
👑 第1章:歓迎と違和感
煌びやかな真鍮と磨き上げられた木材が、車内の柔らかな間接照明に照らされ、紳士淑女を歓迎していた。豪華寝台列車「オリエント・エクスプレス・ジャパン」の最終運行。これは、ただの移動手段ではなく、世界中の「変わり者」が集う、最後の豪華な舞台だった。
「さあ、本日はご乗車ありがとうございます!」
若手車掌の鈴野 誠は、制帽を深く被り直し、背筋をピシッと伸ばした。彼は極度の真面目さと、探偵小説への熱狂的な愛を持つ青年だ。この夜の運行が、彼の小説家への夢を後押ししてくれると信じていた。
最初に現れた乗客は、蝶ネクタイと派手な千鳥格子のスーツを纏った豪徳寺 雄三。彼は自分のトランクを一切合切車掌に押し付けると、廊下で大仰なポーズを決めた。
「ふむ、この床の軋み、カーテンのドレープ、天井のシャンデリアの僅かな揺らぎ…これらはすべて、『まもなく、ここで世紀の事件が起こる!』という、列車からの啓示だ!車掌殿、君は名探偵の助手を務めることになるぞ!」
「あいにくですが、ミステリーのイベントではございません、豪徳寺様。単なる寝台列車です…」
鈴野は、内心で溜息をついた。豪徳寺は自称「元・名探偵」で、その「現役時代」を知る者は誰もいない。彼は鈴野の制止を無視して、自分のコンパートメントに入るやいなや、拡大鏡で絨毯の埃を調べ始めた。続いて、今回の被害者となるジョージ・B・退屈が、付き人を引き連れて現れた。彼の最高級のベルベットのローブは、彼の顔の生気のなさを一層際立たせていた。
「あ〜ぁ、全てが退屈…乗り物、人々、そして人生そのものも退屈!この列車も、どうせ退屈だろう?」
ジョージはそう吐き捨てると、鈴野の胸ポケットに一枚のメモを押し付けた。
「今宵、わたくしのコンパートメントに、わたくし専用の"激マズ紅茶"を用意せよ。世界で一番まずいものを!費用は惜しまない。」
「あの…お紅茶でございますか?」
「そうだ!究極の退屈を打ち破るには、究極の『不快』が必要だ!いいかね、普通にまずい程度ではダメだ。飲んだ瞬間、人生の退屈が吹き飛ぶほどの、激マズを頼むぞ!」
鈴野は困惑しながらも、特注の紅茶の手配を引き受けた。違和感だらけの乗客を案内し終え、夜の巡回へと向かう。豪徳寺はまだ廊下で、自分の指紋と他人の指紋を比較する遊びに夢中だった。すべてが順調だが、この列車の持つ濃密な空気が、鈴野にこの旅がただの運行では終わらないことを強く示唆していた。彼の探偵小説オタクの血が、静かに騒ぎ始めていた。
🤫 第2章:密室の消失
真夜中の2時。列車は、予期せぬ猛吹雪に見舞われ、深い雪山の途中で緊急停車した。雪は窓の外で唸りを上げ、豪華な車内は、不意の静寂と外の嵐の音に包まれた。
鈴野は、予感が的中したかのように緊張していた。懐中電灯を手に巡回を始めた彼は、ジョージ・B・退屈のコンパートメントの前で足を止めた。ドアは内側から固く施錠されている。ノックしても、当然のように応答はない。
「失礼します、ジョージ様!」
鈴野は胸の高鳴りを抑えながら、予備キーを差し込み、慎重に開錠した。部屋は、まさに無人。ベッドはまるで誰も寝ていないかのように整えられ、暖炉の火は消えていた。窓は完全に閉まり、内側の錠が掛かっている。床には争った跡一つなく、カーテンも微動だにしない。完璧な密室状態…
鈴野は思わず息を飲んだ。彼が小説で何百回と読んだ「密室トリック」が、今、目の前で起こっているのだから!
