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SCENE#61  アストラル・ワルツ The Astral Waltz


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第1章:宵闇の孤立

 

 

 


夏の夜は、すべてを飲み込むように濃く、深く沈んでいた。窓の外は、生ぬるい空気とアスファルトの匂いが微かに漂うだけで、生命の躍動を感じさせない。アカリは窓辺に設置された古びたラタンチェアに身を沈め、遠くの街灯の光と、ビルの頂に瞬く赤い点滅だけを、ただ無言で見つめていた。

 

 

 

 

部屋の中も外も、この世界が自分一人で構成されているかのような静寂に包まれている。彼女の足元には、「ヨル」と名付けた黒猫が、夜の帳の色を借りて溶け込んでいる。ヨルは、外の光が微かに揺らすカーテンの端を、獲物でも狙うようにじっと見つめ、時折、軽やかに前足で触れては、まるで小さなバレリーナのようにその場で回転する。

 

 

 

 

アカリはヨルの優雅な動きを、まるで遠い星の出来事のように眺めていた。彼女自身の体は、重い鉛のように動かない。それは、何かを熱心に求め、行動を起こそうとする衝動はあるのに、決定的な「何か」が欠けているためだった。

 

 

 

 

かつては、一つの音楽が鳴り始めれば、自然と体が動き出した。しかし今、アカリが心の中でどんなにリズムを刻もうとしても、そのステップはぎこちなく、滑らかさを欠く。彼女は知っている。この満たされない静寂の中で、一人では、あの日のような美しい「調和」は決して生まれないのだと。孤独は、表現する喜びを奪い去る、冷たい重力だった。

 

 

 

 

 

第2章:無重力の記憶

 

 


ヨルの小さな動きが、アカリの深層にある、ある日の記憶の扉を叩いた。それは、何にも代えがたい、熱を帯びた時間のフラッシュバックだった。アキトと二人でいた、あの瞬間。誰もいない、白い壁の部屋だったか、それとも星空の下だったか。場所は曖昧でも、二人の間に流れていた空気だけは鮮明だった。彼の腕に導かれ、彼女の足は迷いなく動いた。

 

 

 

 

右に、前に、後に、そして左へ。それは、思考の介在しない、純粋な反射だった。風が吹き抜け、水が流れるように、二つの体が互いを補完し合い、一つの完全な生命体となった瞬間。時空の感覚さえ薄れ、ただ二人の動きだけが世界を支配していた。

 

 

 

 

アキトの顔には、どこまでも曇りのない、解放されたような笑顔が浮かんでいた。アカリはその光景を、彼女の魂が捉えた「完璧な一瞬」として焼き付けている。それは、人生で最も夢中になれた時間であり、決して一人では体験し得ない、特別な「共同作業」の歓喜だった。

 

 

 

 

 

第3章:埃を被った円卓

 

 


アカリは立ち上がり、静かにリビングの中央へ向かった。そこには、二人が長い時間を共にした、木製の丸いテーブルが置かれている。表面には埃が薄く積もり、テーブルクロスを外したままの姿は、まるで時間そのものが停止しているかのように見えた。かつて、この円を囲んで交わされた無数の言葉や笑い声は、もう反響することはない。

 

 

 

 

テーブルの奥の棚、薄暗い隅に、彼女の視線が留まった。そこに収められていたのは、数年前に購入した、象牙色の革のダンスシューズ。裏にはほとんど擦り減りのない、新品同様の一足だ。アカリはそれを手に取り、ためらいながらも足に通す。冷たい革の感触が、現在の孤独を際立たせる。彼女はテーブルの縁に手を触れ、アキトと踊ったあの時のステップを、一人でなぞり始めた。

 

 

 

 

しかし、足裏から伝わる床の感触は硬く、リズムは途切れ途切れだ。一歩踏み出すたびに、部屋の中に響く「ドン、ドン」という音は、二人の時の軽やかな「スッ、スッ」という音とは似ても似つかない。試みるほどに、現在の不器用さが露わになり、あの日の「無重力」が、いかにアキトとの「共同作業」によって生み出されていたかを痛感させられる。白い靴は、今や「完璧な記憶」と「満たされない現実」を結ぶ、冷たい鎖のようだった。

 

 

 

 

 

第4章:褪せたナイトガウンの自問

 

 


