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SCENE#66  バスに乗り遅れた乗客 The Girl Who Missed the Last Bus


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第一章:いつもの終バスと予期せぬ乗客

 

 


ベテランバス運転手である佐藤和夫は、今日も深夜の最終便、通称「鬼灯(ほおずき)線」のハンドルを握っていた。市街地を遠く離れ、山あいの集落へと向かうこの路線は、終点近くになると、乗客の影はほとんど見えない。深夜特有の静寂と、バスのディーゼルエンジンの唸りだけが車内に響く。

 

 

 


「今日もこれで終わりか。冷えるな…」

 

 

 


佐藤は小さく息を吐き、缶コーヒーを一口飲んだ。時計は午前0時45分。最終バス停まで残り約1キロ。予定通り、この日の業務はまもなく終了する。

 

 

 


最終バス停、「稲荷前(いなりまえ)」が見えてきた。古びた木造の待合室と、頼りない街灯が二つ。周囲には数軒の民家があるきりだ。案の定、待合室に人の姿はない。

 

 

 

 

佐藤は惰性でブレーキを踏み、ドアを開けた。誰も乗らないのを確認し、再びドアを閉めようと操作レバーに手をかけた、その瞬間だった。

 

 

 


「すみません! お願いします!」

 

 

 


焦燥と安堵が混じった、しかし、どこか静かで透き通った女性の声が、バスの外、街灯の薄暗がりから響いた。佐藤は驚き、咄嗟にドアを全開にした。

 

 

 


息を切らした若い女性が一人、乗り込んできた。年は二十代前半だろうか。白いブラウスに、膝下の地味なネイビーのスカート。大きな荷物などは持っておらず、片手に小さなショルダーバッグを握っているだけだ。彼女の顔は汗ばんでいたが、それ以上に、何か切羽詰まった表情を浮かべていた。

 

 

 


「すみません、すみません! このバスで最終ですよね? 間に合って、本当によかったです…」

 

 

 


女性はバスのステップを上がりながら、心から安堵したように、そしてどこか遠慮がちに微笑んだ。

 

 

 


「ええ、これが最終です。危なかったですね。もう少しでドアを閉めるところでしたよ。足元、お気をつけて…」

 

 

 


佐藤は普段の終バスでは珍しい乗客を迎え入れ、安堵した。これで、彼女を終点まで送り届けさえすれば、今日の仕事は完了だ。時計は深夜1時を少し回っていた。

 

 

 

 

 


第二章:奇妙な沈黙と虚ろな視線

 

 

 

女性は最前列、運転席のすぐ後ろにある優先席に、音もなく座った。終点「○○駅」までは、さらに田舎道を進む。停留所はあと四つ。

 

 

 

 

佐藤はバックミラー越しに彼女を確認した。彼女は、窓の外の漆黒の闇を、じっと見つめている。その眼差しは、景色を眺めているというよりも、何か遠い過去を追っているかのように、虚ろだった。

 

 

 

 

何か佐藤は、違和感を覚えた。彼女がバスに駆け込んできた時、あれほど息を切らしていたというのに、今の彼女からは、微かな呼吸音すら聞こえてこないのだ。エンジン音と、車内の空調の音だけが、彼女の存在をかき消しているかのようだった。

 

 

 

 

普段、最終バスの乗客というのは、多少なりとも運転手に話しかけてくるものだ。「遅くまでご苦労様です…」とか、「今日の終バスは遅れていませんか?」とか。しかし、この女性は一言も発しない。携帯電話をいじるわけでもなく、ただ静かに座っているのだ。

 

 

 


「疲れているのか…それとも、何か悩み事でもあるのだろうか…」

 

 

 


佐藤はそう考え、できるだけ静かに運転することに努めた。しかし、バックミラーに映る彼女の横顔は、時間が経つにつれて、ますます生気が失われているように見えた。

 

 

 


次の停留所、その次の停留所。乗降客は、もちろんゼロ。山道に入り、周囲の灯りがさらに少なくなると、バスの車内は、ますます静けさを増した。佐藤は、ふと背筋に冷たいものを感じた。この静寂は、まるで生きている人間が乗っている静けさではない、と…

 

 

 

 

 


第三章:忽然と消えた乗客の痕跡

 

 

 


最後の停留所を通過し、終点まであと数百メートルという地点に差し掛かった。バスは、終点駅前のロータリーに入る前の、人通りのない長い直線道路を走っている。

 

 

 


「まもなく、終点、○○駅です。お忘れ物のないよう、ご注意ください…」

 

 

 


佐藤が定型のアナウンスを流したとき、念のため、バックミラーで女性に降車準備を促そうと視線をやった。

 

 

 


その瞬間、彼の心臓は凍りついた…

 

 


最前列の座席に、誰もいない…

 

 

 


さっきまで、確かにそこに座っていたはずの、白いブラウスの女性の姿が、完全に消え失せていたのだ。

 

 

 


「え…?」

 

 

 


佐藤は驚愕し、咄嗟に強くブレーキを踏み込んだ。深夜の道路脇に、バスが急停車する。

 

 

 


