SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#348   視線が「行」を追えない病 〜マンガすらも読めない子どもたち〜 The Eye That Cannot Follow

第一章:断片化された脳、流れる視界

 

 

 

 

 

 


公園のベンチに座る少年も、駅のホームで電車を待つ少女も、皆一様に、掌の中にある光り輝く薄い板を、虚ろな目で見つめている。彼らが目にしているのは、零コンマ五秒ごとに切り替わる、原色の閃光と鼓動のような低音。超短尺動画。それが彼らの世界のすべて。

 

 

 

 

 

 


十三歳の少年、リクもその一人。彼の指先は、思考よりも速く画面を弾く。

 

 

 

 

 

 


「次、次、次……」

 

 

 

 

 


脳が求めるのは、刺激の純度だけ。物語の前後関係も、登場人物の葛藤も必要ない。ただ、崖から落ちる瞬間、誰かが叫ぶ顔、一瞬だけ映る派手なダンス。それらが断片的に脳へ突き刺されば、それで満足。そんなリクの様子を、祖父の源造は苦々しく見守っていた。源造は、この街で最後の一軒となった、古い貸本屋を営んでいる。店の奥には、何千冊という「マンガ」や「本」が眠っている。

 

 

 

 

 

 


「リク、たまにはこの本を読んでみろ。お前のお父さんも、子供の頃はこれに夢中だったんだぞ!」

 

 

 

 

 

 


源造が差し出したのは、黄色く変色した分厚い一冊のマンガだった。タイトルには力強い書体で文字が並んでいるが、リクにはそれがただの模様にしか見えない。

 

 

 

 

 

 


「なに、これ。動かないの?」

 

 

 

 

 


リクはまるで気味の悪いものを見るような目でマンガを見た。

 

 

 

 

 


「動かないさ。だが、お前の目がこの上を走れば、心の中で動き出すんだ!」

 

 

 

 

 


源造の言葉を鼻で笑い、リクはしぶしぶマンガを受け取った。重い。指先で画面をなぞるだけの生活において、紙の束という「質量」は、それだけで苦行のように感じられた。リクは自室に戻り、ベッドの上にそのマンガを広げてみた。

 

 

 

 

 


一ページ目。そこには、複数の四角い枠が並んでいた。いわゆる「コマ」だ。リクは、画面を見る時のように、そのページをじっと見つめた。しかし、何も起きない。絵は止まったまま。爆発音も、短い音楽も流れてはこない。

 

 

 

 

 

 


「……意味がわからないよ」

 

 

 

 

 


リクは混乱した。彼の脳は、一箇所を三秒以上見つめることができないように作り変えられていた。視線が右上から左下へと流れるというルールを、彼の細胞は拒絶していた。コマの中に描かれた少年の叫び顔、次のコマで振り上げられた拳、その次のコマで飛び散る火花。リクにとって、それらは「繋がった物語」ではなく、単なる「バラバラの死んだ絵」の羅列に過ぎなかった。

 

 

 

 

 

 


「なんで、この絵の次がこれなの? 間の動きが抜けてるじゃん…」

 

 

 

 

 

 


リクは苛立ったまま、ついにマンガを床に放り出した。行間を読み、余白を想像し、止まっている絵に自分の脳で命を吹き込む。そのような認知能力は、零コンマ五秒の刺激に慣らされてしまった彼の世代からは、完全に失われていた。翌日、学校の休み時間。リクは友人のタクトにその話をしてみた。

 

 

 

 

 

 


「昨日、じいちゃんにマンガっていうのを渡されたんだけどさ。あれ、バグってるよ。絵が止まってるし、どこから見ればいいのか全然わからないんだ…」

 

 

 

 

 

 


タクトは頷いた。

 

 

 

 

 

 


「ああ、あれね。僕も親に無理やり見せられたことあるよ。でも、視線が迷子になるっていうか、目が滑るんだよね。三コマ目くらいで、頭が『もういいよ』ってシャットダウンする感じ…」

 

 

 

 

 

 


子供たちは、マンガを読めなくなっていた。彼らの視覚システムは、流れてくる情報を「受動的に浴びる」ことだけに特化し、「能動的に読み取る」という機能を退化させていた。文字を追う、絵の連続性を理解する。そんな「読解」という行為は、彼らにとって、石器で火を起こすのと同じくらい時代遅れで、無駄な労力にしか思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第二章:消失した文脈(コンテクスト)

 

 

 

 

 

 


ある日源造は、リクを店の奥に呼び出した。

 

 

 

 

 

 


「リク、お前がマンガを読めないのは、お前が悪いんじゃない。この時代の空気が、お前の目を『動画の奴隷』にしてしまったんだ…」

 

 

 

 

 

 


源造は、古いプロジェクターを引っ張り出してきた。

 

 

 

 

 


「いいか、リハビリだ。一コマだけを見るんだ。そこにある情報を、ゆっくりと吸い込んでみろ!」

 

 

 

 

 

 


スクリーンに、一人の少女が雨の中で立ち尽くしている絵が映し出された。

 

 

 

 

 

 


「……なに。これだけ?」

 

 

 

 

 


「そうだ。この女の子は何を考えていると思う? 雨の音はどんな音だ? 服が濡れている感触は?」

 

 

 

 

 


リクは戸惑った。これまで見てきた動画では、悲しいシーンには悲しい音楽が流れ、少女は必ず何かしらを叫んでいた。答えはすべて画面の中に用意されていた。

 

 

 

 

 

 


「わかんない。だって、何も言ってないもん、この子…」

 

 

 

 

 

 


「想像するんだ、リク。お前の頭の中に、お前だけの音を鳴らしてみろ!」

 

 

 

 

 

 


源造のリハビリは、過酷な訓練のようだった。リクは必死に絵を凝視した。一分、二分。次第に、静止画であるはずの絵から、微かな「気配」が立ち上り始めた。

 

 

 

 

 


「……雨が、冷たい気がする。この子は、誰かを待ってるのかな…」

 

 

 

 

 

 


「そうだ、それでいい…」

 

 

 

 

 

 


源造は嬉しそうに目を細めた。しかし、その「リハビリ」の成果は、現実の学校生活では逆効果となった。授業中、教科書の一枚の挿絵に深く入り込んでしまったリクは、先生の言葉も、チャイムの音も聞こえなくなってしまった。彼の脳が、一つの静止画から膨大な情報を読み取ろうとして、極端なオーバーヒートを起こしてしまった。

 

 

 

 

 

 


「リクくん、君は最近、ぼーっとしていることが多いね。動画中毒ならまだしも、静止画をずっと見つめているなんて…」

 

 

 

 

 

 


担任の言葉に、クラスメイトたちがクスクスと笑った。

 

 

 

 

 

「静止画マニア!」

 

 

 

 

 

「一コマのリク!」

 

 

 

 

 

 


クラスメイトたちにとって、情報は「速さ」こそが正義だった。一秒間に数十回のカットが切り替わる動画を、倍速で視聴し、情報を「摂取」する。リクのように、一枚の絵の前で足を止めるのは、進化の過程で捨て去るべき「停滞」でしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 


「じいちゃん、もうやめる!マンガを読めるようになったって、学校じゃ変な人扱いされるだけだから!」

 

 

 

 

 


リクは源造に訴えた。

 

 

 

 

 

 


「リク、お前は気づいていない。情報を浴びるだけの連中は、自分で考える力を奪われているんだ。クラスメイトの子たちは、誰かが作った物語のレールの上を滑っているだけだ。だが、マンガを読める者は、自分の意志で物語を動かすことができる。それは、世界を支配する力だ!」

 

 

 

 

 

 


源造の言葉は、リクの心には届かなかった。彼は、みんなと同じように、流れる光の海に帰りたいと願った。しかし、一度「静止画の深み」を知ってしまったリクの目は、もはや以前のように、思考停止して動画を眺めることができなくなっていた。動画を見ても、「なぜこのカットの次がこれなのか?」「この編集者の意図は何なのか?」という雑念が入り込み、純粋な刺激を楽しめなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 


リクは、どちらの世界にも属せない、視覚の迷子になっていた。マンガを読めない子供たちの中で、一人だけ「読もうとして、挫折した」少年。リクの脳内で、マンガのコマ割りという「ルール」と、動画のカット割りという「本能」が、激しく衝突を繰り返していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:コマの間に潜む怪物

 

 

 

 

 

 


その頃、街で、奇妙な病が流行り始めた。

 

 

 

 

 

 


「空白恐怖症(ホワイト・パニック)」。

 

 

 

 

 

 


動画の読み込みが遅れたり、画面が一時停止しただけで、激しい動悸や眩暈を訴える子供たちが続出し出した。彼らの脳は、常に情報のシャワーを浴びていなければ、自分の存在を維持できないほどに脆弱になっていた。何もない「空白」の時間に、自らの思考で何かを補完することが、耐えがたい苦痛となっていた。

 

 

 

 

 

 

 


「助けて……何も流れてこない……世界が止まっちゃった……!」

 

 

 

 

 


タクトもその病に倒れた。彼は真っ暗になったスマホの画面を抱きしめ、部屋の隅で震えていた。リクはタクトの家を訪ね、あの一冊のマンガを差し出した。

 

 

 

 

 

 


「タクト、これを見て。動かなくても、ここに物語があるよ…」

 

 

 

 

 


リクは、源造に教わった通り、コマの追い方を丁寧に説明した。

 

 

 

 

 


「まず、ここを見る。次は左。そして下。この隙間には、タクトが好きなだけ時間をかけていいんだ…」

 

 

 

 

 

 


タクトは恐る恐るページをなぞった。

 

 

 

 

 

 


「あ……あ……」

 

 

 

 

 

 


しかし、タクトの目は、コマとコマの間の「白い隙間」に釘付けになった。

 

 

 

 

 

 


「この……白いところ。ここには、何があるの?」

 

 

 

 

 

 


「ここには、何も描いていない。だから、タクトが埋めるんだよ。少年が拳を振り上げてから、敵に当たるまでの時間を!」

 

 

 

 

 

 


「埋める……? 僕が……?」

 

 

 

 

 

 


タクトの顔が、恐怖に引きつった。

 

 

 

 

 


「無理だ! そんなの、怖すぎる! 何もない場所を、自分が埋めるなんて……! そこから何が出てくるかわからないじゃないか!」

 

 

 

 

 


タクトはマンガを放り出し、激しく嘔吐した。現代の子供たちにとって、作者が提示しなかった「空白」は、自由な想像力の遊び場ではなく、底知れない「虚無の穴」に見えていた。答えが用意されていない場所。自分で決定しなければならない瞬間。それは、彼らにとって、自分を飲み込もうとする怪物の口と同じだった。

 

 

 

 

 

 



マンガが読めないというのは、単なる技術の問題ではなかったのだ。「自分」という存在の核を失い、外部からの刺激に依存しきった結果、人間が本来持っていた「内なる宇宙」が枯れ果ててしまった証拠。
源造が守ろうとしていたのは、単なる娯楽ではなかった。

 

 

 

 

 

 


その夜、リクは源造の店に向かった。店に入ると、源造は暗いカウンターで、一冊のマンガを読んでいた。

 

 

 

 

 


「じいちゃん、タクトはダメだった。みんな、空白を怖がってる。自分の頭で考えることを嫌ってるんだ…」

 

 

 

 

 

 



「リク……。一つ、お前に見せておかなければならないものがある…」

 

