
序章(I)聖樹の下、再会する影
都心の喧騒から一歩隔絶された場所。そこは、ビル群の隙間にひっそりと佇む、創建千二百年の古刹の境内だった。その片隅には、樹齢千年に届く巨大なムクノキがそびえ立ち、闇夜に静かに息づいていた。
夜半、ヤクシャナは人目を避け、その聖樹の根元に静かに身を寄せていた。彼女の姿は、月光の下でさえ現実味を帯びず、濃い闇に溶け込むかのような神秘的な美しさを湛えている。肌は象牙のように滑らかで、瞳には数千年の時を生きた者が持つ諦念と深い悲しみが宿っていた。
名刺には「美術修復士、ヤクシャナ・リク」という偽名と、現世での職業が記されている。彼女の真の姿は、インド神話における豊穣の精霊、ヤクシニー。財宝と生命力を司る神的な存在だ。
しかし、彼女の魂には拭いきれない「業(ごう)」が刻まれている。数百年前に、深く愛した人間の男性を失った激しい悲しみと情念が暴走し、一時的に世界に旱魃と荒廃をもたらした罪——その代償として、彼女は愛しい者の魂が転生するのを待ち続け、人間に紛れて贖罪の孤独な生を送ってきた。
「また、この時が、こんなにも早く来てしまうのね…」
彼女が自らの不老の宿命と、魂の転生を追う孤独に苛まれ、そっと瞼を閉じた、その刹那だった。
カサリ、とムクノキの枝葉が、突如として激しくざわめいた。静寂を破るその音に、ヤクシャナは目を見開いた。
一人の青年が、懐中電灯を手に境内に足を踏み入れてきた。彼は美術館で働く修復士、アキト。古寺に寄託された古い仏像の調査に来たのだろう。彼の持つ灯りに照らされた横顔を見て、ヤクシャナの心が、数千年ぶりに激しく脈動した。
その顔立ち、瞳の奥に宿る光、そして何よりもその魂の微かな振動は、彼女が過去に愛し、失った男の魂と完全に一致していた。彼は若く、彼の魂の炎は希望と活気に満ちている。
しかし、ヤクシャナの精霊としての鋭い感覚が、彼の周りに澱む悪しき「業の影」を捉えた。それは、彼女自身が過去にもたらした破壊のエネルギーの残滓であり、アキトの魂の核を微かに、しかし確実に蝕んでいるサインだった。それは、彼の人間としての寿命を縮める呪いとなっていた。
「だめ…今度こそ、決してあなたを失うわけにはいかない。そして、私の業で、二度とあなたの命を奪わせはしない…」
ヤクシャナは静かに立ち上がり、闇の中から彼に向かって一歩踏み出した。彼女は「ヤクシャナ・リク」という仮面を被り、彼の傍にいることを決意した。そして、彼の命を蝕む自らの業を、完全に清算すること。それが、彼女の新たな千年、そして最後の愛の始まりだった。
第1章(II)夜叉女の仮面と人の温もり
ヤクシャナは、美術界における長いキャリアと財力を駆使し、瞬く間にアキトが勤める美術館の修復部門に出入りするようになった。名義は「特別顧問」であり、彼女の知識と技術は、古代の修復士としての経験に基づいているため、誰もが彼女の才能を疑わなかった。
アキトは、美術館が最近寄託を受けたインド古代彫刻群、特に豊満で官能的な姿で表現されるヤクシニー像の修復に没頭していた。彼はその像に、言いようのない強い引力を感じていた。
「この豊穣の女神は、生命力そのものですね。森の精霊であり、財宝の神、そして美しい女性…その多面的な魅力が、時代を超えて人々を惹きつける…」
アキトが目を輝かせながら語るヤクシニー像の解説を、ヤクシャナは複雑な思いで聞いていた。彼の言葉は真実だ。しかし、彼が知らないのは、その神話の裏側にある、愛する者を失った時の荒々しい「夜叉女」としての自分の姿だった。
二人は修復作業を通して時間を共にし、古い神話や芸術について熱く語り合った。アキトは常に誠実で、周りの人間に温かく接する。ヤクシャナは、彼の温かく、儚い人間の感情や営みに触れることで、数千年凍てついていた心が、ゆっくりと解けていくのを感じた。
ある日の修復作業中、アキトがヤクシニー像の腹部を慎重に磨いていると、ヤクシャナは思わず像に触れた。その瞬間、彼女の過去の激しい情念が共鳴し、修復室内の温度が一瞬にして下がり、空気が重くなった。
アキトは「急に寒くなりましたね…」と首を傾げるだけだったが、ヤクシャナは恐れを感じた。彼女の愛は強烈すぎる。それは彼にとって、幸福であると同時に、彼の魂を支配し、傷つけかねない毒にもなり得る。自分の愛が、再び彼を傷つけることは避けなければならない、と彼女は心に強く誓った。
