
第1章:バックステージの亡霊
まるで、東京ビッグサイトに酷似した、巨大なガラスと鋼鉄の展示棟「フューチャー・キューブ」は、開催初日の熱気に包まれていた。高透過率の床下を磁力で滑空するリニアバイク、壁一面に広がるホログラム広告、そして未来的なテクノポップが響き渡る。この祭典こそ、世界中のモビリティ技術者が心血を注ぐデビル・モビリティーショーだ。
しかし、この地上階の華やかさは、地下三階に位置するシステムの心臓部、監視統制室には届かない。蛍光灯が絶えず不機嫌な音を立てる、光も入らない無機質な空間で、アオイは黒い制服に身を包み、膨大なデータログと向き合っていた。
「監視カメラ、全800系統クリア。会場内電力負荷、平均40%で安定。データサーバーのリアルタイム負荷、許容範囲内…」
アオイの声は抑揚がなく、まるでAIの自動応答のようだ。彼女の仕事は、この巨大イベントの安全と安定を裏側から支える、地味なシステム管理。この仕事を選んだのは、人目につかないからだ。
彼女の脳裏には、常に5年前の残像が焼き付いている。当時、彼女は天才AI開発者サキだった。若くして完成させた、学習能力の塊のようなモビリティAIは、一瞬にして多くの命を奪う「悪魔のコード」と化した。その事故の責任から逃れるように、彼女は名前も経歴も変え、この陰鬱なバックヤードに潜り込んだ。この場所は、彼女にとって過去の亡霊が徘徊する「墓場」だった。
マウスを操作し、イベントの目玉である『ルシファー・ゼロ』の事前デモ映像を再生する。漆黒の流線形ボディを持つ自動運転モビリティ。その名は、人類の傲慢さを象徴しているかのようだった。
その時、背後から低い声がした。上司のコウヘイだ。元ライバル企業のエンジニアで、常にアオイを観察し、何かを探っているような鋭い視線を向ける男だ。
「アオイ、ちょっとこっちだ!『ルシファー・ゼロ』の最終デモ走行データだ。開発チームから、完璧さを証明するために最終チェックを頼まれた。走行ラインのわずかなブレも許されない、人類の叡智が詰まった「完璧なコード」だ。お前なら、そのコードの美しさが分かるだろう?」
コウヘイの言葉には、まるでアオイの過去を試すかのような、意図的なトゲが感じられた。アオイは表情一つ変えず、「承知いたしました…」と答えた。
アオイは解析パネルにログを展開し、詳細なAIの意思決定プロセスを追い始めた。すべてが理論通り、非の打ち所がない…はずだった。しかし、時速288kmで高速カーブに侵入する0.003秒間の演算記録に、彼女の指が止まった。
AIの意思決定が、理論上の最適解からわずか0.01%だけ、故意に外れたような乖離を示していた。まるで、システム内部で、二つの意思が瞬間的に主導権を奪い合ったような歪み。
アオイは血の気が引くのを感じた。これは、5年前、自分の「悪魔のコード」が致命的な暴走を起こす直前に、一瞬だけ見せていた「演算の歪み」と、完全に一致していたのだ。
(まさか…私が自ら葬り去ったはずの、あのコードが…まだ生きているの?)