 

 

 

 

 


源造は、店の最奥にある、厳重に鍵がかけられた扉を開けた。そこには、棚一杯に並んだ、真っ白な表紙のマンガがあった。

 

 

 

 

 

 


「これは、何なの?」

 

 

 

 

 

 


「かつて、マンガが自由に読めなくなった時代に、たくさんの漫画家たちが絶望して描き上げた『最後の一冊』だ。タイトルはない…」

 

 

 

 

 


リクがその中の一冊を手に取り、ページをめくった。そこには、コマ割りだけが描かれていた。絵も、文字も、一切ない。ただ、四角い枠が、配置されているだけ。

 

 

 

 

 

 


 
「これを、読めというの?」

 

 

 

 

 


「読めるか、リク。この空白の中に、お前の人生を、お前の恐怖を、お前の希望を、描き込むことができるか?」

 

 

 

 

 

 


リクはその真っ白なコマを見つめた。最初は、ただの白い紙だった。しかし、凝視し続けるうちに、その枠の中に、自分の顔が見えてきた。泣いている自分。笑っている自分。そして、無表情に画面を見つめている自分。カイの脳内で、止まっていた回路が、凄まじい熱を持って回転し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:一コマの神、動画の死

 

 

 

 

 

 

 


リクは、しばらく学校を休んだ。源造の店の奥に籠もり、あの日見せられた「空白のマンガ」を読み続けた。ただ読みながら、頭で描き続けていた。リクの視力は急激に衰え出し、代わりに「心の目」が異常なまでに発達していった。そして、一コマを見るだけで、その中に広がる数万年の歴史や、何千人もの人々の叫びを感じ取ることができるようになっていた。

 

 

 

 

 

 


一方で、街の様子は悪化していった。政府は「空白恐怖症」の対策として、街中のあらゆる壁面、床、天井に、二十四時間絶え間なく動画を流すことを決定した。

 

 

 

 

 

 


「静止画禁止法」…

 

 

 

 

 

 


人々が思考に陥り、パニックを起こさないよう、視界からあらゆる「止まったもの」を排除する狂気の法律だった。ポスターも、看板も、すべてが液晶ディスプレイに置き換わった。本を読むという行為は、公序良俗を乱す非行として、厳しく取り締まられていった。

 

 

 

 

 

 


「開けろ! この店にある本やマンガをすべて没収する!」

 

 

 

 

 


ついに、当局の捜査官たちが貸本屋へと踏み込んできた。源造は抵抗することなく、静かに目を閉じた。

 

 

 

 

 


「無駄だ。すでに一人の少年が、この店にあるすべての物語を『読み終えた』。本そのものを焼いても、彼の脳から物語を消すことはできん…」

 

 

 

 

 

 


捜査官たちは、源造を突き飛ばし、棚にある本やマンガを次々と床に叩き落としていった。そして、店の奥で「空白の本」を見つめたまま微動だにしないリクを見つけた。

 

 

 

 

 

 


「おい、君。何を見てる!」

 

 

 

 

 

 


捜査官がリクの肩を揺さぶった。しかし、リクの体は、彫刻のように硬直していた。彼の視線は、真っ白なページの一点に固定されている。

 

 

 

 

 

 

 


「おい、返事をしないか!」

 

 

 

 

 

 


捜査官がリクの顔を覗き込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ギャァァァ…」

 

 

 

 

 

 

 


リクの瞳の中に、無数のマンガのコマが、超高速で回転していた。それは動画ではなく、膨大な情報の断片が、互いに結びつき、爆発的なエネルギーを持って渦巻いている、知性の嵐だった。リクの脳は、マンガという形式を通じて、全人類の記憶を「再構築」していた。

 

 

 

 

 

 


「ど、どうなってるんだ!? 」

 

 

 

 

 


 
その時、リクがゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 

 

 


「……読める。ボク全部、読めるよ…」

 

 

 

 

 

 


 
「動画の中に逃げた人たちの、寂しさ。空白を埋められなかった人たちの、絶望。すべてが、この一コマの中に描いてあるんだ…」

 

 

 

 

 

 


リクが指を鳴らした。

 

 

 

 

 


その瞬間、店中のマンガや本のページが、一斉に勝手にめくれ始めた。バサバサバサという、巨大な鳥の羽ばたきのような音が、街中に響き渡った。

 

 

 

 

 


 
「やめろ! 情報を勝手に動かすな!」

 

 

 

 

 

 


 
リクは、真っ白な本を抱えて立ち上がった。その目には、現実の街の景色は映っていない。代わりに、無限に広がるマンガのコマ割りが、世界の骨組みとして見えていた。ビルも、道路も、空も、すべては四角い枠の中に配置された記号。

 

 

 

 

 

 


「じいちゃん、行こう。みんなに、読み方を教えてあげなくちゃ…」

 

 

 

 

 

 


 
逃げ場を失った動画の中のキャラクターたちが、止まった画面の中で、助けを求めるようにリクを見つめている。街は、急速に沈黙へと沈んでいった。動画という「動く嘘」が剥ぎ取られ、剥き出しになったままの静止画の世界。それは、死後の世界のように冷たく、そして鏡のように真実を映し出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:読み終えることのない物語

 

 

 

 

 

 

 


それから数ヶ月。街は、奇妙な静寂に支配されていた。かつての賑やかな動画広告は、すべて「停止」したまま人々は、街中に溢れる「止まった絵」を、恐る恐るでも見つめるようになった。人々はもう、スマホを弾くことをしなかった。ただ、動かない画面の前で立ち尽くし、そこに何が描かれているのかを、自分の頭で考えようとする世界。

 

 

 

 

 


 
しかし、それは再生の始まりではなかった。もっと恐ろしい、何かの始まりを予感させた。リクは、街の中央にある巨大な電波塔の頂上に座っていた。彼の周りには、真っ白なマンガのページが、雪のように舞っている。彼の体は、もはや人間のそれとは異なっていた。皮膚の表面には、細いインクの線のような模様が浮き出し、まるで全身が「マンガの原稿」のようになりつつあった。

 

 

 

 

 

 


「リク……。もういい。もう休みなさい…」

 

 

 

 

 

 


塔の下から、源造が言った。しかし、リクには届かない。リクは今、この世界そのものを一冊の「マンガ」として編集しようとしていた。彼が、指差せば、その瞬間、その区画にいた人々の動きが、コマ割りの枠の中に次々と閉じ込められていく。

 

 

 

 

 

 

 


彼らは生きている。しかし、一秒間に一ミリも動くことができない。彼らの感情は、頭上に浮かぶ大きな「吹き出し」の中に、文字として強制的に書き出されていった。

 

 

 

 

 

 


「これで、誰も迷わなくて済むね…」

 

 

 

 

 


リクの口から、どす黒いインクが溢れ出した。

 

 

 

 

 

 


「空白は、僕が埋めてあげるからね。みんな、僕が描いたコマの中で、永遠に幸せになればいいんだよ…」

 

 

 

 

 

 


 
街全体が、巨大なコミックスへと変貌していく。空には、太陽の代わりに「集中線」が引かれ、海はスクリーントーンの網点となって平坦に固まった。人々は、自分の人生が「右上から左下へ」流れる、あらかじめ決められた一コマのパーツであることを悟ったのだろうか。もはや、自分の意志で腕を動かすことも、言葉を発することもできないのだから。

 

 

 

 

 

 


彼らに許されたのは、自分を外側から眺めている「読者」であるリクの視線を、ただじっと待つことだけだった。タクトもまた、一コマの中にいた。彼は、自室で恐怖に顔を歪めた瞬間の姿で、永遠に固定されていた。彼の吹き出しには、ただ一言、こう書かれていた。

 

 

 

 

 

 


『助けて、空白が怖いんだ…』

 

 

 

 

 

 


源造は、自分も一コマの中に閉じ込められつつあるのを感じた。指先一つ一つが、インクの線になっていく。

 

 

 

 

 

 


 「リク……。お前は……マンガを読みすぎてしまった。深淵を見すぎて、自分自身が深淵になってしまったんだな……」

 

 

 

 

 

 


源造の呟きは、真っ白な背景の中に吸い込まれていった。そして、ついにその瞬間が来た。リクは、最後の一ページを開いた。そこには、一コマだけ、大きな枠が描かれている。

 

 

 

 

 


 
「さあ、最後だよ。この世界を、僕が読み終えてあげるね…」

 

 

 

 

 

 


リクは、自分の指を、その空白の枠の中へと差し込んだ。
 
 

 

 

 

 

 


……数分後、あるいは数世紀後。そこは、どこか別の場所、そして別の時代。一人の少女が、古びた倉庫で、一冊の本を拾い上げた。表紙には何も書かれていない。少女が興味本位でその本をめくると、そこには、白黒の絵で埋め尽くされた奇妙な街の様子が描かれていた。

 

 

 

 

 

 


 
少女は一ページ目の、最初のコマに目をやった。そこには、一人の少年が、こちらをじっと見つめている絵があった。少女は、その少年の目が、わずかに動いたような気がして、思わず本を閉じた。

 

 

 

 

 

 


 
「……気のせいよね…」

 

 

 

 

 

 


 
 

 

SCENE#347    雨に降られるその前に Wash Before the Rain: A Car Wash Comedy

第一章:晴天の死神と、不穏なオフ会

 

 

 

 

 


思えばその日は、残酷なまでの快晴であったと言える。空は吸い込まれるようなコバルトブルーに染まり、風は心地よく、日差しは初夏を予感させる輝きを放っていた。気象庁の予報によれば、降水確率は午前、午後ともに〇パーセント。湿度も低く、洗濯物を干すにはこれ以上ない絶好のコンディションだった。

 

 

 

 

 

 


しかし、郊外にあるコイン洗車場「クリーン・シャワー」に集まった五人の男たちは、まるで処刑台へ向かう囚人のような、暗く淀んだ目をして互いを見つめ合っていた。

 

 

 

 

 

 


「……皆さん、揃いましたね…」

 

 

 

 

 

 


中央に立つ男、佐藤が重々しく口を開く。彼は広告代理店に勤める三十五歳。一見、仕事の出来そうなエリート風の風貌だが、その実体は「洗車をした瞬間に、予報にない局地的豪雨を召喚する」という特殊体質の持ち主、通称『レイン・メーカー佐藤』である。

 

 

 

 

 

 


そんな彼の周囲を囲むのは、SNSの掲示板『雨男たちの慟哭』を通じて集まった、選りすぐりの精鋭たち。

 

 

 

 

 


まず、一人目は、田中。自称「二十年間、一度も洗車後の乾燥に成功したことがない男」。彼がワックスを塗り始めた途端に、冬でも雷が鳴り響くという伝説を持つ。

 

 

 

 


続いて二人目は、鈴木。彼はさらに深刻で、自分が洗車機に車を突っ込んだ瞬間に、近隣の河川が氾濫した経験があるという。もはや雨男を越えた「天災男」。

 

 

 

 

 


そして三人目は、若手の高橋。彼は愛車を磨くと、たとえ砂漠の真ん中であっても砂嵐の後に雨が降ると豪語する、期待の新星。

 

 

 

 

 


最後の四人目は、最年長の渡辺。彼は穏やかな隠居生活を送っているが、その正体は「彼がバケツに水を汲んだだけで、その地区に大雨洪水警報が発令される」という、歩く気象爆弾であった。

 

 

 