「まさか、途中で降りたのか? いや、そんなはずは…」

 

 

 


佐藤は運転席から飛び出し、急いで車内を振り返った。誰もいない。バスの後部座席まで一歩ずつ進み、シートの影、荷物置き場、どこを見ても彼女の姿はない。

 

 

 


彼女が乗車したのは「稲荷前」停留所。そこから終点までの間で、彼は一度もドアを開けていない。山道に入ってからは、バスは停車すらしていない。

 

 

 


唯一、彼女が座っていたはずの最前列の座席。そこのシートの表面が、ごくわずか、人の重みで凹んでいた、ような気がした。しかし、それ以外、彼女がそこにいたことを証明するものは、何一つない。ショルダーバッグも、ハンカチも、靴すら残されていない。

 

 

 


「一体、どういうことだ…見間違いか? 疲労で幻覚を見たのか?」

 

 

 


佐藤は自分の理性が崩壊していくのを感じた。こんなことは、30年の運転手生活で一度もない。ありえないことが、今、彼のバスの車内で起こったのだ。

 

 

 


彼は、震える手で無線を取り、営業所に報告しようとしたが、その瞬間、ポケットの携帯電話が、無情にも鋭い音を立てて鳴り響いた。

 

 

 

 

 


第四章:営業所からの不可解な電話

 

 

 

携帯電話のディスプレイには、営業所の夜勤担当者である若い男性社員の名前が表示されていた。

 

 

 


「佐藤さん、今どこですか? 終点着きましたか?」

 

 

 


担当者の声は、いつもより幾分か焦っているように聞こえた。

 

 

 


「ああ、今、終点の手前だ。実は、ちょっと…」

 

 

 


佐藤が事態を説明しようとすると、担当者がその声を遮ってきた。

 

 

 


「ちょっと待ってください、佐藤さん。実はさっき、変な電話があったんですよ。最終バス停の『稲荷前』から、営業所に…」

 

 

 


「稲荷前…? 誰からだ?」

 

 

 


「それが、若い女性の声で。『すみません。最終バスに、本当にギリギリで乗り遅れてしまいました。次の便はもう、ありませんか?』って、すごく静かな声で尋ねてきたんです…」

 

 

 


佐藤は全身の血の気が引くのを感じた。電話があったのは、彼がバス停でその女性を乗せ、発車してからわずか数分後のことだ。

 

 

 


「まさか…その女性、どんな声だったんだ? 服装とか、何か言わなかったか?」

 

 

 

「服装までは…ただ、声はとても落ち着いていて、でも、何か諦めているような、とても元気のないトーンでした。佐藤さん、その女性、まさか…バスに乗せませんでしたか?」

 

 

 


佐藤の頭の中で、激しい葛藤が起こった。正直に「乗せたが、今、忽然と消えた…」と話せば、彼は精神状態を疑われ、大騒ぎになる。

 

 

 


「乗せた…いや、乗せなかった。俺は今、終点手前で停車している。最終バス停には、誰もいなかった。たぶん、俺の疲労による見間違いだったんだろう…」

 

 

 


佐藤は咄嗟に、完璧な嘘をついた。彼は、この超常現象を、自分一人で抱え込むことを選んだ。

 

 

 


「そうですか…なら、女性は、本当に乗り遅れたんでしょうね。タクシーでも拾ったんですかね。とにかく、佐藤さん、終点まで行って、営業所へ戻ってきてください。お疲れ様でした」

 

 

 

 

担当者はあっさり電話を終えた。佐藤は携帯電話を強く握りしめたまま、バスの座席に崩れ落ちた。彼はたしかに、あの女性を乗せたのだ。しかし彼女は消えた。そして、彼女は、自分が乗車した直後に、「乗り遅れた」と電話をかけている。つじつまが合わない…

 

 

 

 

 


第五章:引き返した終バスと貼り紙

 

 

 


佐藤は、恐怖と混乱に打ちひしがれながらも、終点までバスを走らせた。終点駅前のロータリーで一通りの点検を行い、営業所へ帰路につく。しかし、彼の頭の中は、あの女性のことでいっぱいだった。

 

 

 


「一体、彼女は何だったんだ。なぜ消えた? そして、なぜ『乗り遅れた』と…」

 

 

 


彼は運転を続けながら、ある強い衝動に駆られた。このまま営業所に戻っても、彼女のことが頭から離れないだろう。真実を知りたい。

 

 

 


「もう一度、最終バス停に戻ってみよう…」

 

 

 


理性ではなく、何かに導かれるように、彼はルートを逸脱し、再び「稲荷前」のバス停へと向かった。深夜の山道を引き返すバスの重い走行音が、彼の決意を際立たせる。

 

 

 


午前2時前。最終バス停は、数時間前と同じように、街灯の光に照らされ、静まり返っていた。ベンチにはもちろん、人の気配はない。

 

 

 


佐藤はバスを停め、降りて、ベンチに近づいた。その古びた木製のベンチの座面に、まるで誰かが急いで貼り付けたかのように、小さな白い紙が、セロハンテープで留められているのを見つけた。

 

 

