!」

 

 

 

 


「無理でございます……。秘伝の粉の配合も、火加減の加減も、すべてあの紙に書いてあったのです。今の私に作れるのは……」

 

 

 

 

 


源内は、厨房の隅にあった箱たちを指差した。

 

 

 

 

 


そこには、昨日の試作で失敗し、賞味期限が今日までとなっている「もみじ饅頭」が、山のように積まれていた。しかも、それは火が通り過ぎて少し固くなり、形もいびつな、いわゆる「訳あり品」だった。

 

 

 

 

 


「こ、これを……出すというのか? 世界各国の王族に、このしなびた饅頭をか?」

 

 

 

 

 


橘は絶望の淵に立たされた。瑞穂国の外交史上、最大の汚点になることは間違いなかった。

 

 

 

 


「いや、待てよ……」

 

 

 

 

 


橘の脳内に、外交官としての悪魔的な閃きが走った。

 

 

 

 


「源内、これは『もみじ饅頭』ではない。今日から、これは最新の科学と伝統が融合した、世界初の『分子ガストロノミー菓子』だ!」

 

 

 

 

 


「ぶんし……何ですか、それは?」

 

 

 

 

 


「嘘を真実にする。それが外交。源内、今すぐこれらの中身を詰め替え、表面を銀箔でコーティングしろ。我々は、この国難を『概念』で乗り切るのだ!」

 

 

 

 

 

 

 


第二章:銀色の偽装と外交の嘘

 

 

 

 


「いいか、職人たちよ。これは単なる菓子ではない。これは『瑞穂国の未来そのもの』だ!」

 

 

 

 

 


厨房は戦場と化した。源内をはじめとする職人たちは、泣きながらもみじ饅頭の皮を剥ぎ、中のこしあんを一度取り出した。そこに、橘が秘密裏に調達してきた「パチパチ弾けるキャンディー」と、異様に高い輸入物の「トリュフオイル」を強引に練り込んだ。

 

 

 

 

 


「大臣、本当にこれでいいのですか? 口の中で爆発しますが……」

 

 

 

 


「それが『サプライズ』だ。外交はサプライズ!見た目さえ豪華なら、人間は味を脳内で勝手に補正するものだ!」

 

 

 

 


一方、宮廷の広間では、すでに茶会の準備が整っていた。最初に来場したのは、軍事大国ガリアの第一皇子、アルフォンスだった。彼は美食家として知られ、瑞穂国の菓子を「子供の遊び」と公言して憚らない気難しい男。

 

 

 

 

 


「ふん、瑞穂国の菓子がどれほどのものか、確かめに来てやったぞ。期待を裏切れば、即座に不可侵条約を破棄させてもらうからな!」

 

 

 

 

 


アルフォンスの傲慢な言葉に、橘は背中に嫌な汗をかきながらも、完璧な外交的微笑を浮かべた。

 

 

 

 

 


「皇子、今夜お届けするのは、我が国の伝統を破壊し、再構築した最新のアートでございます。その名も『銀河の紅葉(もみじ)』。どうぞ、お楽しみくださいませ…」

 

 

 

 

 


給仕たちが、厳かな音楽とともに銀色の物体を皿に乗せて運んできた。それは、もみじ饅頭の原型を留めないほどに銀箔で塗り固められ、不自然に光り輝きまくっていた。

 

 

 

 


「ほう……。これが菓子か? まるで宇宙から飛来した隕石のようではないか!」

 

 

 

 

 


各国の外交官たちがざわつき始めた。

 

 

 

 

 


「これは『概念』を食べる菓子にございます!」

 

 

 

 

 


橘は堂々と言い放った。

 

 

 

 

 


「中には、瑞穂国の山々の精霊が封じ込められております。一口食べれば、貴方の脳内に紅葉の嵐が吹き荒れることでしょう!」

 

 

 

 

 


アルフォンスは不敵に笑い、フォーク(瑞穂国では本来使わないが、橘が『演出』として用意した)を銀色の物体に突き立てた。その瞬間、パチパチキャンディーが酸素に触れ、皿の上で「バチバチッ!」という不穏な音を立て始めた。

 

 

 

 

 


「何だ、この音は! 爆発物か!」

 

 

 

 

 


警護兵たちが一斉に銃を構えた。

 

 

 

 

 


「落ち着いてください! これは『紅葉が風に舞う音』を再現した音響演出でございます!」

 

 

 

 

 


橘は叫んだ。

 

 

 

 

 


「皇子、これこそが分子ガストロノミー。食べる前に耳で楽しむ、最先端の芸術なのです!」

 

 

 

 

 


アルフォンスは半信半疑ながらも、その銀色の欠片を口に運んだ。次の瞬間、彼の口の中でキャンディーが猛烈に弾け、トリュフオイルの強烈な香りが鼻を突き抜けた。

 

 

 

 

 


橘は、死を覚悟した…

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:パニック・イン・ザ・パレス

 

 

 

 

 


アルフォンス皇子の表情が、劇的に変化した。驚愕に目を見開き、頬を痙攣させ、喉をゴクンと鳴らす。会場全体が息を呑んで見守る中、皇子はゆっくりとナプキンで口を拭った。

 

 

 

 

 

 


「……これは。これは一体、どういうことだ…」

 

 

 

 

 


「不愉快でございましたか、皇子…」

 

 

  

 

 


橘は冷や汗でシャツが張り付くのを感じた。

 

 

 

 

 


「いや……。かつてない。私は今まで、数多の星付きレストランを巡ってきたが、これほどまでに『暴力的な前衛性』を感じる菓子は初めてだ。口の中で小宇宙がビッグバンを起こし、その後に残るこの不自然なほどの油の香りは、まさに瑞穂国の底知れぬ野心を感じさせる!」

 

 

 

 

 

 


「おおおっ!」

 

 

 

 

 


会場に歓声が上がった。橘は心の中でガッツポーズを作った。

 

 

 

 


「素晴らしい! さすがは瑞穂国だ!」

 

 

 

 

 

「この銀色の輝き、まさにデジタル時代の禅(ZEN)を体現している!」

 

 

 

 

 


外交官たちが次々ともみじ饅頭の改造品に手を伸ばし始めた。しかし、喜びも束の間だった。あまりにも大量に仕込んだパチパチキャンディーが、熱を帯びた会場内で予期せぬ反応を示し始めたのである。給仕たちが持っていた予備の皿の上で、銀色のもみじ饅頭が「ボフッ!」という音とともに、小さな煙を上げ始めた。

 

 

 

 

 

 


「見ろ! 菓子から煙が!」

 

 

 

 

 

「これが噂に聞く、スモーク・プレゼンテーションか!」

 

 

 

 


皆は喜んでいるが、橘は知っていた。それは賞味期限切れの餡が、強引に詰め込まれたトリュフオイルと化学反応を起こし、発酵の最終段階に入っている証拠だということを。

 

 

 

 

 


「源内! 何とかするんだ! このままだと全部爆発するぞ!」

 

 

 

 


橘はインカムで厨房に怒鳴り散らした。

 

 

 

 

 

 


「無理です! 銀箔を塗りすぎたせいで、内部の圧力が限界に達しています! これはもはや菓子ではなく、甘い手榴弾です!」

 

 

 

 

 


橘は決断した。この事態さえも、外交の一部として取り込むしかないと。

 

 

 

 


「皆様! 今からお見せするのは、我が国伝統の『刹那の美学』でございます! この菓子は、皆様の手元で弾け飛ぶことで完成するのです! さあ、急いで食べてください! 猶予は十秒ですよ!」

 

 

 

 

 


広間は一転して、地獄の早食い大会へと化した。

 

 

 

 

 


「うおっ、熱い!」

 

 

 

 

 

「鼻から銀箔が出た!」

 

 

 

 

 