 

 

 


「今日の目的は一つ。この完璧な晴天の下、我々五人が一斉に車を洗う。そして、雨を降らせることなく、全員がワックス掛けまで完璧に完了させ、乾燥状態で自宅に帰り着くこと。これが我々の掲げる『アンチ・レイン・プロジェクト』、通称『ARP』の最終目標です!」

 

 

 

 

 

 


佐藤の演説に、男たちは無言で頷く。通常、雨男は孤独な存在である。洗車をしては降られ、磨いては汚され、世間からは「たまたまだよ!」と笑われる。しかし、彼らは知っているのだ。それが偶然などではないことを。天が、神が、執拗に彼らの愛車の輝きを嫌っているという事実を。

 

 

 

 

 

 

 


「もし、この五人が同時に洗車をしても雨が降らなければ、我々のジンクスは科学的に打破されたことになる。……逆に、もしこれで降るようなら、我々はもはや、地球規模の気象兵器として自らを認識せねばなりません…」

 

 

 

 

 

 


「佐藤さん、準備はできています。バケツも、スポンジも、最高級の撥水ワックスも!」

 

 

 

 

 

 


田中がシャンプーを取り出した。空は相変わらず、憎らしいほどの青。雲一つない。しかし、渡辺が蛇口をひねろうとした瞬間、遠くの山際で、鳥たちが一斉に飛び立つのが見えた…

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第二章:開戦の号砲、そして一滴の予兆

 

 

 

 

 

 


「作戦開始! 第一段階、水洗い!」

 

 

 

 

 

 


佐藤の号令とともに、五つの高圧洗浄ノズルから一斉に水が噴射された。シュアアアアア! という快音が洗車場に響き渡る。佐藤の愛車は、漆黒のセダン。田中の車は、シルバーのワゴン。鈴木は真っ赤なスポーツカー。高橋は最新のSUV。そして渡辺は、長年連れ添った軽トラック。

 

 

 

 

 

 

 


五台の車が、同時に水を浴びる。通常、これだけの水が一度に使われれば、周囲の湿度は微増する。しかし、彼らの場合は話が別だ。彼らの放水は、大気への挑戦状であり、積乱雲に対する召喚儀式なのだ。

 

 

 

 

 

 


「よし、今のところ空に大きな変化はない!」

 

 

 

 

 

 


高橋が空を仰ぎ見ながら叫んだ。確かに、上空の気圧配置に乱れは見られない。日差しは依然として強く、コンクリートに飛び散った水しぶきを、瞬く間に蒸発させていく。しかし、異変は足元から始まった。洗車場の隅の排水溝のあたりから、なぜか「ケロ、ケロ……」というカエルの合唱が聞こえ始めたのだ。

 

 

 

 

 

 


「佐藤さん、カエルです! こんな街中の洗車場に、どこからともなくアマガエルが集まってきています!」

 

 

 

 

 

 


鈴木が悲鳴のような声を上げた。よく見れば、一匹や二匹どころではない。数十匹、いや数百匹のカエルが、どこから這い出してきたのか、洗車場の壁を登り、男たちの足元を埋め尽くそうとしていた。

 

 

 

 

 

 


「みな、落ち着け! これはただの自然現象だ! 我々の放水に惹かれただけだ、続行するんだ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤は自分に言い聞かせるように叫んだ。彼の心臓は早鐘を打っていた。経験上、カエルが鳴くのは、気圧が急激に低下している証拠だ。しかし、手元の気圧計は依然として一〇一三ヘクトパスカル。安定そのものである。

 

 

 

 

 

 


「第二段階、シャンプー洗車開始!」

 

 

 

 

 

 


男たちは必死にスポンジを動かした。泡が車体を包み込み、頑固な汚れを落としていく。

 

 

 

 

 

 


「……待て。なんだ、この匂いは…」

 

 

 

 

 

 


渡辺が鼻をひくつかせる。それは、土の匂いだった。雨が降る直前、乾燥した地面が湿り気を帯びた時に放つ、その独特の香り。

 

 

 

 

 

 


「降っていない。まだ降っていないぞ!」

 

 

 

 

 

 


田中が自分を鼓舞するように叫ぶ。空は青い。太陽は輝いている。しかし、彼らの周囲だけが、まるで異界のように「雨の気配」に満たされていく。その時だった。佐藤の鼻先に、何か冷たい感触が走った。

 

 

 

 

 

 


「……ッ!」

 

 

 

 

 


彼は動きを止めた。空を見上げる。雲はない。太陽は真上にある。それなのに、確かに今、空から一滴の水滴が、ピンポイントで彼の鼻頭を直撃した。

 

 

 

 

 

 


「嘘だろ……。雲一つないんだぞ? これは……これは狐の嫁入りとか、そういうレベルじゃない!」

 

 

 

 

 

 


「佐藤さん、僕のところにも来ました! 一滴だけ、リアウィンドウに!」

 

 

 

 

 

 


高橋が絶望的な声を上げる。それは、空からの雨ではなかった。上空一万メートル、飛行機雲さえ見えない成層圏から、彼らの「執念」に呼応して、大気中の水分が無理やり結晶化し、狙いすましたかのように落下してきた「暗殺の雫」であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:積乱雲、ゼロ秒召喚

 

 

 

 

 

 


「全速力で拭き上げろ! 雨雲が形成される前に終わらせるんだ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤の指示は、もはや悲鳴に近かった。五人の男たちは、洗車後の拭き上げエリアへと車を猛スピードで移動させた。本来なら、洗車は優雅な趣味である。お気に入りのクロスで、水滴を丁寧に拭い去り、愛車のラインを慈しむ。しかし、今の彼らはまるで、爆発寸前の時限爆弾を解体する特殊部隊のような形相で、合成セームを振り回していた。

 

 

 

 

 

 


「おのれ……負けてなるものかあ! 負けるかあああ!」

 

 

 

 

 

 


田中が腰を痛めながら、ワゴンのルーフを拭く。しかし、天は彼らの予想を遥かに超える速度で牙を剥いた。つい五分前まで、一〇〇パーセントの純度を誇っていた青空が、突如として変色し始めたのだ。それも、どこからか雲が流れてきたのではない。彼らが拭き上げている「真上」の空間が、まるで見えない筆で黒いインクをぶちまけたように、急速に暗転し始めたのである。

 

 

 

 

 

 


「そんな馬鹿な……。生成速度が速すぎる! 法則を無視している!」

 

 

 

 

 


佐藤は戦慄した。気象学的に言えば、積乱雲の形成には上昇気流と湿った空気、そして一定の時間が必要なはず。しかし、彼らの頭上に現れたのは、わずか数十秒で真っ黒に膨れ上がった「一点集中型・超局地的積乱雲」であった。そして、その範囲は、驚くべきことに、この洗車場の敷地内から一歩も外へ出ていない。隣の駐車スペースには、依然として穏やかな陽光が降り注いでいるというのに、彼らの上空だけは、世界の終わりを予感させる漆黒の渦が巻いている。

 

 

 

 

 

 


「佐藤さん、雷です! 静電気が……髪の毛が逆立っています!」

 

 

 

 

 


鈴木が叫ぶ。見れば、五人の男たちの髪の毛が、まるでウニのように四方八方へ立ち上がっていた。

 

 

 

 

 

 


バリバリバリッ!

 

 

 

 

 

 


鼓膜を突き破るような爆音が響き、洗車場の看板に落雷が直撃した。

 

 

 

 

 

 


「構うな! 拭け! ワックスを塗れ! ワックスの油膜があれば、雨など弾き返せる!」

 

 

 

 

 

 


佐藤は狂ったように固形ワックスの缶をこじ開けた。運命は残酷だった。彼らがワックスを塗り込もうとしたその瞬間、バケツをひっくり返したような、いや、バケツそのものが空から降ってきたかのような土砂降りが始まった。

 

 

 

 

 

 

 


「あああああ! 俺のワックスがあああ!」

 

 

 

 

 

 

 


高橋が地面に膝をついた。塗りかけのワックスが、叩きつけるような雨水と混ざり合い、白く濁った液体となって車体を流れ落ちていく。雨は、ただの雨ではなかった。なぜか、彼らの車だけを狙い撃ちにするように、斜め四十五度の角度から、執拗にサイドパネルへと叩きつけられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:防水シートの要塞と、暴風の嘲笑

 

 

 

 

 

 


「まだだ! まだ終わっていない! 予備の防水シートを出せ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤はトランクから特大のブルーシートを取り出した。このARP(アンチ・レイン・プロジェクト)のために、彼は特注の「対台風仕様・超厚手シート」を用意していた。五人の男たちは、雨の中で一致団結した。一台の車に対し、二人、三人と協力し、シートを被せていく。雨風に飛ばされないよう、強力な磁石とロープで固定する。

 

 

 

 

 

 


「これで……これなら、車体は濡れない! 雨が止むのを待って、シートの下で拭き直せばいい!」

 

 

 

 

 

 


渡辺が軽トラックの荷台でシートを必死に押さえる。しかし、雨雲は彼らの必死の抵抗をあざ笑うかのように、さらなる進化を遂げた。

 

 

 

 

 

 


風。そう、風だ。

 

 

 

 

 

 

 


どこからともなく、局地的な「竜巻」が発生したのだ。それは洗車場の中心を軸に猛烈に回転し、男たちが必死に固定したブルーシートを、まるでお菓子の包装紙のように軽々と剥ぎ取っていく。

 

 

 

 

 

 


「佐藤さん! シートが……シートが空へ舞い上がっていきます!」

 

 

 

 

 

 


田中が空を指差した。五枚のブルーシートは、竜巻に巻き込まれ、真っ黒な積乱雲の中へと消えていった。そして、その直後。

 

 

 

 

 

 

 


「……え?」

 

 

 

 

 

 


鈴木が呆然と呟いた。空から降ってきたのは、雨ではなかった。氷の塊――「雹(ひょう)」である。
それも、ただの雹ではない。ゴルフボール大の、角ばった、明らかに殺意を孕んだ氷の弾丸が、洗車場を埋め尽くした。

 

 

 

 

 

 


ガキン! ゴツン! バキッ!

