SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#143  13階の非常口 The Exit on Thirteenth

序章:ありえないフロア

 

 

 

 

 

佐倉 健吾は、都心の高層ビル、オリオンタワーで働く30代前半のシステムエンジニアだ。彼のオフィスは12階にある。昼食を終え、喫煙所で一服した後、オフィスに戻るためエレベーターホールに向かった。ところが、メインのA号機は「点検中」の赤いランプが点滅し、予備のB号機はすでに故障中の貼り紙がされている。仕方なく、健吾は滅多に使わない、ビルの隅にある古びた非常階段を使うことにした。

 

 

 

 

 

重い防火扉を開け、薄暗いコンクリートの空間へ入る。階段を昇り、12階の防火扉に手をかけようとした、そのとき――。

 

 

 

 

視線は、ドアの上部に貼られたフロア表示プレートに釘付けになった。それは、無機質なグレーのスチールに、白いゴシック体で印字された数字。通常、12階の次は14階となるはずの場所に、信じがたいことに「13」の数字が鎮座していた。

 

 

 

 

健吾は立ち止まり、思わず自分の目をこすった。夢?いや、夢ではない。なぜ、このビルに13階が? 健吾はこのビルで7年間働いている。設計図やフロアマップを見たことがあるが、13階の存在は一度たりとも言及されたことがない。都市伝説的な「忌み数を避けるための欠番」だと理解していたはずだ。

 

 

 

 

不可解なものを前にして、人の心は二つに分かれる。無視して日常に戻るか、その謎に飛び込むか…健吾は、後者を選んだ。彼はさらに一段、階段を昇った。そこには、他のフロアの扉と比べると、やや新しいように見える、簡素なスチール製の非常扉があった。プレートにはやはり、照明に冷たく反射する「13」の文字。ドアノブには、触れた瞬間、真冬の鉄のように冷たい感触が走った。

 

 

 

 

「…開かないはず」と呟きながら、彼はゆっくりとドアノブを回した。カチリ、と驚くほど容易にロックが外れ、わずかな隙間から、外とは違う奇妙に無機質な空気が流れ込んできた。

 

 

 

 

 

 

第1章:白と沈黙の回廊

 

 

 

 

 

健吾は息をのんで扉を押し開けた。予想とは全く違う、異様な光景が目の前に広がっていた。そこは、彼の知るどのオフィスフロアとも似つかない空間だった。広々とした回廊は、床、壁、天井の全てが、継ぎ目のない均一な純白の素材で覆われている。それは光を吸収するでも、反射するでもなく、ただ冷たく、目に痛いほどの白い光を放っていた。まるで、現実から切り離された、巨大な美術品のインスタレーションのように。

 

 

 

 

 

照明器具は見当たらないが、廊下全体が蛍光灯数百本分の冷たい光に満ちており、影ができない。影がないため、奥行きや立体感が掴みにくく、健吾は一歩踏み出すたびに、平衡感覚が揺らぐのを感じた。

 

 

 

 

そして、最も異様なのは、その沈黙だった。ビルの高層階特有の風切り音も、空調の作動音も、このフロアには届いていない。聞こえるのは、自分の衣擦れの音と、心臓の鼓動だけ。そして、遠く廊下の突き当たりから、低く、規則的に響く「ブーン……、ブーン……」という、巨大な何かが脈動するような、耳鳴りにも似た低いうなり音だけだった。それは、生きた機械が、今もここで稼働していることを示していた。

 

 

 

 

 

しかし健吾は、恐怖よりも、理解できないものに対する強い好奇心に支配されていた。廊下にはいくつかのドアが並んでいた。ドアはすべて黒い木製で、金属のプレートには、「α」「β」「γ」といったギリシャ文字と、業務内容とは全く関係のない、「選択」「保留」「代償」といった単語が記されているだけだった。

 

 

 

 

まるで、このフロア全体が、何らかの抽象的な概念を収容する図書館のようだった。健吾は、その異様な空間に吸い寄せられるように、低いうなり音が最も大きく聞こえる、廊下の最奥、ひときわ大きな両開きのドアへと歩を進めた。

 

 

 

 

 

 

第2章:声の残響

 

 

 

 

 

健吾が両開きのドアの前に立つと、ドアの向こうから、かすかに「声」が漏れ聞こえてきた。しかしそれは、人が会話している音ではない。その声は、いくつもの人間の声が時間差で重なり合い、音として成り立たない感情の残響となって聞こえてくる。彼は耳を押しつけてみた。聞こえてくるのは、激しい後悔の吐息、深い絶望の嗚咽、突発的な歓喜の叫び、そして、諦めと解放が混ざり合ったような静かな溜息だった。

 

 

 

 

 

