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SCENE#68  ひとりぼっちの生誕祭 A Birthday Alone


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プロローグ:11月25日:誰も知らない記念日

 

 

 


11月25日。朝焼け前の都心は、どこか冷たく、律動的だった。椎名律、29歳。彼にとってこの日は、一年で最も静謐であるべき日であり、同時に、自分の存在を最も意識的に消す日でもあった。彼の誕生日、彼の言葉で言うところの「生誕祭」。

 

 

 


律は、朝の支度をしながら、鏡に映る自分を見つめた。特に感慨はない。ただ、今日一日を、波風立てずに終えることだけを考えていた。

 

 

 


都心のデザイン事務所では、律は「実直だが内向的」という評価で定着していた。必要以上の会話はせず、同僚の私的な誘いには常に穏やかな笑みと共に「用事があるので…」と断り続けている。それは、彼が築き上げた自衛のための完璧な壁だった。

 

 

 


午後、フロアの一角で、来週行われる先輩の佐藤さんの誕生日パーティーの計画が持ち上がり、賑やかな話し声が聞こえてきた。律はヘッドホンを装着し、ディスプレイに目を落とす。心の中で静かに念じる。

 

 

 

「自分は無色透明だ。この世界のイベントには参加しない…」

 

 

 


定時。チャイムが鳴ると、律はまるで訓練されたかのように即座に席を立った。周りの「お疲れ様です!」という声にも、最小限の会釈のみで応じる。外に出ると、冬の訪れを感じさせる冷たい風が、律のコートの襟を立てさせた。

 

 

 


都心から電車で揺られ、古いアパートの自室に戻ったのは、夜10時を過ぎていた。狭い部屋の空気が、彼の存在だけを許すかのように、ひっそりと彼を迎える。電気はつけず、窓から差し込む街の光と月明かりが、部屋に薄い青色の影を落とす。

 

 

 


律は、部屋の隅の小さな本棚から、埃を被った古い手帳を取り出した。祖母の形見だ。ページを開くと、そこには独特の丸文字で書かれたメッセージが…

 

 

 


「律。生誕祭は、誰かに祝ってもらう日じゃない。誰にも遠慮せず、自分が生まれてきたことを、自分で許してあげる日だよ。さあ、ロウソクに火を灯して、あなたの人生を祝福なさい…」

 

 

 


律は、その言葉を指先でなぞった。祖母が亡くなって十年。彼の生誕祭は、毎年、この孤独な儀式だけで完結していた。今年もまた、誰も知らない、律だけの生誕祭が始まるのだ。

 

 

 

 

 

第1章:過去の傷と、祖母のレシピ

 

 

 

律が外界との接触を絶ったのは、突然の出来事ではなかった。それは、痛みを伴う長いプロセスの結果だった。

 

 

 

大学時代、彼は熱心にデザインを学んでいた。友人たちの中心にいる明るい人間だった。しかし、卒業制作として情熱を注いだ作品が、最も信頼していた友人に盗用され、公の場で自分の功績がねじ曲げられた。さらに、その友人の巧妙な立ち回りにより、周囲は「それは律の思い込みではないか…」「律にも原因がある!」という空気に染まっていった。

 

 

 


その瞬間、律の中で何かが崩壊した。信じていた友情は砂のように崩れ、人間の善意は脆く、そして裏切りは静かに、決定的な傷を残すことを知った。彼は、優しさが時に人を拘束し、期待が失望を生むことを学んだ。それ以来、律は深い関係を避け、自分自身を傷つける可能性のあるすべてを遠ざけてきたのだった。

 

 

 


キッチンに立つ。律は、祖母のレシピ帳を開いた。それは、何十年も使い込まれた証拠に、シミや折り目がついている。祖母が毎年、律の誕生日に作ってくれた特別なケーキ、「アニバーサリーケーキ」のレシピ。普通の誕生日ケーキとは異なり、スパイスとブランデーが効いた、少しビターで大人の味だった。

 

 

 


「今年は、ちゃんと作りたいなぁ…」

 

 

 


