SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#161   昭和のおでん屋台「源さん」 Gen’s Oden Cart Tales 

第1章:頑固オヤジとスポーツ新聞の掟

 

 

 


「ガタン、ゴトン……ガァーーッ!!」

 

 

 


頭上を走る電車の轟音が響く、薄暗いガード下。冷たい夜風が吹き抜けるその場所に、ポツンと灯る赤提灯があった。屋台「源さん」だ。ビニールシートの隙間からは、白い湯気と、醤油と出汁の混ざったたまらなくいい匂いが漏れ出している。

 

 

 


店主の源(げん)さんは、年中半袖のダボシャツにねじり鉢巻、そして分厚い腹巻きという出で立ちだ。包丁を握るその腕は丸太のように太く、顔には深い皺が刻まれている。狭い店内は、仕事帰りの男たちの熱気でむせ返るようだった。

 

 

 


「おい! そこの兄ちゃん!!」

 

 

 


突然、源さんの怒声が轟音よりも大きく響いた。ビクリと肩を震わせたのは、一番端の席でスポーツ新聞を広げていた若い客だ。

 

 

 


「へ、へい!?」

 

 

 


「新聞広げながら大根食うんじゃねえ! 行儀が悪いって言ってんだ!」

 

 

 


若者は慌てて新聞を畳もうとした。

 

 

 

 

「すみません、つい巨人の勝敗が気になって……」

 

 

 


「野球の結果なんざ、どうせ明日には変わる。だがな、その大根は二度と戻ってこねえんだ!」

 

 

 


源さんは菜箸でおでん鍋を指した。

 

 

 


「見ろ。農家が土まみれで作って、俺が朝から晩まで火加減見て、じっくり煮込んだ大根だ。俺たちの愛情と時間が、芯まで『しみて』るんだよ。それをお前、活字を目に『しませ』ながら食って、味がわかんのか?」

 

 

 


若者は赤面し、姿勢を正した。そして、琥珀色に染まった大根を一口食べた。ハフハフと息を吐きながら噛み締めると、口いっぱいに優しい出汁がジュワリと広がった。

 

 

 


「……うまい。すげえうまいです、親父さん!」

 

 

 


「はんっ、わかればいいんだよ。おでんは舌で味わうんじゃねえ。『人情』で食うもんだ!」

 

 

 


源さんはぶっきらぼうに言いながら、少しだけ目尻を下げて辛子を添えてやった。

 

 

 

 

 

 


第2章:くたびれたサラリーマンと崩れたがんもどき

 

 

 


午後八時。くたびれたグレーのスーツを着た男が、重い足取りで暖簾をくぐった。常連のサラリーマン、佐藤だ。ネクタイは緩み、肩にはフケが少し乗っている。

 

 

 

 


「へい、らっしゃい!」

 

 

 


「……親父さん。あつかん、一本つけてくれ。あと、一番安いこんにゃく……」

 

 

 

 


佐藤の声には覇気がない。

 

 

 


「どうした、シケた面しやがって!」

 

 


「いやあ……今日、課長にひどくどやされましてね。『お前は融通がきかない』って。俺、もうダメかもしれませんわ……」

 

 

 


源さんは何も言わず、おでん鍋をじっと見つめた。そして、こんにゃくではなく、形が崩れてボロボロになった「がんもどき」を皿に乗せた。

 

 

 


「親父さん、注文と違うよ。それにこれ、崩れてるし…」

 

 


「おうよ。鍋の底で他の具材に揉まれて、押しつぶされて、無様な形になっちまった失敗作だ。だがな、食ってみな!」

 

 

 


佐藤は言われるままに箸をつけた。見た目は悪いが、口に入れた瞬間、驚くほど濃厚で深い味わいが広がった。豆腐と野菜の甘み、そして吸い込んだ出汁の旨味が渾然一体となっている。

 

 

 


「うまい……! 形は崩れてるのに、普通のよりずっと味がしみてる…」

 

 

 


「人間も一緒よ!」

 

 

 


源さんは徳利をドンと置いた。

 

 

 


