SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#161   昭和のおでん屋台「源さん」 Gen’s Oden Cart Tales 

第1章:頑固オヤジとスポーツ新聞の掟

 

 

 


「ガタン、ゴトン……ガァーーッ!!」

 

 

 


頭上を走る電車の轟音が響く、薄暗いガード下。冷たい夜風が吹き抜けるその場所に、ポツンと灯る赤提灯があった。屋台「源さん」だ。ビニールシートの隙間からは、白い湯気と、醤油と出汁の混ざったたまらなくいい匂いが漏れ出している。

 

 

 


店主の源(げん)さんは、年中半袖のダボシャツにねじり鉢巻、そして分厚い腹巻きという出で立ちだ。包丁を握るその腕は丸太のように太く、顔には深い皺が刻まれている。狭い店内は、仕事帰りの男たちの熱気でむせ返るようだった。

 

 

 


「おい! そこの兄ちゃん!!」

 

 

 


突然、源さんの怒声が轟音よりも大きく響いた。ビクリと肩を震わせたのは、一番端の席でスポーツ新聞を広げていた若い客だ。

 

 

 


「へ、へい!?」

 

 

 


「新聞広げながら大根食うんじゃねえ! 行儀が悪いって言ってんだ!」

 

 

 


若者は慌てて新聞を畳もうとした。

 

 

 

 

「すみません、つい巨人の勝敗が気になって……」

 

 

 


「野球の結果なんざ、どうせ明日には変わる。だがな、その大根は二度と戻ってこねえんだ!」

 

 

 


源さんは菜箸でおでん鍋を指した。

 

 

 


「見ろ。農家が土まみれで作って、俺が朝から晩まで火加減見て、じっくり煮込んだ大根だ。俺たちの愛情と時間が、芯まで『しみて』るんだよ。それをお前、活字を目に『しませ』ながら食って、味がわかんのか?」

 

 

 


若者は赤面し、姿勢を正した。そして、琥珀色に染まった大根を一口食べた。ハフハフと息を吐きながら噛み締めると、口いっぱいに優しい出汁がジュワリと広がった。

 

 

 


「……うまい。すげえうまいです、親父さん!」

 

 

 


「はんっ、わかればいいんだよ。おでんは舌で味わうんじゃねえ。『人情』で食うもんだ!」

 

 

 


源さんはぶっきらぼうに言いながら、少しだけ目尻を下げて辛子を添えてやった。

 

 

 

 

 

 


第2章:くたびれたサラリーマンと崩れたがんもどき

 

 

 


午後八時。くたびれたグレーのスーツを着た男が、重い足取りで暖簾をくぐった。常連のサラリーマン、佐藤だ。ネクタイは緩み、肩にはフケが少し乗っている。

 

 

 

 


「へい、らっしゃい!」

 

 

 


「……親父さん。あつかん、一本つけてくれ。あと、一番安いこんにゃく……」

 

 

 

 


佐藤の声には覇気がない。

 

 

 


「どうした、シケた面しやがって!」

 

 


「いやあ……今日、課長にひどくどやされましてね。『お前は融通がきかない』って。俺、もうダメかもしれませんわ……」

 

 

 


源さんは何も言わず、おでん鍋をじっと見つめた。そして、こんにゃくではなく、形が崩れてボロボロになった「がんもどき」を皿に乗せた。

 

 

 


「親父さん、注文と違うよ。それにこれ、崩れてるし…」

 

 


「おうよ。鍋の底で他の具材に揉まれて、押しつぶされて、無様な形になっちまった失敗作だ。だがな、食ってみな!」

 

 

 


佐藤は言われるままに箸をつけた。見た目は悪いが、口に入れた瞬間、驚くほど濃厚で深い味わいが広がった。豆腐と野菜の甘み、そして吸い込んだ出汁の旨味が渾然一体となっている。

 

 

 


「うまい……! 形は崩れてるのに、普通のよりずっと味がしみてる…」

 

 

 


「人間も一緒よ!」

 

 

 


源さんは徳利をドンと置いた。

 

 

 


「エリートみたいにツルッとした練り物もいいがな、社会の荒波に揉まれて、傷ついて、形が崩れた奴の方が、人の痛みや情けをたっぷり吸い込んで、いい味出すんだよ。……ま、これは売り物にならねえからタダだ。食え!」

 

 

 


佐藤はがんもどきを頬張りながら、燗酒で熱い涙を流し込んだ。

 

 

 

 


「しみるなあ……」

 

 

 

 

 

 


第3章:聖子ちゃんカットのOLと「マツ」の伝言

 

 

 


次にやってきたのは、流行りの聖子ちゃんカットに、肩パッドの入った派手なスーツのOL、ミキだった。化粧はバッチリ決めているが、マスカラが涙で少し滲んでいる。

 

 

 


「……おじさん、お酒ちょうだい。強いやつ!」

 

 

 


「おう、また失恋か?」

 

 

 


「うるさいわね。……今度の彼は本気だったのよ…」

 

 

 


ミキはコップ酒を一気に煽り、愚痴をこぼし始めた。

 

 

 


「彼のアパートの『呼び出し電話』に何度かけても、大家のお婆さんが出て『いないよ!』ってガチャ切りするの。私、嫌われてるのかな……。それに今日、駅の伝言板にチョークで『マツ』って書いて、3時間も待ったのに……来なかった…」

 

 

 


昭和の恋は、すれ違えばそれっきりだ。携帯電話のない時代、連絡手段の途絶はそのまま縁の切れ目になりかねない。源さんはため息をつき、鍋の隅でグラグラと煮立っていた熱々の玉子を一つ、殻付きのままミキに渡した。

 

 


「ほらよ!」

 

 


「きゃっ! 熱っ! 親父さん、何すんのよ、これ剥けないわよ!」

 

 

 


ミキは指先を耳たぶで冷やしながら抗議した。

 

 

 


「おう、熱くて触れねえだろ? 今のお前の心と同じだ。カッカしてちゃ、殻は剥けねえ!」

 

 

 


源さんは手ぬぐいで自分の手を拭くと、低い声で言った。

 

 

 


「だがな、少し冷ませば、殻なんてツルッと綺麗に剥ける。一皮剥けて、新しい真っ白な自分が出てくるさ。男なんて星の数ほどいるんだ。焦るな!」

 

 

 


「……親父さん、物理的にも言葉も熱すぎよ!」

 

 

 


「うるせえ、冷める前に食え! 黄身が固まっちまうぞ。お代は次の彼氏ができたらでいい!」

 

 

 


ミキはふふっと笑い、涙を拭って熱い玉子と格闘し始めた。

 

 

 

 

 

 


第4章:パンチパーマの男とちくわぶの記憶

 

 

 


深夜零時。終電も近い頃、店の前に黒塗りの大きな車が止まった。静まり返る店内。暖簾を分けて入ってきたのは、パンチパーマにサングラス、派手な柄シャツを着た強面の男だった。頬には古傷が見える。客たちが息を飲み、視線を逸らす中、男はカウンターの端に座り、ドスの効いた低い声で言った。

 

 

 


「……あるか?」

 

 

 


「あんだよ、藪から棒に!」

 

 

 

 

源さんは眉一つ動かさず、大根の皮を剥き続けている。

 

 

 


「……ちくわぶだ!」

 

 

 


