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SCENE#43  面白きこともなき世を面白く、すみなすものは心なりけり… The Heart That Makes Life Interesting


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第一章:灰色の都市と心の「平均値」

 

 


物語の舞台、千篇(せんぺん)市は、徹底した合理主義と効率を追求した結果、すべてが画一化された現代のユートピア…あるいはディストピアだった。街の色は、視覚疲労を最小限に抑えるよう計算された「ニュートラル・グレー」。人々の服装、会話のトーン、感情の起伏までもがデータ化され、「市民平均幸福度98%」という数値の下で管理されていた。誰もが不満を持たず、しかし、誰も熱狂しなかった。

 

 

 


早乙女 律(さおとめ りつ)、29歳は、市役所の中でも最も無味乾燥な部署「平均化推進課」に勤務していた。彼の人生は、毎朝6時30分に発車する定刻通りの電車に乗り、決まった席に座り、決まった業務をこなし、決まった時間に帰宅するという、「問題なし」の人生そのものだった。彼にとって世界とは、無駄な要素が徹底的に排除された、計算通りの退屈だった。

 

 

 


ある日、古い公文書の整理中に、律は奇妙な筆跡で書かれた一首の古歌を見つけ出した。

 

 

 


おもしろき 事もなき世を おもしろく

すみなすものは 心なりけり…

 

 

 


律は眉をひそめた。この「面白さ」という曖昧で非合理的な概念は、市の哲学に真っ向から反する。しかし、その力強い筆致と、言葉の持つ底知れぬ響きは、律の心臓の奥底で、長年停止していた小さな歯車をわずかに動かした。彼はこれを、ただの資料ではなく、「非効率的な遺物」として手帳の裏に書き写した。それは、彼が自分の人生に「違和感」という名のノイズを初めて許容した瞬間だった。

 

 

 

 

 


第二章:千篇一律ガイドラインと青い反抗

 

 

 

平均化推進課に、市の最終目標ともいうべき極秘任務が下された——「千篇一律ガイドライン」の策定だ。これは、人間の行動パターンを完璧に予測し、個性や突発的な行動を「効率の敵」としてゼロにするための、最終的な行動規範だった。律は、そのガイドラインを読み進めるうち、自身が何かの巨大な歯車の一部として、「生きる喜び」を押しつぶしている事実に耐えられなくなった。

 

 

 

 

特に、ガイドラインの「色彩統一規定」の項目が律を苦しめた。「無駄な視覚刺激は、思考の非線形化を招くため、市内公共スペースでの使用を禁ずる…」

 

 

 


律は、マニュアルを完成させる直前の夜、市役所の自席で激しい孤独感と自己嫌悪に襲われた。彼は衝動的に立ち上がり、誰もいない深夜の裏口に出た。ポケットには、子供の頃、父からもらった青いチョークがまだ残っていた。

 

 

 

 

彼は、冷たいコンクリートの壁に、無心で、無秩序に線を引いた。それは、ガイドラインの設計図の裏に描いていた、彼が過去に唯一色を感じていた記憶、奇妙な形の「虹」だった。青、赤、緑。彼の心の中の色彩を、彼は壁に吐き出した。描き終わった瞬間、背徳感と同時に、生まれて初めての「自由」を感じた。それは、理屈では説明できない、胸の高鳴る「面白さ」だった。翌朝、虹は消えていたが、律の心には、消せない「青い反抗」の記憶が焼き付いていた。

 

 

 

 

 


第三章:律の「小さな反逆」と隠された色彩

 

 

 

律は、自分の「心」が求めている「面白さ」を、誰にも気づかれない「小さな反逆」として日常に埋め込み始めた。それは、監視社会である千篇市を「面白く住み成す」ための、律自身の秘密のルールだった。

 

 

 


まず、デスクの上の殺風景な鉢植え。彼は、規則に反して鮮やかな赤い椿の種を一つだけ土の深くに埋めた。いつ、芽が出るかどうかも分からない、ただ「そこに秘められている」という事実が面白かった。

 

 

 


次に、毎日の定食。彼は、ポケットに隠し持った極少量の激辛スパイスや、自宅で育てた柚子の皮の欠片を、誰も見ていない瞬間に味噌汁に忍ばせる。一瞬の刺激と香りの爆発は、彼の舌の上だけで完結する、秘密の祝祭だった。

 

 

 


さらに、彼は通勤ルートを故意に僅かに外れ、市の再開発計画で取り壊しが決定している古い「廃墟の花屋」の前を、30秒だけ立ち止まって通ることを日課にした。そこだけは、千篇市の灰色を無視するかのように、赤や黄色の花が咲き乱れ、芳しい香りが漂っていた。

 

 

 


彼の行動は、外から見れば「問題なし」のまま。しかし、律自身の内側の世界は、確実に灰色から色彩へと塗り替えられていった。「心」の力だけで世界を変えられるという、句の真理を、彼は実践を通して学び始めていた。

 

 

 

 

 

第四章:「色」の伝播と共鳴する「心」

 

 

 

律の「小さな反逆」は、水面に落ちた波紋のように、周囲に伝播し始めた。

 

 

 


ある日の昼食時、律は定食屋で、いつも無愛想で機械のように業務をこなす同僚の須藤(すどう)が、突然咳き込むのを見た。須藤は、自分の味噌汁に、律がいつも使っているのと同じ、柚子の皮の欠片を浮かべていたのだ。律は驚きのあまり息を飲んだ。

 

 

 


