第1章:救世主の来訪、あるいは悪魔の契約
赤道直下の熱帯夜、湿った空気が肌にまとわりつく新興国A国の国際空港。滑走路に降り立ったプライベートジェットのタラップから、ヴィクター・ケインは一歩を踏み出した。彼は、まるで神が下界を見下ろすような傲慢な眼差しで、出迎えの群衆を見渡した。フラッシュの洪水。歓声。それは、飢えた人々が肉に群がる音に似ていた。
「この国は眠れる獅子だ。私が目覚めさせよう!」
マイクを通した彼の声は、甘美な毒となって国民の耳に注がれた。長年の貧困と汚職に疲弊した人々にとって、ウォール街の伝説的トレーダーである彼は、希望そのものに見えたのだ。
しかし、ヴィクターのサングラスの奥にある瞳は、爬虫類のように冷たく、感情が欠落していた。彼に見えているのは人間ではない。「養分」となる数字の羅列だけだ。ホテルへ向かうリムジンの窓から、スラム街の物乞いを見ると、彼は薄く笑った。
「見ろ、金になるゴミが溢れている。最高の狩場だ…」
第2章:熱狂のバブル、肉を喰らう宴
ヴィクターが設立した「フェニックス・ファンド」は、集団ヒステリーに近い熱狂を生み出した。彼は巧妙なメディア操作と粉飾決算で、実体のない幽霊会社の株価を吊り上げた。街の至る所に設置された電光掲示板には、右肩上がりのグラフが赤く輝き、それは人々の理性を焼き切るネオンサインとなった。
市場は狂った。汗と泥にまみれた労働者が、なけなしの生活費を握りしめて証券会社に殺到する。老人は薬代を削り、親は子の学費を投じた。
「買え! 買えば天国に行けるぞ!」
誰もが眼を血走らせ、口角から泡を飛ばして叫ぶ。それはもはや投資ではなく、カルト宗教の儀式のようだった。一方、ペントハウスのヴィクターは、最高級のステーキにナイフを入れながら、その様子をモニターで監視していた。
「人間が最も美しいのは、欲に踊らされている時だ。……さあ、もっと太れ!骨の髄までしゃぶり尽くしてやる…」
彼の笑い声は、レアのステーキから滲み出る血のように、赤くドロリとしていた。
第3章:ナイアガラの滝、断末魔のシンフォニー
そして訪れた審判の日。午前9時の市場開場と同時に、ヴィクターが仕込んだプログラム「アポカリプス(黙示録)」が起動した。保有する全株式の無慈悲な一斉売却。取引所の巨大スクリーンが、警告色の赤一色に染まった。
「暴落だ! 逃げろ! ……いや、約定しない! 買い手がいないぞ!?」
悲鳴、怒号、そして絶望の嗚咽。証券会社のフロアは、殺到する人間で地獄絵図と化した。心臓発作で倒れる者、錯乱して自分の髪をむしり取る者。窓ガラスが割れる音が響き、誰かがアスファルトへとダイブした鈍い音が聞こえた。
その断末魔の合唱をBGMに、ヴィクターは空港の貴賓室で冷えたシャンパンを喉に流し込んだ。彼のタブレット端末には、国家予算規模の利益が送金完了したことを示す通知がポップアップしていた。
「素晴らしいショーだった。アンコールは無しだ…」
彼は眼下の混乱を一瞥もしないまま、ジェット機のシートに深々と身を沈めた。
第4章:あとに残る廃墟、怨念の苗床
ヴィクターが飛び去った後のA国に残されたのは、文明の残骸だった。通貨と株券は一瞬にして紙屑となり、パン一つ買うためにトランク一杯の札束が必要になった。街には略奪と放火が横行し、昨日までの隣人が食料を巡って殺し合う「人狩り」が始まっていた。
路地裏には、首を吊った「投資家」たちの死体が果実のようにぶら下がっていた。腐敗臭と硝煙の匂いが都市を覆っていた。
スラム街の一角。家族全員の貯金を失った男、ミゲルは、自宅の床で冷たくなった妻と娘の遺体の前に座り込んでいた。飢えに耐えかねた無理心中だった。ミゲルだけが死にきれず、生き地獄に取り残された。彼の目は、涙さえ枯れ果て、代わりにどす黒い狂気を宿していた。手には、泥と血にまみれたヴィクターの新聞切り抜き…
「殺す……しかし、ただ殺すだけでは足りない……」
ミゲルは自らの指を噛みちぎり、その血で壁に誓いの言葉を刻んだ。その怨念は、国境を越え、海を渡り、やがてヴィクターの元へ這い寄る影となった…
第5章:楽園の亡命者、腐りゆく精神
それから5年の月日が流れた。地中海に浮かぶ絶海の孤島、要塞化した豪邸。
ヴィクターはそこで王のように振る舞っていたが、その精神は病んでいた。世界中から指名手配され、常に暗殺の影に怯える日々。頼りになるのは、高額で雇った元傭兵の私兵部隊と、最新鋭のセキュリティシステムだけだった。夜な夜な、彼は悪夢にうなされた。波の音が、騙し取った人々の泣き声に聞こえる。風の音が、彼を呪う囁きに聞こえる…
「金さえあれば安全だ。誰もここには入れない…」
そう自分に言い聞かせ、精神安定剤をウォッカで流し込んだ。ある嵐の夜、書斎の机に一通の封筒が置かれていた。警備は鉄壁のはずだ。誰が置いた?
