
第1章:「一番、売れなさそうな企画で!」
大手スタジオでヒット作を連発し、「若きヒットメーカー」と呼ばれた神谷 薫は、興行収入という「数字の亡霊」に疲弊し、独立した。彼が目指すのは、「誰かたった一人に、深く長く刺さる映画」だ。
神谷が企画会議で提案したのは、『興行収入10億、目指してない…』という仮タイトルの企画。内容は、現代の都市で静かに増え続ける「孤独死」を扱った、徹底的に地味で内省的なヒューマンドラマだった。
「神谷社長、冗談でしょう?」
営業の佐藤が、青ざめた顔で立ち上がった。
「今の時代、宣伝費もロケ代も高騰しているんですよ!この題材で、しかもこのタイトルじゃ、誰も劇場に来ませんよ! せめて目標は3億に設定して、少しでも希望を持たせてくれないと…」
神谷は静かに首を振った。
「希望は数字じゃない、佐藤さん。この映画は、観客を選ぶ。我々の目標は、興行収入、5000万円。採算ラインギリギリだ。この『目指してない』という宣言は、商業主義へのアンチテーゼであり、我々の制作の純度を示す看板になるはずだ!」
そして、神谷は山奥の古民家で隠遁生活を送る脚本家、藤代 陸のもとを訪ねた。藤代は、かつて神谷が大手の頃に依頼した商業脚本を破り捨てた経緯がある。「またお前かよ…今度は何を売りつけに来たんだ?」と藤代は冷たい。
神谷は、企画書の一番上に書かれたタイトルを指差した。
「『興行収入10億、目指してない…』を、売りつけに来たんじゃない。一緒に負けに来たんです。数字を無視して、現代の闇を、静かに、優しく、でも深く、えぐり出す。それができるのは、藤代さん、あなたしかいないんだ!」
藤代は、神谷の「負けへの覚悟」に、かつての自分を見た気がして、久々に筆をとることを決意した。
第2章:「真実の重さと予算の軽さ」
監督は、神谷が自主映画界から発掘した小宮 結。彼女の要求は、リアリティの徹底だった。孤独死した中年男性の部屋は、美術スタッフが何日もかけて「生活感がない」という生活感を演出した。小宮は、主演俳優の田所に対し、「カメラを意識しないでください。あなたは透明でなければならない!」と要求し続けた。
しかし、低予算は常に制作チームに重くのしかかる。 美術費は最低限。ロケ地の使用許可は難航し、撮影時間は常に制約された。小宮監督は、夕暮れのわずか15分の光を捉えるため、何度もテイクを重ねたいと主張するが、制作主任から「予算と時間がありません。今日の予定は消化してくれないと、明日以降に響きますから!」と冷たく制される。
ある夜、神谷は、撮影を終えた田所が、ベンチで大手配信ドラマの派手な台本を読んでいるのを目撃した。田所は気まずそうに笑う。
「すいませんね、社長。こっちのギャラで、生活を保たないと。この『10億、目指してない…』は、魂を削りますが、飯は食わせてくれないんでね…アハハッ…」
神谷は、真実を追求する芸術と、生活を維持するための商業という、乗り越えがたい壁に直面した。彼は、静かに小宮監督に語りかける。
「小宮さん、この映画は、予算がないことさえも味方にする。派手な照明も、壮大な音楽もいらないんだ。そこにある真実の重みだけで、観客をねじ伏せるんだ!」
二人は、本作の貧しさの中で、逆に「削ぎ落とす美学」を磨き上げていったのだ。
第3章: 「逆説のタイトルが呼ぶ波紋」
編集作業は、神谷、小宮、藤代の三者間での、「感情の距離」を巡る哲学論争となった。
孤独死した男が残した一枚のメモ。そのメモの内容を、画面に映すべきか、敢えて映さないべきか。小宮は「あえて映さないことで、観客に彼の人生を想像させるべき!」と主張。藤代は「それでは不親切すぎるだろう!」と反論する。 最終的に神谷は、「不親切でいいんだ。この映画は、観客に能動的な痛みを求めるのだから…」と決断。メモは焦点をぼかし、言葉を読み取れないように処理された。
そして、運命の宣伝会議。神谷は、ポスターと予告編に、タイトルをそのまま『興行収入10億、目指してない…』と大々的に打ち出すことを提案した。
佐藤は、絶望的な顔で叫んだ。
「正気ですか! このタイトルを見た瞬間、一般の観客は『どうせ陰気臭いアート映画だ、見なくていい』と判断するに決まってます! せめて『生と死の境界で…』とか、もう少し希望のある言葉を…」