律は、普段行かない少し離れた商店街の専門店へ足を運んだ。無塩バター、ブランデー、バニラビーンズ。一つ一つ、祖母が使っていたものに似た高品質な材料を選ぶ。店内の賑わい、家族連れの談笑。それらすべてを「他人事」として認識し、感情の介入を許さない。彼は、この儀式を遂行することだけが、自分を保つ唯一の方法だと信じていた。ケーキ作りは、律にとって、過去の穏やかな記憶の中に潜り込むための、一種のセラピーだった。

 

 

 

 

 

第2章:真夜中の儀式

 

 

 

深夜1時。律はエプロンを締め、集中力を高めてケーキ作りに取り掛かった。レシピはすべて手書きで、祖母の注釈が細かく書き込まれている。

 

 

 


「ブランデーは惜しまず。心を込めること」

 

 

 


不器用な手つきながらも、律は丁寧だった。小麦粉をふるい、卵を泡立て、ブランデーを少し多めに加えて生地を混ぜる。焼き上げる間、部屋は甘い香りと、微かなアルコールが蒸発する香りで満たされた。律は、オーブンの前に座り込み、ガラス越しにケーキがゆっくりと膨らむのを無言で見つめた。

 

 

 


ケーキが冷めるのを待ち、律は丁寧にアイシングで表面を覆った。形は少し歪んでいる。しかし、律にとっては完璧だった。それは、祖母の愛情と、律自身の不完全さが同居する、唯一無二の作品だった。

 

 

 


テーブルの上にケーキを置き、律は箱から29本の細いロウソクを取り出した。ロウソク一本一本、丁寧に挿していく。そして、律は部屋の電気を消した。

 

 

 


漆黒の闇の中、律はポケットからマッチを取り出し、火を擦った。チリチリという音。炎が生まれ、次々とロウソクの芯に灯されていく。29本の小さな炎は、律の小さな部屋を、温かく、どこか非現実的な光で満たした。炎の揺らめきが、壁に律の孤独な影を大きく映し出していた。

 

 

 


律は深呼吸をし、静かに歌い始めた。それは、誰に聞かせるわけでもない、自分自身への鎮魂歌だった。

 

 

 


「ハッピーバースデートゥーミー、ハッピーバースデートゥーミー……」

 

 

 


歌い終わると、律は目を閉じた。祖母の言葉を思い出す。

 

 

 


「自分が生まれてきたことを許してあげる日だよ…」

 

 

 

そして、律は一気に息を吸い込み、29の炎を吹き消した。フッ。

 

 

 


再び訪れた静寂の中、律はフォークを手に取り、ケーキを一口切り分けた。甘さの後に残るブランデーのほろ苦さが、涙腺を刺激した。これは、律が孤独を噛みしめ、自分を再確認する、神聖な儀式だった。

 

 

 

 

 

第3章:予期せぬ小さな出会い

 

 

 

律が一切れ目のケーキを食べ終え、二切れ目を切り分けようとした、そのときだった。

 

 

 


ドアの外から、「ミャア……ミャア……」という、か細い鳴き声が聞こえた。それはあまりにも弱々しく、今にも途絶えそうな声だった。律は警戒した。こんな夜更けに、誰かが自分に関わってくることなど、考えられない。

 

 

 


鳴き声は止まない。律は、わずかにドアを開けた。視線を下げると、玄関脇に置かれた古びた段ボール箱の中に、一匹の小さな子猫が丸くなっているのが見えた。雨で濡れそぼり、泥で汚れている。明らかに捨てられた猫だった。

 

 

 


「どうして……」

 

 

 


律の理性は「関わるな!」と命じた。面倒事だ。動物を飼うなど、自分の生活パターンを崩す行為だ。しかし、29本のロウソクを吹き消した直後の、孤独と感傷に包まれた心は、その小さな命を無視することができなかった。

 

 

 


彼は、静かに子猫を抱き上げた。毛皮は冷たく、骨格が手に伝わるほど痩せている。律は子猫を濡れた箱から出し、部屋の中にそっと運んだ。

 

 

 


タオルで丁寧に体を拭き、古い毛布を敷いた場所に寝かせた。冷蔵庫から牛乳を取り出し、少し温めて水で薄めて与えると、子猫は飢えていたのか、必死にそれを飲み干した。飲み終わると、子猫は律の指に頭を擦り付けた。

 

 

 


律は、その体温と、喉から微かに聞こえるゴロゴロという音に、胸が締め付けられるのを感じた。この子猫は、律の完全に計画された孤独な夜を、予期せぬ、そして抗いがたい優しさで乱したのだ。