震える手で、健吾は観音開きのドアをゆっくりと押し開けた。すると中に広がっていたのは、大会議室のような広間だった。天井が異常に高く、その高さが圧迫感を生んでいる。部屋の壁紙は古びたモスグリーンで、床には敷物がなく、古い木材が軋む音がする。中央には、磨き込まれていない年代物の巨大な木製テーブルが並び、その周りには、デザインの統一されていない様々な形の椅子が雑然と並べられていた。まるで、時代もバラバラの者たちが、ここで無数の会議を開いてきたかのように。

 

 

 

 

部屋の空気は重く、湿度は高い。室内の隅は、壁一面を覆うように、古い書類の束が床から天井近くまで積み重ねられている。それらの紙は黄ばみ、埃をかぶり、達筆な筆記体で何かびっしりと書き込まれている。健吾には判読できない言語、記号の羅列のように見えた。声の残響は、部屋に入った途端、健吾の脳内で無数の声のかたまりが増幅した。

 

 

 

 

「なぜ、あの時、手を離した!」

 

「もし、あの一言を言えていたら…」

 

「私は自由だ!あの選択から逃れられた!」

 

 

 

 

 

頭が割れそうになり、健吾は両手で耳を塞いだ。この部屋は、人々の「未練」、そう、選び損ねた道への強い執着心を音として増幅させていた。そして、その未練は、健吾自身の心の奥底にある後悔と共鳴し始めた。

 

 

 

 

 

 

第3章:砂時計のメッセージ

 

 

 

 

激しい頭痛に耐えかね、健吾が逃げ出そうと後ずさりした瞬間、彼の視線はテーブルの真ん中に置かれた、ひときわ目を引くオブジェに引きつけられた。それは、脚の部分が黒曜石のように重く、中央のガラス部分だけが異常に透明な、巨大な砂時計だった。中の砂は、白い砂ではなく、微細な黒い粉末で、静かに、絶え間なく、上から下へと流れ落ち続けている。

 

 

 

 

 

砂時計の台座の側面には、古めかしいフォントで、細く、しかし深い意味を帯びた言葉が刻まれていた。その文字を読んだ瞬間、健吾の背筋に冷たい電流が走った。砂時計から、周囲の冷たい白い光とは異なる、琥珀色の光が放たれたように感じた。そして、健吾の脳内に、鮮明な過去の記憶の断片が、連続写真のようにフラッシュバックした。

 

 

 

 

 

 専門学校への進学を諦め、安定を選んだ瞬間…

 

 長年付き合った恋人に、別れを切り出されたとき、何も言えなかった口惜しさ…

 

 今の会社に入社する直前、友人が立ち上げたベンチャー企業の誘いを、リスクを恐れて断った夜…

 

 

 

 

 

それらの記憶は、健吾が心の奥底に封印していた、「もし違う道を選んでいたら?」という「あり得たかもしれない自分」の痕跡だった。この砂時計は、健吾が「選択」を完了し、その代償として「時間を進めた」ことを証明する、このフロアの心臓部のようだった。健吾は、自分が今、過去の選択によって生じた「時空の歪み」の中に立っていることに戦慄した。

 

 

 

 

 

 

 

第4章:動く肖像画

 

 

 

 

 

健吾は砂時計から逃げるように部屋を飛び出し、白い回廊を出口に向かって急いだ。しかし、来た時には何もなかったはずの廊下の壁に、一枚の大きな肖像画が掛けられている。

 

 

 

 

 

キャンバスは古く、そこに描かれているのは、深い皺と白髪を持ち、穏やかな、しかしどこか諦念の表情を浮かべた中年男性だった。その目は、見る者を射抜くような力を持っていた。絵自体は暗い色調で描かれているのに、その目だけが、奇妙なほど生きているように光っていた。

 

 

 

 

 

健吾が立ち止まり、肖像画をじっと見つめていると、驚くべきことが起きた。肖像画の中の男性が、ゆっくりと、ゆっくりと、瞼を開け始めた。

 

 

 

 

「ようこそ、佐倉健吾…」

 

 

 

 

低く、深く響くその声が、さらに脳の奥深くに直接語りかけてくる。

 

 

 

 

「ここは、全ての『否定された可能性』が、一瞬だけ形を保つ場所。君が生きる道を選んだことで、消滅した無数の『もしも』の残骸。君がここに迷い込んだのは、君の魂が、君自身が最も恐れている、別の未来の君に会いたかったからだよ…」

 

 

 

 

男性の顔をよく見ると、深い皺や白髪の下に、健吾自身の骨格と面影があることに気づいた。それは、健吾がベンチャー企業を選び、大きな失敗を経験し、孤独に歳を重ねた「別の自分」のように見えた。この肖像画は、健吾が選ばなかった道の終着点を具現化していた。

 

 