須藤もまた、律を見て驚いた顔をした。二人は一言も交わさなかったが、律は須藤の目に、彼が初めて虹を描いた時に感じたのと同じ、「秘密の面白さ」の灯りを見つけた。二人は無言のまま、小さく、深く笑いあった。

 

 

 

 

さらに決定的な出来事は、市役所の裏口で起こった。律は、清掃員の老婦人、タマさんが、自分のデスクの鉢植えに水をやっているのを見た。タマさんは、規則を破って芽吹いたばかりの椿の小さな芽を、愛情深そうな手でそっと撫でていた。タマさんは律に気づくと、慌てて背を向けたが、彼女の顔には、まるで宝物を見つけたかのような、深く優しい笑顔があった。

 

 

 

 

律は悟った。世界は、人々の「心」が作り出す「色」で満ちていると。そして、「面白くない世」とは、単に人々がその色を隠し、見ないふりをしているだけの状態なのだと。彼の小さな行動は、他者の閉ざされた心に、再び「面白さ」の火を灯すことができると知った。

 

 

 

 

 

第五章:裏ガイドラインと運命の赤い花

 

 

 

「千篇一律ガイドライン」の完成が迫る中、律は最終的な決断を下した。彼は、ガイドラインの冷徹な条文を破棄し、代わりにタマさんの笑顔、須藤の柚子の香り、廃墟の花屋の色彩など、彼自身と周囲の小さな「面白いエピソード」を集めた「裏ガイドライン」を書き上げた。それは、千篇市を「面白く住み成すためのマニュアル」だった。

 

 

 

 

ガイドラインの最終報告会議。律は緊張と興奮の中で立ち上がた。彼は、上司から求められたガイドラインの条文ではなく、自分が書き上げた「裏ガイドライン」の内容を、朗々と読み上げた。

 

 

 


「千篇市に生きる者へ。面白きこともなき世を面白くすみ成すものは心なりけり…。この市は、あなたの心の持ち方次第で、何色にもなり得る。どうか、あなた自身の『椿の種』を心に埋めてください!」

 

 

 


会議室は凍りついた。その時、窓の外に、小さな赤い色が映った。律が土に埋めた椿の種が、ついに小さな赤い花を咲かせたのだ。その鮮烈な赤は、すべてが灰色に統一された市役所の会議室で、まさに「革命」を意味していた。

 

 

 

 

 

第六章:すみ成すものは心なりけり、そして「面白いのう」

 

 

 

律は市役所を解雇されてしまった。解雇の理由は「職務怠慢、および公文書の無許可改変による秩序の攪乱」だった。しかし、彼の顔には解放された者のすがすがしさが浮かんでいた。

 

 

 


律は、彼が「裏ガイドライン」の着想を得た「廃墟の花屋」の前に立っていた。解雇通知を握りしめたまま、彼は新しい人生の一歩を踏み出そうとしていた。

 

 

 


店の中は相変わらず、千篇市の灰色にはありえないほど、生命力に満ちていた。色とりどりの花と、土の匂い。

 

 

 


店主は、初老の男性で、穏やかながらも鋭い目つきをしていた。彼が律の顔を見て笑った。

 

 

 


「あんた、いい顔してるね。以前は、まるで型抜きされたクッキーのようだったが…」

 

 

 

律は笑い返した。彼の心は、もう完全に「面白き世」をすみ成していたからだ。

 

 

 

「この世を面白くすみ成すのは、心ひとつ。ようやくその意味が分かりました…」

 

 

 

律がそうつぶやくと、店主は目を細め、どこか遠くを見るように言った。

 

 

 

「そうさ。この世は、つまらない場所だと決めるのも、面白い場所だと決めるのも、結局は心持ち次第だ。わしもそう教えられたよ…」

 

 

 

律は深くうなずき、胸ポケットから、ボロボロになった手帳を取り出した。そこには、彼をこの灰色の日々から救い出してくれた句が書かれていた。

 

 

 


おもしろき 事もなき世を おもしろく

すみなすものは 心なりけり…

 

 

 


「この句を最初に詠んだ人は、本当にすごい。これこそが、真の自由です!」

 

 

 

すると、店主は笑みを深くした。

 

 

 

「そうか。これを詠んだ人はな、わしの友でな…」

 

 

 

「えっ…」

 

 

 

律は息を飲んだ。彼の世界が一気に歴史的な色彩を帯びた。

 

 

 

店主は、花瓶に水をやりながら、淡々と続けた。

 

 

 

「そいつは病床でな、『おもしろき、こともなき世を、おもしろく』と上の句を詠んで、下の句に苦吟していた。わしが勝手に『すみなすものは心なりけり』と結んだら、彼はな……」

 

 

 


店主は律の目をまっすぐ見て、言った。

 

 

 

「『面白いのう』と言って、静かに息を引き取ったよ…」

 

 

 

律の胸は震えた。目の前の店主こそ、高杉晋作の最期を看取り、句を完成させた野村望東尼(のもらぼうとうに)の面影を宿す人物、あるいはその時代の生き証人なのかもしれないと。

 

 

 


律は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。

 

 

 

「ありがとうございます。その心、受け取りました!」

 

 

 

律は店を出た。千篇市の街並みは依然として灰色だったが、彼の視界はもはや違っていた。彼は、道端の小さな雑草にも、ビルの反射光にも、人々の無表情の奥にも、無数の「面白い可能性」を見つけられるようになっていた。

 

 

 


彼は、手にした「裏ガイドライン」を太陽にかざし、笑った。

 

 

 


「面白いのう…」