店内の空気がざわついた。関西出身の客が小声で「あんなもん、おでんとちゃうで……」と囁くのが聞こえる。

 

 

 


源さんは無言で、鍋の中からクタクタに煮込まれたちくわぶをすくい上げた。箸で掴むと千切れそうなほど柔らかい。男はサングラスを外した。その目は意外にも優しく、そして赤かった。ちくわぶを一口食べると、男は天井を見上げた。

 

 

 


「……お袋の味だ」

 

 

 


「ほう!」

 

 

 


「俺みたいなヤクザな生き方してるとよ、世間様からは『硬派』だ何だって言われるが……本当はこのちくわぶみたいに、フニャフニャで頼りねえ甘ったれなんだよ。この安っぽい味が、冷えた心に沁みる……」

 

 

 


男が涙をこぼすと、源さんはニヤリと笑った。

 

 

 


「ちくわぶはな、煮込みすぎると溶けてなくなっちまう。加減が難しい具だ!」

 

 

 


「…………」

 

 

 

 


「お前さんもよ、無理して強がって煮詰まって、自分が溶けてなくなっちまう前に、カタギの世界に戻んな。まだ間に合う!」

 

 

 


男はハッとして源さんを見た。そして、懐から一万円札を取り出し、「釣りはいらねえ…」と置こうとした。

 

 

 


「馬鹿野郎!!」

 

 

 


源さんの一喝が飛んだ。

 

 

 


「ちくわぶは百円だ! かっこつけて釣りはいらねえなんてキザな真似すんじゃねえ! 百円玉置いてさっさとけえれ!」

 

 

 


男は頭を下げ、百円玉を置いて店を出て行った。その背中は、来た時よりも少し小さく、しかし温かく見えた。

 

 

 

 

 

 


第5章:学生服の苦学生と皿洗い

 

 

 


ある雪の降る夜、閉店間際に一人の学生服の少年が飛び込んできた。破れた帽子、すり減った靴。いわゆる苦学生だ。

 

 

 


「お、おやじさん! ありったけ食わせてくれ!」

 

 

 

 


少年は猛烈な勢いで大根、厚揚げ、ごぼう巻き、牛すじを貪り食った。何日も食べていないような食いっぷりだった。

 

 

 


「ふう……食った……」

 

 

 


満足げに腹をさすった少年は、ポケットを探り、そして顔面蒼白になった。

 

 

 


「あ、あれ……? さ、財布が……」

 

 

 


「あん?」

 

 

 


「せ、銭湯だ! さっき行った銭湯の脱衣かごで、スラれたんだ……! し、信じてくれ!」

 

 

 


震える少年に、源さんはゆっくりとお玉を持って近づいた。

 

 

 


「……食い逃げか?」

 

 

 


「ち、違います! 本当に払うつもりだったんです!」

 

 

 

 


源さんは大きくため息をつき、お玉を鍋に戻した。そして顎で裏手をしゃくった。

 

 

 


「こっち来な。皿洗いだ!」

 

 

 


「え?」

 

 

 


「金がねえなら労働で払え。この雪の中、水仕事だ。指先が凍ってあかぎれができるぞ。覚悟はいいか!」

 

 

 


「は、はい!」

 

 

 


少年は裏の流し台で、かじかむ手を真っ赤にしながら、山積みの皿を洗った。冷たい水が骨まで染みたが、食べたおでんの代金ために必死に洗った。一時間後、全ての皿を洗い終えた少年に、源さんは新聞紙に包んだ巾着(きんちゃく)を一つ差し出した。

 

 

 


「給料だ!」

 

 

 


「えっ、でも僕はタダ飯を……」

 

 

 


「ちげえよ!中身は餅だ。餅ってのはな、粘り強えんだ。お前も東京で生きてるんなら、この餅みたいに粘り強く生きろ!」

 

 

 


少年は新聞紙を握りしめ、ボロボロ泣いた。

 

 

 

 

「ありがとうございます! 必ず、必ず、代金返しに来ます!」

 

 

 


少年が走って帰った後、源さんはワンカップ酒をあおりながら呟いた。

 

 

 


「……あいつ、上野駅に集団就職で着いた日の、俺にそっくりだ…」

 

 

 

 

 

 


第6章:赤電話の秘密と勘違い

 

 

 

 


数日後、常連たちの間に激震が走った。店の近くにある、電話ボックス。ガラスが曇るほど寒い中、源さんが赤電話の受話器を握りしめ、十円玉を山のように積んで深刻そうに話しているのを、佐藤が偶然聞いてしまったのだ。

 

 

 


「ああ……ああ、わかってる。もう潮時かもしれねえな…」

 

 

 


源さんの背中は小さく見えた。

 

 

 


「あちこちガタが来てるんだ。これ以上無理させても可哀想だろ……。ああ、来週あたり、畳もうかと思ってる……寂しいがな……」

 

 

 


「親父さんが店を閉める!?」

 

 

 


佐藤が店に駆け込み、ミキやあの時のヤクザな男(あれから2人は常連になっていた)に伝えると、全員が青ざめた。

 

 

 

 


「嘘でしょ!? 店なくなっちゃうの?!」

 

 

 


「ガタが来てるって、親父さんの体のことか……!?」

 

 

 


「俺たちの心の灯火が消えちまう!」

 

 

 


「源さんの体を治すための手術代……いや、引退後の生活費だ! カンパを集めよう!」

 

 

 


常連客たちは結束した。佐藤はボーナスを、ミキはブランドバッグを質に入れ、ヤクザな男もパチンコの景品を換金し、なけなしの金を集めた。

 

 

 


そして一週間後、屋台の前で「引退阻止・感謝セレモニー」が勝手に行われることになった。

 

 

 

 

 

 


第7章:湯気と涙と笑い声

 

 

 

 


「源さん! 辞めないでくれ!」

 

 

 


佐藤が「感謝」と書かれた熨斗袋を突き出し、ミキが泣きながら背中に抱きついた。ヤクザな男も男泣きしながら花束を持っている。開店準備をしていた源さんは、ポカンとして箸を止めた。

 

 

 


「……お前ら、何やってんだ? 何の騒ぎだ?」

 

 

 


「隠さないでください! 佐藤さんが聞いたんですよ! 赤電話で『ガタが来てるから畳む』って……体が悪いんでしょ!? 私たちがお金出し合って……」

 

 

 


源さんはしばらく呆然としていたが、みるみる顔を真っ赤にした。そして、持っていた菜箸で鍋のふちをカーン!と叩いた。

 

 

 


「バカ野郎!! 畳むのは田舎の実家の『こたつ』の話だ!!」

 

 

 


「は……?」

 

 

 


全員の動きが止まった。

 

 

 


「オフクロが『こたつの脚がガタついてるから捨てようか』って相談してきたんだよ! もう春だから片付けて、新しいのを買おうかって話をしてたんだ!!」

 

 

 


「ええーっ!?」

 

 

 


全員がその場でズッコケた。屋台の柱が揺れ、赤提灯が激しく揺れた。

 

 

 


「俺の体はピンピンしてるわ! お前らみたいな寂しがり屋がいる限り、死ぬまでここでおでんを煮続けるんだよ! ……ったく、早とちりしやがって!」

 

 

 


源さんは照れ臭そうに鼻の下をこすり、集まった金や花束を押し返した。

 