王族たちが優雅さを投げ捨て、必死にもみじ饅頭を口に放り込む。その光景は、どこからどう見ても国家の最高級茶会ではなかったが、アルフォンス皇子だけは「これこそが瑞穂国の『生(なま)』の熱量だ!」と激賞し、感動の涙を流していた。橘は、崩れ落ちそうになる足を必死に支え、震える手で自分も銀色の爆弾を口に運んだ。

 

 

 

 

 

 


その味は、ひどいものだった…

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:真実のレシピとアヒルの影

 

 

 

 

 


茶会は何とか終了した。参加者たちは「一生忘れられない体験だった」と口々に語り、次々と友好条約に署名して帰路についた。橘と源内は、嵐が去った後の広間の床に、力なく座り込んでいた。床には剥がれ落ちた銀箔が、虚しく散らばっている。

 

 

 

 

 


「大臣……。我々は勝ったのでしょうか…」

 

 

 

 


「ああ。だが、我が国の菓子職人としてのプライドは、粉々に砕け散ったな…」

 

 

 

 

 


そこへ、一人の若い見習い職人が、一枚の紙を持って走ってきた。

 

 

 

 


「親方! 橘大臣! 大変です! レシピが見つかりました!」

 

 

 

 

 


「何だと!? 犯人を捕まえたのか!」

 

 

 

 

 


「いえ……。宝物庫の裏にある、洗濯機の中に紛れ込んでいました。どうやら掃除のおばちゃんが、雑巾と一緒に洗ってしまったようで……」

 

 

 

 


差し出された紙は、洗剤の香りが漂い、文字の半分が滲んで消えていた。橘は、その紙を凝視した。

 

 

 

 

 


 
「……源内。これを見ろ…」

 

 

 

 

 


「はい? ……あ、これは。究極のレシピの最後に、書き加えられた文字がありますね…」

 

 

 

 

 


そこには、歴代の職人たちが密かに書き記した「国難の際の心得」が記されていた。

 

 

 

 

 


『真実の味とは、舌ではなく、状況が作るものなり。もしレシピを失わば、その場にあるものを銀色に塗り、嘘を突き通せ。人間は輝くものに弱い。これ、瑞穂国の究極の奥義なり』

 

 

 

 


 
「……先祖代々、同じことをやっていたのかよ…」

 

 

 

 

 


橘は、乾いた笑いを漏らした。瑞穂国の外交は、常に「銀箔で塗り固められた嘘」によって守られてきたのだ。レシピが盗まれたのではなく、レシピそのものが「嘘のつき方」を教えていた。

 

 

 

 

 


しかし、事態はこれで終わりではなかった。茶会の翌日、ガリア大国から緊急の通信が入った。

 

 

 

 

 


「昨夜の菓子に感動したアルフォンス皇子が、我が国の国章を『アヒル』から『銀色の紅葉』に変更すると言い出した! ついては、あの菓子の量産体制を整えてほしい!」

 

 

 

 

 


橘は、頭を抱えた。

 

 

 

 

 


「大臣、どうしますか? また、もみじ饅頭を銀色に?」

 

 

 

 


「いや、源内。次は『金の鯛焼き』で行こう。中身はワサビと生クリームだ。これもまた、最新の分子ガストロノミーだと言い張るしかない……だろ?」

 

 


 
瑞穂国の国難は、こうして「新しい伝統」へと昇華されていった。世界中の人々が、瑞穂国の「爆発する銀色の菓子」を求めて列を作る。その裏で、官僚たちが必死にトリュフオイルを買い占め、パチパチキャンディーの在庫を確認する日々。それは、世界で最も甘く、そして最も不条理な外交戦争の幕開けだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 第五章:国難の向こう側

 

 

 

 

 


数ヶ月後、瑞穂国は空前の「シルバー・ラッシュ」に沸いていた。銀色に塗られたあらゆる食品が、最先端の芸術として世界へ輸出され、国の借金は瞬く間に完済された。橘大臣は「救国の外交官」として国民的な英雄となり、源内は「革命の菓子王」としてその名を歴史に刻んだ。

 

 

 

 


 
「大臣、最近は隣国のスパイたちが、我々のゴミ捨て場を漁っているようです!」

 

 

 

 

 


「ふん、パチパチキャンディーの空袋でも探しているのだろう。勝手にやらせておけ!」

 

 

 

 

 


橘は、宮廷のテラスで、本物の(何も塗っていない)もみじ饅頭を頬張りながら言った。

 

 

 

 

 


「やはり、普通が一番だな、源内…」

 

 

 

 

 


「左様でございますね。しかし、皮肉なものです。我々が必死に守ろうとした伝統は、嘘をつくことで初めて世界に認められたのですからね…」

 

 

 

 

 


 
そこへ、再び見習い職人が慌てて駆け込んできた。

 

 

 

 

 


「大変です! 国難です! アルフォンス皇子が、今度は『瑞穂国の富士山を銀色に塗れ』と言い出しました! それができないなら、友好条約を白紙に戻すと!」

 

 

 

 


 
橘は、持っていた茶碗を落としそうになった。

 

 

 

 


「……富士山を? 銀色に? はぁ?」

 

 

 

 

 


「はい、最新の分子ガストロノミーなら可能だろう、と…」

 

 

 

 

 


橘は、天を仰いだ。

 

 

 

 

 


「源内、ペンキ屋を呼ぶんだ。世界一大きな刷毛を用意するんだ!」

 

 

 

 

 


「大臣、正気ですか!?」

 

 

 

 

 


「ああ、正気だ。外交とは、一度ついた嘘を一生守り通す、孤独なマラソンのようなものだ。富士山が銀色になれば、それは世界一巨大な『もみじ饅頭』に見えるだろう……だろ?」

 

 

 

 


 
国難が、終わらない。それは、嘘が真実を追い越し、虚構が現実を飲み込んでいく、壮大な喜劇。
今日も瑞穂国のどこかで、パチパチという不穏な音が響いている。それは、国を守るための執念の音であり、愚かな人間たちが踊らされる、滑稽なダンスのリズム。

 

 

 

 

 

 

橘は立ち上がり、マントを翻すように背筋を伸ばした。彼の瞳には、かつてない野心と、そして少しばかりの虚無が宿っていた。瑞穂国の未来は、これからも銀色に、眩しく、そして激しく爆発しながら続いていく。
 

 

 

 

 

 

 
「さあ、始めよう。世界を銀色に染め上げる、究極の嘘を!」

 

 

 

 

 



 

SCENE#354 太陽の所有権 Who Owns the Sun?

第一章:遮断された天球

 

 

 

 


世界に「影」という概念は存在しない。正確には、地上に届くはずのあらゆる光子が、成層圏を覆い尽くした巨大な黒い膜によって、根こそぎ奪い去られてしまったのである。人々が「ソーラー・キャノピー」と呼ぶその構造物は、全地球のエネルギー需要を賄うという大義名分の下、太陽光の九十九パーセントを直接回収し、それを液化エネルギー「ルクス」へと変換する独占企業『ヘリオス社』の心臓部であった。

 

 

 

 

 


地上の都市は、永遠の薄明に沈んでいる。かつての昼休みを告げるサイレンは、今や「配給」の合図へと変わった。ヘリオス社の管理下に置かれた街灯が、一日に数時間だけ、冷徹な青白い光を路面に落とす。市民たちはその光の輪の中に群がり、自身の携帯型蓄電デバイスに、生きるための「光」を充填する。

 

 

 

 


「パパ、今日もお花が笑ってないね…」

 

 

 

 


七歳の少年、ナギは、ベランダに置かれた小さな植木鉢を見つめて呟いた。そこには、かつて向日葵と呼ばれた植物の残骸が、首を垂れて黒ずんでいる。父親のサムは、息子の小さな肩を抱き寄せ、言葉を探した。サムはヘリオス社の末端の保守点検員として働いている。彼の仕事は、上空三万メートルに浮かぶパネルの継ぎ目を点検し、一滴のルクスも漏らさないように監視すること。