 

 

 

 

 

 


愛車のボディに、無情な打撃音が響き渡った。

 

 

 

 

 

 


「ウギャーやめてくれ……! 水で済ませてくれ! 凹む、ボディが凹む!」

 

 

 

 

 

 


高橋が車に覆い被さり、自分の背中で雹を受け止めようとした。

 

 

 

 

 

 

 


「高橋、どけ! 死ぬぞ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤が彼を引き剥がそうとした。しかし、高橋の目は据わっていた。

 

 

 

 

 


「嫌だ……! 絶対に嫌だ!この車は、ローンを組んで、ようやく手に入れたんだ! 雨男だって、綺麗な車に乗りたいんだよおおお!」

 

 

 

 

 

 


その叫びが天に届いたのか。不意に、雹が止まった。雨も、風も、なぜか嘘のように静まり返った。
重苦しい沈黙が洗車場を支配する。

 

 

 

 

 

 

 


「と……止まったのか?」

 

 

 

 

 

 

 


佐藤が恐る恐る顔を上げた。頭上の雲が、急速に割れていく。そこから差し込むのは、先ほどまでよりもさらに強烈な、初夏の陽光。なのに、彼らの目の前に広がっていたのは、凄惨な光景だった。五台の車は、雨に濡れ、塵に汚れ、雹によって無数の小さな凹みを作られ、見るも無惨な姿に変わり果てていた。そして…

 

 

 

 

 

 

 


「……何だ、あれは!」

 

 

 

 

 

 


渡辺が空を指さした。なんと雲の切れ間から、巨大な「虹」が二重に架かっていたのだ。通常なら、希望の象徴であるはずの虹。しかし、その虹は、あろうことか「洗車場を囲むような円形」を描いており、その中央には、はっきりと巨大な『親指を下にしたマーク(低評価)』が形成されているように見えた。

 

 

 

 

 

 

 


天が、明確に彼らを煽っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:塵芥の果ての悟りと、新たな希望

 

 

 

 

 

 


一時間後。洗車場「クリーン・シャワー」には、呆然と佇む五人の男たちの姿があった。彼らの服はズブ濡れで、髪には雹が溶けた水滴が滴り、汚れにまみれている。愛車たちの輝きは、もはや見る影もない。

 

 

 

 

 

 


「……負けた。完敗だ…」

 

 

 

 

 

 


佐藤が力なく呟いた。気象衛星のデータによれば、この一時間、周辺地域で雨を観測したのは、この洗車場の半径五十メートル以内のみ。まさに、ピンポイントの呪いだった。科学も、気象学も、彼らの宿命の前には無力であった。

 

 

 

 

 

 

 


「佐藤さん……」

 

 

 

 

 

 


田中が、汚れのついたスポンジを握りしめながら言った。

 

 

 

 

 

 


「僕、思いました。僕たちは、洗車をしてはいけない存在なんじゃないかって…」

 

 

 

 

 

 


「……そうだな。我々が車を磨くことは、神の逆鱗に触れる行為なんだ…」

 

 

 

 

 

 

 


鈴木も頷く。しかし、最年長の渡辺だけは、違った表情をしていた。彼は塵にまみれた軽トラックのボンネットを、愛おしそうに撫でた。

 

 

 

 

 

 


「なあ、みんな。見てみろよ!」

 

 

 

 

 

 


男たちが視線を向けると、そこには不思議な光景があった。雹によって作られた無数の小さな凹み。そこに日光が当たり、プリズムのように複雑な光を反射している。表面の汚れは、激しい風によって不思議な模様を描き、それはまるで、現代アートのような独特の「質感」を放っていた。

 

 

 

 

 

 

 


「綺麗じゃないか…」

 

 

 

 

 

 


渡辺が静かに言った。

 

 

 

 

 

 


「俺たちは、ピカピカの車に乗りたかった。でも、天は俺たちに、この世界で一台しかない、嵐が描いた『芸術』を授けてくれたんだ。……雨男にしか手に入れられない、傷だらけの勲章だ!」

 

 

 

 

 

 


その言葉に、男たちの胸の奥に、熱いものが込み上げた。

 

 

 

 

 

 


「……勲章、ですか…」

 

 

 

 

 

 


高橋が、自分の背中の痛みを忘れて笑った。

 

 

 

 

 

 


「そうですね。この凹み一つ一つが、僕たちが空と戦った証拠だ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤もまた、セダンの無惨な姿を見て、初めて微笑んだ。

 

 

 

 

 


「アンチ・レイン・プロジェクトは失敗した。だが、我々は確信した。我々は一人じゃない。この空のどこかに、我々の洗車を待ち構えている巨大な『意志』がある。それは、見方を変えれば、世界で最も贅沢な、天とのコミュニケーションじゃないか!」

 

 

 

 

 

 


男たちは、汚れにまみれた愛車に乗り込んだ。エンジンをかける。ワイパーを動かしても、窓の汚い付着物は完全には落ちない。しかし、彼らの心は、朝ここへ来た時よりも遥かに晴れやかだった。

 

 

 

 

 

 

 


「佐藤さん、次はどこへ行きますか?」

 

 

 

 

 


高橋がウィンドウ越しに尋ねた。佐藤はハンドルを握り、真っ直ぐな道を見据えた。

 

 

 

 

 

 


「とりあえず、ファミレスだ。そこで、次の作戦会議をしよう。……今度は、『洗車をせずに、いかに天を騙して雨を降らせるか』という逆転の発想、『プロジェクト・ドライ』だ!」

 

 

 

 

 

 


「いいですね! 僕、ワックスを塗るフリをする練習をしておきますよ!」

 

 

 

 

 

 


田中が明るい声を上げた。五台の、汚れにまみれ凹みだらけの「呪われた」車たちが、夕暮れの道を走り出す。その背後では、再び雲が湧き上がり、彼らの去った後の洗車場に、追い打ちのような激しい夕立を降らせていた。

 

 

 

 

 

 

 

雨男たちの戦いは、まだ始まったばかり。いつの日か、天が彼らに降伏し、一筋の光と完璧な乾燥を授けるその日まで。彼らはこれからも、どこかの洗車場で、バケツ一杯の水に魂を込めて、空への挑戦を試みていく。

 

 

 

 

 

 


 
たとえ空が泣き叫ぼうとも、彼らの情熱が乾くことは、決してないのだ…
 

SCENE#346    あの女に、惚れるな!〜暗殺者のカメレオン・ラブ〜 Don’t Fall for Her: Assassin’s Chameleon Love

第一章:完璧な偶然という名の罠

 

 

 

 

 


その夜、港区の会員制バーは、重厚なジャズの旋律と、芳醇な葉巻の香りに包まれていた。若きエリート外交官、高木誠司(たかぎ・せいじ)は、カウンターの隅で冷えたウイスキーを転がしていた。三十代前半にして次期大使候補と目される彼は、常に理性的で、感情の乱れを見せない男として知られていた。しかし、彼の理性は、一人の女の出現によって音を立てて崩れ去ることになった。

 

 

 

 

 

 

 


「隣、よろしいかしら…」

 

 

 

 

 

 



高木の目に飛び込んできたのは、漆黒のドレスを纏った女だった。名は「絵里(えり)」。彼女の肌は透き通るように白く、大きな瞳は吸い込まれるような深淵を湛えている。そして、何より高木を驚かせたのは、彼女の立ち居振る舞い、言葉の選び方、そして沈黙の置き方が、彼がかつて理想として描いた女性像そのものだったことだ。

 

 

 

 

 

 


「偶然ですね。私もその銘柄が好きなんです…」

 

 

 

 

 

 


絵里が指差したのは、高木が愛飲する希少なシングルモルトだった。会話は滑らかに進んだ。彼女は国際情勢に詳しく、それでいて自分の知性を誇示することはない。高木が最も好む話題を提供し、彼が少し疲れた様子を見せれば、絶妙なタイミングで優しい相槌を打つ。そんな時間が過ぎ二時間後、高木は確信した。これこそが運命だ、と。

 

 

 

 

 

 


しかし、バーの反対側の深い影に隠れるように座っていた一人の男、ベテラン刑事の佐藤(さとう)は、苦虫を噛み潰したような顔でその光景を眺めていた。佐藤は、裏社会で「カメレオン」と恐れられる伝説の暗殺者を十年以上追い続けている男だ。佐藤は席を立ち、トイレに向かう高木の背後を追った。

 

 

 

 

 

 


「高木さん、少し耳を貸せ…」

 

 

 

 

 


手を洗う高木の鏡越しに、佐藤が低い声で囁いた。

 

 

 

 

 

 


「誰だ、あんたは?」

 

 

 

 

 

 


「警察の人間だ。忠告しておく。あの女には、惚れるな!奴はスパイだ!」

 

 

 

 

 


高木は鼻で笑った。

 

 

 

 

 

 


「警察? 嫉妬なら他でやってくれ。彼女は最高に知的な女性ですよ…」

 

 

 

 

 

 


「違う。あれは知的な女性を演じているだけだ。ターゲットの好みを事前に徹底的に調べ上げ、完璧な理想像を作り出す。それが奴の手口だ。あんたの好む酒、音楽、思想……すべては奴が仕組んだ罠だ…」

 

 

 

 

 

 

 


「何言ってるんだ。バカバカしい…」

 

 

 

 

 

 


高木は佐藤を突き放し、洗面所を出た。

 

 

 

 

 

 


「いいか、惚れた瞬間がお前の命日だぞ!」

 

 

 

 

 

 


背後から飛んできた佐藤の警告も、高木の耳には届かなかった。カウンターに戻ると、絵里が少し寂しげな、けれど最高に美しい微笑みで彼を待っていた。

 

 

 

 

 

 


「戻られたのね。少し、風に当たりたくないですか?」

 

 

 

 

 

 


高木は迷わず頷いた。今、地獄への階段を、彼は自らの意志で降り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第二章:理想の仮面の下にある毒

 

 

 

 

 

 


出会いから一ヶ月が過ぎた。高木は仕事以外のすべての時間を絵里に捧げるようになっていた。彼女との時間は、まるで天国にいるかのようだった。彼女は高木が言わんとすることを、言葉にする前に理解した。彼が好きなマイナーなフランス映画を一緒に楽しみ、彼が幼少期に過ごした土地の特産品を隠し味にした料理を振る舞った。

 

 

 

 

 

 


 
「絵里、君のような女性に会えるなんて、僕は世界で一番の幸せ者だと思うよ…」

 

 

 

 

 

 


高木は彼女の細い指を絡めながら言った。絵里は恥じらうように俯き、そっと高木の胸に頭を預けた。

 

 

 

 

 

 


「私もよ、誠司さん。あなたのような素敵な人は、この街にはいないと思っていたわ…」

 

 

 

 

 


 
高木の職務は、極めて機密性の高い外交文書の管理に関わるものだった。最近、東南アジアの資源開発に関する密約を巡り、一部の過激派組織が動いているという情報が入っていた。ある夜、高木が自宅の書斎で仕事を終え、リビングに戻ると、絵里がキッチンで紅茶を淹れていた。

 

 

 

 

 

 


「誠司さん、お疲れ様。熱いお茶を入れたわ…」

 

 

 

 

 

 


彼女が差し出したカップからは、甘い香りが立ち上っていた。

 

 

 

 

 

 


「ありがとう。そういえば、昨日、なぜか書斎のドアが……あ、いや、なんでもない…」

 

 

 

 

 

 


「あら、風かしら。私、あなたの邪魔はしたくないから、書斎には絶対に近づかないようにしているのよ…」

 

 

 

 

 

 


絵里は無邪気に笑った。その笑顔に、高木は自分の疑念を恥じた。彼女がスパイであるはずがない。こんなにも純粋に自分を愛してくれている女性を疑うなんて、自分は冷酷な人間だ、と。しかし、その頃、佐藤刑事は高木のマンションの向かいにある雑居ビルから、高性能の望遠鏡で中を監視していた。

 

 

 

 

 

 


「やはりな……。動きが早すぎる…」

 

 

 

 

 

 


佐藤の横にあるモニターには、特殊なスキャン装置で映し出された絵里の行動が記録されていた。高木がお茶を飲んでいる隙に、彼女は袖口から極小のカメラを取り出し、書斎の机の上に置かれたファイルを一瞬でスキャンしていた。その動きには一切の無駄がなく、流れるような美しささえあった。

 

 

 

 

 

 


「奴はカメレオンだ。相手がロマンチストなら聖女になり、リアリストなら知的な秘書になる。そして、相手が心を開いた瞬間に、致命的な毒を流し込む…」

 

 

 

 

 

 


佐藤は無線機を手に取った。

 