 

 


「こんなもんいらねえよ! その代わり……」

 

 

 


源さんはニッと笑い、全員の皿にサービスのはんぺんを放り込んだ。ふわふわの白いハンペンが、出汁の中で揺れる。

 

 

 


「食え! 今日は俺の奢りだ! その代わり、出汁一滴も残すんじゃねえぞ!」

 

 

 


「やったー!」

 

 

 

「親父さん、紛らわしいよ!」

 

 

 

「でも良かったぁ!」

 

 

 


安堵と笑いがガード下に爆発した。電車の通過音さえも、祝福のファンファーレに聞こえる。昭和の寒空の下、源さんの屋台だけが、裸電球のオレンジ色の光に包まれていた。湯気の向こうで笑う源さんと、それを囲む常連たち。

 

 

 


その夜のおでんの出汁は、いつもより少ししょっぱくて、でも最高に温かかった…

SCENE#160   法念住職のどこまでも不都合なお葬式 The Chaotic Funeral of Priest Hōnen

第1章:遺言はゲーミングVRゴーグルで

 

 

 

 


山奥の静寂に包まれた古刹、珍妙寺(ちんみょうじ)。享年99歳。大往生を遂げたはずの名物住職・法念(ほうねん)の通夜が始まろうとしていた。本堂には厳粛な黒と白の幕が張られているが、その裏で弟子の良念(りょうねん)は脂汗をかいていた。

 

 

 


「住職……最後の最後まで、何を考えていたんですか……」

 

 

 


良念の手には、遺品整理で見つけた『遺言』と書かれた桐箱。しかし中に入っていたのは、なぜか虹色に点滅する最新鋭のゲーミングVRゴーグルだった。
恐る恐る装着した瞬間、視界は極彩色のサイバースペースへ。そこには、ミラーボールの下でパラパラを踊る3Dアバターの法念住職がいた。

 

 

 

 


『イエーーイ! メーン! 良念、見てるか? ワシの人生のフィナーレ、湿っぽいのは厳禁じゃ! タイトルは【法念フェスティバル2025 ~極楽浄土へブチ上げナイト~】にするんじゃ!』

 

 

 


「ブチ上げ……!?」

 

 

 


良念は膝から崩れ落ちた。

 

 

 

 


『ちなみに、会場BGMのプレイリストはクラウドに上げといたぞ。パスワードは「BOUZU_LOVE」じゃ!』

 

 

 


現実世界に戻った良念の耳に、砂利を踏む音が聞こえた。地域一番の堅物、檀家総代の金田翁(かねだおきな)が到着したのだ。

 

 

 


「……終わった。僕の僧侶人生、今日で終わった…」

 

 

 

 

 

 


第2章:死後硬直は「ダブルいいね!」と「シェー!」

 

 

 


葬儀社「安らぎメモリアル」のベテランスタッフと良念が、納棺のために法念住職の遺体を確認した時、事態はより深刻さを増した。白装束に身を包んだ法念住職は、両手の親指を突き立てた「ダブル・いいね!」のポーズで完全に固まっていたのだ。しかも満面の笑みで…

 

 

 


「ちょ、ちょっと! これじゃ棺の蓋が閉まりませんよ!」

 

 

 


「押さえます! 良念さん、足の方をお願いします!」

 

 

 


スタッフが二人がかりで腕を押さえ込むと、テコの原理のように、今度は右足が「グワッ!」と上がり、往年のギャグ漫画のような「シェー!」のポーズで固定された。

 

 

 


「ひいい! あっちを立てればこっちが立つ! まるで人間知恵の輪!」

 

 

 


「ええい、強引に行きますよ! せーのっ!」

 

 

 


バキッ!!バキッ!!

 

 


鈍い音がして、棺桶の底板が抜けそうになる。

 

 

 


「ダメです! 不可能です!」

 

 

 


結局、緊急処置として棺の蓋に「親指用の穴」を二つドリルで開け、そこから突き出た二本の親指に数珠をかけるという、前衛芸術のようなスタイルで通夜を迎えることになった…

 

 

 

 

 

 


第3章:改造木魚はEDM仕様

 

 

 


通夜が始まった。厳粛な空気が流れる中、参列者たちは棺から突き出た「いいね!」の指を見て見ぬふりをしている。肩を震わせている者もいるが、それが悲しみなのか笑いなのかは不明だ。

 

 

 

 


良念は心を無にして、読経のために木魚を叩いた。

 

 

 


『ポク、ポク、ポク……』

 

 

 


よし、これならいける。そう思った矢先だった…

 

 

 


『ポク、ポク、ズン! チャッ! ズン! チャッ! ピロリロリロリ~♪』

 

 

 


突然、木魚から腹に響く重低音ビートと電子音が炸裂した。

 

 

 


「なっ!?」

 

 


良念が慌てて木魚を裏返すと、そこには『Bluetooth対応・重低音ウーファー内蔵・法念カスタムVer.3.0』の刻印が。さらに、叩く振動に反応して、木魚の目が七色に発光し、本堂の天井にミラーボールのようなレーザー光線を撒き散らし始めた。

 

 

 


「なんだこれは!? ディスコかここは!」

 

 

 


金田総代が激怒して立ち上がるが、ビートが良すぎて足踏みが合ってしまっている。

 

 

 


「止め方が…止め方がわかりません! 電源ボタンがないんです!」

 

 

 


良念が叩くのをやめても、オートリピート機能でビートはまったく止まらない。

 

 

 


『プチョヘンザ! プチョヘンザ!』

 

 

 


あろうことか、サンプリングされた法念住職の煽りボイスまで再生され始めた…

 

 

 

 

 

 


第4章:般若心経は暴露大会

 

 

 


「ええい、木魚は外に投げ捨てろ! 読経だ! 声だけで勝負して場を清めるんだ!」

 

 

 


良念は冷や汗で滑る手で、住職専用の立派な経本を開いた。しかし、そこにあるはずの般若心経は、マジックペンで塗りつぶされ、別の文章に書き換えられていた。タイトルは『愛する檀家たちの黒歴史・暴露経』。

 

 

 


「……観自在菩薩……」

 

 

 


良念は震える声で読み始めた。読まないと間が持たない。しかし、内容は地獄絵図だった。

 

 

 


「……実はー、金田総代はー、カツラであることをー、ひた隠しにしておりー、先日の強風の日はー、家から一歩も出なかったー……」

 

 

 


「ぶふっ!!」

 

 

 


静まり返った本堂に、誰かの吹き出す音が響く。

 

 

 


「さらにー、婦人会長のー、よし子さんはー、ダイエット中と言いつつー、夜中にこっそりー、羊羹を一本食いしているー……」

 

 

 


「やめてぇぇぇ!!」

 

 

 


よし子夫人の悲鳴がこだまする。

 

 

 


金田総代は顔を真っ赤にしてプルプルと震え、カツラがわずかにズレた。

 

 

 


「き、貴様ー!! 故人の言葉を借りて何を言うかー!!」

 

 

 

 

 

 


第5章:焼香は地獄のハバネロスモーク

 

 

 

 


「すみません! 全部経本に書いてあるんです! 次、焼香! 焼香で気分を変えましょう!」

 

 

 


良念は逃げるように焼香を促した。

 

 

 


怒り心頭の金田総代が、ズカズカと焼香台へ進む。

 

 

 


「ふん! わしが清めてやるわ!」

 

 

 


彼が抹香をひとつまみし、香炉の炭にくべた瞬間だった。

 

 


ボッ!!!

