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SCENE#73  作家たるもの、幸せになるべきではない… Why a Writer Should Avoid Happiness


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序章:第一章「煉獄の才能と凡庸の拒絶」(18歳〜24歳)

 

 


志賀涼は、思春期から「世界が二重に見える」という感覚に苦しんでいた。周囲の人々が享受する「安心」や「温かさ」は、彼には上っ面だけの虚飾に映った。特に、週末の家族の笑顔は、その裏にある日常の小さな不満や偽善を覆い隠すための、薄っぺらな幕にしか見えなかった。

 

 

 


高校時代、彼は詩や小説を書き始め、文章の中にのみ、世界の真実を表現できる場所を見出した。大学進学後、この才能は暴走を始める。彼は、両親の慎ましい幸福を「凡庸で汚らわしい妥協の産物」だと断じ、激しく衝突。全てを捨てて家を飛び出し、下町の薄暗いアパートで極貧生活に身を投じた。彼は自ら意図的に飢え、孤独を選び、その肉体的・精神的な苦痛を創作の源泉とした。

 

 

 

 

この時期に書き上げた処女作『溶解する魂』は、戦後の復興後の豊かな社会の裏側に潜む、人間の根源的な虚無と闇を、鋭利な刃物のような文体で抉り出した。作品は瞬く間に文学界の話題を独占し、涼は一躍時代の寵児となった。

 

 

 

 

しかし、彼はその成功を冷ややかに受け止め、ある授賞式の後の記者会見で、「僕の文学は、貴方たちが必死で守ろうとする安易な幸福を、木っ端微塵に破壊するためにある…」と宣言。この強烈な一撃により、作家・志賀 涼の「幸福の拒絶」という美学は、彼の名刺となった。

 

 

 

 

 

第二章「炎上する美学と愛の断絶」(25歳〜29歳)

 

 

 

涼の文学的成功は、彼の自己破壊的な信念をさらに強化した。彼は世間の喝采を、自分の「不幸」が正しかったことの証明だと捉えた。彼は、自らの観察眼を曇らせる可能性のある「幸福」や「安定」を徹底的に排除した。住居を転々と変え、取材と称して社会の底辺や、人間の欲望が剥き出しになる場所に入り込み、そこで得た体験を作品に血肉として注ぎ込んだ。

 

 

 

 

この時期、幼馴染の佐伯 梢が、彼の唯一の理解者として、彼の孤独を埋めようと試みた。梢は彼の作品の真の読者であり、その奥底に潜む繊細さと痛みを愛していた。彼女は涼に「あなたは愛されるべき人よ…」と訴えるが、涼は冷酷にそれを拒絶した。

 

 

 


「君の愛は、僕の魂を凡庸にする毒だ!真の芸術は、愛という安っぽい妥協の対極にある…」

 

 

 


彼は梢との関係を断ち切り、自分から最も遠い場所に彼女を押しやった。

 

 

 


彼の私生活は、作品の過激さそのままにスキャンダルに満ちていた。彼は女性との関係すらも「真実を探るための実験」と見なし、その関係の末に訪れる裏切りや喪失感を、次なる作品の燃料とした。彼は、世間から孤高の存在として祭り上げられ、その炎上する生き様こそが、彼の文学の一部となっていった。

 

 

 

 

 

第三章「虚飾の愛、創作の停滞、そして裏切り」(30歳〜35歳)

 

 


絶え間ない自己破壊の果てに、涼の心身は限界を迎えていた。彼は、ある女性編集者と出会い、その献身的な優しさに、図らずも安息を見出してしまった。彼女は涼の天才を理解しつつも、人間的な温かさで彼を包み込んだ。涼は、彼女の隣で、数年間、初めて「普通に幸せな生活」を送った。

 

 

 

 

この期間に書かれた小説は、以前の鋭利な毒気を失い、円熟味はあるものの、どこか「優しい」ものになってしまった。作品は発表されるや否や、「志賀涼の魂が抜けた…」「彼も丸くなった…」と酷評され、セールスも低迷。涼は、自分の信念が、真の芸術を維持するための絶対的な掟であったことを、この失敗によって思い知らされた。

 

 

 

 

彼は、自分の芸術と、目の前の安心との間で激しく葛藤した末、自らの手でこの「偽りの幸福」を破壊することを決意した。彼は愛する女性が最も隠したがっていた過去の秘密を、冷酷にも小説の題材として利用し、彼女を精神的に打ちのめした上で別れを告げた。この裏切りは、彼の生涯で最も残酷な行為であり、同時に、彼の芸術のための自己犠牲であった。女性の崩壊の痛みと、自責の念という血の滲むような感情が、次なる傑作のエネルギーとなったのだ。

 

 

 

 

 

第四章「時代との血戦と孤高の代償」(36歳〜42歳)

 

 


「幸福」という毒を吐き出した涼は、再び苛烈な筆致を取り戻した。彼は文学界の権威主義、そして社会の欺瞞に対し、さらに激しい批判を展開した。彼の長編小説は、社会のタブーを容赦なく暴き、政治的な論争まで引き起こす「文学の爆弾」となった。彼は、自身の作品を巡る騒動を、むしろ楽しんでいるようにも見えた。