 


佐藤の心臓が、再び激しく鼓動し始めた…

 

 

 

 

 

 

第六章:和紙に綴られたメッセージ

 

 


佐藤は、周りを警戒しながらも、その紙を剥がし取り、バスに戻った。運転席の蛍光灯の白い光の下で、紙を広げた。

 

 

 


それは、現代のコピー用紙のようなものではなく、和紙に近い、少しざらざらとした手触りの、薄い紙片だった。そこに、鉛筆か何かで、子供が書いたような、震える文字が綴られていた。

 

 

 


「おとうさんへ…」

 

 

 


その文字を読んだ瞬間、佐藤の全身に、強い電流が走った。彼は、深い井戸の底から湧き上がるような、胸の奥の激しい痛みを感じた。

 

 

 


「わたしは、あのひ、さいごのバスにのれませんでした…」

 

 

 


文字は、そこで途切れていた。まるで、書いた者が最後まで書ききれなかったかのように…

 

 

 


その時、佐藤の頭の中で、長年封印していた記憶の扉が、音を立てて開いた。

 

 

 


かつて、この路線を走り始めた頃、彼は先輩運転手から恐ろしい話を聞いたのだった。この「稲荷前」バス停の近くで、最終バスに乗り遅れた女子高生が、慌てて道を渡ろうとし、対向車に轢かれて命を落とした、と。その事故以来、深夜のこのバス停で、白い服の女性の影を見たという噂が絶えなかった。

 

 

 


「彼女は…あの事故の…」

 

 

 


佐藤は、乗せた女性と、その悲劇の女子高生が同一であることを悟った。彼女は、「あの時、乗り遅れてしまった自分」を、今日、彼のバスに乗せて、終点まで行きたかったのだ。

 

 

 


そして、「おとうさんへ」という文字。なぜ、自分に宛てられたかのようなこのメッセージが、残されたのか。

 

 

 


突然、彼の脳裏に、女性の幼い頃の姿が、鮮明に浮かび上がった。君は、いつも白いブラウスと、それに合わせたネイビーのスカートを着たがっている…そして、いつもおとうさんの帰りを、家の玄関先で待っている…事故があった日…君はバスに乗り遅れてしまい、おとうさんの帰りに間に合わなかった…

 

 

 


「まさか、あの娘が…」

 

 

 


佐藤は、このメッセージが、あの世の女性から、バスの運転手という立場で女性と同じくらいの年齢の悲劇を知る自分に託された、代理のメッセージであることを直感した。

 

 

 


彼は、震える手で紙の裏側をひっくり返した…

 

 

 

 

 


第七章:いつもの最終便と託された安堵

 

 

 


紙の裏には、同じ鉛筆の、しかし、先ほどよりも少しだけ落ち着いた、安堵したような筆跡で、メッセージが書き足されていた。

 

 

 


「バスにのれて、うれしかったです…」

 

 

 


そして、その下。一番最後に、小さく、だが、はっきりと力強く、感謝の言葉が綴られていた。

 

 

 


「ありがとう。おとうさんのかえりにまにあいました…」

 

 

 


佐藤は、その言葉を読み終えた瞬間、こらえきれずに嗚咽を漏らした。それは恐怖の涙ではなく、深い悲しみと、そして、得体の知れない安堵の涙だった。

 

 

 


彼女は、ただバスに乗りたかったのだ。あの夜、乗り遅れたことが、彼女にとって、この世とあの世の狭間でさまよわせる、たった一つの「心残り」だったのだろう。そして、今日の佐藤の最終便は、その心残りを晴らすための、たった一度の「特別な便」となったのだ。

 

 

 

 

彼女が営業所に「乗り遅れた」と電話をかけたのは、彼女の「過去」の事実を曲げず、自分がバスに乗れたという「今」の奇跡を、静かに完結させるためだったのかもしれない。

 

 

 


佐藤は、手紙を丁寧に四つに折りたたみ、運転席の胸ポケットに深くしまい込んだ。そして、その紙は彼の人生の一部となった。

 

 

 


彼は、深く息を吐き出し、立ち上がった。

 

 

 


「気をつけろよ…どうぞ安らかに…」

 

 

 


佐藤は、彼女が去っていった静寂に向かって、そう呟いた。

 

 

 


再び、バスのエンジンをかける。終点へと向かう道は、相変わらず深夜の闇に包まれていたが、車内の空気は、もはや重苦しいものではなかった。どこか温かく、見守られているような、穏やかな静けさに満ちていた。

 

 

 


「さて、今日は少し遅くなったが、帰るか…」

 

 

 


佐藤は、再びいつものベテラン運転手に戻った。この不思議な体験は、誰にも語らない。ただ、この日を境に、彼は最終バス停「稲荷前」に到着するたびに、乗客が誰もいなくても、必ずドアを少しだけ長めに開けてから、ゆっくりと閉めるようになった。まるで、乗り遅れた誰かのために、僅かな時間、立ち止まるように…

 

 

 


そして、最終バス停から営業所へと向かう彼の最終便は、いつまでも、静かで、優しい運行を続けるのだった…