 

 

 


律は一晩中、子猫の様子を見守った。眠れないまま、ただその小さな命の隣に座っている。自分の世界を完全に閉ざしていた律が、初めて、自分以外の存在のために、自分の時間と心を使った夜だった。

 

 

 

 

 

第4章:老店主の優しい嘘

 

 

 

翌朝、律は子猫を「コハル」と名付けた。拾った日が立冬に近く、冬が終わり早く春のような温かさを感じたかったからだ。

 

 

 


律は、コハルを家族として迎えることを決意した。彼は自分の生活リズムを崩すことを許した。これは、過去の傷を抱える律にとって、革命的な一歩だった。

 

 

 


律はコハルの餌や用品を買いに、近所の商店街へ向かった。そして、祖母とよく通った、古びた喫茶店「銀の鈴」の前で、思わず立ち止まった。扉を開けるのには勇気が要ったが、コハルのことを誰かに相談したいという衝動に駆られた。

 

 

 


「いらっしゃい。……あら、律ちゃんじゃないかい!」

 

 

 


カウンターの奥から、白髪で小柄な老婦人、春子が出てきた。春子は律の祖母の親友で、律のことも子供の頃から知っている。律は少しぎこちなく挨拶をした後、コハルを拾った経緯を正直に話した。

 

 

 


春子は、律の話を静かに聞いていた。そして、律の孤独な影を、優しい眼差しで見抜いていた。

 

 

 


「そうかい。律ちゃんが、その小さな命を救ったんだね。それは律ちゃんが、とても優しい心の持ち主だからだよ…」

 

 

 


春子は、律の寂しさや内向性について、何も詮索しなかった。ただ、優しく微笑んで、コーヒーを淹れながら続けた。

 

 

 

「その子は幸せだよ。こんなに丁寧に、優しくしてくれる人に拾われてね。律ちゃんのおばあちゃんも、きっと喜んでいるんじゃないかしら…」

 

 

 


その言葉は、律の心に深く染み込んだ。律はいつも、他者から「優しさ」を求められ、期待に応えようとして裏切られてきた。しかし、春子の言葉は、見返りを求めない律自身の本質的な優しさを肯定するものだった。

 

 

 

 

律は胸の奥が熱くなるのを感じた。それは、何年もかけて築き上げた律の自己否定の殻に、春子の無垢な優しさが差し込んだ光だった。彼は、春子にコハルのこと、祖母のこと、そして少しだけ自分の仕事のことまで話していた。律にとって、これは数年ぶりの「心の交流」だった。

 

 

 

 

 

第5章:小さな世界の綻び

 

 

 

コハルを飼い始めてから、律の生活に明らかな変化が訪れた。彼はもう、残業してまで仕事をするのをやめた。コハルの世話がある。早く帰りたい。その「義務感」が、律を職場から解放した。

 

 

 


「すみません、用事がありまして…」と上司に残業を断る律に、同僚の女性、佐倉(さくら)が声をかけてきた。佐倉は、以前律に優しく話しかけようとしては、律の壁に阻まれていた人物だ。

 

 

 


「椎名さん、最近、なんだか表情が柔らかくなりましたね。前の張り詰めた感じがなくて、すごく自然な顔をされていますね!」

 

 

 


律は、自分の変化を他者に指摘されたことに驚いた。しかし、以前のような不快感や警戒心は湧かなかった。佐倉の視線は純粋で、悪意がないことがわかった。

 

 

 

「ええと……」律は躊躇した。自分のプライベートを明かすことへの恐怖。しかし、コハルの存在は、律にとって隠せない喜びになりつつあった。

 

 

 


「実は……最近猫を飼い始めたんです。急に拾ってしまって、世話が大変で、早く帰らないと落ち着かなくて…」律は、早口で打ち明けた。

 

 

 


佐倉は目を丸くした後、嬉しそうに笑った。「猫! そうでしたか。きっと可愛いでしょうね。椎名さんがそんな風に急いで帰るなんて、よっぽどですよ!」

 

 

 


佐倉は、律の心の内側の世界に、踏み込みすぎない程度の好奇心を示した。その会話を通して、律は佐倉が猫好きであること、そして彼女もまた、都会で働く孤独を抱えていることを知った。