 

 

 

 

この時期、彼は文学界の最高峰とされる賞に内定した。しかし涼は、「体制の甘い蜜を吸うことは、作家の魂を汚し、牙を抜く!」と断じ、受賞を拒否。この行動は、彼を世間から完全に孤立させると同時に、「時代の闘士」としての彼の伝説を不動のものにした。

 

 

 

 

しかし、この孤高の立場は、彼に大きな代償を強いた。彼は、世界を憎み、観察し続けた結果、自分自身が世界から完全に切り離された、透明な「檻」の中にいることに気づいた。書けば書くほどに、彼は人間的な感情から遠ざかり、ただ世界の悲劇を写し取る冷たい「レンズ」のような存在になり下がってしまったのだった。

 

 

 

 

 

第五章「闇の螺旋と梢との再会」(43歳〜49歳)

 

 


極限の孤独と、絶え間ない自己破壊を続けた涼は、ついに創作のスランプに陥った。自分の人生の痛み、観察した世界の痛み、全ての悲劇的な題材を書き尽くし、「もう、書くべき真実がない…」という虚無感に襲われた。天才の枯渇は、彼をさらに闇へと突き落とした。

 

 

 


筆が進まない苛立ちから、彼は酒に溺れ、自堕落な生活を送った。肉体的な衰えと精神的な衰弱が始まり、彼の天才的な光は陰りを見せ始めた。彼は、もはや創作のための「痛み」すら、自力で生み出せなくなっていた。

 

 

 

 

そんな中、偶然にも彼は佐伯 梢と再会した。梢は結婚し、穏やかな家庭を築いていた。その「平凡な幸福」は、涼の荒廃した人生とはあまりに対照的であった。涼は、梢の満たされた瞳を見て、激しい衝撃を受けた。彼は梢に「君の幸福は僕には地獄だ!」と、毒づくが、その声には、嫉妬と、それを手にすることができなかった男の諦めが混ざっていた。梢は、彼の作品の奥底に潜む「救いを求める魂」を静かに見抜いていた。

 

 

 

 

 

第六章「後悔の病床と信念の崩壊」(50歳〜55歳)

 

 


涼は重い病を患い、死の影が身近なものとなった。激しい肉体の苦痛の中で、彼は初めて、自らが徹底的に拒絶してきた「生」への強い執着と、失った「愛」への後悔を感じた。

 

 

 

 

病床で過去の作品を読み返した彼は、愕然とした。そこに書かれていたのは、真実ではなく、幸福を恐れた男の、必死の自己弁護ではなかったか? 「作家たるもの、幸せになるべきではない…」という彼の美学は、ただの強がりであり、幸福を享受する才能がなかった己の弱さを糊塗するための論理ではなかったか? 彼の信念は根底から崩壊し始めた。

 

 

 

 

長年の理解者であった編集長が、病室を訪れた。彼は涼に、最期の言葉を遺した。

 

 

 


「君は孤独を愛したのではない。ただ、愛されることを、信じられなかっただけだ…」

 

 

 


涼は、この言葉が、彼の生涯で最も正確な批評であることを悟り、初めて堰を切ったように涙が溢れた。彼の「不幸の美学」は、ここに完全に終焉を迎えたのだった。

 

 

 

 

 

終章:第七章「人間・志賀 涼の告白」(56歳、最期)

 

 


死を前に、涼に残された時間は僅かだった。彼は、最後の気力を振り絞り、最後の作品『幸福を恐れた男の記録』を書き始めた。

 

 

 


この小説は、彼がこれまで描いてきたような、世界の不条理や悲劇をテーマにしたものではなかった。それは、彼がどれほど「幸福」を切望しながら、不器用にそれを拒絶し、大切なものを壊してきたかという、一人の人間としての魂の告白であった。

 

 

 


彼は、かつて裏切った女性への謝罪、そして、生涯で唯一の理解者であった梢への、静かな愛の念を、文学としてではなく、生の言葉として綴り始めた。

 

 

 


彼は梢へ、作品とは別に一通の手紙を託した。そこには、「君の幸福が、僕の人生の唯一の真実だった…」と、生涯で初めての率直な愛の言葉で綴られていた。

 

 

 


その後、涼は、書き終えた原稿を抱きしめるかのように、静かに息を引き取った。彼の死に顔には、安堵と、かすかな後悔と、そして解放されたような穏やかな表情が浮かんでいた。

 

 

 


彼の死後発表された最後の作品は、彼の従来の作品とは異なり、深い人間的な温もりと痛みに満ちていた。そして世間からは絶賛された。作家として最も不幸を追求した人生の終わりに、人間として最も「愛」と「救済」に満ちた作品を残したのだった。

 

 

 


作家・志賀 涼は、自らの信念を貫き、不幸なまま死んだ。しかし、人間・志賀 涼は、最期に全てを告白し、救済されたのだ…