 

 

 

 

「太陽は、今は会社の倉庫にしまってあるんだよ、ナギ。私たちがもっと一生懸命働けば、いつか少しずつ、太陽を返してくれるはずだよ…」

 

 

 

 

 


それは、サム自身も信じていない、救いのない方便だった。地上での生活には、徹底した「低照度規律」が課せられている。一般家庭での電灯の使用は一日に三十分のみ、窓を開けることは禁じられ、鏡を持つことさえも「光の盗難」を助長するとして厳罰の対象となっている。

 

 

 

 


ヘリオス社が販売する「ルクス」の価格は、年々跳ね上がりを見せている。人々は光を買うために、自らの労働力を捧げ、娯楽を捨て、ついには視覚以外の感覚を研ぎ澄ませて生きることを余儀なくされた。街は灰色に塗り潰され、人々の瞳からは、かつて色彩が持っていた動揺や情熱が、少しずつはがれ落ちていった。

 

 

 

 

 


サムは、ヘリオス社の制服のポケットに忍び込ませた、一枚の小さな「破片」に触れた。それは、上空での作業中に偶然拾い上げた、パネルの剥離片だった。高度な集光機能を持つその結晶体は、微かな蓄光を放ち、サムの指先を淡く照らしている。

 

 

 

 

 


彼は知っていた。上空では、地上の一万倍もの輝きが、誰にも触れられることなく、ただ冷酷なシリンダーへと吸い込まれていることを。そして、その「盗まれた輝き」を取り戻そうとする、無謀な試みが始まろうとしていることも…

 

 

 

 

 

 

 


第二章:盗光者の秘密

 

 

 

 

 


その夜、サムはナギを連れて、都市の最下層にある廃棄物処理場へと向かった。そこは、ヘリオス社の監視カメラが、電力節約のために解像度を落としている唯一の死角だった。腐敗した合成樹脂の臭いが立ち込める中、数人の男女が、薄暗いランタンを囲んで座っていた。

 

 

 

 

 


「持ってきた、サム…」

 

 

 

 

 


リーダーの女性、サラが、枯れた声で問いかけた。彼女はかつて天文学者だった。しかし、空に星が見えなくなった日にその職を追われた。サムは、懐から例のパネルの剥離片を取り出した。

 

 

 

 

 


「ああ。これがあれば、キャノピーの制御信号を一時的にバイパスできる。……だが、本当にやるのか? これはテロ行為だぞ。もし見つかれば、私たちは光のない終身刑に処されてしまう…」

 

 

 

 

 


サラは、壁に掛けられた古い地図を指差した。

 

 

 

 


「テロじゃないわ。正当な防衛よ。ヘリオス社は太陽を私物化して、我々から『季節』を奪った。このままでは、私たち、いや、子供たちが、本物の『季節』を知らずに育ってしまうことを、あなたは許せるの?」

 

 

 

 

 


ナギは、繰り広げられる大人たちの会話を理解しようと、暗闇の中で瞳を凝らしていた。彼らの計画は、ヘリオス社の主幹送電塔をハッキングし、一瞬だけキャノピーのミラーを反転させることだった。地上の一点に、失われた太陽光を、数秒間だけ「降らせる」。それは実利的な解決策ではなかった。ただの象徴的な抵抗に過ぎない。しかし、その数秒間の輝きが、沈黙した市民たちの魂を呼び覚ますための、唯一の燃料になると彼らは信じていた。

 

 

 

 

 

 


「ナギ、これを持っていなさい!」

 

 

 

 

 


サムは、自作の反射鏡をナギに手渡した。それは、廃棄されたアルミ缶を数千回磨き上げ、凹面状に成形したものだった。

 

 

 

 

 

「もし、空から光が降ってきたら、その鏡で受け止めなさい。そして、一番暗い場所にいる、あのお花に届けてあげなさい…」

 

 

 

 

 


ナギは、子どもながらに、父の言葉を重々しく受け止めた。ナギにとって、光とは「買うもの」だった。しかし、父が話してきてくれた光は、もっと優しくて、誰にでも平等に降り注ぐ、魔法のような存在だった。

 

 

 

 

 


作業員としてのサムの知識が、ハッキングデバイスを少しずつ完成させていく。光を奪うために作られた技術を、光を解放するために転用する。皮肉な逆転劇が、地下の静寂の中で着実に進行していた。キャノピーの隙間から漏れる、人工的なルクスの輝きが、彼らの決意を青白く照らし出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:高度三万メートルの叛逆

 

 

 

 

 


決行の日。サムは、通常のシフトを装って、軌道エレベーターに乗り込んだ。上昇するにつれ、地上の灰色の都市が遠ざかり、代わりに黒い、巨大なキャノピーの裏側が視界を覆い尽くしていく。それは、地球という生命体に張り付いた、巨大な寄生虫の腹部のようだった。

 

 

 

 


「チェックポイント。個体識別番号:8821。異常なし…」

 

 

 

 

 


ゲートのAIが、平坦な声で告げる。サムは、心臓の鼓動が規律を逸脱しないよう、深く、長く呼吸を繰り返した。彼の背負った作業用バックパックの中には、サラたちが組み上げたハッキングチップが隠されている。作業デッキに降り立つと、そこには息を呑むような光景が広がっていた。

 

 

 

 

 


パネルの外側――太陽と対峙する面では、暴力的なまでの白銀の輝きが、逆巻く波のように押し寄せていた。真空に近い成層圏で、光子は一切の散乱を許されず、ヘリオス社の集光レンズへと吸い込まれていっている。サムは、遮光ゴーグルの濃度を最大に設定したが、それでも視界が焼き切れそうだった。

 

 

 

 

 


「……これを、独占しているのか…」

 

 

 

 


 
サムは、メインフレームの端子にチップを接続した。数秒後、彼の耳元に、地上のサラからの通信が届いた。

 

 

 

 

 


『接続確認。サム、聞こえる?今、全システムの脆弱性を突いて、第零層のミラー制御を奪取したわ。……カウントダウンを開始する。残り三百秒…』

 

 

 

 

 


サムは、周囲の警備ドローンの動きに細心の注意を払った。もし、今ここで見つかってしまえば、地上のナギには二度と会えないかもしれない。しかし、彼は止まらなかった。ミラーの角度を、ナギが待つあの廃棄物処理場の座標へと固定する。太陽光を一箇所に集約し、針のような光の束として、地上の暗闇に突き刺す。

 

 

 

 

 


『……百秒前。システムにアラートが発生した。ヘリオス社のセキュリティが介入してくるわ。早く急いで、サム!』

 

 

 

 

 


サムは、緊急用のメンテナンス用ラッチを外した。手動での強制介入。彼の指先は、極低温の成層圏で感覚を失い始めていた。彼の脳裏には、ナギがベランダで枯れた花を見つめる後ろ姿が、鮮明に映し出されていた。

 

 

 

 

 

 


太陽を返して欲しい。光を返して欲しい。それは、一人の父親としての、あまりにもささやかで、あまりにも巨大な願いだった。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:一瞬の正午

 

 

 

 

 


地上。ナギは、暗い処理場の広場で、一人立っていた。周囲には、サラの合図を受けた数百人の市民たちが、集まっていた。彼らの手には、隠し持っていた金属の破片や、磨き上げられたスプーンが掲げられている。

 

 

 

 

 

 


皆、空を見上げていた。その時突然、空に「裂け目」が生じた。漆黒のキャノピーの一部が、ゆっくりと、力強く回転を始め、鏡面を太陽へと向けた。次の瞬間、暗黒に慣れきった人々の視界が、真っ白な爆発によって塗り潰された。光が、降ってきた。それは、人工的なルクスの青白さとは異なる、生命の源そのものの、黄金色の奔流だった。光の柱が、雲を突き抜け、汚染された大気を切り裂き、廃棄物処理場の中心へと直撃した。