唯一残されていたのは、小さなテーブルの上に置かれたシルバーのカップ。その中には、墨汁のように黒く濁った、不気味な液体――ジョージが特注した激マズ紅茶が半分ほど残っていた。微かに、通常の紅茶とは異なる、ツンとした異臭がする。
「ま、まさか…本当に事件だなんて…!」
鈴野は青ざめながら、大声で助けを求めた。声を聞きつけ、真っ先に飛び込んできたのは、寝間着の上にシルクのガウンを羽織った豪徳寺だった。
「フッフッフ!来たぞ!待ちに待った瞬間だ!車掌殿、見事な舞台設定だ!」
豪徳寺は興奮で顔を紅潮させ、現場に駆け込むやいなや、カップに残された紅茶を指さした。
「この激マズ紅茶が、消えたジョージ氏の最後のメッセージであり、そして犯人の挑戦状だ!この味覚の冒涜が、事件の根源にあるに違いない!」
豪徳寺は、紅茶の匂いを大げさに嗅ぎ、「むむむ…カビと湿った新聞紙と、三日前の生ゴミの香り…恐るべき犯人だ!」と叫んだ。
鈴野は、豪徳寺の異常なハイテンションに冷静さを取り戻さなければならなかった。「落ち着いてください、豪徳寺さん!これは現実の事件です!」しかし、豪徳寺の目に映っているのは、まさに彼が夢見た「世紀のミステリー」の始まりだった。
🎭 第3章:自称名探偵の登場
豪徳寺は、鈴野の制止を完全に無視し、事件の主導権を握ったとばかりに、コンパートメント内で「華麗なる推理」を開始した。
「よし!まずは、この密室の謎から解き明かす!」
豪徳寺は、窓ガラスを叩きながら、大声で自説を展開した。
「まず、窓に付着した微細な雪の結晶は、人間の手によるものではない!犯人は、古代アステカ文明の隠密魔術を使い、被害者を異次元空間に転送したのだ!列車が雪山で止まったのは、次元の扉が開いた影響だ!」
「はっ!アステカですか!?豪徳寺さん、窓は内側から施錠されていて、割れてもいません!物理的に考えてくださいよ!」
鈴野は、豪徳寺を無視して、他の乗客たちの聴取を始めた。しかし、誰一人としてジョージの消失を悲しむどころか、歓迎ムードだった。マジシャン・マダム・ザックは、煌びやかな夜会服の上に毛皮のコートを羽織り、高笑いした。
「ジョージが消えた?オー、それは私のマジックのインスピレーション!彼はいつも退屈そうだったから、サプライズが必要だったのよ。もしかして、私に弟子入りしたかしら?消失は私の十八番よ!」
グルメ評論家・舌神 巧(ぜつじん たくみ)は、事件よりも深刻な顔で尋ねてきた。
「車掌!この騒ぎで、食堂車のディナーの提供は大丈夫なのか!?私の『究極のビーフシチュー』が冷めるのだけは、絶対に許せん!」
豪徳寺は、舌神のこの発言に再び閃いた。
「なるほど!舌神氏!あなたは激マズ紅茶を飲み干させ、ジョージ氏の味覚を破壊した上で拉致し、『二度とまずいものを口にさせない』という動機で事件を起こしたに違いない!これは一種のグルメ犯罪だ!」
舌神は顔を真っ赤にして反論した。
「私はまずいものなど認めん!まずいものを誰かに飲ませるなど、私の舌と人生への冒涜だ!私はまずいものを排除するために生きている!」
鈴野は、彼らの茶番に辟易しながらも、一つの事実に着目した。豪徳寺と容疑者たちの推理や主張は、全て「激マズ紅茶」に集約されている。この紅茶が、事件の鍵であることは間違いない。鈴野は、紅茶の味と香りに隠された真の手がかりを見つけるべく、静かに捜査を続行した。
🕰️ 第4章:動機と空白の時間
豪徳寺が騒ぎ立てる中、鈴野は冷静に、そして真面目にアリバイと動機を洗い出した。彼は豪徳寺の「アステカの魔術」や「鳩サブレのカス」といった主張を完全に無視し、証拠に目を向けた。
「ジョージ・B・退屈…彼はなぜ、あんなにまずい紅茶を特注したんだろうか?」
鈴野は他の乗客にジョージの人となりについて尋ねてみた。