 

 


通常の煙ではなく、赤黒い不穏な煙が爆発的に立ち昇った。

 

 

 


「んぐっ……!? げほっ! ごほっ!!」

 

 


「な、なんだこの刺激臭は!?」

 

 

 


法念住職は、抹香の壺に『特製・激辛ハバネロパウダー』と『胡椒』、さらに『ワサビ粉末』を絶妙な比率でブレンドしていたのだ。

 

 

 


「目が! 目があああ!」

 

 


「鼻がもげるぅぅ!」

 

 

 


本堂は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。上品な着物の婦人たちが涙と鼻水を流してのたうち回り、お茶を求めて給湯室へダッシュする。

 

 


「火事だ! いや、毒ガスだ!」

 

 


「違う、これは住職の『スパイス・オブ・ライフ(人生の刺激)』だ!」

 

 

 


誰かがうまいことを言ったが、誰も笑えない状況だった…

 

 

 

 

 

 


第6章:ホログラム住職とバトルロイヤル

 

 

 


全員が咳き込み、涙目で虚空を見つめる中、祭壇の遺影がウィーンとスライドし、巨大なプロジェクターが出現した。

 

 

 


『ホッホッホ! 泣いておるのう! ワシとの別れがそんなに辛いか!』

 

 

 


本堂の中空に、高さ3メートルはある巨大な法念住職のホログラムが投影された。

 

 

 


『湿っぽいのは終わりじゃ! ここでビッグニュース!』

 

 

 


ホログラムの住職が、懐から札束(の映像)を取り出した。

 

 

 


『実はな、この本堂の床下のどこかに、ワシがコツコツ貯めたヘソクリ100万円を隠しておいた! 早い者勝ちじゃ! さあ、トレジャーハントの開始じゃあ!』

 

 

 


その瞬間、檀家たちの目の色が変わった。

 

 

 


「100万だと!?」

 

 


「慰謝料代わりにもらってやる!」

 

 

 


「どけぇぇ! 俺が先だ!」

 

 

 


ハバネロの痛みも忘れ、参列者たちは畳を引き剥がし始めた。

 

 

 


バリバリ! メキメキ!

 

 

 


「やめてください! 文化財なんです! 床板をバールでこじ開けないで!」

 

 

 


良念が慌てて止めに入るが、興奮した参列者たちに突き飛ばされ、仏像の膝の上にスポーンと着地した。混沌とする本堂の上で、ホログラム住職だけが『あ、そこそこ! いや、もうちょい右!違うんだなぁ〜』と無責任に実況を続けていた…

 

 

 

 

 

 


第7章:サンバ・デ・出棺

 

 

 

 


結局、本堂の床は半壊。ヘソクリは見つからず(最後に出てきた映像で『嘘ぴょーん! ギャンブルで全部スッたわ!』と告白された…)、全員が疲労困憊でボロボロのまま出棺の時間を迎えた。霊柩車に棺が運び込まれ、蓋からは相変わらず「ダブルいいね!」が突き出ている。

 

 

 


「やっと……終わる……」

 

 

 


良念は放心状態で合掌した。

 

 

 


霊柩車の長いクラクションが鳴り響く……はずだった。ところが…

 

 

 


『テ~レレ~、レレ~! ズンドコズンドコ! ピ~ヒャララ~!』

 

 

 


法念住職が事前に改造を施していた霊柩車のスピーカーから、爆音のマツケンサンバ風オリジナル曲が流れたのだ。それだけではない。車の屋根がオープンカーのように開き、仕込まれていたスモークとお菓子が空へ向かって発射された。

 

 

 


「めでてぇな! こりゃあ祭りだ!」

 

 

 


通りがかりの子供たちが歓声を上げてお菓子を拾い始めた。疲れ果てていた檀家たちも、あまりの馬鹿馬鹿しさに、一人、また一人と笑い出した。カツラが90度ズレた金田総代も、涙を流しながら腹を抱えている。

 

 

 


「くくく……とんでもない野郎だ……死んでまでワシらを笑わせおって……」

 

 

 


「最高のクソ坊主だわい!」

 

 

 


派手なサンバのリズムに乗せて、突き出た両手の親指(いいね!)を揺らしながら、霊柩車は火葬場へと走り去っていく。良念はその背中を見送りながら、いつの間にかリズムに合わせて手拍子をしている自分に気づいた。

 

 

 


「……やられましたよ、住職。湿っぽいのは禁止、でしたね…」

 

 

 


空を見上げると、入道雲がニカっと笑った法念の顔に見えた。

 

 

 


「でも、修理代の請求書は、あの世まで送りますからね…」

 

 


良念は笑顔で、大きく「いいね!」を突き返した…

 

 

SCENE#205 坂本巫女のどこまでも不都合な初詣参拝客 Chaos at the New Year Shrine - SCENE

SCENE#159   虚構の錬金術師 ―血塗られた配当― The Alchemist of Illusions

第1章:救世主の来訪、あるいは悪魔の契約

 

 

 

 


赤道直下の熱帯夜、湿った空気が肌にまとわりつく新興国A国の国際空港。滑走路に降り立ったプライベートジェットのタラップから、ヴィクター・ケインは一歩を踏み出した。彼は、まるで神が下界を見下ろすような傲慢な眼差しで、出迎えの群衆を見渡した。フラッシュの洪水。歓声。それは、飢えた人々が肉に群がる音に似ていた。

 

 

 

 


「この国は眠れる獅子だ。私が目覚めさせよう!」

 

 

 

 


マイクを通した彼の声は、甘美な毒となって国民の耳に注がれた。長年の貧困と汚職に疲弊した人々にとって、ウォール街の伝説的トレーダーである彼は、希望そのものに見えたのだ。

 

 

 

 

しかし、ヴィクターのサングラスの奥にある瞳は、爬虫類のように冷たく、感情が欠落していた。彼に見えているのは人間ではない。「養分」となる数字の羅列だけだ。ホテルへ向かうリムジンの窓から、スラム街の物乞いを見ると、彼は薄く笑った。

 

 

 


「見ろ、金になるゴミが溢れている。最高の狩場だ…」

 

 

 

 

 


第2章:熱狂のバブル、肉を喰らう宴

 

 

 


ヴィクターが設立した「フェニックス・ファンド」は、集団ヒステリーに近い熱狂を生み出した。彼は巧妙なメディア操作と粉飾決算で、実体のない幽霊会社の株価を吊り上げた。街の至る所に設置された電光掲示板には、右肩上がりのグラフが赤く輝き、それは人々の理性を焼き切るネオンサインとなった。

 

 

 


市場は狂った。汗と泥にまみれた労働者が、なけなしの生活費を握りしめて証券会社に殺到する。老人は薬代を削り、親は子の学費を投じた。

 

 

 


「買え! 買えば天国に行けるぞ!」

 

 

 


誰もが眼を血走らせ、口角から泡を飛ばして叫ぶ。それはもはや投資ではなく、カルト宗教の儀式のようだった。一方、ペントハウスのヴィクターは、最高級のステーキにナイフを入れながら、その様子をモニターで監視していた。

 

 