 

 

 

 

第5章:引き返す道

 

 

 

 

肖像画の男性は、静かに、一言一言に重みを持たせるように、言葉を続ける。

 

 

 

 

「君は、ここから何を持ち帰ることもできないし、ここに留まることもできない。なぜなら、君の『選択』は、もうすでに確定しているからだ。ここにあるのは、君が選んだ道を、後悔なく進むための、最後の確認だ…」

 

 

 

 

「見てごらん。このフロアの空気、この白い光、この沈黙を。これは全て、君が選ばなかった道の上にある、無限の可能性の重みだ。君は、この重みを背負いながら、今ある、君自身の現実を生きなければならない。だが、恐れることはない。君が選んだ道も、君が選ばなかった道も、全ては『君』という存在を形成しているのだから…」

 

 

 

 

男性は再び、ゆっくりと瞼を閉じた。その瞳が閉じた瞬間、肖像画は再びただの古い絵に戻り、生命感を失った。

 

 

 

 

 

健吾は、この一連の体験に混乱し、足元がおぼつかなくなった。しかし、同時に彼の心は、奇妙なほどに澄み渡っていた。彼は、ここで「選ばなかった自分」の姿を見せられ、それが絶望ではなく、ある種の肯定だったことに安堵した。今の自分がいるのは、過去のすべての選択、後悔、そして諦めがあったからだ。この13階は、彼に「今の人生で良いのか?」を問う、巨大な鏡だったのだ。

 

 

 

 

 

彼は、自分が来た時に聞こえていた、低いうなり音が、過去の可能性を今のエネルギーに変換する巨大な処理装置の音であるかのように感じ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

第6章:現実への扉

 

 

 

 

健吾は、階段室へと続く非常口に戻った。ドアノブに触れると、冷たい金属の感触が、現実との確かな境界線を示しているように感じられた。ドアを押し開けると、冷たい白の回廊は、まるでフィルムが途切れたかのように瞬時に消え去り、彼の目の前には、見慣れたビルの、埃っぽく、真っ暗な階段室が広がっていた。

 

 

 

 

 

彼は、すぐさま視線を上に向けた。防火扉の上のフロア表示プレートは、もうそこに「13」の文字を刻んではいなかった。ただ、プレートが貼られていた部分には、うっすらと埃が積もっていない跡が残っているだけだった。それは、まるで誰かが急いでプレートを剥がしたかのように見えた。

 

 

 

 

健吾は深く息を吸い込んだ。非常階段の空気は、ビルの空調が混じった、生ぬるい、日常の匂いがした。彼は12階の非常口を開け、オフィスの喧騒の中に足を踏み入れた。パソコンの打鍵音、電話の応対、同僚たちの笑い声。全てが、あの13階の沈黙とは対照的な、生きている世界の音だった。彼の心には、あのフロアでの体験が、単なる夢や幻覚ではなかったという確信だけが残っていた。

 

 

 

 

 

 

最終章:一粒の砂と再起動

 

 

 

 

健吾は自分のデスクに戻り、椅子に深く腰掛けた。同僚たちは、今さっきまで彼が不思議な体験をしていたことに気づく様子もない。彼は、何事もなかったかのようにキーボードに手を置こうとした、そのとき、ポケットの中で、何か固いものが指先に触れた。

 

 

 

 

取り出してみると、それは、あの砂時計からこぼれ落ちたに違いない、小さな一粒の黒い砂だった。その砂は、照明の光を受けて、まるでダイヤモンドのように微かに虹色の光を反射していた。その感触は驚くほど重く、そして冷たかった。

 

 

 

 

 

健吾は、この砂粒が、あの「13階」が確かに存在し、そして自分がそこに行ったのだという、唯一無二の証拠であることを理解した。彼はそれを、自分の選んだ道、そしてその代償を忘れずにいるための「お守り」のように感じた。

 

 

 

 

彼はその砂粒をそっとデスクの引き出しの奥深くにしまった。そして、パソコンの電源を入れ、再び日常という名の作業に戻った。数分後、集中して画面を見つめていた健吾の耳に、微かだが聞き覚えのある音が届いた。それは、ビルの空調やエレベーターの駆動音とは明らかに異なる、遠くで、規則的に響く、「ブーン……、ブーン……」と鳴り響く、あの低いうなり音だった。

 

 

 

 

健吾は顔を上げ、オフィスの天井を一瞬見つめた。彼は確信した。あの「13階」は、消えてはいないのだ。それは、「あり得たかもしれない未来」を処理する巨大な機械として、今日もビルのどこかで静かに稼働しており、そして、またいつか、人生の選択に迷い、答えを求めて非常階段を昇る次の「訪問者」を待っているのだと。

 

 

 

 

 

彼は小さく微笑んだ…