 

 

 

 

 


「……まぶしい…」

 

 

 

 

 


誰かが叫んだ。それは恐怖ではなく、歓喜の悲鳴だった。ナギは、手にした反射鏡を必死に構えた。降り注ぐ光を鏡面で捉えると、それは強烈な熱を帯び、ナギの手を温めた。そしてその反射光を、持ってきた植木鉢へと向けた。暗闇の中で死にかけていた茎が、数秒間の恵みを浴びて、一瞬、その葉を震わせたように見えた。

 

 

 

 

 


広場に集まった人々は、その「盗んだ光」を互いにリレーし始めた。光は路地裏へ、建物の影へ、そして人々の暮らす家の窓へと、蜘蛛の巣のように広がっていった。それは時間にして、わずか十数秒の出来事。その間、都市のその一帯だけ、かつての「昼」を取り戻していた。

 

 

 

 

 


しかし、ヘリオス社の対応は冷酷だった。上空でのハッキングが検知され、自動防御システムが作動していた。キャノピーのミラーは強制的に元の位置へと引き戻され、光の柱は、引き抜かれるように空へと消えていった。

 

 

 

 

 


再び訪れた、深い、湿った暗黒。

 

 

 

 

 


「……パパ、光ったね。本当にお空が光ったね…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:静かなる灯火

 

 

 

 


ナギは、父のくれた反射鏡を、大切に持っている。彼は、学校で「光の重要性」を説くヘリオス社の広報官の言葉を、今日も静かに聞き流している。広報官が話すのは、利便性と価格の論理。ナギが知っているのは、あの日手のひらに残った、名もなき熱量。

 

 

 

 

 

 


「ナギ君、君はさっきから何を見ているんだい?」

 

 

 

 

 


広報官が、窓の外の漆黒の空を眺めるナギに問いかけた。

 

 

 

 

 


 
「……準備をしてるんです。次にお日様が帰ってきたとき、ちゃんと『おかえり』って言えるように…」

 

 

 

 

 


その夜、ナギの部屋で、小さな変化が起きた。大切に育てていたあの植木鉢から、一輪の蕾が膨らみ始めたのだ。真っ暗な部屋の中で。その蕾は、自らの細胞の中に隠していた、あの「十秒間の昼」の記憶を燃料にして、自ら光を放ち始めていた。

 

 

 

 

 


淡くて、力強い黄金色の光。自由な輝き。

 

 

 

 

 


 
依然として巨大なキャノピーが太陽を独占し、都市を搾取し続けていても、街のあちこちでは、ナギの部屋と同じような「光」が、ぽつり、ぽつりと灯り始める。いつか訪れるはずの、本当の夜明けを信じる者たちの、静かなる誓いの灯火。

 

 

 

 

 

 


独占された太陽。切り売りされる光。燃料危機(フューエルクライシス)は、資源の枯渇ではなく、人々の「憧れ」を奪った時に完成する。ならば、その危機の終わりもまた、一人の少年が掲げた鏡の反射から始まる。
 

 

 

 

 

 
「……見ててね、パパ」

 

 

 

 

 


 
 
 サムが地上に戻ることはなかった…

SCENE#353   明日から使えるエイリアン対策?! Alien Defense Tips You Can Use Tomorrow

第一章:銀河帝国の襲来と、たった一枚の提出書類

 

 

 

 

 


その日、地球の空は巨大な鉄の板で覆い尽くされた。宇宙の果てからやってきた銀河帝国「ギガ・ザ・ビュロクラシー」の主力艦隊である。彼らはこれまで、数千の惑星をその圧倒的な軍事力で支配してきた。だが、彼らの本当の強さは武力ではない。宇宙で最も緻密で、最も冷酷な「管理システム」こそが、彼らの支配の正体だった。

 

 

 

 


銀河帝国の全権大使、ザ・ドロドロは、円盤から地上へと降り立ち、日本の東京都千代田区にある役所の窓口の前に立った。彼は身長三メートル、触手が六本あり、全身が青いゼリーのように光っている。ザ・ドロドロは、六本の触手で掲げた黄金のプレートを、窓口の職員に見せつけた。

 

 

 

 

 


「地球人よ、聞け。我が帝国は本日をもって、この惑星を植民地として管理下に置く。これは皇帝の署名が入った公式な宣戦布告および占領宣言である。速やかに手続きを進め、全人類の資産を我が方に明け渡せ!」

 

 

 

 

 


窓口に座っていたのは、勤続二十年のベテラン職員、佐藤さんだった。佐藤さんは、眼鏡を指で押し上げ、目の前に現れた巨大な宇宙人をじろじろと見た。彼は驚くふうもなく、ただ深いため息をついた。

 

 

 

 


「……すいません、お客様。ここは『住民票の発行』と『住所変更』の窓口なんですよ。地球の占領とか、そういう大きな話は、お隣の『地域振興課』の、さらに奥にある『非常事態対策室』の方へ行ってください!」

 

 

 

 

 


「な、何だと? 私は宇宙の覇者だぞ! このプレートが目に入らぬか!」

 

 

 

 

 


「ええ、よく見えますよ。でも、大きすぎて受付のトレイに乗らないんです。あと、そのプレート、日本語で書いてありませんよね? 翻訳文をつけてもらわないと、内容の確認ができないんですよ…」

 

 

 

 

 


ザ・ドロドロは困惑した。これまで、どんな惑星の住人も、このプレートを見せれば絶叫して逃げ出すか、その場で跪いた。だが、この「サトウ」という男は、まるで「賞味期限の切れた牛乳」でも見るような目で、銀河の至宝を見ている。

 

 

 

 

 


「わ……わかった。ならばその、ヒジョージタイ対策室とやらへ行く。そこへ行けば、すぐに支配が完了するのだな?」

 

 

 

 

 


「さあ、どうでしょうね。あそこは今、お昼休みに入っちゃいましたから。午後一時までお待ちください…」

 

 

 

 

 


「お昼休み……? 全宇宙の運命が決まろうとしている時に、飯を食うというのか!」

 

 

 

 

 


「ええ、労働基準法がありますからね…」

 

 

 

 

 


ザ・ドロドロは、怒りで全身のゼリーを煮え立たせた。だが、帝国のルールでは「現地の法律と手続きを尊重すること」が、効率的な管理の第一歩とされている。彼は渋々、役所の硬いプラスチックの椅子に座り、番号札「四百四十四番」を握りしめて、一点が来るのを待つことにした。

 

 

 

 

 


これが、人類史上最も長く、そして最もバカバカしい「手続きの戦い」の始まりになるとは、ザ・ドロドロはまだ知る由もなかった…

 

 

 

 

 

 

 


第二章:魔の「侵略届」と、消えた印鑑の謎

 

 

 

 


午後一時。ザ・ドロドロは「非常事態対策室」の扉を蹴破らんばかりの勢いで開けた。そこには、さらに疲れ切った顔をした課長の上野さんが座っていた。上野さんは、ザ・ドロドロが差し出した黄金のプレートを、虫眼鏡で念入りに調べた。

 

 

 

 

 


「なるほど、地球の占領ですね。承りました。では、まずこちらの書類、『地球侵略および植民地化に関する申請書(様式第一号)』を記入してください…」

 

 

 

 

 


差し出されたのは、あまりにも薄っぺらい、わら半紙のような紙だった。

 

 

 

 


「……これだけか? これを書けば、この星は私のものか?」

 

 

 

 


「いえ、これはあくまで『相談を受け付けました』という記録のための紙です。本番の手続きは、この後の審査に通ってからになりますので…」

 

 

 

 

 