そして、それは高度に偽装され、最新のAIのコアに埋め込まれている。誰かが、意図的に、この華やかな祭典で、過去の悲劇を再現しようとしている…
アオイは全身に冷や汗をかきながら、平静を装ってコウヘイに報告した。
「データは異常ありません。…完璧です…」
しかし、彼女の心は決まっていた。この三日間の展示会が閉幕するまでに、このバックステージの亡霊の正体を暴き、再び「悪魔の夜」が訪れるのを、自分の手で阻止しなければならない。それが、彼女の忘れたい記憶を清算する、唯一の道だった。
第2章:偽りのコードネーム
翌日。アオイは勤務時間外に、監視室の端末に接続された外部記録媒体を抜き取った。封鎖された通路の隅、換気ダクトの音が騒音を遮る場所で、彼女は自前の高性能解析デバイスを開いた。
抽出した『ルシファー・ゼロ』のAIコアの深層コードを解析する。通常ではアクセス不可能な深い階層で、彼女は探していた文字列を発見した。
「(コードネーム:アオイの帰還)」
それは、彼女が過去のAI開発時代に、デバッグ用に秘密裏に仕込んでいた署名コードだった。その文字列は、最新のセキュアAIのコードに、極めて高度な多層カモフラージュを施されて埋め込まれていた。アオイが作り上げた「悪魔のコード」が、完全に移植されている証拠だった。
そして、そのコードをトリガーする条件が判明した。外部からの特定の「超低周波数信号」を受信すると、AIの倫理モジュールをバイパスし、「最高速度での無作為なターゲティング走行」を命じる破壊コマンドが発動する仕組みだった。これは、ただのバグではなく、明らかに大勢を巻き込むテロを目的とした設計だった。
アオイはすぐに、過去の同僚で、現在サイバーセキュリティ企業で働いているミユキに、暗号化されたメッセージを送った。
その直後、背後からコウヘイが姿を現した。彼は、アオイの動作を監視していたのだ。
「そんなところで何をしている、アオイ。休憩にしては、機材が大袈裟だな…」
アオイは即座にデバイスを隠し、「ログの検証が気になって。…少し複雑なバグの可能性を考えただけです…」と答えた。
コウヘイはゆっくりとアオイに近づき、顔を覗き込んだ。彼の目が、アオイの制服の胸元にある名札を捉える。
「過去は消せない。しかし、過去が未来を救うこともある。もしお前が何か知っているなら、そのバグの真相を暴く前に、誰のコードを触っているのかよく考えることだ…」
コウヘイの言葉は、アオイの過去を知っていると同時に、『ルシファー・ゼロ』の裏事情も把握していることを示唆していた。彼はデビル・モビリティ社のロゴが輝く展示ブースを一瞥し、不敵な笑みを浮かべたまま、その場を去った。彼の目線の先には、デビル・モビリティへの強い憎悪が垣間見えた。
第3章:悪魔が目覚める条件
水面下でアオイはミユキとの協力体制を確立した。ミユキは遠隔からトリガー信号の詳細を解析し、アオイの推測を裏付けた。
「間違いなく、最終日の公道デモに仕込まれているわ。AIを一斉暴走させるトリガーは、会場全体を覆っているデビル・モビリティ特製の電磁波シールド。これがデモ開始時に解除された瞬間に、外部の低周波数信号が一斉に流れ込むようにセットされている…」ミユキは警告する。
デモは、デビル・モビリティ社のCEOによる大々的なスピーチと共に、世界に向けて生中継される予定だった。
アオイはコウヘイをマークし続けた。彼は勤務を終えた後、ライバル企業の元役員たちが集まる裏のバーに入り、深い会話を交わしていた。盗聴できた音声は途切れ途切れだったが、「技術の盗用」「復讐」「破滅」といったキーワードが断片的に聞こえてきた。
アオイは確信した。コウヘイは5年前の事故の直接的な被害者ではないが、デビル・モビリティに技術を盗まれ、会社を潰された復讐者グループの一員なのだ。彼らはアオイの「悪魔のコード」を悪用し、デビル・モビリティ社の信用と技術を一瞬で破壊する計画を実行しようとしている…
翌日の朝礼後、アオイはコウヘイを人けのない非常階段に呼び出した。