「エリートみたいにツルッとした練り物もいいがな、社会の荒波に揉まれて、傷ついて、形が崩れた奴の方が、人の痛みや情けをたっぷり吸い込んで、いい味出すんだよ。……ま、これは売り物にならねえからタダだ。食え!」

 

 

 


佐藤はがんもどきを頬張りながら、燗酒で熱い涙を流し込んだ。

 

 

 

 


「しみるなあ……」

 

 

 

 

 

 


第3章:聖子ちゃんカットのOLと「マツ」の伝言

 

 

 


次にやってきたのは、流行りの聖子ちゃんカットに、肩パッドの入った派手なスーツのOL、ミキだった。化粧はバッチリ決めているが、マスカラが涙で少し滲んでいる。

 

 

 


「……おじさん、お酒ちょうだい。強いやつ!」

 

 

 


「おう、また失恋か?」

 

 

 


「うるさいわね。……今度の彼は本気だったのよ…」

 

 

 


ミキはコップ酒を一気に煽り、愚痴をこぼし始めた。

 

 

 


「彼のアパートの『呼び出し電話』に何度かけても、大家のお婆さんが出て『いないよ!』ってガチャ切りするの。私、嫌われてるのかな……。それに今日、駅の伝言板にチョークで『マツ』って書いて、3時間も待ったのに……来なかった…」

 

 

 


昭和の恋は、すれ違えばそれっきりだ。携帯電話のない時代、連絡手段の途絶はそのまま縁の切れ目になりかねない。源さんはため息をつき、鍋の隅でグラグラと煮立っていた熱々の玉子を一つ、殻付きのままミキに渡した。

 

 


「ほらよ!」

 

 


「きゃっ! 熱っ! 親父さん、何すんのよ、これ剥けないわよ!」

 

 

 


ミキは指先を耳たぶで冷やしながら抗議した。

 

 

 


「おう、熱くて触れねえだろ? 今のお前の心と同じだ。カッカしてちゃ、殻は剥けねえ!」

 

 

 


源さんは手ぬぐいで自分の手を拭くと、低い声で言った。

 

 

 


「だがな、少し冷ませば、殻なんてツルッと綺麗に剥ける。一皮剥けて、新しい真っ白な自分が出てくるさ。男なんて星の数ほどいるんだ。焦るな!」

 

 

 


「……親父さん、物理的にも言葉も熱すぎよ!」

 

 

 


「うるせえ、冷める前に食え! 黄身が固まっちまうぞ。お代は次の彼氏ができたらでいい!」

 

 

 


ミキはふふっと笑い、涙を拭って熱い玉子と格闘し始めた。

 

 

 

 

 

 


第4章:パンチパーマの男とちくわぶの記憶

 

 

 


深夜零時。終電も近い頃、店の前に黒塗りの大きな車が止まった。静まり返る店内。暖簾を分けて入ってきたのは、パンチパーマにサングラス、派手な柄シャツを着た強面の男だった。頬には古傷が見える。客たちが息を飲み、視線を逸らす中、男はカウンターの端に座り、ドスの効いた低い声で言った。

 

 

 


「……あるか?」

 

 

 


「あんだよ、藪から棒に!」

 

 

 

 

源さんは眉一つ動かさず、大根の皮を剥き続けている。

 

 

 


「……ちくわぶだ!」

 

 

 


店内の空気がざわついた。関西出身の客が小声で「あんなもん、おでんとちゃうで……」と囁くのが聞こえる。

 

 

 


源さんは無言で、鍋の中からクタクタに煮込まれたちくわぶをすくい上げた。箸で掴むと千切れそうなほど柔らかい。男はサングラスを外した。その目は意外にも優しく、そして赤かった。ちくわぶを一口食べると、男は天井を見上げた。

 

 

 


「……お袋の味だ」

 

 

 


「ほう!」

 

 

 


「俺みたいなヤクザな生き方してるとよ、世間様からは『硬派』だ何だって言われるが……本当はこのちくわぶみたいに、フニャフニャで頼りねえ甘ったれなんだよ。この安っぽい味が、冷えた心に沁みる……」

 

 

 


男が涙をこぼすと、源さんはニヤリと笑った。

 

 

 


「ちくわぶはな、煮込みすぎると溶けてなくなっちまう。加減が難しい具だ!」

 