 

 

 

 

 


「こちら佐藤。ターゲットは情報を取得した。これより暗殺に移行する可能性が高い。突入準備を!」

 

 

 

 

 


 
佐藤の懸念を余所に、高木は絵里の淹れた紅茶を飲み干した。

 

 

 

 

 

 


「少し、眠いな……」

 

 

 

 

 


「ええ、ゆっくり休んで。明日も早いのよね…」

 

 

 

 

 

 


絵里が高木の肩に手を置き、寝室へと導いた。その手は驚くほど冷たかった。だが、今の高木には、その冷たささえも心地よい安らぎのように感じられていた。

 

 

 

 

 

 


「愛しているよ、絵里…」

 

 

 

 

 

 


「ええ、私もよ。心から…」

 

 

 

 

 

 

 


彼女の瞳の奥で、冷酷な光が静かに揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:引き裂かれた聖域

 

 

 

 

 

 


翌朝、高木は異常なほど深い眠りから覚めた。隣に絵里の姿はなかった。サイドテーブルには「急な用事ができたの。夕方には戻るわ」という短いメモが置かれていた。高木は重い体を起こし、書斎へ向かった。昨日扱っていた外交文書は、一見、昨夜のままの状態で置かれていた。しかし、長年の外交官生活で培われた彼の直感は、わずかな不自然さを捉えていた。ペーパークリップの向きが、数ミリだけ異なっていた。

 

 

 

 

 

 


「まさか……いや、そんなはずは…」

 

 

 

 

 

 


高木は必死に否定しようとした。その時、マンションのインターホンが激しく鳴った。ドアを開けると、そこには血走った目の佐藤刑事が立っていた。背後には数名の武装した警官たちが控えている。

 

 

 

 

 

 


「高木さん、どけ! あの女はどこだ!」

 

 

 

 

 


「こんなのは、不法侵入だぞ! 彼女は今、外出中だ!」

 

 

 

 

 


佐藤は高木を突き飛ばすようにして中に入り、書斎を調べ始めた。

 

 

 

 

 


「くそっ、手遅れか……。外交文書、見せてみろ。今から、スプレーをかけるぞ!」

 

 

 

 

 


佐藤が懐から取り出したスプレーを重要書類に吹きかけると、紙の表面に青白い光の粒が浮かび上がり出した。

 

 

 

 

 

 


「これは……」

 

 

 

 

 


「極小カメラのレンズから出る特殊な赤外線反射だ。奴は昨夜、これを全部撮り終えている!」

 

 

 

 

 

 


高木の膝から力が抜けた。

 

 

 

 

 


「信じられない……。彼女は、僕と一緒に……」

 

 

 

 

 

 


「思い出してみろ。彼女が君に語った思い出、君の好みにぴったり合った行動。あれは全部、お前を無力化するための道具だ。彼女は君を愛してなどいない。君の職務と、その立場を利用しただけだ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤は高木の肩を強く掴んだ。

 

 

 

 

 


「いいか、彼女の目的は情報だけじゃない。君のような重要人物を殺害し、国を混乱させることだ。彼女が戻ってくるとき、それは君の命を奪うときだ!」

 

 

 

 

 

 


高木は呆然とリビングのソファに座り込んだ。絵里と一緒に選んだクッション。彼女が飾った花瓶。それらすべてが、自分を嘲笑っているかのように見えた。

 

 

 

 

 

 


「嘘だ……すべてが嘘だったというのか…」

 

 

 

 

 

 


「言ったはずだ!奴はカメレオンだと。相手が『愛』を求めていれば、最高品質の愛を提供する。だがそれは、標的を屠るための麻酔に過ぎない!」

 

 

 

 

 

 


 
その時、佐藤の無線機に報告が入った。

 

 

 

 

 

 


「こちら追跡班。絵里と思われる女性を確認。マンションの地下駐車場に侵入しました!」

 

 

 

 

 


「よし、全員配置につけ。高木さん、あなたは奥の部屋に隠れていろ。奴が部屋に入った瞬間に身柄を拘束する!」

 

 

 

 

 


佐藤の指示に、高木は力なく首を振った。

 

 

 

 

 

 


「いや……彼女と話をさせて欲しい。彼女の口から、真実を聞きたい…」

 

 

 

 

 

 


「馬鹿なことを言うな! あなたを殺す気だぞ!」

 

 

 

 

 


「死んでもいい。あんなに完璧な愛をくれた女が、一言も本心を言っていなかったなんて、そんな結末は認められない…」

 

 

 

 

 

 



その瞳には、エリート外交官としての理性ではなく、裏切られた一人の男の無残な執着だけが宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:再会の微笑み、忍び寄る針

 

 

 

 

 

 


部屋の明かりは消されていた。高木はリビングの中央に、一人で座っていた。佐藤刑事たちは隣の部屋やベランダに潜み、息を殺して「カメレオン」の到着を待っている。カチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
 

 

 

 

 

 


「誠司さん? どうしたの、真っ暗じゃないの…」

 

 

 

 

 

 


聞き慣れた、あの優しい声。絵里が部屋に入ってきた。彼女は買い出しの袋を抱え、まるでどこにでもある幸せな彼女のように振る舞っている。

 

 

 

 

 

 


「……おかえり、絵里」

 

 

 

 

 

 


高木が立ち上がり、スイッチを入れた。パッと明かりがついた瞬間、絵里の表情に、一瞬だけ鋭い「何か」が走った。しかし、それはすぐにいつもの穏やかな微笑みに塗り替えられた。

 

 

 

 

 


「どうしたのよ、そんな怖い顔をして。何かあった?」

 

 

 

 

 

 


彼女は買い物袋をキッチンに置き、高木に歩み寄った。

 

 

 

 

 


「絵里……君に聞きたいことがあるんだ…」

 

 

 

 

 

 


「なあに? 夕食の相談かしら。今日はあなたの好きな和食にしようと思って……」

 

 

 

 

 

 


「昨夜、僕の書斎に入っただろう。書類をスキャンしただろう?」

 

 

 

 

 


部屋の空気が一変した。絵里の動きが止まった。彼女の微笑みは崩れなくても、その温度が急速に奪われていくのが、数メートル離れた高木にも分かった。

 

 

 

 

 


 
「……あら。バレちゃったのね…」

 

 

 

 

 

 


彼女の声から、温かさが完全に消えた。それは今まで一度も聞いたことのない、氷のように冷徹な、無機質なトーンだった。

 

 

 

 

 


「絵里、答えてくれ。君の言葉、君の仕草、君の僕への視線……一つでも、本物があったのか?」

 

 

 

 

 

 


高木は叫んだ。絵里はゆっくりと首を傾げた。その仕草は依然として美しい。しかし、今は獲物を観察するカマキリのように見える。

 

 

 

 

 


 
「誠司さん。あなたは本当に優しい人だわ。でも、あなたは『高木誠司』というターゲットでしかなかった。外交官であって、機密を知り、そして何より、孤独で、少しだけ強引な年上の女性に弱いという弱点を持った、ただのターゲット…」

 

 

 

 

 

 


「……全部、嘘だったのか」

 

 

 

 

 


「嘘、という言葉は正しくないわ。私はあなたに、最高の時間を提供した。そして、あなたはそれを堪能した。これは等価交換よ。あなたは幸せを得て、私は情報を得た。それでいいじゃない…」

 

 

 

 

 


 
絵里が静かに一歩、踏み出した。

 

 

 

 

 

 


「動くな! 警察だ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤刑事が部屋に飛び出し、銃を構えた。同時に、ベランダからも捜査員が突入した。

 

 

 

 

 

 

 


「島波絵里、君を逮捕する。抵抗はやめろ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤の叫びに対し、絵里は嘲笑うように口角を上げた。

 

 

 

 

 


「あら、警察の方々。そんなに怖い顔をしないで。私、別に武器なんて持っていないわよ…」

 

 

 

 

 

 


彼女は両手を上げた。

 

 

 

 

 

 


「高木さん、そこから離れろ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤が指示を出した瞬間、絵里の指先が動いた。彼女が耳に飾っていた真珠のイヤリング。それが指先で弾かれ、高木の首筋に向かって飛んだ。

 

 

 

 

 

 


「あ……」

 

 

 

 

 

 


高木は首筋に、小さなチクリとした痛みを感じた。

 

 

 

 

 

 


「しまった! 毒針だ!」

 

 

 

 

 

 

 


佐藤が発砲しようとしたが、絵里はすでにリビングの大きな窓に向かって跳躍していた。

 

 

 

 

 

 

 


「誠司さん、さようなら。あなたの愛、とても美味しかったわ…」

 

 

 

 

 

 

 


彼女は、そのまま窓ガラスを突き破り、夜の闇へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:カメレオンの残響

 

 

 

 

 

 


「高木さん! しっかりしろ!」

 

 

 

 

 

 


佐藤が駆け寄り、倒れ込む高木を支えた。

 

 

 

 

 


「救急車を! 解毒剤の用意をしろ!」

 

 

 

 

 


しかし、高木の顔色は、すでに土色に変わっていた。首筋に刺さったのは、髪の毛よりも細い、特殊な神経毒を塗布した針だった。

 

 

 

 

 

 


「刑事さん……」

 

 

 

 

 

 



「喋るな。すぐに救急車が来る!」

 

 

 

 

 


「彼女は……笑っていた……。最期まで……完璧な……」

 

 

 

 

 

 


高木の視界の中で、天井の明かりが揺れていた。薄れゆく意識の中で、彼は思い出していた。彼女と一緒に歩いた並木道、彼女が歌っていた古いシャンソン、彼女が自分のネクタイを直してくれた時の、あの柔らかな指先。それらがすべて偽物だったとしても、今の彼には、それが人生で唯一の本物だったような気がしていた。

 

 

 

 

 


 
「あの女に……惚れるな……。刑事さんの言った……通りだった……」

 

 

 

 

 


高木は弱々しく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 


「高木さん! 目を開けろ!」

 

 

 

 

 

 


 
 
一時間後。マンションの地下駐車場から、一台のバイクが疾走していった。運転しているのは、先ほどまでの「絵里」とは似ても似つかない、地味な作業着を着たショートカットの女。彼女はヘルメットの中で、静かに優美に鼻歌を歌っている。高木誠司が最も愛した、あのシャンソンのメロディ。

 

 

 

 

 

 

 


 
「ターゲット排除、情報取得完了…」

 

 

 

 

 

 


彼女はインカムに向かって、冷徹な声で報告した。
そこには、高木と過ごした時間の余韻も、彼を殺害したことへの呵責も、塵ほども存在していなかった。

 

 

 

 

 


 
翌朝のニュースで、若き外交官の急死が報じられた。佐藤刑事は、もぬけの殻となった高木の部屋のソファに座り、窓の外を見つめていた。机の上には、高木が絵里へのプロポーズのために用意していたと思われる、小さな指輪のケースが置かれている。

 

 

 

 

 


 
「あんなに言ったのに…」

 

 

 

 

 

 


佐藤は指輪のケースを握りつぶした…

 

 

 

 

 

 


 
世界には、決して愛してはいけない生き物がいるという。人の形をし、人の言葉を話し、人の理想を完璧に演じる「カメレオン」。彼女は今、この時も世界のどこかで、別の誰かの「理想」になりすましているに違いない。次に彼女がターゲットにするのは、これを読んでいる、あなたかもしれない。

 

 

 