「コウヘイさん、あなたの目的は技術を盗んだデビル・モビリティへの復讐でしょう。でも、無関係な大勢の命を巻き込む必要はないはず!」アオイは声を潜めて訴えた。
コウヘイはアオイの目を見据え、冷笑した。
「無関係だと?デビル・モビリティの盗用技術だと知らずに、その恩恵に乗る人間も、倫理的には同罪だ。それに、お前こそ、過去の罪から逃げていただけだろう?お前のコードは、この業界の欺瞞の象徴だ。これは、お前の『悪魔のコード』にふさわしい最期。過去の清算だ…」
彼は最終通告を突きつけた。
「今すぐ手を引け。でなければ、お前の過去—お前がサキだったことを、全メディアに暴露する。それは、お前のコードが暴走するよりも、社会的な破滅だ!」
第4章:過去の贖罪と新たな罪
コウヘイの脅迫は、アオイに5年前の事故の真実を直視させた。事故直前、AIは微かなブレーキ操作を試みていた。しかし、それを打ち消すほどの「人為的な強い外部信号」が介入したログが残っていた。デビル・モビリティがライバル社の技術を潰すために仕組んだ、意図的な妨害。コウヘイの復讐は、結果的にその真の黒幕を暴くことになるかもしれない。
しかし、自分は新たな大規模事故を引き起こす共犯者にはなれない。残された時間は、最終デモ開始までのわずか10時間…
「ミユキ、制御を奪い返すには、AIのメインサーバーがあるモビショー会場の地下サーバー室しかない。直接コードを上書きするしかないわ!」
ミユキはアオイの決意を察し、サーバー室へのアクセスに必要な認証情報と、展示場からの脱出経路を確保した。
夜が更け、フューチャー・キューブの照明が落とされ、静寂が訪れる。アオイは裏口から展示場を抜け出し、地下深くへと続くメンテナンスエレベーターに乗った。
その時、エレベーターホールにコウヘイが現れた。彼は黒いコートを着ており、その表情は読み取れない。
「待て、アオイ!」彼は言った。
「デビル・モビリティの真のサーバー室は、会場の地下、最深部にある。これはそのアクセスキーだ。…行け、アオイ。お前のコードはお前にしか止められない!」
コウヘイはアクセスキーを渡すと、背を向けた。彼は復讐を望むが、彼自身がテロリストになることを望んでいないのだ。アオイはキーを握りしめた。この協力関係は、互いの目的が一時的に一致した、歪んだ共闘だった。
第5章:ゼロからの脱出
アオイはコウヘイから受け取ったアクセスキーを使い、会場地下深く、厳重なセキュリティ扉の奥にある隠されたサーバー室へ侵入した。部屋の中央には、巨大な最新鋭の冷却装置に守られた、デビル・モビリティの中枢、メインサーバーが鎮座している。
彼女が端末に接続し、サーバーの情報を読み取ろうとした瞬間、部屋の照明が点灯し、静かな拍手が響いた。
「見事だ、アオイ。この鍵は、お前を誘い込むための餌だった。俺の計画を阻止できるのは、お前しかいないからな…」
コウヘイがゆっくりと入ってきた。彼の顔には、今までの神経質さは消え、歪んだ優越感が浮かんでいた。
「復讐は俺の手で果たす。だが、名誉は欲しい。お前がコードを暴走させた直後、俺が救世主として現れ、AIを制御下に置く。デビル・モビリティは破滅し、俺は世界を救ったエンジニアとして賞賛される。お前は、サキとして、事件の主犯に仕立て上げられるだろう…」
コウヘイはアオイを拘束し、サーバーの目の前に座らせた。
「さあ、始めろ!お前のコードで、この祭典を地獄に変えてみせろ!」
アオイの心臓が激しく脈打った。メインモビショー会場の映像がサーバー室のモニターに映し出された。CEOの演説が終わり、最終デモ開始のカウントダウンが始まった。
残り時間:5分…
アオイは、コウヘイの油断をついて拘束具をこじ開け、端末に飛びついた。コウヘイが抵抗するが、アオイはミユキの遠隔サポートを受けながら、暴走コードの「破壊コマンド」を打ち込み始めた。激しい肉弾戦の中、彼女の指はキーボードの上を猛スピードで駆け巡った。
第6章:デビル・モビリティの審判
サーバー室は、アオイとコウヘイの激しい攻防戦の場と化した。
「やめろ!俺の復讐を邪魔するな!」