ザックの証言: 「ジョージはいつも『すべてが退屈だ』と言っていたわ。億万長者なのに、心はいつも満たされない。唯一、彼が楽しみにしていたのは、『未体験の激しい感情』を得ること。恐れ、怒り、そして極限の不快感。それだけよ…」
舌神の証言: 「あいつは私の料理にも『まあ、及第点だ』と言い放ちおった!あんなにまずい紅茶を特注したのは、『極限のまずさ』を通して、生きている実感を得ようとしたに違いない!全く、我々グルメからすれば迷惑な話だ!」
つまり、ジョージは常に「刺激」を求めていたのだ。彼の「消失」も、もしかしたら彼自身が仕組んだ、究極の「刺激」ではないのか?そんな考えが、鈴野の頭をよぎった。鈴野はコンパートメントに戻り、残されたカップの紅茶を、恐る恐る嗅いだ。鼻を刺すような、妙な植物の香りがする。通常の紅茶には決して含まれない成分だ。
「これは…ただの紅茶ではない」
彼は、列車内の乗務員用の簡易実験室へ急いだ。簡単な分析の結果、激マズ紅茶の成分に、ごく微量の「強い睡眠導入作用のある、しかし人体に無害なハーブ」が含まれていることを突き止めた。そして、そのハーブは、この列車が停車している雪山の付近でのみ自生する、極めて希少なものだった。
鈴野は確信した。ジョージの消失は、この「停車」と「紅茶」によって作られた「空白の時間」と「深い眠り」を利用したものであると。あとは、密室の施錠トリックと、ジョージを運んだ「輸送手段」の謎を解くだけだ。鈴野の探偵オタクの知識が、今、現実の事件解決に繋がろうとしていた。
🧩 第5章:豪徳寺、最大のミスリード
紅茶の分析結果を握りしめた鈴野が、真相に近づこうとしたその時、最大の妨害者が現れた。豪徳寺である…
「車掌殿!謎は解けた!私が華麗なる推理で、犯人を特定したぞ!」
豪徳寺は、この日のために用意したかのように、真っ赤なターバンを頭に巻き、乗客全員を食堂車に集めさせた。彼の周りには、事件の結末に興味津々な乗客たちが集まっている。
「さて、皆さま!この事件は、『消失』と『味覚』がテーマだ!犯人はこのマジシャン、マダム・ザックしかいないのだ!」
「ザック氏はマジシャン。消失トリックのプロだ!彼女はジョージ氏を『退屈からの解放』と称して、得意の鳩を使った消失マジックでコンパートメントから消し去り、列車の屋根裏に隠した!動機は、『自分のトリックの宣伝』だ!」
「私は今朝、食堂車で鳩の羽を見つけた!これは彼女が移動中に落としたものに違いない!しかも、この鳩の羽には、バターの匂いがついている!これは、彼女が夜中に食堂車に忍び込み、鳩のエサを盗んだ証拠だ!」
豪徳寺の推理は、大衆を熱狂させる、あまりにもドラマチックなものだった。乗客たちは「おお!」「名推理!」と拍手喝采。ザックも「あら、鳩を飼っていたことにされてるわ。私って人気者!!」とまんざらでもない様子…
鈴野は顔面蒼白で割って入った。
「待ってください、豪徳寺さん!その鳩の羽は、ただの鳩サブレのカスです!列車のお土産として乗客に配られたものですよ!バターの匂いはそのせいです!」
鈴野は、豪徳寺の推理の穴(密室の施錠トリックが説明できないこと、トランクの容量を超える鳩の数)を冷静に指摘し、寸前のところでザックの誤認逮捕と、鳩サブレ犯人説を阻止した。鈴野は、豪徳寺の失敗を反面教師にし、冷静さを取り戻した。
「紅茶のハーブ、そして列車の停車時間。あとは、密室の鍵と、誰もが思いつかない『輸送手段』だ…」
彼は、コンパートメントの構造図を思い出し、ある乗客が使わない『裏の設備』、そして『鍵の盲点』があることを突き止めた。
💡 第6章:車掌、真実を解き明かす
豪徳寺のミスリードから数時間後、鈴野は夜明け前の食堂車に、乗客全員を再び集めた。窓の外は、雪が止み、薄い朝焼けが差し込み始めている。