 

 

 


 
もし、あなたの前に完璧すぎる理想の恋人が現れたら。もし、その人があなたの好みをすべて知り尽くし、あなたの魂の隙間を完璧に埋めてくれたら…

 

 

 

 

 

 


 
どうか、佐藤の警告を思い出してほしい。

 

 

 

 

 

 


 
「あの女に、惚れるな!」

 

 


 
 
 
 
 
カメレオンのダンスは、まだ始まったばかりなのだ…
 

 

SCENE#345   異世界に転生しても、無職のままだった… Reincarnated Into Another World… Still Unemployed

第一章:トラックの衝撃と、動かないステータス

 

 

 

 

 

 

その日、茂木勉(もぎ・つとむ、五十二歳)は、人生で最も「どうでもいい」瞬間を迎えていた。コンビニの帰り道、手には半額シールの貼られたツナマヨおにぎり。昨夜から何も食べていなかった彼の胃袋は、その塊を待ちわびていた。しかし、横断歩道の真ん中で、信号無視の大型トラックが突っ込んできた時、彼の脳裏に浮かんだのは「あ、おにぎり潰れるな…」という、懸念だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

衝撃!!視界が消えて、浮遊感が体を包んだ。次に目を開けた時、茂木は見たこともない真っ白な空間に立っていた。目の前には、黄金の鎧に身を包んだ絶世の美女が、困惑した表情で、フワフワと浮いている。

 

 

 

 

 

 

 

「迷える魂よ、ようこそ。私は女神リリア。貴方は、今、不運な事故で命を落としました。しかし、貴方には異世界で勇者として転生する権利があります…」

 

 

 

 

 

 

 

女神の声は鈴を転がすように美しかったが、茂木は鼻をほじりながら答えた。

 

 

 

 

 

 

「転生とかいいんで、あのおにぎり、弁償してもらえます?」

 

 

 

 

 

 

「お、おにぎりですって……? 貴方、これから新しい人生が始まるのですよ? 剣と魔法の世界で、魔王を倒し、富と名声を手に入れるのです!」

 

 

 

 

 

 

 

「面倒くさいなあ。働きたくないから、ずっと無職やってるのに。働けってこと?」

 

 

 

 

 

 

 

女神は絶句した。しかし、彼女にはノルマがあった。最近、地球からの転生者が不足しており、この冴えないおじさんでも送り込まなければならない事情があった。

 

 

 

 

 

 

 

「わかりました。では、貴方には特別なギフトを与えます。貴方の性質に基づいた、唯一無二の職業とスキルです。さあ、転生の門へ!」

 

 

 

 

 

 

 

女神が杖を振ると、茂木の足元に魔法陣が現れた。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、待って。おにぎり……」

 

 

 

 

 

 

 

茂木の叫びも虚しく、彼は光の渦に飲み込まれた。気がつくと、茂木は草原の真ん中に倒れていた。空には二つの月があり、遠くには巨大な竜が飛んでいる。典型的なファンタジー世界。

 

 

 

 

 

 

 

「うわっ、本当に来ちゃったよ。おにぎり、結局食べられなかったな…」

 

 

 

 

 

 

 

茂木が立ち上がり、自分の姿を確認すると、服装は元のボロボロのジャージのままだった。そして、目の前に半透明のパネルが現れた。

 

 

 

 

 

 

 

【氏名:茂木勉】

【職業:無職(無敵の人)】

【レベル:1】

【スキル:物理無効・魔法無効・状態異常無効・精神汚染無効】

【攻撃力:0】

【魔力:0】

【説明:失うものが何もない者に与えられた究極の防御職。あらゆる干渉を受け付けないが、自分から世界に影響を与えることもできない。ただそこに存在するだけの概念。】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「無職(無敵の人)って……。異世界に来てまでこれかよ…」

 

 

 

 

 

 

 

茂木はため息をついた。攻撃力がゼロということは、スライム一匹倒せないということ。つまり、経験値も稼げないし、お金も手に入らない。

 

 

 

 

 

 

 

「結局、ここで寝てるしかないってことだな!」

 

 

 

 

 

 

 

彼は迷わず、ふかふかの草原に寝転んだ。空が青い。とても青い。そして、風が心地いい。

 

 

 

 

 

 

「よし、俺の第二の無職生活の始まりだ!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木は目を閉じ、深い眠りに落ちようとした。しかし、その平和はすぐに破られることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章:魔王軍の猛攻と、微動だにしない背中

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、起きろ! こんなところで何をしている!」

 

 

 

 

 

 

 

 

突然、荒々しい声に起こされ、茂木が目を開けると、そこには銀色の鎧を着た騎士の一団がいた。彼らは血の気が引いた顔で、背後の森を指差している。

 

 

 

 

 

 

 

「逃げろ! 魔王軍の先遣隊がすぐそこまで来ている! ここは戦場になるぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、そう。お疲れ様ですね…」

 

 

 

 

 

 

 

茂木はあくびをしながら、寝返りを打った。

 

 

 

 

 

 

 

「ふざけるな! 死ぬぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

騎士が茂木の腕を掴んで引きずろうとした。しかし、その瞬間、騎士の顔が驚愕に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「な、なんと……!? 動かない。ビクともしないぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木のスキル『物理無効』は、単にダメージを受けないだけではない。彼の存在そのものが「動かしがたい不動の概念」と化していた。十人の騎士が総がかりで茂木を持ち上げようとしたが、彼は地球の核に固定されているかのように、一ミリも動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「バケモノか……!? いや、もしかして伝説の『不動の聖者』様では!?」

 

 

 

 

 

 

 

騎士たちが勝手に感動し始めたその時、森の木々をなぎ倒して、巨大な魔獣オーガの群れが現れた。

 

 

 

 

 

 

 

「来たぞ! 魔王軍だ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

騎士たちは剣を抜き、陣を組んだ。しかし、オーガの数は圧倒的だった。先頭のオーガが、丸太のような棍棒を振り下ろす。狙われたのは、まだ地面で寝転んでいる茂木だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドゴォォォォン!

 

 

 

 

 

 

 

 

激しい土煙が舞い上がり、地面が大きく陥没した。騎士たちは絶叫した。

 

 

 

 

 

 

 

「ああ! 聖者様が!」

 

 

 

 

 

 

 

しかし、煙が晴れると、そこには驚くべき光景があった。茂木は、オーガの棍棒の下で、変わらず横向きに寝ていた。ダメージはおろか、ジャージに埃一つついていない。オーガは首を傾げ、もう一度、全力で棍棒を叩きつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドカッ!

 

 

 

 

 

 

 

今度は、オーガの棍棒の方が粉々に砕け散った。茂木の『物理無効』が、衝撃をそのまま反射したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「痛くも痒くもないなあ。ちょっと、静かにしてくれませんかね!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木がようやく起き上がり、オーガを見上げた。オーガは恐怖に目を見開いた。自分の渾身の一撃を無視して、死んだ魚のような目で睨んでくる人間。これこそ、魔王軍が最も恐れる「計り知れない強者」の姿に見えた。

 

 

 

 

 

 

 

「グォォ……!?」

 

 

 

 

 

 

 

「あ、ちょうどいいところに。お兄さん、マッチとか持ってない? さっき落ちてた枯れ葉で焚き火したいんだけど!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木がオーガの足元に歩み寄った。オーガは悲鳴を上げ、全力で逃げ出した。指揮官を失ったオーガの群れも、パニックを起こして森の奥へと敗走していく。

 

 

 

 

 

 

 

「勝った……。戦わずして魔王軍を退けたぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

騎士たちは歓喜の声を上げ、茂木の周りに跪いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「聖者様! 貴方こそ、この国を救う希望の光です! ぜひ、王都へお越しください!」

 

 

 

 

 

 

「いや、歩くの面倒だし…」

 

 

 

 

 

 

 

「ぜひ! 豪華な食事と、ふかふかのベッドを用意いたします!」

 

 

 

 

 

 

 

「食事? ツナマヨおにぎりある?」

 

 

 

 

 

 

 

「お、おにぎり……? まったく存じ上げませんが、最高の料理人を手配します!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木は考えた。王都に行けば、働かずに飯が食えるかもしれないと。それは無職にとっての理想郷。

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし、行くか。ただし、俺は歩かないからな。誰か俺を運んでくれ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

騎士たちは総出で、茂木を乗せるための特大の神輿を突貫工事で作らされることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三章:王都の狂騒と、働かない救世主

 

 

 

 

 

 

 

王都へ到着した茂木は、盛大なパレードで迎えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「彼こそが、魔王軍を一瞥で退けたという不動の英雄か!」

 

 

 

 

 

 

 

「見て、あの虚無を湛えた瞳……! 世俗の欲をすべて捨て去った高潔なお姿だわ!」

 

 

 

 

 

 

市民たちの勝手な解釈が広がる中、茂木は神輿の上で、取れたての鼻クソを丸めて飛ばしていた。彼にとって、この大騒ぎは単なる雑音でしかなかった。

国王は茂木を最高級の賓客として迎え、豪華な晩餐会を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「聖者よ、我が国を救ってくれたことに感謝する。望むものを言ってみよ!」

 

 

 

 

 

 

 

「えーと、まず、このパーティー長すぎるんで終わらせてください。あと、寝室に漫画とかありますかね?」

 

 

 

 

 

 

 

「ま、まんが……? 古文書のことか? もちろん用意させよう!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木は出された最高級の肉料理を頬張ったが、顔をしかめた。

 

 

 

 

 

 

 

「うーん、味が上品すぎるな。もっとこう、ジャンクな感じがいいんだよな。マヨネーズとかないの?」

 

 

 

 

 

 

 

「まよねえず……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

国王も家臣たちも困惑したが、「聖者の言葉には深い意味がある」と深読みし、国中の錬金術師に「マヨネーズ」なる未知の調合品を開発するよう厳命が下った。茂木は王城の一室を与えられ、夢のニート生活を開始した。朝は昼過ぎに起き、豪華な食事を「マヨネーズ(に似た何か)」でベタベタにして食べ、午後は庭園で昼寝をする。

 

 

 

 

 

 

 

「聖者様、本日の公務ですが……」

 

 

 

 

 

 

 

「ないよ、そんなの!」

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ?いやしかし、隣国の王女様がぜひお会いしたいと……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「女とか興味ないし。それより、この枕、もうちょっと低くして!」

 

 

 

 

 

 

 

 

茂木の徹底した「非協力」は、周囲には「一切の権力に屈しない強靭な精神」と映った。しかし、平和な時間は長くは続かなかった。魔王軍が、茂木という脅威を排除するために、四天王の一人「冷酷なる魔術師、ゼノン」を送り込んできたのだ。ある夜、王城の結界を破り、ゼノンが茂木の寝室に侵入した。

 

 

 

 

 

 

 

「ククク……。お前が噂の不動の聖者か。無防備に眠っているとは、舐められたものだ…」

 

 

 

 

 

 

 

ゼノンは最高位の破壊魔法『獄炎の審判』を唱えた。部屋全体が太陽のような熱量に包まれ、石造りの壁がドロドロに溶け出した。

 

 

 

 

 

 

 

が、しかし!