 

 

 


律が自分の内側を他人に開いた瞬間。それは、彼が何年もかけて築いた強固な壁に、初めて開いた小さな扉だった。律は、孤独が「誰もいないこと」ではなく、「誰にも心を開かないこと」だったと、体感し始めた。

 

 

 

 

 

 

第6章:生誕祭の本当の意味

 

 

 

コハル、春子、そして佐倉との小さな交流は、律の心の中で、ゆっくりと雪解けを促していた。彼は、人間関係を避け続けることが、過去の傷を守る一方で、未来の喜びをすべて遮断していることに気づいた。

 

 

 


ある週末。律は改めて、アニバーサリーケーキのレシピ帳を手に取った。彼は、祖母のメッセージが書かれたページをじっと見つめた。

 

 

 


「律。生誕祭は、誰かと分かち合うことで、本当の祝福になるんだよ。喜びは半分こ。悲しみも半分こ。そうすれば、いつか全部、感謝になる…」

 

 

 


律は、今年の生誕祭がひとりぼっちで終わらなかったことに気づいた。あの夜の孤独な儀式は、小さな命との出会いという、かけがえのない喜びを生んだ。そして、その喜びが、春子や佐倉との新しい関係へと繋がった。

 

 

 

律は決意した。この喜びを、祖母の言う通り、誰かと分かち合おう…

 

 

 

律は勇気を振り絞り、まず春子と、佐倉にメールを送った。

 

 

 

「来週の土曜の夜、僕の部屋で、コハルの命名祝いをしませんか。ささやかですが、ケーキを焼きます。よかったら、いらしてください!」

 

 

 

律は、返事を待つ数分間、これまでにないほど緊張した。もし拒否されてしまったら、また心の壁を高く積み上げることになるかもしれない。しかし、律はもう逃げたくなかった。

 

 

 


数分後、佐倉から返信が来た。シンプルな絵文字と、たった一言の明るいメッセージ。

 

 

 


「行きます! 楽しみにしていますね!」

 

 


遅れて、春子からもメッセージが来た。

 

 

 

 「一緒にお祝いしましょうね!」

 

 

 


律は、静かに、深く息を吐いた。

 

 

 

 


エピローグ:ひとりぼっちではない、次の1年

 

 

 

約束の土曜の夜。律の小さなアパートの部屋は、以前とは全く違う空気に包まれていた。

 

 

 

春子は手作りの温かいポトフを、佐倉は可愛らしい猫じゃらしと、コハル用の小さな首輪を持って訪ねてくれた。律は、また祖母のレシピでケーキを焼いた。今度は、誰かと分かち合うことを前提に、心を込めて作った。

 

 

 


テーブルの上には、手作りのケーキとポトフ、そしてコハルのための新鮮な水と餌。皆でコハルを囲み、佐倉が持ってきたおもちゃで遊んでやると、コハルは嬉しそうに飛び跳ねた。

 

 

 


春子は、律のケーキを食べて言った。

 

 

 

「うん。美味しいわ。優しい味がするよ!」

 

 

 

佐倉は、「椎名さんって、お料理もされるんですね。意外です!」と、親しみを込めた眼差しを向けた。

 

 

 

律は、心から笑っていた。それは、何年も忘れていた、偽りも遠慮もない、自分自身の笑いだった。春子がグラスを掲げた。

 

 

 

「コハルちゃんの命名祝いと、それから、律ちゃんの新しい門出に、乾杯!」

 

 

 


グラスを合わせたときの、カチンという軽い音。律は、その音を、まるで新しい人生の始まりを告げる鐘の音のように感じた。ロウソクは立てていない。しかし、この場の温かい光は、去年のひとりきりの「生誕祭」の炎よりも、ずっと明るく、律の心を照らしていた。

 

 

 


律はコハルを抱きかかえ、窓の外の夜空を見上げた。月は冷たく輝いているが、律の心は温かかった。

 

 

 


「ありがとう、おばあちゃん…」

 

 

 


律は、心の中で祖母に語りかけた。

 

 

 


「生誕祭……ひとりぼっちじゃなかったよ…」

 

 

 


彼の次の1年、そして次の生誕祭は、きっとひとりぼっちではない。優しさと希望に満ちた笑顔が、その静かな未来を照らしていた…