
第1章:冬の静寂(しじま)と不協和音
雪は十日以上降り続き、永光寺は厚い静寂のコートに覆われている。午前3時半、全ての生命が眠る闇の中、隆源の握る振鈴(しんれい)の音が、寺全体を震わせる。冷気は骨の髄まで沁み込み、志朗は布団から這い出すことすら苦行に感じる。洗面所の水は氷のように冷たく、顔を清めるたびに都市での享楽的な生活を鮮明に思い出し、自分を責めた。
本堂の暁天坐禅。隆源は微動だにせず、呼吸すら止まっているかのように見える。志朗は座蒲(ざふ)の上で膝の痛みに耐え、心の嵐と戦っていた。彼の心には、大学中退の原因となった人間関係の裏切り、そして「自分は何者なのか?」という根源的な問いが渦巻いている。「悟りとは、この冷たさや痛みを忘れることなのか?それとも、耐え抜くことなのか?」答えのない問いが、静寂の中で不協和音のように響いた。
その日、志朗は隆源の側に寄り、吐息のような声で尋ねた。
「和尚様。坐禅とは、何を目指すものなのでしょうか…」
隆源は、雪明かりに浮かぶ静かな目で志朗を一瞥し、そして再び目を閉じる。沈黙が続いた。凍てつく沈黙の中で、志朗は、この寺での修行が、逃避ではなく、さらに深い迷宮に入り込んだのではないかという絶望を感じ始めた。隆源の背中は、遠く、そして途方もなく高かった。
第2章:炉辺の問いと「積雪」の教え
午前8時、厳しい作務(さむ:修行としての労働)が終わる。志朗は重い雪を払い続けたせいで、全身が軋むような痛みに襲われていた。囲炉裏端で手を温めていると、隆源が火の番をしながら、静かに話しかけてきた。
「お前の心は、まるでこの冬の積雪のようだ…」
志朗は顔を上げた。隆源は炎を見つめたまま続ける。
「積もった雪は、その下に隠された地面の起伏を全て覆い隠す。美しいかもしれぬが、その下には泥も石ころもある。お前の心もそうだ。都会で積もらせた焦りや怒りが、本来のお前を隠しているのだ…」
志朗は、大学時代の友人への不信感、将来への不安、そして修行を続けることへの疑念を堰を切ったように語り始める。
「私は、人を信じられません。誰もが仮面を被っているように見えたのです。だから、この寺に来たのに、なぜかここでも、私はただの『修行僧のふり』をしている気がしてならないのです…」
隆源は、ゆっくりと顔を上げ、彼の真剣な目を見た。
「お前がこの寺に来たのは、逃げるためではない。その積もった雪を溶かし、地面を掘り返し、泥にまみれるためだ。悟りなど、雪解け水のように流れ出すもの。目指すものではない…」
隆源の言葉は、志朗の焦燥を否定せず、受け止め、新たな視点を与えた。志朗は、自分の苦しみが修行の障害ではなく、まさに修行そのものなのだと気づかされ始めていた。
第3章:粥の温もりと「無分別」の教え
寺の食事は精進料理。朝は一汁一菜、つまり粥と漬物のみ。志朗は、いつものように定められた作法「五観の偈」を唱え、食事が始まった。彼は、粥の味気なさに密かに不満を感じていた。都会で食べていた豊かな食事と比較してしまう、その自分の煩悩を恥じていた。
その日の配膳時、志朗は給仕役だった。彼は、完璧な隆源の食器に、ほんのわずかだが、椀の縁に粥がこびりついているのを見つけた。驚きと同時に、隆源という絶対的な存在に対する人間的な安堵感を覚えた。しかし、その小さな「乱れ」に、志朗は隆源の真意を測りかねた。
翌日、志朗は寒さで熱を出し、起き上がれなくなった。修行僧の生活は厳しく、病であっても食事を抜くのが常。しかし、昼が過ぎた頃、隆源が自ら庫裏から粥を運んできた。その粥は、普段の小食の粥とは違い、わずかに塩気が濃く、暖かさが深く沁みる。「薬石(やくせき)代わりに召し上がれ…」と、隆源は静かに言う。
志朗は、ゆっくりとその粥をすすった。ただの粥ではない。そこには、隆源の微かな「慈悲」が感じられた。隆源は志朗を見つめ、「食べ物も、命も、分別(ふんべつ)してはならぬ。贅沢な食事も、この味気ない粥も、命を繋ぐ貴いものだ。そして、己の病も、他者の病も、どちらも、ただの苦しみとして受け入れよ…」と語る。隆源の言う「無分別」の教えは、志朗の心に、人と自分を分けて苦しんでいた根源的な問題を映し出した。
第4章:崩れた石垣と「連綿」の意識
春の兆しが見え始め、雪解け水が流れ出す。その影響で、裏山にある苔むした石垣の一部が大きく崩落した。隆源は、この石垣が何百年も寺を護ってきた、いわば寺の「背骨」であることを志朗に語り、修復を命じた。
志朗は、石垣の前に立ち、その崩れ方を見て途方に暮れた。一つ一つの石は重く、形も大きさもバラバラだ。彼は、石を選び、向きを定め、隙間なく積み上げていくという途方もない作業に没頭した。この作業は、これまでの坐禅や読経とは異なる、物理的な重みと向き合う修行だった。
作業中、志朗は石垣の奥深くから、数百年前に積まれたであろう、摩耗した石を見つけた。その石には、かすかに「南無」と彫られた跡があった。彼は隆源にそれを見せた。