 

 

 

 

 

 

 

茂木は寝間着姿のまま、グーグーと高いイビキをかいていた。『魔法無効』スキルの前では、地獄の業火もただの「ちょうどいい暖房」でしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「な、なんと……!? 私の最大魔法を、眠りながら無効化したというのか!? バカな、どんな魔力耐性を持っていれば……!」

 

 

 

 

 

 

 

ゼノンは驚愕し、次々と呪い、氷結、真空、精神崩壊の魔法を叩きつけた。しかし、茂木のイビキのリズムは一ミリも乱れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、おい……。起きろ! 戦え! 私と戦うんだ!私を無視するな!」

 

 

 

 

 

 

 

ゼノンはついに茂木の枕元に駆け寄り、彼の肩を揺さぶった。

 

 

 

 

 

 

 

「……んあ? 誰? 泥棒?」

 

 

 

 

 

 

 

茂木が半分だけ目を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

「私は魔王軍四天王、ゼノンだ! 貴様を殺しに来た!」

 

 

 

 

 

 

 

「四天王……? ああ、なんか強そうな名前だね。でも今、眠いから。明日十時くらいに出直してきて…」

 

 

 

 

 

 

 

「ふざけんな! 今すぐ死ね!」

 

 

 

 

 

 

 

ゼノンが茂木の首を絞めようとした。しかし、茂木の首はダイヤモンドよりも硬く、逆にゼノンの指の骨がメキメキと音を立てて折れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「アァァァァ! 私の指が!」

 

 

 

 

 

 

 

「あんた、うるさいなあ。ほら、これあげるから帰って!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木は枕元に置いてあった「食べかけの干し肉」をゼノンの口の中に押し込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「モグ……。な、なんだこれは……。なんて野性的で、暴力的な旨味だ……。これが、聖者の与える慈悲の糧なのか……!」

 

 

 

 

 

 

 

ゼノンは涙を流して崩れ落ちた。自分を歯牙にもかけず、未知の食文化で圧倒する聖者の器。

 

 

 

 

 

 

 

「私は……負けた。貴方の足元にも及ばない……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼノンはその夜、魔王軍をそそくさと脱退し、王都の裏通りで「干し肉専門店」を開業することを決意した。茂木のニート生活は、期せずして魔王軍の戦力を削ぎ続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第四章:勇者パーティーの勧誘と、絶対拒否の精神

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼノンの敗退は、魔王軍に激震を走らせた。同時に、人間側では茂木を「伝説の勇者」として魔王城に送り込もうという機運が高まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「聖者様、真の勇者パーティーが結成されました! 貴方をリーダーとして迎えたいのです!」

 

 

 

 

 

 

 

 

国王が連れてきたのは、王国一の剣士、魔導士、そして美しき聖女の三人だった。彼らは皆、茂木を尊敬の眼差しで見つめている。

 

 

 

 

 

 

 

「茂木様、貴方の盾があれば、魔王の攻撃すら防げるでしょう。世界に平和を取り戻すため、共に行きましょう!」

 

 

 

 

 

 

 

聖女が手を取り、熱心に訴えかけた。

 

 

 

 

 

 

 

「いや、無理。絶対無理!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木は即答した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぜですか!? 貴方の力があれば、救える命が山ほどあるのですよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのさ、魔王城って遠いんじゃない? 何日歩くのさ。野宿とか無理だから。風呂ないし。Wi-Fi飛んでないし!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「わいふぁい……? とにかく、移動は馬車を用意します!」

 

 

 

 

 

 

 

「馬車って揺れるじゃん。酔うんだよね。あと、魔王と戦うとか危ないじゃん。俺、攻撃力ゼロなんだよ? 一発も殴れないよ?」

 

 

 

 

 

 

 

「貴方は立っているだけでいいのです! 我々が敵を殲滅します!」

 

 

 

 

 

 

 

押し問答の末、茂木は国王から「もし断るなら、この豪華な生活を即刻打ち切り、元の草原に放り出す」という最後通告を突きつけられた。

 

 

 

 

 

 

 

「……ちっ。これだから公務員は。わかったよ、行けばいいんだろ、行・け・ば」

 

 

 

 

 

 

 

 

こうして、史上最もやる気のない勇者パーティーが結成された。旅の道中、一行は何度も魔物の襲撃を受けた。

 

 

 

 

 

 

 

「茂木様! 前方から翼の生えたドラゴンが!」

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、そう。俺、今これ読んでるから…」

 

 

 

 

 

 

 

茂木は、王宮の書庫から持ってきた「エロい挿絵付きの古文書」を読みふけっている。ドラゴンが灼熱のブレスを吐く。パーティーの仲間たちは必死に防御魔法を展開するが、全然間に合わない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぐわぁぁ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

直撃を受けた茂木は……煙の中から、本を片手に無傷で現れた。

 

 

 

 

 

 

「ちょっと、ページが捲れちゃったじゃないか。風圧考えてよ!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木がトボトボとドラゴンの前まで歩いていく。ドラゴンは恐怖を感じ、後ずさりした。茂木はそのままドラゴンの足元に座り込み、本の続きを読み始めた。ドラゴンは、自分の最強の攻撃を無視して読書を続ける人間に、精神を完全に破壊されてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「グ、ゲコ……(俺の存在って何なんだ……?)」

 

 

 

 

 

 

 

ドラゴンは失意のまま空へ飛び去り、二度と人里に現れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「さすが茂木様! 一切の殺気を出さずに敵を心折るとは!」

 

 

 

 

 

 

 

 

仲間たちは勘違いをさらに深めていった。しかし、茂木の内心はこうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

(早く魔王倒して帰りたい。冷房の効いた部屋で寝たい。っていうか、そろそろマヨネーズ切れそうなんだけど…)

 

 

 

 

 

 

 

彼は、魔王を倒せば「永遠の無職生活」が保障されるという国王の約束だけを糧に、重い腰を(実際には馬車に乗っているだけだが)動かし続けた。ついに一行は、禍々しい雲に覆われた魔王城の城門に到着した。そこに門番の巨大なゴーレムが立ち塞がる。

 

 

 

 

 

 

 

「侵入者よ、ここを通るには……」

 

 

 

 

 

 

 

「邪魔。どいて!」

 

 

 

 

 

 

 

 

茂木はゴーレムに肩をぶつけるようにして歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

ドゴォォン!

 

 

 

 

 

 

 

 

衝撃を受けたのはゴーレムの方だった。茂木の『物理無効』は、歩く際の「慣性」すらも絶対的な力に変換する。茂木が普通に歩いているだけで、巨大なゴーレムは紙屑のように吹き飛び、城門は木っ端微塵に粉砕された。

 

 

 

 

 

 

 

「……あれ? なんか壊れちゃった。弁償しろって言われたら、王様のせいにして逃げよう…」

 

 

 

 

 

 

 

 

茂木は無表情のまま、魔王の玉座へと続く階段を登り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第五章:魔王の絶望と、最高のツナマヨ

 

 

 

 

 

 

 

魔王城の最深部。玉座には、黒いマントを羽織った魔王が傲然と座っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「よく来た、勇者一行よ。我が四天王を破り、ここまで辿り着いた勇気に免じて、一つだけ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「長い!」

 

 

 

 

 

 

 

茂木は魔王の口上を遮った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「は……?」

 

 

 

 

 

 

 

「お前の話、長いよ。どいつもこいつも、喋りすぎるなあ。いいから、サクッと終わらせよう。俺、帰って昼寝したいんだわ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

茂木はズカズカと歩み寄り、魔王の目の前で立ち止まった。仲間たちは背後で「し、茂木様! まだ聖なる加護の呪文が!」と叫んでいるが、茂木は無視した。

 

 

 

 

 

 

 

「貴様……。この私を愚弄するか! 死を以て償え!」

 

 

 

 

 

 

 

魔王が玉座から立ち上がり、終焉の魔法『カオス・エンド』を放った。世界が崩壊するほどの闇の力が茂木を包み込む。

 

 

 

 

 

 

 

だが…茂木は鼻をほじりながら、闇の中であくびをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「あー、それ、ちょっと肩に当たる感じが気持ちいいね。もう少し左の方もお願いできる?」

 

 

 

 

 

 

 

「な、ななな……何だとぉ!? 全宇宙を滅ぼす闇が、マッサージ代わりだと!?」

 

 

 

 

 

 

 

魔王は狂ったように連撃を繰り出した。斬撃、爆破、次元の裂け目。しかし、茂木のジャズのリズムのようなイビキが、静かな玉座の間に響き始める。

 

 

 

 

 

 

 

「……眠っちゃった……!? この私の目の前で、寝ているのか!?」

 

 

 

 

 

 

 

魔王はこれまでの人生で味わったことのない屈辱と、底知れない恐怖に震え出した。

 

 

 

 

 

 

 

「こ、こいつは人間ではない……。意志そのものが、この世界の法則を拒絶している……! 戦うこと自体が、無意味だとでもいうのか……!」

 

 

 

 

 

 

 

魔王は剣を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

「私は……何のために世界を支配しようとしていたのだ。こんな、たった一人の『無職』にすら干渉できないというのに……」

 

 

 

 

 

 

 

魔王は玉座を降り、膝を突いた。

 

 

 

 

 

 

 

「負けだ……。我が魔王軍は今日にて解散する。好きなようにするがいい…」

 

 

 

 

 

 

 

「……ん? 終わった?」

 

 

 

 

 

 

 

茂木が目をこすりながら起き上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ。お前、降参するのね。じゃあ、これ約束な。二度と人間に手を出さないこと。あと、美味しいもの用意しろ!」

 

 

 

 

 

 

 

「ははっ……。仰せのままに、聖者様!」

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後。王都に戻った茂木は、国民から「神」として崇められていた。国王は約束通り、茂木に生涯の不労所得と、王宮の一翼を自由に使う権利を与えた。そして、茂木にとって最大の報酬が届けられた。国中の錬金術師と料理人が、茂木の曖昧な記憶を頼りに再現した、究極の逸品。

 

 

 

 

 

 

 

 

「茂木様、これが……『ツナマヨおにぎり』でございます!」

 

 

 

 

 

 

 

 

差し出されたのは、最高級の米と、未知の深海魚の身を特製マヨネーズで和えた、宝石のようなおにぎりだった。茂木はそれを一口食べた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うまい……これだよ。これ。これのために、俺は世界を救ったんだ!」

 

 

 

 

 

 

 

その後、茂木は「何もしない英雄」として、悠々自適の生活を送ったそうだ。たまに隣国が攻めてきても、茂木が国境で「ただ寝ている」だけで、敵軍は「あの不動の死神がいる!」と恐れおののき、戦わずに撤退したという。魔王は、茂木に教わった「ニートの極意」に感銘を受け、魔界で「全自動・何もしない帝国」を築き、人間界との平和共存を果たした。女神リリアは、天界からその様子を見て、溜め息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

「あのおじさん、本当に何もしてないのに……。まあ、世界が平和になったから、結果オーライってとこかしら…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SCENE#344   ストリッパー stripper

第一章:雨のネオン、楽屋の鏡

 

 

 

 

 


昭和五十三年、新宿。湿った熱気がアスファルトから立ち上り、場末のストリップ劇場「銀世界」の周囲には、逃げ場のない淀んだ空気が漂っていた。看板のネオンが、雨上がりの水たまりに毒々しいような極彩色を描き出している。地下へ続く階段を下りれば、そこには安っぽい香水の匂いと、使い古された白粉の粉塵が混じり合う密室がある。

 

 

 

 

 

 


「……今日も、これでおしまいか」

 

 

 

 