「コンパートメント・ミステリー、本日はご乗車ありがとうございます。まもなく、終着駅へ到着します!」
鈴野は深呼吸し、静かに、しかし自信を持って推理を始めた。
「被害者、ジョージ・B・退屈氏は、殺害されたのではありません。彼は、自分自身によって、この列車から『脱出』したのです!彼は生きています!」
この言葉に、豪徳寺は「なんですと!?」と目を見開いたが、鈴野は構わず続けた。
「あの激マズ紅茶には、雪山付近に自生する、強力な睡眠導入ハーブが含まれていました。ジョージ氏はこれを服用し、自ら深い眠りにつきました。狙いは、列車が雪で停車する『空白の時間』を作り出すためです!」
次に、密室のトリックだ。
「内側から施錠されたコンパートメント。しかし、このオリエント・エクスプレス・ジャパンには、特別なサービスがございます。それは、大型トランク専用の『荷物用エレベーター』です!」
鈴野は、誰もが忘れていた荷物用エレベーターに着目した。それは、乗客の豪華な荷物を運ぶため、コンパートメントの床下から貨物室へ直通する、縦長の小さな昇降機だった。
鈴野の推理はこうだ。
①ジョージは紅茶を飲み、寝入る。
②彼は、事前に雇った外部の共犯者と、トランク型の大きなカプセル(一人分のスペース)を用意していた。共犯者は、乗務員用の合鍵を使い、施錠された部屋に侵入。
③ジョージの体をトランク型カプセルに収納し、内側から扉を施錠した後、荷物用エレベーターを使って、彼のコンパートメントの真下にある貨物室へ運び出す。
④密室の施錠は、共犯者が部屋を出る際、特殊なワイヤーか細工を施した鍵で、外から内側の鍵を操作したもの。そして、列車が雪で停車した隙に、共犯者が貨物室からトランクカプセルを運び出し、雪の中へ…
「これが、ジョージ氏が仕組んだ、『退屈な人生という密室からの脱出マジック』の真相です!誰も傷つけない、ただただ滑稽で、豪華列車でしかできない、究極のパフォーマンスです!」
食堂車は静まり返った後、大爆笑が起こった。
🍾 第7章:終着駅、そして新たな旅立ち
食堂車に、割れんばかりの拍手が起こった。ミステリーとしては地味だが、コメディとしては最高の結末だった。
「オー、ワンダフル!地味だけど、一番スリリングなトリックよ!私も今度、自分のアシスタントをトランクに入れてみるわ!」(ザック)
「くそっ!あのトランク型カプセルが盲点だった!しかし、私はその『荷物用エレベーター』に気付いていたと、後で言うつもりだった!」(豪徳寺)
豪徳寺は、最後まで負けを認めず、顔を赤くしてプンプン怒っていた。舌神は「まあ、まずい紅茶が事件の鍵とは…味覚の観点では許せないが、ストーリーとしては及第点だ。車掌殿、君の推理には、『刺激』があったぞ!」と、最高の賛辞を送った。
列車はゆっくりと雪解けの平原を抜け、終着駅に到着した。ホームには、清々しい笑顔のジョージ・B・退屈の姿があった。彼は、雇った共犯者に連れられ、人知れず脱出していたのだ。
「フフ…車掌殿、素晴らしい体験だったよ。あの激マズ紅茶は、人生で飲んだ中で最もまずく、そして最も刺激的な飲み物だったよ。これで、しばらくは退屈せずに済むぞ!」
ジョージは鈴野に握手を求め、そそくさとタクシーに乗り込んだ。鈴野は、豪徳寺が「くそっ、今度こそ、トナカイのソリを使った事件を…」とブツブツ言いながらホームを去るのを見送った。
今回の事件は、ミステリーとしては奇妙で、コメディとしては完璧だった。鈴野は制帽を深く被り直す。彼の心には、名探偵としての自信と、少しのコメディ耐性が身についていた。この豪華列車での一夜の経験は、彼の作家人生の最高の財産になるだろう。
人生はコンパートメントのようなものだ。鍵は自分自身が握っている…
「コンパートメント・ミステリー、本日はご乗車ありがとうございました!」
鈴野は、次の旅を予感し、胸を躍らせた。