 


「人間が最も美しいのは、欲に踊らされている時だ。……さあ、もっと太れ!骨の髄までしゃぶり尽くしてやる…」

 

 

 


彼の笑い声は、レアのステーキから滲み出る血のように、赤くドロリとしていた。

 

 

 

 

 

 

第3章:ナイアガラの滝、断末魔のシンフォニー

 

 

 

 


そして訪れた審判の日。午前9時の市場開場と同時に、ヴィクターが仕込んだプログラム「アポカリプス(黙示録)」が起動した。保有する全株式の無慈悲な一斉売却。取引所の巨大スクリーンが、警告色の赤一色に染まった。

 

 

 


「暴落だ! 逃げろ! ……いや、約定しない! 買い手がいないぞ!?」

 

 

 


悲鳴、怒号、そして絶望の嗚咽。証券会社のフロアは、殺到する人間で地獄絵図と化した。心臓発作で倒れる者、錯乱して自分の髪をむしり取る者。窓ガラスが割れる音が響き、誰かがアスファルトへとダイブした鈍い音が聞こえた。

 

 

 


その断末魔の合唱をBGMに、ヴィクターは空港の貴賓室で冷えたシャンパンを喉に流し込んだ。彼のタブレット端末には、国家予算規模の利益が送金完了したことを示す通知がポップアップしていた。

 

 

 


「素晴らしいショーだった。アンコールは無しだ…」

 

 

 

 


彼は眼下の混乱を一瞥もしないまま、ジェット機のシートに深々と身を沈めた。

 

 

 

 

 

 


第4章:あとに残る廃墟、怨念の苗床

 

 

 


ヴィクターが飛び去った後のA国に残されたのは、文明の残骸だった。通貨と株券は一瞬にして紙屑となり、パン一つ買うためにトランク一杯の札束が必要になった。街には略奪と放火が横行し、昨日までの隣人が食料を巡って殺し合う「人狩り」が始まっていた。

 

 

 

 


路地裏には、首を吊った「投資家」たちの死体が果実のようにぶら下がっていた。腐敗臭と硝煙の匂いが都市を覆っていた。

 

 

 


スラム街の一角。家族全員の貯金を失った男、ミゲルは、自宅の床で冷たくなった妻と娘の遺体の前に座り込んでいた。飢えに耐えかねた無理心中だった。ミゲルだけが死にきれず、生き地獄に取り残された。彼の目は、涙さえ枯れ果て、代わりにどす黒い狂気を宿していた。手には、泥と血にまみれたヴィクターの新聞切り抜き…

 

 

 


「殺す……しかし、ただ殺すだけでは足りない……」

 

 

 


ミゲルは自らの指を噛みちぎり、その血で壁に誓いの言葉を刻んだ。その怨念は、国境を越え、海を渡り、やがてヴィクターの元へ這い寄る影となった…

 

 

 

 

 


第5章:楽園の亡命者、腐りゆく精神

 

 

 

 


それから5年の月日が流れた。地中海に浮かぶ絶海の孤島、要塞化した豪邸。

 

 

 

 


ヴィクターはそこで王のように振る舞っていたが、その精神は病んでいた。世界中から指名手配され、常に暗殺の影に怯える日々。頼りになるのは、高額で雇った元傭兵の私兵部隊と、最新鋭のセキュリティシステムだけだった。夜な夜な、彼は悪夢にうなされた。波の音が、騙し取った人々の泣き声に聞こえる。風の音が、彼を呪う囁きに聞こえる…

 

 

 

 


「金さえあれば安全だ。誰もここには入れない…」

 

 

 


そう自分に言い聞かせ、精神安定剤をウォッカで流し込んだ。ある嵐の夜、書斎の机に一通の封筒が置かれていた。警備は鉄壁のはずだ。誰が置いた?
震える手で封を開けると、中には人間の皮膚のような感触の奇妙な招待状が入っていた。文字はインクではなく、酸化した血で書かれていた。

 

 

 


『第1回 債権者集会のお知らせ。場所:貴様の寝室』

 

 

 


雷鳴が轟き、屋敷の明かりが一斉に消えた…

 

 

 

 

 

 


第6章:忍び寄る影、沈黙の殺戮

 

 

 

 


闇に包まれた屋敷。非常用電源すら作動しない。

 

 

 


「おい! 誰かいないか! 照明をつけろ!」

 

 

 


ヴィクターは叫んだが、返事はなかった。ただ、雨音に混じって、「ズルッ……ズルッ……」という、何か重いものを引きずるような湿った音が近づいてくる。懐中電灯を頼りに廊下に出た彼は、息を呑んだ。床には、屈強な傭兵たちが転がっていた。銃撃の跡はない。彼らは皆、目を見開いたまま絶命しいた。そして、その口には大量のコインや宝石が無理やりねじ込まれ、顎が外れていた。

 

 

 


「ひっ……!」

 

 

 


ヴィクターは腰を抜かし、這うようにしてその場から逃げた。セキュリティルームに逃げ込み、モニターを確認した。赤外線カメラが捉えた映像に、彼の心臓は凍りついた。

 

 

 

 


そこに映っていたのは、ボロボロの服を纏い、痩せこけた、幽霊のような群衆だった。何百、何千という、フェニックス・ファンドの「株主」たちが、音もなく、着実に屋敷を埋め尽くしていく。彼らの目は皆、虚ろで、手には武器の代わりに、紙屑となった株券や、死んだ家族の遺影が握られていた。

 

 

 

 


「来るな……来るなああああ!!」

 

 

 

 

 


第7章:最後の配当、肉の株式総会

 

 

 

 


ヴィクターが最後に逃げ込んだのは、地下の巨大金庫室だった。厚さ50センチの鋼鉄の扉を閉め、震えながら金の延べ棒の山に埋もれた。

 

 

 


「ここは開かない。核シェルター並みの強度だ。絶対に入れやしない……」

 

 

 


しかし、その絶対の安全は、内側から破られた。通気口から、黒い液体のようなものが滴り落ちてくる。それはガソリンの臭いと、腐敗臭を放っていた。そして、鋼鉄の扉が、外側からの「熱」ではなく、何千人もの「爪」が立てる不快な引っ掻き音と共に軋み始めた。

 

 

 


キーッ、キキキキキッ……。

 

 

 

 


耐え難い金属音の後、扉のロックが弾け飛んだ。
雪崩れ込んできたのは、ミゲルを先頭にした亡者たちだった。彼らは何も言葉を発しない。ただ、底知れぬ飢餓感を湛えた目でヴィクターを見つめていた。

 

 

 


「金ならやる! 全部やる! だから助けてくれ!お願いだ!」

 

 

 


ヴィクターは札束を彼らに投げつけた。しかし、紙幣は宙を舞い、誰も拾おうとしない。ミゲルがゆっくりと近づき、ヴィクターの喉元を掴み上げた。

 

 

 


「我々が欲しいのは金ではない。貴様という『資産』の精算だ…」

 

 

 


群衆が一斉に襲いかかった。響いた悲鳴は一瞬で途絶えた・

 

 

 


翌朝、警察が踏み込んだ時、金庫室は鮮血で再塗装されていた。中央には、原形をとどめないほど膨れ上がった肉塊があった。ヴィクターだったものだ。彼の腹は切り裂かれ、その胃袋と口の中には、ぎちぎちに丸められた株券と硬貨が詰め込まれていた。それはまるで、強欲な豚の丸焼きのようだった。そして壁には、ヴィクターの血を使って、巨大な文字が描かれていた。