隆源は、その石を静かに手に取り、「かつて、お前と同じように迷い、この石を積んだ僧がおったのだろう。修行とは、己の心だけを磨くものだと思うか。違う。寺は、人々の願いと、その僧たちの積み重ねの上に成り立っておる。お前が今、この石を積むのは、お前の修行であると同時に、未来の僧や、この寺を護る人々への『慈悲』だ…」と静かに語る。
志朗は、自分の修行が、孤独な自己との戦いではなく、過去から未来へと繋がる「連綿(れんめん)とした命の営み」の一部なのだという、壮大な視点を得る。彼の視線は、狭い「自己」から、広大な「他者」へと移り始めていた。
第5章:夜坐(やざ)の共鳴と「ただ坐る」の境地
石垣の修復作業を通じて、志朗の体は疲弊したが、心は以前よりも安定していた。肉体的な作業が、彼の内なる焦燥を削り取っていったのだ。夜坐の時間。闇はどこまでも深く、静寂は研ぎ澄まされている。
この日、志朗は初めて、体の痛みに意識を奪われることなく、深い坐禅に入ることができた。彼は、自分の呼吸が、まるで宇宙のリズムと一体になるかのような感覚を覚えた。外部の音、内なる思考、全てが遠のき、ただ「今、ここに坐っている…」という純粋な意識だけが残る。
その瞬間、隣に座る隆源の深く、規則正しい呼吸音が、志朗の意識の中に流れ込んできた。それは、単なる音ではなく、隆源の長い歳月によって培われた「命の響き」のように感じられた。志朗の呼吸と隆源の呼吸が、まるで一つになったかのように調和する。言葉による指導は一切ない。しかし、この「呼吸の共鳴」こそが、隆源が志朗に示したかった、修行の極意だった。
坐禅を終え、志朗は隆源に向かって深々と頭を下げる。それは、感謝や尊敬の念だけでなく、「和尚様の修行を、今、この一瞬、私も共にしました…」という、魂の深いレベルでの承認の行為だった。隆源は、微かに口角を上げ、静かに頷く。初めて、二人の心が言葉を超えて通じ合った瞬間だった。
第6章:春の雪解けと俗世からの呼び声
寺の境内の雪は完全に融け、地面からは新緑の芽が覗いている。志朗の心もまた、雪解けを迎え、穏やかな光に満ちていた。しかし、その穏やかさは、俗世からの訪問者によって打ち破られた。
大学時代の友人・圭吾(けいご)が、志朗を心配して永光寺までやってきたのだ。圭吾は、志朗の現状を「現実逃避」「人生からのドロップアウト」だと断じた。「お前は、この閉じた世界に閉じこもって、楽をしているだけじゃないのか?人生はもっと、戦わなきゃいけないんだ!」と、都会の論理を振りかざした。
志朗は反論しようとするが、言葉が出てこない。隆源は、庭の隅で、二人のやり取りを静かに見守っている。やがて志朗は、友人の言葉に、以前の自分と同じ焦りや怒りが含まれていることに気づいた。彼は、静かな声で答えた。
「俺は、逃げたんじゃない。大学の時、俺たちは他人を責め、環境を恨んだ。でも、ここでは、誰からも逃げられない。自分自身と向き合い、この石垣を積み、この粥を頂く。俺は、ここで『戦うこと』を選んだんだ…」
友人は納得せず帰っていくが、志朗の心は揺るがない。彼は隆源の元へ行き、問う。
「和尚様。私の決断は、正しいのでしょうか…」
隆源は、志朗の目を見つめ、初めて明確に、そして力強く答えた。
「正しさなど、わしが教えることではない。お前が選んだ道に、わしは何も言わぬ。しかし、お前はもう、道を選べるだけの『芯』を、その胸に宿した。どこにあろうと、お前の修行は続くのだ…」
第7章:寺院の夜明けと継承の光
春の暖かい光が、寺の屋根を照らし始める。暁天坐禅を終え、志朗が僧堂を出ようとした時、隆源が彼を呼び止めた。隆源の目は、いつになく澄み、穏やかだった。
「志朗。わしは、明日、この寺を出る…」
突然の言葉に、志朗は息を呑んだ。
「行き先は問いません。しかし、なぜですか...?」
隆源は静かに微笑んだ。
「わしの役目は終わった。この寺は、お前に託す…」
志朗は、自分にはまだ住職としての資格も、隆源のような悟りもないと固辞した。
「私は、まだ何も悟ってなどおりません!」
隆源は、志朗の肩に手を置き、その重みを伝えた。
「悟りとは、完成ではない。道そのものだ。お前はもう、雪を融かし、土を掘り、石垣を積み、粥の温もりを知った。迷いを持ちながら、それでも毎朝振鈴を鳴らし、坐る。それが、この寺のすべてだ…」
隆源は、志朗に寺の鍵と、使い古された小さな木魚の撥(ばち)を渡した。
「この撥は、わしが若き日に使っていたものだ。お前が、この寺の夜明けとなりなさい…」
毎朝、午前3時半。志朗は、隆源から受け継いだ木魚の撥を手に、振鈴の前に立つ。隆源の姿は、すでにどこにもない。志朗は、深く息を吸い込み、魂を込めて振鈴を鳴らす。その音は、寺全体を包み込み、そして遠くの山々にまで響き渡る。
朝の勤行を終え、志朗は本堂の縁側に立つ。東の空が茜色に染まり、昇り始めた朝日の光が、永光寺全体を黄金色に輝かせる。志朗の瞳には、隆源の言葉、「迷いを持ちながら、それでも続ける…」という決意の光が宿っていた。老僧の教えと、若き僧の覚悟が交差したあの夜明けの朝…永光寺の新たな、静かなる歴史が、今、始まったのだった…