白い靴を履いたまま、アカリは鏡の前に立ち止まった。鏡に映る自分は、肩から落ちそうな、くたびれた薄い綿のナイトガウンを纏っている。記憶の中の自分は、光を反射する、夢のように鮮やかな色の布地に包まれていた。それは、誰の目にも美しい、自信と情熱に満ちた女性の姿だった。当時のその「ドレス」は、アキトの眼差しの中でさらに輝きを増していた。一方、このナイトガウンは、すべてから身を隠し、誰にも見られたくないという、現在の彼女の心情を象徴している。

 

 

 

 

アカリは鏡の中の自分を見つめ、自問した。

 

 

 

「あの時の輝きは、本当に私自身のものだったのだろうか?それとも、アキトの存在という光があって初めて見えたものだったのか?」

 

 

 

完璧に踊りたいという内なる願望は、このナイトガウンの現実によって強く打ち消される。理想の自分と、現在の不完全な自分。その埋めがたい溝の深さに、アカリは深く息を吐き出した。

 

 

 

 

 

第5章:独りの反響(エコー)

 

 


アカリは、目を閉じた。頭の中では、遠い昔に愛したメロディが、まるで古いレコードのノイズのように不鮮明にこだましている。それは、特定の曲ではない。しかし、彼女の心の中で「なつかしい歌」として位置づけられ、アキトとの時間を彩っていた、大切な旋律だった。

 

 

 

 

彼女は、その内なる音楽に合わせ、再びステップを踏もうと試みる。左、右、そして回転。しかし、ステップは途中で必ず乱れてしまう。音楽には、二人の呼吸と、二つの足音が重なることで初めて完成する間(ま)があった。今、その空間はぽっかりと空いている。誰も彼女のリズムを待っていないし、誰も彼女の不器用さを指摘しない。それは自由であると同時に、底なしの孤独だった。

 

 

 

 

孤独は、完璧な表現を許さない。アカリは、一人きりでは、この「なつかしい歌」が持つ真のエネルギーを引き出せないことを悟った。それは絶望というより、静かな受容だった。この部屋で、いくら試行錯誤しても、アキトという「相棒」がいない以上、あの日の「ダンス」は再現不可能だという冷たい事実。彼女は腕を下ろし、内なる音楽も静かにフェードアウトしていった。

 

 

 

 

 

第6章:不完全な調和の発見

 

 


絶望が静かに去り、部屋に再び静寂が戻る。アカリは鏡の前から離れ、丸いテーブルにそっと手を置いた。なぜ、私は「完璧な調和」という幻影に、こんなにも囚われていたのだろう?

 

 

 

彼女はアキトとのダンスを、唯一無二の「正解」として捉えすぎていたことに気づき始めた。「誰かと合わせるためのダンス」は、もはや彼女の現在ではない。彼女は、目を閉じたまま、心の中で鳴っている、今の自分のためのリズムを探した。それは、アキトとの時の華やかな四拍子ではなく、不安定で、速かったり遅かったりする、自分の呼吸そのもののリズムだった。

 

 

 

 

アカリは、白い靴を脱ぎ捨てた。裸足になり、素足で床を踏む。そして、不器用でもいい、ステップが崩れてもいい、と自身に言い聞かせた。彼女の心の中で揺れる、不安、後悔、そして小さな希望。それらすべてを、ただ体の揺れとして表現する。腕を広げ、体が傾くままに、その場をゆっくりと回転した。それは、過去の優美さとは程遠いが、彼女自身の感情と、現在の自分という存在との、静かで力強い「調和」だった。

 

 

 

 

 

第7章:夜を抱きしめる一歩

 

 


白い靴は床に置かれたままだ。ナイトガウンのままのアカリは、丸いテーブルの周りをゆっくりと歩き始めた。それはもう、記憶の中の誰かのステップを再現する試みではない。窓の外の夜は、依然として深い青に包まれている。しかし、アカリの心は、過去の夢の残像に囚われて揺れることをやめた。たとえ一人きりでは完璧に踊れなかったとしても、一人きりだからこそ、誰の視線も気にせず、自分の内面と向き合った動きができる。彼女は、この孤独をネガティブなものではなく、「自分のリズムを刻むための空間」として受け入れた。

 

 

 

 

アカリは夜の闇に向かって、そっと微笑む。過去の輝きを美しい記憶として尊重しつつ、不器用な現在の自分を抱きしめる。彼女の胸には、もう悲しみのエコーはない。あるのは、過去の影から解放され、新たな一歩を踏み出す、静かで力強い決意だけだ。

 

 

 

 

アカリは、新しい朝を待つのではなく、この「不完全な夜」の中で、未来へと向かう自分自身の新たなリズムを、そっと刻み始めた。その一歩一歩が、彼女自身の物語の始まりだった…