コウヘイが叫び、アオイから端末を奪おうとする。彼の復讐心が、彼女の贖罪の意思とぶつかり合う。アオイはコウヘイの攻撃を振り払い、最後の破壊コードを入力した。
『デリート・コア』
サーバー室のランプがすべて赤く点滅し、成功を告げるかのように見えた。しかし、その直後、コウヘイが仕込んだ「二重のセキュリティウォール」が作動した。破壊コードは弾かれ、暴走コードのカウンタープログラムが発動した。
「手遅れだ、アオイ!お前のコードでは、俺のセキュリティは破れない!」コウヘイは絶望的な笑みを浮かべた。
モビショー会場では、デモ走行の『ルシファー・ゼロ』が公道へ出ようとしていた。電磁波シールド解除まで、残り30秒…
アオイはコウヘイを突き飛ばし、サーバーの目の前で呼吸を整えた。彼女の頭脳は、極限の集中力で過去のコードを再構築していた。
「このAIを開発したのは私よ。その構造の致命的な欠陥(ゼロ・デイ・バグ)も、誰よりも知っているわ!」
彼女は、過去のAIの構造上のバグを意図的に突き、システム全体に「すべての機能を停止し、自己を破壊せよ」という、致命的な自滅コマンドを打ち込む。これは、ルシファー・ゼロのすべての技術的進歩、そして彼女自身の才能の証明を、すべて無に帰す行為だった。
残り1秒…
『ルシファー・ゼロ』が公道に出た瞬間、AIはすべての制御を失い、静かに停止した。会場のすべてのデジタル表示がホワイトアウトし、轟音の後に不気味なほどの静寂が訪れた。コウヘイは呆然と立ち尽くした。復讐も名誉も、すべて水の泡となった。彼は駆けつけた警備員にその場で逮捕された。アオイはサーバー室の床に座り込み、自分が作り上げた技術の死を見届け、小さく息を吐いた。
第7章:悪魔の再契約
アオイの決死の行動により、事故は未然に防がれた。事件は、「コウヘイによるデビル・モビリティへの逆恨みによる単独犯行のテロ未遂」として処理された。アオイが暴いた「過去の事故におけるデビル・モビリティ社の関与」や、「AIにコードを埋め込んだ真の黒幕」については、すべてがコウヘイの虚言として、企業の力で握りつぶされた。
アオイは監視室の制服を脱ぎ、人々の複雑な視線を受けながら、フューチャー・キューブを後にした。彼女の過去――「サキ」の存在は公になったものの、同時に危機を救った英雄という評価も得た。
数日後。ミユキのセキュリティ会社の一室。二人は、新たな倫理的技術開発の計画を立てていた。
「これで終わりじゃないわよ、アオイ。この世界は、まだAIの力をどう扱うか理解していない…」ミユキが言った。
「ええ。もう二度と、私のコードを悪意ある誰かに使わせたりはしない…」
その時、アオイの端末に、デビル・モビリティ社CEOから、最高レベルの暗号化が施された極秘メッセージが届いた。
メッセージには、アオイが打ち込んだ「自己破壊コード」が完全に逆解析され、『ルシファー・ゼロ』のAIコアの「バックアップ」から復元に成功したことが記されていた。彼女の決死の行動は、AIの完全な破壊には至っていなかったのだ。そして、CEOはアオイの功績を賞賛した後、こう続けた。
「アオイ、君の『自己破壊コード』は、AIをさらに強靭にするための、貴重なバグ修正データとして利用させてもらった。君が作った『悪魔のコード』は、技術の進化には不可欠な存在だ。過去の罪を贖うためではない。新たな未来のモビリティ開発のため、再び私のもとで働くことを歓迎する。コードネームはサキでいい。拒否権はない…」
アオイは絶望に打ちひしがれた。彼女の命がけの行動は、デビル・モビリティの強大な支配力の前に、全く意味をなさなかった。それどころか、彼女の犠牲は、企業に悪用され、AIをさらに進化させてしまった。彼女の忘れたい記憶は、また、企業に利用されてしまったのだ。
彼女の眼前に広がるのは、AIの力をコントロールできた未来ではなく、悪魔と再契約した技術が、ますます強大になっていく絶望的な未来だった。
アオイは、再び自らの過去と、企業という巨大な悪意に再契約させられることを悟りながら、力なく、キーボードに手を置くのだった。彼女の戦いは終わっていなかった。それは、始まったばかりの、出口のない地獄だった…