震える手で封を開けると、中には人間の皮膚のような感触の奇妙な招待状が入っていた。文字はインクではなく、酸化した血で書かれていた。
『第1回 債権者集会のお知らせ。場所:貴様の寝室』
雷鳴が轟き、屋敷の明かりが一斉に消えた…
第6章:忍び寄る影、沈黙の殺戮
闇に包まれた屋敷。非常用電源すら作動しない。
「おい! 誰かいないか! 照明をつけろ!」
ヴィクターは叫んだが、返事はなかった。ただ、雨音に混じって、「ズルッ……ズルッ……」という、何か重いものを引きずるような湿った音が近づいてくる。懐中電灯を頼りに廊下に出た彼は、息を呑んだ。床には、屈強な傭兵たちが転がっていた。銃撃の跡はない。彼らは皆、目を見開いたまま絶命しいた。そして、その口には大量のコインや宝石が無理やりねじ込まれ、顎が外れていた。
「ひっ……!」
ヴィクターは腰を抜かし、這うようにしてその場から逃げた。セキュリティルームに逃げ込み、モニターを確認した。赤外線カメラが捉えた映像に、彼の心臓は凍りついた。
そこに映っていたのは、ボロボロの服を纏い、痩せこけた、幽霊のような群衆だった。何百、何千という、フェニックス・ファンドの「株主」たちが、音もなく、着実に屋敷を埋め尽くしていく。彼らの目は皆、虚ろで、手には武器の代わりに、紙屑となった株券や、死んだ家族の遺影が握られていた。
「来るな……来るなああああ!!」
第7章:最後の配当、肉の株式総会
ヴィクターが最後に逃げ込んだのは、地下の巨大金庫室だった。厚さ50センチの鋼鉄の扉を閉め、震えながら金の延べ棒の山に埋もれた。
「ここは開かない。核シェルター並みの強度だ。絶対に入れやしない……」
しかし、その絶対の安全は、内側から破られた。通気口から、黒い液体のようなものが滴り落ちてくる。それはガソリンの臭いと、腐敗臭を放っていた。そして、鋼鉄の扉が、外側からの「熱」ではなく、何千人もの「爪」が立てる不快な引っ掻き音と共に軋み始めた。
キーッ、キキキキキッ……。
耐え難い金属音の後、扉のロックが弾け飛んだ。
雪崩れ込んできたのは、ミゲルを先頭にした亡者たちだった。彼らは何も言葉を発しない。ただ、底知れぬ飢餓感を湛えた目でヴィクターを見つめていた。
「金ならやる! 全部やる! だから助けてくれ!お願いだ!」
ヴィクターは札束を彼らに投げつけた。しかし、紙幣は宙を舞い、誰も拾おうとしない。ミゲルがゆっくりと近づき、ヴィクターの喉元を掴み上げた。
「我々が欲しいのは金ではない。貴様という『資産』の精算だ…」
群衆が一斉に襲いかかった。響いた悲鳴は一瞬で途絶えた・
翌朝、警察が踏み込んだ時、金庫室は鮮血で再塗装されていた。中央には、原形をとどめないほど膨れ上がった肉塊があった。ヴィクターだったものだ。彼の腹は切り裂かれ、その胃袋と口の中には、ぎちぎちに丸められた株券と硬貨が詰め込まれていた。それはまるで、強欲な豚の丸焼きのようだった。そして壁には、ヴィクターの血を使って、巨大な文字が描かれていた。
『上場廃止・取引終了』
孤島の風は、もはや何も語らない。ただ、どこか満足げな静寂だけが漂っていた…