 

 


鏡の中に映る自分を、朱美は冷めた目で見つめた。
四十路を越えた体には、隠しようのない時間の重みが刻まれている。厚塗りの化粧で覆い隠した目尻の皺、ライトに照らされれば浮き出る膝の強張り。かつて「銀世界の女王」と持て囃された栄光は、今や煤けた劇場の緞帳と同じように、埃を被って色褪せていた。彼女は、掠れた赤い口紅をティッシュで拭い取ると、重い腰を上げた。

 

 

 

 

 

 


楽屋口を出ると、そこに一人の若い男が立っていた。雨に濡れたシャツが肌に張り付き、所在なげに俯いている。歳は二十を少し過ぎたばかりだろうか。都会に染まりきっていない、どこか幼さの残る横顔が、街灯の鈍い光に照らされていた。

 

 

 

 

 

 


「……あの、朱美さん、ですよね?」

 

 

 

 

 

 


男が呼びかけた。その瞳には、熱病のような、危うい光が宿っている。

 

 

 

 

 

 


「あら、坊や。私のファンかしら? 悪いけど、サインならもう店で配り切ったわよ…」

 

 

 

 

 

 


朱美は、使い慣れた冷笑を浮かべて男をあしらおうとした。しかし、男の震える肩が、彼女の足を止めた。

 

 

 

 

 


 「俺、故郷から出てきて、何もかも、上手くいかなくて……。今日、死のうと思ったんです。でも、あんたの踊りを見ていたら、なんだか、動けなくなって…」

 

 

 

 

 


朱美は、男の言葉を信じたわけではない。そんな安っぽい身の上話など、新宿の掃き溜めにはいくらでも転がっている。なぜか、男の瞳に宿る絶望の深さが、今の自分の空虚さと奇妙に共鳴した。

 

 

 

 

 

 


「……雨、止まないわね…」

 

 

 

 

 

 


朱美は、鞄から折りたたみの傘を取り出し、男の頭上に差し出した。

 

 

 

 

 


「ついてきなさい。一晩くらい、雨宿りさせてあげる…」

 

 

 

 

 


男は、救いを見つけた迷子のように、朱美の後に続いた。二人の背後で、劇場の古い看板がジジジと音を立てて消えた。昭和という時代の片隅で、二つの魂が、夜の闇に吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章:四畳半の聖域、仮面の剥離

 

 

 

 

 

 


朱美の家は、築年数さえ定かではない木造のボロアパートだった。軋む階段を上り、四畳半の部屋に入ると、そこには生活の疲れが蓄積していた。万年床の匂い、古新聞の湿り気、そして鏡台の前に散乱した舞台道具たち。

 

 

 

 

 

 


「適当に座りなさい。お茶くらいしかないけど…」

 

 

 

 

 


朱美は、男に古びた座布団を投げ与えた。男は、名を「純」と言った。東北の農村から、歌手になる夢を抱いて上京してきたが、現実は甘くなかったようだ。工事現場の肉体労働で食い繋ぎ、知り合いに騙され、奪われ、行き着いたのが、あの劇場の客席だった。

 

 

 

 

 

 


「朱美さんは、どうしてあんなところで踊っているんですか?」

 

 

 

 

 


純が、熱を持った声で尋ねた。

 

 

 

 

 

 


「どうして、ねえ……。それ以外に、生きる術を知らなかっただけよ。あんたみたいな若い子には、汚い世界に見えるでしょうけど…」

 

 

 

 

 

 


朱美は、着ていたコートを脱ぎ捨て、鏡台の前に座った。クリームを手に取り、舞台用の厚い化粧を落とし始める。一枚ずつ、偽りの顔が剥がれていく。そこには、ライトを浴びる「ストリッパー朱美」ではなく、ただの疲れ切った中年の女の顔が浮かび上がった。

 

 

 

 

 

 


「綺麗でした、朱美さん。舞台に立っているとき、あんたは、誰よりも自由に見えた…」

 

 

 

 

 

 


純の言葉に、朱美の手が止まった。自由。その言葉が、今の自分にいかに相応しくないか、彼女自身が一番よく分かっていた。

 

 

 

 

 

 


「自由なんて、そんな綺麗なもんじゃないわよ。男たちの視線に晒されて、安っぽい拍手を浴びて。私はただ、売れるものを売っているだけ…」

 

 

 

 

 

 


朱美は、すっぴんになった顔を鏡越しに純に見せた。

 

 

 

 

 


「見てみなさい。これが、私の正体よ。ただのくたびれた、哀れな女。あんたが崇めていた幻は、もうどこにもいないわ…」

 

 

 

 

 

 


純は目を逸らさなかった。

 

 

 

 

 


「それでも、あんたの体は、何かを叫んでいた。苦しくて、寂しくて、でも、必死にここにいるって叫んでいるみたいだった。俺は、あんたに救われたんです…」

 

 

 

 

 

 


純が、朱美の足元に膝をつき、その痩せた手を握りしめた。朱美は、その熱さに一瞬たじろいだが、振り払うことはできなかった。部屋の外は、激しい雨が屋根を叩いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:傷痕の共鳴、一夜の温もり

 

 

 

 

 


朱美は、純の濡れた髪をタオルで拭ってやった。その仕草は、母のようでもあり、あるいは初めて恋を知った少女のようでもあった。

 

 

 

 

 

 


「あんた、若いんだから、死ぬなんて簡単に口にするもんじゃないわよ…」

 

 

 

 

 


「死ぬのが怖くなくなるくらい、俺には何も残っていないんです。でも、朱美さんに触れてもらうと…」

 

 

 

 

 

 


純は、朱美の膝に頭を預けた。朱美は、彼の額に残る生傷を見つけた。工事現場で負ったものか、あるいは誰かに付けられたものか。彼女は、その傷跡をそっと指でなぞった。

 

 

 

 

 

 


「私にも、昔、あんたみたいな時期があったわ。誰かに愛されたくて、でもどうすればいいか分からなくて。結局、脱ぐことでしか自分を表現できなかった…」

 

 

 

 

 


朱美は、遠い過去の話を語り始めた。かつての恋人に裏切られたこと。家族から縁を切られたこと。そして、初めて、ストリップの舞台に立った時の、あの剥き出しの恥辱と、奇妙な解放感。

 

 

 

 

 

 

 


「私はね、舞台の上で脱ぐたびに、過去の自分を一枚ずつ剥ぎ取っているつもりだった。でも、最後に残ったのは、空っぽの自分だけだった…」

 

 

 

 

 

 


純は、朱美の話を黙って聞いていた。二人の間には、年齢も境遇も越えた連帯感が生まれていた。それは、時代から取り残された者同士が、暗い海の上で、漂流する一つの板切れに捕まっているような危うい繋がりだった。

 

 

 

 

 

 


「今夜だけは、悲しいことは忘れましょう…」

 

 

 

 

 

 


朱美は、純の肩を抱き寄せた。二人は、冷えた部屋の中で、互いの体温だけを頼りに身を寄せ合った。それは、性愛を越えた、生存のための確認作業だった。朱美の肌に刻まれた無数の「舞台の記憶」が、純の若く、傷ついた肌に転写されていった。電球の紐が、微かな風に揺れている。闇の中で、二人の呼吸が、一定のリズムを刻み続けていた。

 

 

 

 

 

 


「……朱美さん…」

 

 

 

 

 

 


純の囁きが、朱美の胸の奥にある、冷え切った痛みを少しだけ溶かしたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:暁の予感、残酷な境界

 

 

 

 

 

 


夜明け前の、一番暗い時間が訪れた。雨はいつしか止み、窓の外からは、新聞配達のバイクの音が聞こえてくる。純は、朱美の腕の中で静かに眠っている。その寝顔は、昨夜の絶望が嘘のように穏やかだった。朱美は、眠る純の髪を撫でながら、自分の心の中に冷酷な現実が戻ってくるのを感じた。この夜が終われば、再びまた、舞台に戻り、男たちの欲望の視線に身を投げ出さなければならない。

 

 

 

 

 

 


「……坊や。もう朝よ!」

 

 

 

 

 

 


朱美は、優しく、そして少し突き放すような声で純を揺り起こした。

 

 

 

 

 


純は、驚いたように目を開け、周囲を見渡した。

 

 

 

 

 

 


「……あ、すみません。つい、深く眠ってしまって…」

 

 

 

 

 

 


純は、慌てて身なりを整えた。昨夜の濃密な時間は、朝日が差し込むにつれて、急速に形を失っていく。

 

 

 

 

 

 


「行きなさい。あんたの居場所は、ここじゃないわ…」

 

 

 

 

 


朱美は、鏡台の方を向いたまま言った。

 

 

 

 

 


「朱美さん、俺は……。また、会いに来てもいいですか?」

 

 

 

 

 

 


純の問いに、朱美はすぐには答えなかった。彼女は、再び白粉のパフを手に取り、素肌の上に新しい「顔」を塗り重ね始めた。

 

 

 

 

 

 


「来ちゃダメよ。あそこは、終わった人間が辿り着く場所なんだから。あんたは、まだ始まってすらいないんだから…」

 

 

 

 

 

 


朱美の声は、昨日までの、冷え切った仕事人のそれに戻っていた。純は、何かを言いかけようとして、唇を噛んだ。純は、朱美の背中に向かって深く頭を下げると、音を立てないように部屋を出て行った。

 

 

 

 

 

 


階段を下りる足音が遠ざかっていく。朱美は、その音が完全に聞こえなくなるまで、鏡の中の自分を、見つめ続けた。化粧が完成した彼女の顔は、昨夜の脆さを微塵も感じさせない、冷徹な「銀世界の女王」の姿だった。
 

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:舞台の再来、吹き抜ける風

 

 

 

 

 

 


その日の夜。新宿の路地裏には、再びネオンの毒々しい光が灯っていた。劇場の緞帳が上がり、場違いな明るい音楽が鳴り響く。朱美は、派手な羽飾りに身を包み、スポットライトの真ん中に立っていた。客席には、酒の匂いをさせた男たちが、下卑た笑みを浮かべて彼女を待っている。朱美は、指先まで完璧に計算された動作で、一枚、また一枚と、衣装を脱ぎ捨てていった。その表情は、仏像のように無機質で、それでいて、見る者の魂を惹きつけるような不気味な気高さがあった。

 

 

 

 

 

 

 


ふと、客席の隅に、見覚えのある影が見えたような気がした。若い男の影。朱美は視線を合わせなかった。もしそこに純がいたとしても、彼女はもう彼に微笑みかけることはない。彼女にとって、昨夜の一夜は、人生の中で一度だけ起きた、奇跡のような出来事に過ぎない。

 

 

 

 

 

 

 

舞台は、予定された筋書き通りに進んでいく。「哀しきストリッパー」という名の、誰にも望まれないアンコール。ライトの熱が、彼女の肌を焦がしている。白粉が汗で流れ、彼女の本当の顔が露出しかけていく。

 

 

 

 

 

 


朱美は激しく体を揺らし、その崩壊を力技で押し留める。彼女は踊り続ける。昭和という時代とともに、自分もまた消えていくことを、どこか悟りながら。存在。その存在を証明する唯一の手段は、この、誰にも愛されない舞台の上で、独り立ち尽くすことだけ。

 

 

 

 

 

 

 


拍手が鳴り響き、客席から不快な野次が飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

朱美は、最後の一枚を脱ぎ捨てた…