 

 

 


『上場廃止・取引終了』

 

 

 


孤島の風は、もはや何も語らない。ただ、どこか満足げな静寂だけが漂っていた…

SCENE#158  かまいたち ―帝都疾風録― Sickle Weasel

第1章:銀座、煉瓦街の惨劇

 

 

 

 

 

大正9年、晩秋の宵。帝都・東京の心臓部である銀座は、未曾有の繁栄を謳歌していた。モダンなカフェーから漏れ出るジャズの調べ、着物と洋装が入り混じる雑踏、そして煉瓦造りの街並みを照らす瓦斯灯(ガスとう)の青白い光。すべてが華やかで、平和そのものだった。

 

 

 

 

ある日、その「亀裂」は、唐突に入った…

 

 

 

 

ショーウィンドウを眺めていた若い婦人の笑顔が、何の前触れもなく凍りついた。彼女の隣にいた紳士が「風が強いな…」と呟いた瞬間、彼の首が不自然な角度でスライドし、鮮血の噴水となって路上にドスッと崩れ落ちたのだ。

 

 

 

 

「きゃあああああ!」

 

 

 

 

婦人の絶叫が合図であるかのように、見えぬ殺戮劇が幕を開けた。

 

 

 

ヒュンッ、ザシュッ。

 

 

 

 

鋭利な刃物が空を切る音が連続して響く。逃げ惑う群衆の中で、ある者は足を切断されて這いつくばり、ある者は背中から胸へと貫通した見えない刃に絶命する。凶器は見えない。犯人もいない。ただ、狂ったように吹き荒れるつむじ風だけが、人間を肉塊へと変えていった。

 

 

 

 

瓦斯灯が破裂し、辺りが闇に包まれると、闇の中から「キキキ……」という嘲笑うような摩擦音が響き渡り、銀座は瞬く間に血の海と化した。

 

 

 

 

 

 

 

第2章:辻風の噂と異端の術師

 

 

 

 

銀座の惨劇から三日。帝都は重苦しい恐怖に包まれていた。警視庁には「巨大な鎌を持った怪人を見た!」「空から刃が降ってきた…」といった狂乱じみた通報が殺到していたが、警察は事態を収拾できずにいた。遺体はいずれも鋭利な刃物で切断されていたが、その切断面はあまりに滑らかで、既存の凶器では説明がつかなかった。

 

 

 

 

 

その頃、神田の裏路地にある古書店に、一人の男がいた。葛葉 蓮。異端の陰陽師であり、風の声を聞く「風読み」の一族の末裔だ。彼は新聞記事を握りつぶし、低く呻いた。

 

 

 

 

「これはただの『かまいたち』じゃない。人の恐怖を喰らって肥大化している……」

 

 

 

 

彼が現場である銀座を訪れると、そこには異様な残穢(ざんえ)が漂っていた。アスファルトに残された爪痕のような溝、そして空気中に漂う鉄錆と獣の臭い。突如、蓮の頬が裂け、一筋の血が流れた。風がないのに、髪が逆立つ。

 

 

 

 

「そこにいるのか…」

 

 

 

 

蓮が虚空を睨むと、街灯の上の空間が陽炎のように揺らぎ、無数の小さな瞳が彼を見下ろしている気配がした。奴らは既に、帝都中に巣を張り巡らせていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

第3章:路面電車の密室

 

 

 

 

恐怖が蔓延する中、浅草行きの最終路面電車が走っていた。車内は家路を急ぐ人々で満員寿司詰め状態だった。窓の外は漆黒の闇。車輪の軋む音だけが響く密室空間。突如、車両全体が巨大な手に掴まれたかのように激しく揺れた。

 

 

 

 

「な、なんだ!?」

 

 

 

 

乗客たちが悲鳴を上げた次の瞬間、天井の鉄板が紙屑のようにめくれ上がった。夜風と共に侵入してきたのは、目に見えぬ死神の群れだった。

 

 

 

 

狭い車内で逃げ場はない。先頭車両にいた男の腕が、宙を舞い、隣にいた老女が喉を掻き切られる。鮮血が乗客の顔や服に飛び散り、パニックになった人々は出口へと殺到し、将棋倒しとなって互いを踏みつけ合う地獄絵図となった。その阿鼻叫喚の中に、蓮が飛び込んだ。

 

 

 

 

「伏せろ!!」

 

 

 

 

彼が呪符を放つと、青白い閃光が走り、車内を飛び交う透明な影を一瞬だけ実体化させた。それは小柄なイタチのような姿をしていたが、両腕は長く鋭い鎌そのものであり、口からはギザギザの牙を覗かせていた。それも一匹ではない。天井、座席の下、吊り革の上……数十匹の魔物が、乗客を肉の餌として貪っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

第4章:増殖する刃

 

 

 

 

蓮の調査により、この「かまいたち」は古来の妖怪が、帝都の急速な近代化に伴う電気エネルギーと、絶え間ない恐怖によって引き起こされる人々の集団ヒステリーを糧に変異した「新種の災厄」であることが判明した。奴らは分裂し、増殖するのだ。

 

 

 

 

夜が更けるにつれ、被害は拡大の一途を辿った。民家の雨戸を突き破り、寝ている家族を皆殺しにする風。銭湯の窓ガラスを粉砕し、裸の客を切り刻む風。帝都のあちこちから火の手が上がり、消防車のサイレンと人々の悲鳴が混ざり合った。

 

 

 

 

「奴らは風そのものだ。風である限り、隙間があればどこへでも入り込む!」

 

 

 

 

蓮は自身の隠れ家である廃寺で、この惨劇を食い止めるため、禁断の術の準備を進めていた。彼の体は前夜の戦闘で深く傷つき、腕の包帯からは血が滲んでいた。しかし、休む暇はない。風の音が急に変わったのだ。「ヒュオオオ…」という風鳴りが、次第に数万人の人間が断末魔の叫びを上げているような、おぞましい唸り声へと変貌していた。

 

 

 

 

 

 

 

第5章:凌雲閣の決戦

 

 

 

 

増殖したかまいたちの群れは、本能的に帝都で最も高い場所、浅草十二階こと「凌雲閣」へと集結し始めた。塔の周囲には、家具や看板、そして人間の死体までもが巻き上げられた巨大な竜巻が発生していた。奴らはここを拠点に、帝都全土を真空の刃で更地にするつもりなのだ。

 

 

 

 

蓮は暴風圏を突破し、凌雲閣の入り口に立った。風圧だけで皮膚が引きちぎれそうになる。

 

 

 

 

「ここが地獄の一丁目か…」

 

 

 

 

塔の内部は異界と化していた。螺旋階段を登る蓮に、壁をすり抜けて襲いかかる無数の刃。蓮は呪符を盾にし、霊力を込めた刀で風を斬り裂きながら進む。一階登るごとに空気は薄くなっていき、重力さえ歪んでいった。

 

 

 

 

途中には、逃げ遅れた客たちが壁に縫い付けられるように絶命している惨状が目に入ってくる。彼らの表情は恐怖に歪み、その眼球は凄まじい風圧によって破裂していた。頂上まであと少し。蓮の体力は限界に達しつつあった。