「それが狙いなんだよ!」神谷は、机を叩く。
「佐藤さん、人々は興行収入のニュースにうんざりしている。この正直すぎるタイトルは、『大衆迎合をしない!』という、私たちの宣戦布告でもある。このタイトルは、数字を追うこと、虚飾を纏うことに疲れた、本物の映画ファンのレーダーに、必ず引っかかるはずだ!」
予告編は、華やかなBGMも、大げさなテロップもなく、ただただ静かな部屋の映像と、田所が演じる男の、独白に近いセリフだけで構成された。試写会の反応は二極化した。
一部の評論家は「傑作!しかし、映画館の暗闇で一人で観るべき毒だ…」と評価した。しかし、その「正直すぎる」タイトルと、口コミで広がる作品の「本気度」が、次第にSNSを通じて静かな波紋を呼び始めていた。
第4章:「数字を超えた価値」
ついに公開初日。大作の賑わいとは無縁だが、都内のミニシアターの客席は静かに埋まっていた。観客のほとんどは、一人客。彼らは、映画の終盤、男の部屋に残された焦点のぼけたメモを、まるで自分の人生の断片であるかのように、息を殺して見つめていた。
公開から1週間。神谷のもとには、興行通信社からの数字が届く。初週の興行収入は、わずか1500万円。まさしく神谷の予想通り、目標の5000万円には遠く及ばない、厳しいスタートだった。佐藤は「ほら見ろ…」と言わんばかりに肩を落とす。
しかし、なんとその翌週から、異変が起こり始めたのだった。 「#興行収入10億、目指してない…」というハッシュタグが、SNSでトレンドに浮上したのだ。
「久しぶりに、血の通った映画を見た!」 「帰り道、隣に座っている人の孤独について考えた。この映画は、自分の人生を肯定も否定もしない。ただ『あるがまま』を突きつけてくる!」
熱狂的な口コミは、「過度に数字を追わない」という姿勢への共感と、作品自体の強烈なメッセージ性に引き起こされたものだった。
ある日、興行通信社の人間が、神谷のもとを訪ねてきた。
「異例です。大手の宣伝も、主演俳優の話題性もないのに、リピーター率が異常に高い。都市部だけでなく、地方の小さなミニシアターでも連日満席になり始めています!」
公開3週目には、目標の5000万円をあっさりクリアし、1億円という数字が現実味を帯びてきた。神谷は、数字そのものよりも、多くの人がこの「地味な真実」に触れ、誰かの孤独に想いを馳せている事実に、静かな、深い喜びを感じていた。彼は、数字を超えた「共感」という名の価値が、この映画を生かしていることを確信した。
第5章:「次は何を目指すのか」
やがて、『興行収入10億、目指してない…』は、海外の権威ある国際映画祭で最優秀賞を獲得。世界中の観客が、この日本の「孤独」の物語に深く共感し、神谷と小宮は、熱狂的なスタンディングオベーションを受けた。
帰国後、アオイ・フィルムには、世界中から巨額の投資話とオファーが殺到した。「次はハリウッドと組んで、100億円規模の作品を!」神谷は、かつて自分がいた、商業主義の嵐の中心に再び立たされた。
アオイ・フィルムのオフィス。成功の興奮は静まり、神谷、小宮、藤代の三人が次の企画について話し合っていた。 神谷は、集まった企画書を全て断ったことを告げた。そして、次の企画の題材は、「地方の過疎化が進む町で、たった一軒だけ残った書店」の物語だと発表した。
小宮は興奮気味に問う。
「ええ、素晴らしいテーマです! でも、社長、次はいくら目指しますか? さすがに前作の1億円は超えますよね?」
藤代は、静かに神谷を見つめる。
「神谷さん、次は、何を目指そうとしているんですか?」
神谷は企画書を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。窓の外の喧騒とは無縁の、静かな時間が流れている。 「次は、数字の呪縛から完全に解放された、観客の心の中にある『静寂』を目指すぞ!」 彼は、次の映画の仮タイトルを、黒板に書き入れた。
『興行収入1億も目指さないかもしれないが、誰かの宝物になる…』
彼らは、商業的な成功を手に入れた今、それでもなお「誰も追わない価値」を追い続ける道を選んだ…