第2章(III)古き誓いの残響
アキトの体調は、季節の変わり目とともに急激に不安定になり始めた。彼は連日、原因不明の激しい頭痛と、悪夢にうなされるようになった。
夢の内容は、常に共通していた。それは、「炎上する広大な森」「血に染まった聖なる樹」「狂乱した美女の叫び」といった、過去の激しい愛と悲劇的な別れの残響だった。ヤクシャナは、それがアキトの魂に深く食い込んだ自らの「業の影」が活発化し、彼の寿命を蝕み始めた証拠だと確信し、焦燥感を募らせた。
彼女は、彼を守るために、再び距離を置くべきかもしれないと考えた。別れれば、業の影は薄れるかもしれない。しかし、愛しい者を再び遠ざけるという行為に、彼女の不老の魂は激しく抵抗し、葛藤した。
「ヤクシャナさん、最近、なんだか僕を避けている気がする。僕、何か気に障ることを言いましたか?」
アキトは、修復室の隅で沈黙を守るヤクシャナに、不安と寂しさを滲ませた瞳で尋ねた。その純粋な瞳を見て、彼女は真実を告げるべきか、否か、一瞬にして数千年の思考を巡らせた。
その夜、アキトは修復中のヤクシニー像の台座に刻まれた装飾の下に、ほとんど風化して読めないほどの古代の碑文が隠されているのを発見した。彼は夜通しをかけて、その碑文の断片を慎重に読み解いた。
「…夜叉女、愛する者を失い、その強烈な情念は世界を干上がらせ、荒廃をもたらした。彼女の愛は、同時に呪いとして、その魂の転生体を追う…」
その一節を読み終えた瞬間、アキトの頭の中で、ヤクシャナの姿と、夢で見た悲劇的な光景が、驚くほど正確に重なった。
ヤクシャナ・リク…彼女は、まさか、この神話の存在なのか?
アキトは、ヤクシャナへの直感的な引力と、彼女から感じられる常人離れした神秘性の答えを、この古代の神話に見出した。彼は、彼女が自分から離れようとしているのなら、なおさら真実を知り、彼女の孤独を受け入れるべきだと強く思い始めた。
第3章(IV)森の神殿、真実の覚醒
アキトは、碑文に記された神話の手がかりと、ヤクシニーが崇拝されたとされる場所を追って、東南アジアの密林奥深くにある隠された古代寺院へと調査に向かった。彼の体調は悪化の一途をたどっていたが、この旅を止められなかった。
ヤクシャナは、アキトの魂の炎が消えゆくのを霊的に察知し、彼の命を蝕む業の力が寺院の霊気に反応して増幅することを恐れ、急いで後を追った。寺院は、かつてヤクシニーたちが豊穣の儀式を行っていた場所であり、数千年の生命力と、ヤクシャナの過去の情念が混じり合った、強い霊気が渦巻いていた。アキトが寺院の奥、苔むした崩壊寸前の祭壇に近づいた瞬間、彼の周囲の空気が振動し、過去の映像が彼の脳裏にフラッシュバックした。
その時、背後から追いついたヤクシャナが、祭壇に触れようとする彼を必死に抱き止めた。
「触れてはいけない!アキト!」
その瞬間の激しい霊気の衝突で、彼女の人間としての仮面が剥がれ落ちた。彼女の皮膚の下を流れる数千年の命の輝き、人間とはかけ離れた精霊の威厳と、時空を超えた孤独が、アキトの目の前に一瞬、現れた。
「ヤクシャナ…あなたは、一体誰なんだ?」
恐怖と驚愕の中、アキトは、目の前の美女が常人ではないことを悟りながら、問い詰めた。ヤクシャナは観念し、自らの不老の体と、過去の業、そして数千年の孤独を全て告白した。
「私はヤクシニー。そしてあなたは、数千年前に私が激しく愛し、失った男の魂の転生体。過去の私は、あなたを失った絶望で力を暴走させ、その影響が今も、あなたの魂を蝕んでいる。私の愛は、同時に、あなたの命を奪う呪いとなっているのです…」
アキトは、全てを悟った。驚愕の後に訪れたのは、長年の「夢」と胸の奥の疼きが解消されたことによる安堵だった。彼は、彼女の千年にも及ぶ孤独と、一途な愛の深さを理解した。
「僕の命が短いのは、君のせいじゃない。それは、僕たちの魂の宿命だ…」
彼は、真実を受け入れた…
第4章(V)永遠の生と儚い命の選択
日本に帰国した後、アキトの体はまるで時限装置が作動したかのように、急速に衰え始めた。咳が止まらず、生命の光が薄れていくのが、ヤクシャナの目には痛々しいほど鮮明に見えた。
ヤクシャナは、極度の誘惑と苦悩に苛まれていた。自らの不老不死の力、生命の精髄を分け与え、彼を自分と同じ永遠の存在(ヤクシャ)としてこの世に留まらせるか。それとも、人間としての彼の短い生を受け入れるか…