 

 

 

 

 

 

第6章:絶・太刀風

 

 

 

 

凌雲閣の最上階、展望台。そこには、物理法則を無視した光景が広がっていた。数千、数万のかまいたちが互いに噛みつき合い、融合し、一つの巨大な「黒い球体」となって回転していた。それは見る者を狂わせるような不快な高周波を放っていた。

 

 

 

 

「人間ごときが……」

 

 

 

 

風の中から、幾重にも重なった不気味な声が脳内に直接響いた。蓮は震える手で懐剣を抜き、自らの左腕を深く切り裂いた。己の鮮血が風に舞う。しかし、地面には落ちない。やがて、血は空中で赤い紋様を描き始めた。

 

 

 

 

「我が血肉を喰らい、その代償として滅せよ……禁術『絶・太刀風(ぜつ・たちかぜ)』!」

 

 

 

 

蓮の体が青白い炎に包まれ、彼自身が「すべてを無に帰す真空」そのものとなり、黒い球体へと特攻した。音はなかった。世界の色が反転し、音も光もすべてが飲み込まれる絶対的な一瞬だけ訪れた静寂。直後、帝都の夜空が裂けるほどの爆発が起き、凌雲閣の頂上部が内側から弾け飛んだ。

 

 

 

 

 

 

第7章:凪の朝

 

 

 

 

翌朝、帝都は奇妙なほどの静寂に包まれていた。空は抜け落ちるように青く、昨夜の嵐がまるで嘘のように穏やかな秋晴れだった。浅草の街は瓦礫の山と化していた。半壊した凌雲閣は、巨人の墓標のように無惨な姿を晒している。

 

 

 

 

風が吹いていた…肌を撫でるような、そよ風が。そのそよ風からは、あの血生臭さも、殺意も消えている…

 

 

 

 

 

「終わったのか……?」

 

 

 

 

誰かが呟いた。瓦礫となった凌雲閣のふもとには、誰もいない。葛葉 蓮の姿も…

 

 

 

 

ただ、半壊した塔の鉄骨に、千切れた一枚の呪符が絡みつき、風に吹かれてヒラヒラと揺れていた。

その揺れ方は、まるで誰かがそこから人々を見下ろして笑っているようにも、誰かが最後の力を振り絞って何かを抑え込んでいるようにも見えた。

 

 

 

 

 

帝都はやがて復興へと向かうだろう。しかし、人々は二度と風が吹く日を心から愛することはできない。ふとした瞬間に吹くつむじ風に、あの鋭い刃の記憶を感じて、首筋を押さえ怯え続ける…

 

 

 

 

かまいたちは消えたのではない…風の中に溶け、次の時代を、次の獲物を密かに待ち続けている…

 

SCENE#157   100センチの世界 The 100-Centimeter World

第1章:銀色の同居人

 

 

 

 


少年の名前はカケル。かつては学校一番の駿足で、サッカー部のエースだったカケルにとって、その部屋はあまりにも静かすぎました。

 

 

 

 


退院して自分の部屋に戻ってきてから、もう三日が経ちます。しかし、カケルは一度もベッドから降りようとしませんでした。部屋の隅には、運び込まれたばかりの「それ」が置かれています。

 

 

 

 


冷たく光る銀色のフレーム、無骨で大きな黒いタイヤ、そして誰も座っていない空っぽのシート。新しい車椅子です。

 

 

 

 


「お前なんか、いらないよ……」

 

 

 

 


カケルは布団を頭からすっぽりとかぶり、唇を強く噛み締めました。目を閉じると、芝生の上を風のように駆け抜けていた自分の姿が浮かびます。しかし、目を開ければ、動かない足と、あの銀色の機械があるだけ…

 

 

 

 

 


夕日が部屋に差し込み、車椅子の影を長く床に落としました。それはまるで、カケルの自由を奪った鉄の牢屋のように見えました。部屋はシンと静まり返り、銀色の車椅子は、無言のままカケルを見つめ返しているようでした。

 

 

 

 

 

 


第2章:きしむ声

 

 

 

 


翌日の午後は、重たい曇り空でした。カケルのイライラは限界に達していました。お母さんが部屋に入ってきて、「少し座ってみたら?」と優しく声をかけましたが、カケルは「放っておいてくれ!」と叫んでしまいました。

 

 

 

 


お母さんが悲しそうな顔で部屋を出て行った後、罪悪感とやり場のない怒りがこみ上げ、カケルは枕元にあったクッションを投げつけました。それでも気が済まず、ベッドの脇にあった車椅子のタイヤを、拳で「バン!」と強く叩きました。手が痛くなるほど強く。

 

 

 

 


「……イテテ。おいおい、そんなに乱暴に扱わないでおくれよ!」

 

 

 

 


どこからか、少し錆びついたような、低くて太い声が聞こえました。カケルは心臓が飛び出るほど驚き、辺りを見回しました。

 

 

 

 


「誰だ!? 誰かいるの?」

 

 

 

 


「ここだよ、君のすぐ目の前さ!」

 

 

 

 


声の主は、間違いなく車椅子でした。よく見ると、銀色のフレームが微かに振動しているように見えます。

 

 

 

 


「ボクの名前は『シルバー』。昨日から君のルームメイトになったつもりなんだけど、挨拶がわりにパンチとはね…」

 

 

 

 


「喋った……車椅子が……?」

 

 

 

 


カケルが呆然としていると、シルバーはタイヤをギシギシと少しきしませて言いました。

 

 

 

 


「驚くのも無理はないよ。でもねカケル、ボクだって退屈なんだよ。君はずっと布団の中、ボクはずっと部屋の隅。ボクたち、似た者同士だと思わないかい?」

 

 

 

 


「一緒にするな! 僕は歩きたいんだ、座っていたくないんだ!」

 

 

 

 


カケルの叫びに、シルバーは静かに答えました。

 

 

 

 


「知ってるよ…でも、君が座ってくれないと、ボクはただの冷たい鉄の塊だ。君が乗って初めて、ボクには命が宿るんだよ!」

 

 

 

 

 

 

 


第3章:窓の外の世界

 

 

 

 


それから数日、カケルとシルバーの奇妙な同居生活が続きました。最初は無視を決め込んでいたカケルでしたが、シルバーの少しお節介でユーモラスな話しぶりに、少しずつ口を開くようになっていました。

 

 

 

 


ある晴れた日の午後、窓の外から子供たちの笑い声が聞こえてきました。カケルが耳を塞ごうとすると、シルバーが言いました。

 

 

 

 


「ねえカケル、窓の外を見てごらんよ。今日は素晴らしい青空だ!」

 

 

 

 


「嫌だ。絶対に見ない!」

 

 

 

 


カケルは頑なに首を振りました。

 

 

 

 


「外に出たら、みんなが僕を見るんだ。走れなくなった可哀想な子だって、同情の目で見るんだ。そんなの耐えられないよ!」

 

 

 

 


シルバーは少し間をおいて、優しく語りかけました。

 

 

 

 


「君はそう思うかもしれないけど、ボクは違うと思うな…」

 

 

 

 


「どうしてだよ!」

 

 

 

 


「みんなが見るのは、ボクのこの流線型のフレームと、ピカピカのホイールさ。『なんてかっこいいマシーンに乗っているんだ』って、みんな思うかもしれないよ!」

 