ザ・ドロドロは、六本の触手を駆使して、猛スピードで記入を始めた。氏名、住所(銀河系第三腕、オリオン腕、座標……)、侵略の目的(全資源の剥奪)、予定される犠牲者数(全人類)。

 

 

 

 

 


「書いたぞ! これを持っていけ!」

 

 

 

 

 


上野さんは、差し出された紙をじっと見つめ、首を横に振った。

 

 

 

 


「お客様……。ここ、住所の欄ですけどね。『銀河系』から書き始めてもらわないと困るんですよ。あと、この『全資源』っていうのは、具体的じゃないですよね。金、銀、銅、それともお米ですか? 品目ごとに別紙を作成して、それぞれの在庫証明書を添付してください…」

 

 

 

 

 


「在庫証明書!? そんなもの、今から略奪するのだから持っているわけがないだろう!」

 

 

 

 


「ええ、ですから、略奪した後に提出していただいても結構ですが、その場合は『仮占領届』が必要になります。それには、近隣住民……つまり、火星人や金星人の同意書が必要です…」

 

 

 

 

 


ザ・ドロドロは絶叫した。

 

 

 

 

 


「火星には微生物しかいない! 金星は灼熱で誰も住んでいない!」

 

 

 

 

 


「それはお客様の主張ですよね。こちらとしては、公的な機関が発行した『無人環境証明書』がない限り、同意書を省略することはできないんですよ…」

 

 

 

 

 


ザ・ドロドロは、宇宙船の科学班に連絡し、特急で金星の無人証明書を作成させた。三時間後、彼は再び窓口に立った。

 

 

 

 

 


「持ってきたぞ! これですべて揃ったはずだ!」

 

 

 

 

 


上野さんは書類を受け取り、ぱらぱらと捲った。そして、最も残酷な一言を放った。

 

 

 

 

 


「……お客様。印鑑は?」

 

 

 

 


「いんかん……? それは何だ?」

 

 

 

 

 


「これですよ、これ…」

 

 

 

 

 


上野さんは、自分の机から小さな認め印を取り出し、紙にポンと押してみせた。

 

 

 

 


「これが、本人の意思であることを証明する唯一の手段です。銀河皇帝の署名? いえいえ、そんな手書きのサインじゃダメです。ちゃんと三文判でいいですから、皇帝の名前を彫った判子を押してください…」

 

 

 

 

 


「皇帝は、体長五十メートルの火の鳥のような姿だぞ! 判子を持つ指などない!」

 

 

 

 


「指がなければ、口でくわえて押してください。あ、シャチハタは不可です。朱肉を使うタイプにしてくださいね…」

 

 

 

 

 


ザ・ドロドロは、母船に通信を飛ばした。

 

 

 

 

 


「緊急事態だ! 皇帝閣下の名前を彫った特大の印鑑を、至急製造しろ! 素材は象牙……いや、宇宙象牙だ! 急げ!」

 

 

 

 

 


宇宙の覇者たちが、一個の判子を作るために、高度なナノテクノロジーを駆使して彫刻を開始した。その間、ザ・ドロドロは役所のロビーで、冷えた缶コーヒーを飲みながら、壁に貼られた「不法投棄禁止」のポスターを眺めて、虚無の時間を過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:無限の差し戻しと、三世代にわたる待合室

 

 

 

 

 


そして季節は、秋から冬へと変わった。ザ・ドロドロは、すっかり役所の常連になっていた。皇帝の印鑑はようやく完成したが、今度は「書類のホチキスの留め方が違う」とか「数字の『7』の書き方が、海外式で斜線が入っているから機械が読み取れない」とか、ありとあらゆる理由で差し戻された。

 

 

 

 

 

 


「上野……! 今日こそは完璧だ! 見てみろ、この『侵略計画図』を! 全ページに皇帝の割印を押してやったぞ!」

 

 

 

 

 


上野さんは、分厚い書類の束を一ページずつ、指にキャップをつけて捲っていった。

 

 

 

 

 


「……惜しいですね。ザ・ドロドロさん。ここ、十五ページの隅っこ、印影が少し欠けています。これだと、後で法務局で弾かれちゃうんですよ。全部、刷り直しです…」

 

 

 

 

 


「な、ななな……全部だと!? 千ページあるんだぞ!」

 

 

 

 

 


「ええ、一枚でも不備があれば、全体として無効になりますからね…」

 

 

 

 

 


ザ・ドロドロは、あまりのショックに、青いゼリーの体が少しずつ白濁していった。彼は気づけば、役所の地下にある食堂で、定食を食べるのが日課になっていた。

 

 

 

 


「……おばちゃん、サバ味噌定食、ご飯大盛りで!」

 

 

 

 

 


「はいよ、宇宙人さん。今日も手続き大変だねぇ…」

 

 

 

 

 


食堂のおばちゃんだけが、彼の唯一の理解者だった。月日は流れ、ザ・ドロドロの寿命が尽きようとしていた。彼の種族は、地球の時間でいえば百年ほどしか生きられない。

 

 

 

 

 


「……息子よ、あとの手続きは……頼んだぞ……」

 

 

 

 

 


「はい、父上。必ずや、地球を我らのものに……!」

 

 

 

 

 


二代目、ザ・ネバネバが手続きを引き継いだ。しかし、彼を待っていたのは、さらなる地獄絵図だった。

 

 

 

 

 


「あ、二代目さん。お父様が亡くなられたんですね。それじゃあ、まず『占領権の相続手続き』から始めてもらわないと。あと、皇帝閣下も代替わりしましたよね? 新皇帝の『印鑑証明書』が必要です…」

 

 

 

 

 


「印鑑証明……? それはどこでもらえるんだ?」

 

 

 

 

 


「銀河帝国の首都星にある役所でしょうね。あ、日本語の翻訳文をつけて、現地の日本大使館で公証を受けてから持ってきてくださいね…」

 

 

 

 

 


二代目は、宇宙船を銀河の果てまで飛ばし、数十年かけて書類を集めた。彼が地球に戻ってきたとき、役所の建物は新しくなり、窓口の佐藤さんや上野さんは、すでに退職しており、彼らの息子たちが働いていた。

 

 

 

 


「……すいません、この手続きですけど」

 

 

 

 


新しい窓口の担当者は、古びた書類の束を見て、首を傾げた。

 

 

 

 

 


「ああ、これ。旧式の『様式第一号』ですね。これ、三年前の法改正で廃止になったんですよ。今は全部オンライン申請なんです。マイナンバーカード、持ってますか?」

 

 

 

 

 


「マイナンバー……? 俺たちは宇宙人だぞ!」

 

 

 

 

 


「あ、宇宙人の場合は、まず『特別永住者』としての登録が必要です。それには、地球に百箇所以上の拠点を構えているという実績証明が必要で……」

 

 

 

 

 


三代目のザ・ベトベトが手続きを引き継いだ頃には、銀河帝国側でも、なぜ自分たちが地球を侵略しようとしているのか、その理由を知る者がいなくなっていた。ただ、代々の司令官が残した「この役所の審査を通せ!」という呪いのような命令だけが、組織を動かしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:文明の黄昏と、最後に残った「ペン」

 

 

 

 


侵略開始から、三百年が経過した。かつて空を覆い尽くしていた巨大な鉄の板、銀河帝国の旗艦は、メンテナンス不足と経年劣化により、あちこちが錆びついていた。宇宙船の中では、かつての最新兵器は骨董品となり、兵士たちは戦うことよりも、書類を整理し、判子を真っ直ぐに押す訓練に明け暮れていた。彼らはもはや侵略軍ではなく、銀河で最も「事務処理能力に長けた集団」へと変貌していた。

 

 

 

 

 

 


一方、地球の側も変化していた。度重なる異常気象や資源の枯渇により、人類の文明は衰退し始めていた。かつてのデジタル社会は崩壊し、皮肉なことに、再び「紙と判子」の時代へと逆戻りしていた。