永遠の生を与えれば、二人は二度と離れることはない。しかし、それは彼の人間としての自由な魂を奪い、自分と同じ「業」に縛りつけ、数千年の孤独と向き合わせることを意味した。「永遠の愛を選ぶのなら、私と同じ存在になりなさい!」という悪魔の囁きが、彼女の魂を揺さぶる。
しかし、アキトは、衰弱した体で、ヤクシャナの手を握り、かすれた声で言った。
「ヤクシャナ。永遠なんて、いらない…僕の人生は、君と出会い、君の愛を知るためにあったんだ。残された時間、僕は人間として、自由な魂で君を愛し抜くさ。それが、僕の願いだ…」
彼の言葉は、ヤクシャナの執着とエゴを打ち砕いた。彼女は、彼の人間としての魂の輝き、そして、その短い命が持つ尊厳を、心から理解した。
二人は、迫りくる死の運命を前に、一瞬一瞬を永遠のように大切にした。美術館の修復室の隅、夜の静寂、聖樹の根元。ヤクシャナは、彼の傍で人間の愛の形を学び、永遠よりも「一瞬」の価値を知った。彼女の愛は、所有欲から、魂の尊厳を守る献身へと昇華していった。
第5章(VI)贖罪の終わり、最後の奇跡
秋の終わり、冷たい風が吹き荒れ、ムクノキの葉がほとんど落ち尽くした頃、アキトの命の灯は、今にも消えそうだった。
ヤクシャナは、彼を永遠の命にすることは拒否したが、彼に纏わりついた自らの「業の影」だけは絶対に消し去りたいと願った。彼女の愛が呪いとなり、彼の魂を次も縛り続けることだけは避けたかった。彼の魂が、次に転生する際には、過去の悲劇に縛られず、清らかな魂として生まれてほしい。
ヤクシャナは、全てのヤクシニーとしての生命力、豊穣の力を集め、聖樹の下で命がけの「清めの儀式」を始めた。
激しい光が彼女の体から溢れ出し、まるで太陽のように周囲を照らした。その光は、アキトの周囲を覆う黒い業の影を、少しずつ、そして確実に焼き尽くしていった。ヤクシャナの美しい顔は、力を使い果たし、苦痛に歪んだ。これは、数千年分の業を、自らの魂に引き受け、永遠の存在としての自分自身を削り取る行為だった。
「私の愛は、もう、二度と、あなたを傷つけない…」
儀式は、彼女の命を犠牲にする覚悟で行われた。ついに黒い影は完全に消滅し、アキトの魂は澄み切った光を放った。ヤクシャナの力はほとんど使い果たされ、彼女は聖樹の根元に倒れ込んだ。アキトは、安堵と解放感に満ちた穏やかな表情で目を覚ました。彼は、ヤクシャナの手を握りしめ、彼の人生で最も力強い感謝と愛の言葉を残した。
「ありがとう、ヤクシャナ。君の愛は、もう、呪いじゃない…永遠に、僕の魂を照らす光だ…」
そして、愛する人の腕の中で、彼は静かに、安らかに息を引き取った。ヤクシャナは、彼の温かい体温が失われる瞬間を、静かに受け止めた。
終章(VII)樹のささやき、新たな千年
アキトの死から、およそ四十年が経過した。
ヤクシャナは、再び「ヤクシャナ・リク」として、人間に紛れて孤独な旅を続けている。彼女の体は不老のままだが、その心は過去の業から完全に解放され、満たされていた。彼女は、もう誰も傷つけることはない。愛は執着ではなく、見守る力へと昇華していた。
ある春の日。ヤクシャナは、かつての聖樹の分枝が植えられた、都心にある小さな公園に立ち寄った。若木は成長し、若々しい緑の葉を茂らせていた。
その若木の根元で、一人の若い男性が、柔らかな日差しの中でスケッチブックに何かを描いていた。彼はアキトに瓜二つの面影を持ち、その目には、過去の悲劇を知らない、純粋で明るい光が宿っていた。彼の魂は、ヤクシャナが命を懸けて清めたとおり、自由で清らかな光を放っていた。
男性は、アキトの孫、あるいは転生した魂を持つ子供かもしれない。彼はヤクシャナのことを知らない。しかし、なぜか彼女に強い親しみを感じ、明るい笑顔で「こんにちは。いい天気ですね!」と挨拶した。ヤクシャナは静かに微笑み、彼の幸せを祈るように優しく応えた。
彼は、自由に、幸福に、人間として生きている。それが、ヤクシャナが数千年の孤独と、自らの力を削って手に入れた、愛と贖罪の証だった。ヤクシャナは、彼の輝かしい未来を心に焼き付け、静かにその場を立ち去った。
愛は、形を変え、世代を超えて続いていく。彼女の次の千年を歩み始める一歩は、孤独だが、決して虚しいものではなかった。ヤクシャナは、未来の、清らかな魂を持つ愛しい人を遠くから見守り続ける、永遠の守護者として、新たな生を歩み始めた…