 

 

 


「マシーン……?」

 

 

 

 


「そうさ。ボクは君専用のスーパーマシンだ。そして君は、ボクを操るたった一人のパイロットさ。コックピットに座らずに、冒険を諦めるパイロットなんているかい?」

 

 

 

 


その言葉は、カケルの少年の心に小さく火を灯しました。

 

 

 

 

 

「パイロット」という響きが、惨めな気持ちを少しだけ和らげたのです。カケルはおずおずと顔を上げ、初めてまじまじとシルバーを見つめました。

 

 

 

 

 

 


第4章:初めての冒険

 

 

 

 


「……ちょっとだけだぞ。ちょっと庭に出るだけだ!」

 

 

 

 


カケルは意を決して、ベッドから体を移しました。腕の力だけで体を支え、シルバーのシートに乗り込みます。思ったよりもシートは深く、カケルの体をしっかりと受け止めました。

 

 

 

 


「よし、ナイス・ボーディングだ、パイロット。まずはタイヤの外側にある輪っか、ハンドリムを持って。それを前に押すんだ!」

 

 

 

 


カケルが恐る恐る力を入れると、廊下のフローリングの上を車輪は滑らかに回り出しました。スーッ、スーッ。歩くのとは違う、滑るような不思議な感覚。風を切る音が耳元でしました。

 

 

 

 


「すごい、意外と速い……」

 

 

 

 


しかし、玄関を出て庭の土の上に出た途端、世界が変わりました。ガリッ、ザリッ。タイヤが土に取られ、急に重くなったのです。思うように進まず、カケルの細い腕はすぐに悲鳴を上げました。

 

 

 

 


「重いよ、進まないよ! 無理だよ!」

 

 

 

 


カケルが弱音を吐くと、シルバーが励ましました。

 

 

 

 


「地面が変われば走り方も変わる。諦めないで。右と左、同じ力でグッと押すんだ。ただ押すんじゃない、地面を掴むように。いち、に。いち、に」

 

 

 

 


シルバーの掛け声に合わせ、カケルは歯を食いしばりました。手のひらにマメができそうな痛みを感じながら、それでも腕に力を込めました。ザリッ、ザリッ。二人はゆっくりと、そして確実に前へ進み始めました。

 

 

 

 

 

 


第5章:100センチの景色

 

 

 

 


庭の大きなケヤキの木の下までたどり着いたとき、カケルは肩で息をしていました。Tシャツは汗で張り付いていましたが、それは久しぶりに感じる心地よい疲れでした。ふと手を止め、下を向いたカケルの目に、何かが留まりました。

 

 

 

 


「ねえシルバー、見て。アリの行列だ。あんなに大きなパンくずを運んでる!」

 

 

 

 


普段なら見過ごしてしまうような小さなドラマが、そこにはありました。木の根元には、小さな青い花がひっそりと、力強く咲いています。

 

 

 

 


「そうさ。君の今の目線の高さは、だいたい100センチくらいだよ!」

 

 

 

 


シルバーが得意げに言いました。

 

 

 

 


「立って歩く人たちは、空ばかり見て足元の奇跡に気づかない。でも、ボクに乗っている君には、それが見えるんだ。花の裏側の模様や、石ころの下の秘密。ここは世界で一番、発見に近い特等席なんだよ!」

 

 

 

 


カケルは周りを見渡しました。今まで「低い」と思っていた自分の視界が、急に色鮮やかで、豊かなものに見えてきました。

 

 

 

 


「100センチの世界……」

 

 

 

 


カケルが呟くと、シルバーのフレームが嬉しそうに光りました。

 

 

 

 

 

 


第6章:坂道の試練

 

 

 


「ねえシルバー、あそこの坂道に行ってみようよ!」

 

 

 

 


休憩を終えたカケルが指差したのは、庭を出て公園へと続く少し急な坂道でした。

 

 

 

 


「おっと、いきなり難関コースだね。でも、今の君なら行けるかもしれないよ!」

 

 

 

 


挑戦は始まりました。しかし、坂道は想像以上に過酷でした。登り始めるとすぐに、重力が二人を後ろへ引きずり下ろそうとします。腕の筋肉が焼けつくように熱くなり、息が切れます。

 

 

 

 


「くそっ……重い……!」

 

 

 

 


中腹に差し掛かったところで、カケルの力が抜けそうになりました。車輪がズルッと後ろへ下がります。恐怖がカケルを襲いました。

 

 

 

 


「カケル! ブレーキだ!」

 

 

 

 

 

シルバーが叫びました。

 

 

 

 


カケルは慌ててレバーを引き、ガクンとタイヤが止まり、二人は坂の途中で静止しました。

 

 

 

 


「もうだめだ、戻ろう……僕の腕じゃ無理だよ」

 

 

 

 


涙目になるカケルに、シルバーは真剣な声で言いました。

 

 

 

 


「いいかい、カケル。坂道は人生と同じだ。しんどい時は止まってもいい、ブレーキをかけて休めばいいんだ。でもね、顔を上げて前を見ている限り、君は負けてない。ボクが絶対に支えるから、君はタイヤを回すことだけを考えて!」

 

 

 

 


カケルは深く息を吸い込み、涙を拭いました。自分の腕を見つめます。細いけれど、さっきより少しだけ頼もしく見えました。

 

 

 

 


「よし……行くぞ!」

 

 

 

 


「おう! いち、に!」

 

 

 

 


カケルは渾身の力を込めました。一押し、また一押し。ゆっくりと、亀のような歩みで、二人は再び坂を登り始めました。

 

 

 

 

 

 


第7章:二つの車輪、一つの心

 

 

 

 


最後の力を振り絞り、坂を登り切った瞬間、視界が一気に開けました。坂の上からは、夕日に染まる街全体が見渡せました。オレンジ色の光が、カケルの汗ばんだ顔と、シルバーの車体を包み込みます。吹き抜ける風が火照った体を冷やし、最高の気分でした。

 

 

 

 


カケルは、自分の真っ黒に汚れた手のひらをじっと見つめました。それは、誰かに運んでもらったのではなく、自分の力でここまで来た証でした。そして、泥がついたシルバーのハンドリムを、タオルで優しく、愛おしむように拭きました。

 

 

 

 


「ありがとう、シルバー。君はただの椅子じゃなかったんだね。君がいてくれたから、僕はここに来られたんだ…」

 

 

 

 


カケルの言葉に、シルバーは少し照れたように答えました。

 

 

 

 


「どういたしまして、最高の相棒。君のその腕は、もう立派な翼だよ。その翼を使ってボクと一緒に、君はどこへだって飛んでいけるよ!」

 

 

 

 


カケルは笑いました。久しぶりに心からの笑顔が出ました。もう、誰も自分を可哀想だなんて思わないだろう。だって、こんなにかっこいい銀色の相棒と、それを操るたくましいパイロットがいるのですから。

 

 

 

 


「さあ、行こうよシルバー。次はもっと遠くへ。明日はあの向こうの丘まで行こう!」

 

 

 

 


「合点承知!」

 

 

 

 


銀色の車輪が、夕日を受けてキラキラと輝きながら、新しい道へと走り出しました。二つの車輪と一つの心は、これからどんな長い道も、共に越えていくことでしょう…