 

 

 

 

 


十代目のザ・ヌルヌルは、ついに、三百年かけて集めた全ての書類を、ボロボロになったトランクに詰めて役所の前に立った。書類の総重量、二十トン。
彼は、それを数百台の台車に乗せて、役所のロビーを埋め尽くした。

 

 

 

 

 


「……これですべてだ。三万種類の証明書、五万個の同意書、そして、銀河皇帝の指紋、羽毛、DNA配列まで全て添付した。文句はあるまい!」

 

 

 

 

 


窓口にいたのは、佐藤さんのひ孫にあたる、佐藤四朗さんだった。佐藤四朗さんは、その膨大な書類の山を見て、深いため息をついた。

 

 

 

 

 


「……すごいですね。これだけの熱意、感服します!」

 

 

 

 

 


彼は、書類を最初から最後まで、三日間かけてチェックした。ザ・ヌルヌルは、その間、一歩も動かずに結果を待った。四日目の朝、佐藤四朗さんが口を開いた。

 

 

 

 

 


「……合格です。全ての不備はありません。完璧な書類です。ザ・ヌルヌルさん、おめでとうございます。これにより、貴殿の『地球侵略および植民地化』の申請は正式に受理されました!」

 

 

 

 

 


ザ・ヌルヌルは、勝利の叫びを上げようとした。思えば三百年。自分たちの種族が追い求めてきた夢が、今、叶ったのだ。しかし、佐藤四朗さんは、申し訳なさそうにこう続けたのだった。

 

 

 

 

 


「……ただ、受理はされましたが、『執行』については、別の手続きが必要になります。あ、それとですね…」

 

 

 

 

 


「……なんだ?」

 

 

 

 

 


「この申請、有効期限が切れちゃってるんですよね…」

 

 

 

 


「……はぁ?」

 

 

 

 

 


「ほら、ここ。第一章の一ページ目。これ、西暦二三二六年に申請されたものですよね。現在の法律では、受理から一ヶ月以内に占領を開始しないと、申請自体が無効になるんです。でも、お客様が書類を全部揃えるのに時間がかかりすぎて、一番古い証明書の有効期限が、百五十年前に切れちゃってます…」

 

 

 

 

 


「……あ」

 

 

 

 

 


「というわけで、また最初から、証明書を取り直してきていただけますか?」

 

 

 

 

 


その瞬間、ザ・ヌルヌルの頭の中で、何かが音を立てて崩れた。彼は、手に持っていた、三百年書き続けてきた「宇宙ペン」を、床にポトリと落とした。
窓の外を見れば、銀河帝国の母船から、最後の一枚の外壁が剥がれ落ち、夕日に照らされてヒラヒラと落ちていくのが見えた。

 

 

 

 

 


帝国の財政は、この三百年の「書類作成費用」と「公証手数料」によって、完全に破綻していた。彼らにはもう、一回分のワープを動かす燃料も、一食分のバナナを買う金も残っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 


第五章:去りゆく背中と、役所の静寂

 

 

 

 


翌朝、地球の空を覆っていた鉄の板は、影も形もなくなっていた。銀河帝国の残党たちは、書類の山を役所に残したまま、壊れかけた宇宙船で、とぼとぼと故郷の星へと帰り始めた。彼らは戦いに負けたのではない。地球という星の、底知れない「事務手続き」という名の沼に、沈められたのだ。

 

 

 

 

 


十代目のザ・ヌルヌルは、一人、砂浜に立ち、遠ざかっていく母船を見送っていた。彼の手には、もう判子もペンも握られていなかった。そこへ、定年退職を迎えた佐藤四朗さんが、釣竿を持って通りかかった。

 

 

 

 

 


「あら、ヌルヌルさん。帰らなくていいのかい?」

 

 

 

 

 


「……ああ。もう、あんなに書類を書く生活は嫌だ。私はここで、漁師として生きていくことにしたよ。魚を捕るのには、判子はいらないから…」

 

 

 

 

 


「そう。まあ、魚にもたまに『漁業権』とかの手続きがあるけどね。はっはっは…」

 

 

 

 

 


ザ・ヌルヌルは、佐藤さんの冗談に、苦笑いさえできなかった。彼は、自分が持っていた「地球侵略受理通知書」を、指先で小さく千切り、海へと投げた。紙の破片は、波に揉まれ、瞬く間に消えていった。三百年かけて築き上げた紙の城が、ただの水溶性のゴミとして処理された瞬間だった。

 

 

 

 

 


人類は、核兵器も、ビーム砲も使わずに、ただ『明日までにもう一通、書類を持ってきてください』と言い続けるだけで、宇宙最強の帝国を見事に滅ぼしてみせた。

 

 

 

 

 


ザ・ヌルヌルは、遠くの地平線を、静かな瞳で見つめた。そこには、かつて自分たちが支配しようとした美しい地球が、相変わらず無秩序で、そして果てしなく面倒くさそうな姿で横たわっていた。彼は、一歩、また一歩と、波打ち際へと歩き出した。彼の背中は、もはや侵略者のものではなく、ただ「明日からの役所の手続き」を心配しなくてよくなった、一人の解放者のものだった。

 

 

 

 

 

 


人類の役所は、今日も元気に営業している。窓口の佐藤五朗(佐藤四朗の息子)は、新しくやってきた謎の知性体、深海から来たという「アトランティス帝国」の大使を前に、笑顔でこう言った。

 

 

 

 

 


「あ、アトランティスの方ですね。占有許可については……まず、こちらの『様式第九号、海底資源および呼吸権に関する申請書』を記入してください。あ、もちろん、判子は忘れずにお願いしますね。シャチハタは不可ですよ?」

 

 

 

 

 


エイリアン対策に、高度な技術はいらない。ただ、彼らが一生かかっても揃えられないほどの書類と、絶対に真っ直ぐ押せない角度の判子、そして「お昼休み」があれば十分なのだ。空を飛ぶ円盤よりも、地上の役所の方が、はるかに高い壁なのだから…
 

SCENE#352    弾丸のない決闘 The Silent Duel: No Bullets Fired

第一章:鉄の香りに囚われた二人

 

 

 

 

 

かつて工業地帯として栄え、今は波の音だけが響く埋立地の端にある巨大な廃工場。錆びついた鉄板が風に叩かれ、虚ろな音を立てている。その内部、割れた窓から差し込む月光が照らし出す場所に、二人の男が向かい合っていた。

 

 

 

 

 

一人は、細身で鋭い眼差しを持つ青年、レイ。もう一人は、岩のように頑強な体格をした男、鉄男。二人の間には、一触即発の空気が流れていた。

 

 

 

 

 

「ようやく、この日が来たな…」

 

 

 

 

 

鉄男が重々しく口を開いた。彼の右手には、世界で最も有名な自動拳銃の一つ、コルト・ガバメントが握られている。表面には使い込まれたような傷が再現され、鈍い銀色の光を放っている。それは本物の銃が持つ、命を奪う道具としての凄みを完璧に写し取っていた。

 

 

 

 

 

 

「ああ。お前との決着をつけない限り、俺の夜は明けないからな…」

 

 

 

 

 

レイは冷たく答えた。彼の愛銃は、ベレッタM9。イタリア製の優雅な曲線を持つその銃は、レイの細い指先によく馴染んでいた。

 

 

 

 

 

二人は、あるガンショップの常連同士として知り合った。最初は単なる趣味仲間だった。しかし、互いの知識と、銃に対する異常なまでの執着が、次第に奇妙な対抗心を燃え上がらせていった。彼らにとって、モデルガンはもはや玩具ではなかった。それは自分の魂の延長であり、弱さを隠すための鎧だった。

 

 

 

 

 

 

彼らは週末になると、この廃工場に集まり、互いの銃の美しさを競い、作動の完璧さを自慢し合った。そして、言葉を重ねれば重ねるほどに、決定的な「差」が欲しくなった。どちらが真の「銃使い」なのか。どちらが、鉄の掟を理解しているのか。

 

 

 

 

 

 

「今日のルールは、いたって単純だ!」

 

 

 

 

 

 

鉄男が銃の撃鉄を親指で起こした。カチリ、という乾燥した金属音が、静まり返った工場内に鋭く響く。

 

 

 

 

 

「互いに装填した火薬のキャップを使い、先に相手の胸に銃口を向け、撃鉄を落とした方が勝ちだ。弾は出ない。だが、その瞬間にどちらが死ぬべき運命にあるかは、明白になる…」

 

 

 

 

 

「あぁ、望むところだ!」

 

 

 

 

 

レイもまた、ベレッタを構えた。二人の立ち位置は、正確に十メートル。西部劇の決闘のような、古風で、そして滑稽なほどに真剣な距離。彼らは、この虚構の儀式に、自分の全人生を賭けていた。レイは幼い頃から、周囲の期待に応えられない「端役」として生きてきた。鉄男は、強靭な肉体を持ちながら、社会の歯車として使い潰される日々を送っていた。この冷たい銃を握っている時だけ、彼らは物語の主人公になる。

 

 

 

 

 

 

風が吹き抜け、工場の天井から吊るされた鎖がガシャリと鳴った。それが、決闘の合図だった。二人の影が、月光の下で激しく交錯した。

 

 

 

 

 

 

 

第二章:偽物の重み、本物の恐怖

 

 

 

 

 

 

決闘が始まった。レイは素早く身を翻し、コンクリートの柱の影に隠れた。同時に、鉄男の放った火薬の爆発音が響く。パン、という乾いた音が、広い空間に反響して重厚な余韻を残す。本物の銃声には遠く及ばなくとも、アドレナリンに支配された二人の耳には、それは大砲の轟鳴のように聞こえた。

 

 

 

 

 

「逃げ回るのか、レイ!」

 

 

 

 

 

鉄男の怒号が響く。彼は遮蔽物を使わず、堂々と歩みを進めていた。ガバメントの重量感のあるスライドが後退し、火薬の煙を吐き出す。レイは柱の陰で息を整えた。掌が汗で濡れている。

 

 

 

 

 

「これはゲームじゃない……。俺は今、戦場にいるんだ…」

 

 

 

 

 

レイは自分に言い聞かせた。モデルガンの重さは約一キログラム。本物の銃とほぼ同じ重さ。その重みが、レイの腕を通じて脳に「死」のイメージを送り込んでくる。レイは反射的にベレッタを突き出し、鉄男がいると思われる方向へトリガーを引いた。

 

 

 

 

 

パシィン。

 

 

 

 

 

赤い火花が散り、硝煙の匂いが鼻を突く。この匂いこそが、彼らを狂わせる麻薬だった。

 

 

 

 

 

「外れだ、小僧!」

 

 

 

 

 

鉄男が笑った。彼の歩みは止まらない。

 

 

 

 

「お前の銃には、覚悟が足りないぞ。ベレッタなんて軟弱な銃を選んだ時点で、お前の負けは決まっていたんだ!」

 

 

 

 

 

「銃の性能が勝敗を決めるんじゃない。使い手の技術だ!」

 

 

 

 

 

レイは次の柱へと飛び移った。その間にも、鉄男の銃撃が続く。

 

 

 

 

 

一発、二発。

 

 

 

 

 

モデルガンの火薬キャップは、一度に発火できる数に限りのある消耗品だ。彼らはあらかじめ決めた装弾数を、慎重に、そして大胆に消費していく。鉄男の攻撃は単調だが、圧倒的な迫力があった。彼は自分が撃たれることなど微塵も考えていないようだった。なぜなら、これは偽物の銃による決闘だからだ。……いや、本当にそうだろうか?

 

 

 

 

 

レイの視界の中で、ガバメントを構える鉄男の姿は、冷酷な処刑人のように見えていた。もし今、あの銃口から実弾が放たれたら。自分の胸に穴が開き、熱い血液が吹き出す光景が、あまりにも鮮明に脳裏をよぎる。

 

 

 

 

 

「怖いか、レイ。死が、そこまで来ているぞ!」

 

 

 

 

 

 

レイは歯を食いしばり、ベレッタのグリップを握り直した。

 

 

 

 

 

「……死ぬのは、お前の方だ!」

 

 

 

 

 

レイは、鉄男の歩調を数えた。

 

 

 

 

 

一、二、三。

 

 

 

 

 

鉄男が次の遮蔽物を通り過ぎる瞬間、レイは地面に滑り込みながら銃を構えた。下から上へ。喉元を狙う。指先に力を込め、トリガーを引き切ろうとしたその時…

 

 

 

 

 

「動くな!」

 

 

 

 

 

低い、地を這うような声が聞こえた。いつの間にか、鉄男はレイの死角に回り込んでいた。レイの額に、ガバメントの冷たい銃口が押し付けられた。時間が、止まった。レイの心臓の鼓動だけが、耳元で暴力的にはねていた。

 

 

 

 

 

 

 

第三章:狂気への引き金

 

 

 

 

 

 

銃口の冷たさが、レイの全身を凍りつかせた。それは亜鉛合金の冷たさではなく、死そのものの感触だった。レイは目を見開き、目の前に立つ鉄男の顔を見上げた。逆光の中に浮かぶ鉄男の表情は、歓喜に歪んでいた。

 

 

 

 

 

「終わりだな、レイ。俺が先にトリガーを引けば、お前の存在はここで消える…」

 

 

 

 

 

鉄男の指が、ゆっくりとトリガーにかかった。

 

 

 

 

 

「待て……まだだ!」

 

 

 

 

 

 

「何がまだだ? 俺は完全にお前を捉えた。俺の勝利だ!」

 

 

 

 

 

「そんなのは、ただの『ごっこ遊び』だ!」

 

 

 

 

 

レイは、自嘲気味に笑った。

 

 

 

 

 

「本物の銃使いなら、こんな距離まで近づかない。お前は自分を強く見せたいだけだ。モデルガンのリアリティに酔いしれているだけの、ただのオタク野郎だ!」

 

 

 

 

 

その言葉が、鉄男の逆鱗に触れた。

 

 

 

 

 

「オタクだと? 俺が……?」

 

 

 

 

 

鉄男の顔から笑みが消え、どす黒い殺気が溢れ出した。

 

 

 

 

 

「俺はこの銃に、自分の人生のすべてを捧げてきたんだ。本物よりも本物らしく、深く銃を理解しているのは俺だ!」

 

 

 

 

 

鉄男は銃口をレイの額から離し、虚空に向かって連射した。

 

 

 

 

パン! パン! パン!

 

 

 

 

 

激しい火花と煙が、工場の静寂を切り裂いた。

 

 

 

 

 

「見ろ、この作動を! この音を! これのどこが偽物だ! 俺が本物だと思えば、これは本物なんだ!」

 

 

 

 

 

レイは、立ち上がりながらベレッタを構え直した。

 

 

 

 

 

「なら、証明してみろ。お前のその『信念』が、俺を本当に殺せるかどうかを…」

 

 

 

 

 

二人の距離が、再び開いた。しかし、今度の空気は、先ほどまでとは決定的に異なっていた。彼らはもはや、ルールに基づいた決闘をしていなかった。互いの存在そのものを否定するための、終わりのない泥沼へと足を踏み入れていた。

 

 

 

 

「いいだろう。なら、最後まで付き合ってやる。どちらかが本当に『死』を認めるまでだ!」

 

 

 

 

 

「ああ。俺たちの物語には、それが必要だ…」

 

 

 

 

 

二人は、工場の暗がりに身を隠し、再び互いを狙い始めた。もはや火薬の音は、単なる合図ではなく、相手の魂を削り取るための叫びになっていた。レイは、自分の指がトリガーを引くたびに、脳内の何かが壊れていくのを感じた。一発撃つごとに、世界が色彩を失い出し、銃だけが鮮やかな現実味を帯びていく。

 

 

 

 

 

 

ベレッタの金属的なスライドの動き。

 

 

 

 

エンプティケース(空の薬莢)が床に落ちて跳ねる、チリンという乾いた音。

 

 

 

 

 

それらすべてが、彼らにとっての「神聖な真実」へと変わっていった。外の世界では、人々が眠りこけ、社会は回っている。しかし、この廃工場の中だけは、死の概念を巡る純粋な戦場。

 

 

 

 

 

「レイ、聞こえるか!」

 

 

 

 

 

鉄男の叫びが、遠くから聞こえる。

 

 

 

 

 

「俺はもう、お前を友だとは思っていない。お前は俺の完成を妨げる、最後の不純物だ!」

 

 

 

 

 

「光栄だな、鉄男。俺もお前を、最高の『標的』だと思っているよ!」

 

 

 

 

 

闇の中で、二つの意志が、冷たい鉄を通じてぶつかり合う。彼らは、自分たちがどこへ向かおうとしているのか、もう分かってはいなかった。ただ、次のトリガーを引くこと。それだけが、彼らに許された唯一の呼吸だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

第四章:虚構の果ての真実

 

 

 

 

 

夜はさらに深まり、工場の床は無数の空薬莢と火薬のカスで汚れきっていた。二人の男は、疲労困憊していた。肩で息をし、全身から汗が吹き出している。レイのベレッタは、連続した発火の熱で、プラスチックの部品がわずかに歪み始めていた。鉄男のガバメントもまた、激しいスライド操作により、表面の塗装が剥げ、無残な姿を晒している。

 

 

 

 

 

 

「……弾が、尽きたな…」

 

 

 

 

 

鉄男が掠れた声で言った。彼のポケットには、もう火薬キャップの予備はなかった。レイも同様だった。彼らは銃を持ったまま、再び月光の下に歩み出た。

 

 

 

 

 

「決着はつかなかったな…」

 

 

 

 

 

レイが皮肉な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

「いや……ついている…」

 

 

 

 

 

鉄男は、おもむろに銃をベルトに差し、腰から一包の小さな包みを取り出した。

 

 

 

 

 

「それは……なんだ?」

 

 

 

 

 

レイが目を細めて尋ねた。鉄男が包みを解くと、中から現れたのは、これまでの火薬キャップとは明らかに異なる、鈍い金色を放つ小さな「塊」だった。

 

 

 

 

 

「実弾か……?」

 

 

 

 

 

「本物じゃない。だが、俺が独自に改造して作った『特別製』だ…」

 

 

 

 

 

鉄男の目が、狂気の色を帯びて輝いた。

 

 

 

 

 

「火薬の量を数倍に増やして、先端には鉛の塊を詰め込んだ。銃身が耐えられないかもしれない。暴発して俺の腕が飛ぶかもしれない。だが、これは確実に、対象の命を奪う力を持っている…」

 

 

 

 

 

 

「狂ってる……。モデルガンの改造は、一番の禁忌だ。お前は、自分で自分を汚すのか?」

 

 

 

 

 

「汚す? 違う、昇華させるんだ! 本物になりたかった俺たちの願いを、この一発が叶えてくれるはずだ!」

 

 

 

 

 

鉄男は、その特製弾をガバメントのチェンバーに直接放り込んだ。スライドを閉じる音が、今までとは違う、不吉なほど重い響きを立てた。

 

 

 

 

 

「さあ、レイ。構えろ。お前のベレッタには何もない。だが、俺のこの一挺には、お前の命を終わらせる『真実』が宿っている!」

 

 

 

 

 

 

鉄男は銃を構えた。その銃口は、迷いなくレイの胸の中央を指している。レイは、逃げようとはしなかった。彼はゆっくりとベレッタを上げ、空の銃口を鉄男に向けた。

 

 

 

 

 

「いいだろう。お前がそれを本物だと信じるなら、俺はそれを受け入れてやる。だが、鉄男。お前がそれを撃った瞬間、お前の愛した『美しい銃の世界』は、ただの殺人現場に変わるんだぞ…」

 

 

 

 

 

「構やしない……。俺は、本物になりたいだけなんだ……」

 

 

 

 

 

鉄男の指がトリガーに食い込んだ。レイは、目を閉じた。死を待つ。これまで何百回も夢に見た、鉄に貫かれる瞬間。この虚構の果てに、ようやく本当の結末が訪れる。沈黙が、永遠のように長く感じられた。そして、鉄男が叫んだ。

 

 

 

 

 

 

「死ね、レイ!」

 

 

 

 

 

 

轟音。それは火薬キャップの音とは比較にならない、耳を貫くような爆発音だった。同時に、眩烈な閃光が工場の闇を焼き払った。

 

 

 

 

 

 

 

 

第五章:鉄の静寂、砂の味

 

 

 

 

 

 

煙が、ゆっくりと漂っていた。痛みはない。ただ、耳鳴りだけが激しく続いている。レイはゆっくりと目を開けた。目の前に、崩れ落ちた鉄男の姿があった。

 

 

 

 

 

「……鉄男?」

 

 

 

 

 

レイが駆け寄った。鉄男の右手は、無残に裂けていた。無理な火薬の量に、亜鉛合金の銃身が耐えきれず、激しく破裂(バースト)したのだ。ガバメントは粉々に砕け、ただの金属の破片となって床に散らばっていた。

 

 

 

 

 

肝心の「特製弾」は、銃口から飛び出すことさえなかった。破裂の衝撃で弾丸は横に弾け飛び、壁のコンクリートをわずかに削っただけで、床に転がっていた。鉄男は、自分の血で濡れた右手を見つめながら、呆然としていた。

 

 

 

 

 

「はは……あははは……結局……偽物は、どこまで行っても偽物だったんだな……」

 

 

 

 

 

「鉄男、しっかりしろ。今すぐ病院に行こう…」

 

 

 

 

 

 

「いいんだ……これで分かった。俺たちが何をしても、この鉄の塊は、俺たちを本物の世界になど連れて行ってくれない…」

 

 

 

 

 

鉄男は、残った左手で、床に落ちた自分の銃の破片をかき集めようとした。しかし、それは砂を掴むように指の間から、パラパラとこぼれ落ちていった。

レイは、自分の手に残ったベレッタを見つめた。熱を失い、冷たくなったプラスチックの感触。さっきまで、あれほどまでに自分を興奮させ、死を意識させていた「武器」が、今はただの、安っぽい工業製品にしか見えない。

 

 

 

 

 

 

「俺たちは、何をやっていたんだろうな…」

 

 

 

 

 

レイは、銃を捨てた。

 

 

 

 

 

 

「お前……捨てるのか? あんなに愛していたのに……」

 

 

 

 

 

「愛していたのは、これじゃない。これを持っている時に見ることができる、幻だったんだ…」

 

 

 

 

 

レイは立ち上がり、鉄男に背を向けた。

 

 

 

 

 

「俺たちの決闘は、これで終わりだ…」

 

 

 

 

 

 

工場の外に出ると、空は白み始めていた。冷たい朝の空気が、汗ばんだ肌を撫でた。遠くで、始発列車の音が聞こえる。それは退屈で平凡な一日が始まる音。

 

 

 

 

 

 

レイは、ポケットを探った。そこにはまだ一発だけ、火薬のキャップが。物語は、最初から存在などしていなかった。ただ、二人の男が、夜中に廃墟で玩具を壊して遊んでいただけの、無意味な時間の残骸…