 

 


「…………」

 

 

 

 


「お前さんもよ、無理して強がって煮詰まって、自分が溶けてなくなっちまう前に、カタギの世界に戻んな。まだ間に合う!」

 

 

 


男はハッとして源さんを見た。そして、懐から一万円札を取り出し、「釣りはいらねえ…」と置こうとした。

 

 

 


「馬鹿野郎!!」

 

 

 


源さんの一喝が飛んだ。

 

 

 


「ちくわぶは百円だ! かっこつけて釣りはいらねえなんてキザな真似すんじゃねえ! 百円玉置いてさっさとけえれ!」

 

 

 


男は頭を下げ、百円玉を置いて店を出て行った。その背中は、来た時よりも少し小さく、しかし温かく見えた。

 

 

 

 

 

 


第5章:学生服の苦学生と皿洗い

 

 

 


ある雪の降る夜、閉店間際に一人の学生服の少年が飛び込んできた。破れた帽子、すり減った靴。いわゆる苦学生だ。

 

 

 


「お、おやじさん! ありったけ食わせてくれ!」

 

 

 

 


少年は猛烈な勢いで大根、厚揚げ、ごぼう巻き、牛すじを貪り食った。何日も食べていないような食いっぷりだった。

 

 

 


「ふう……食った……」

 

 

 


満足げに腹をさすった少年は、ポケットを探り、そして顔面蒼白になった。

 

 

 


「あ、あれ……? さ、財布が……」

 

 

 


「あん?」

 

 

 


「せ、銭湯だ! さっき行った銭湯の脱衣かごで、スラれたんだ……! し、信じてくれ!」

 

 

 


震える少年に、源さんはゆっくりとお玉を持って近づいた。

 

 

 


「……食い逃げか?」

 

 

 


「ち、違います! 本当に払うつもりだったんです!」

 

 

 

 


源さんは大きくため息をつき、お玉を鍋に戻した。そして顎で裏手をしゃくった。

 

 

 


「こっち来な。皿洗いだ!」

 

 

 


「え?」

 

 

 


「金がねえなら労働で払え。この雪の中、水仕事だ。指先が凍ってあかぎれができるぞ。覚悟はいいか!」

 

 

 


「は、はい!」

 

 

 


少年は裏の流し台で、かじかむ手を真っ赤にしながら、山積みの皿を洗った。冷たい水が骨まで染みたが、食べたおでんの代金ために必死に洗った。一時間後、全ての皿を洗い終えた少年に、源さんは新聞紙に包んだ巾着(きんちゃく)を一つ差し出した。

 

 

 


「給料だ!」

 

 

 


「えっ、でも僕はタダ飯を……」

 

 

 


「ちげえよ!中身は餅だ。餅ってのはな、粘り強えんだ。お前も東京で生きてるんなら、この餅みたいに粘り強く生きろ!」

 

 

 


少年は新聞紙を握りしめ、ボロボロ泣いた。

 

 

 

 

「ありがとうございます! 必ず、必ず、代金返しに来ます!」

 

 

 


少年が走って帰った後、源さんはワンカップ酒をあおりながら呟いた。

 

 

 


「……あいつ、上野駅に集団就職で着いた日の、俺にそっくりだ…」

 

 

 

 

 

 


第6章:赤電話の秘密と勘違い

 

 

 

 


数日後、常連たちの間に激震が走った。店の近くにある、電話ボックス。ガラスが曇るほど寒い中、源さんが赤電話の受話器を握りしめ、十円玉を山のように積んで深刻そうに話しているのを、佐藤が偶然聞いてしまったのだ。

 

 

 


「ああ……ああ、わかってる。もう潮時かもしれねえな…」

 

 

 


源さんの背中は小さく見えた。

 

 

 


「あちこちガタが来てるんだ。これ以上無理させても可哀想だろ……。ああ、来週あたり、畳もうかと思ってる……寂しいがな……」

 

 

 


「親父さんが店を閉める!?」

 

 

 


佐藤が店に駆け込み、ミキやあの時のヤクザな男(あれから2人は常連になっていた)に伝えると、全員が青ざめた。

 

 

 

 


「嘘でしょ!? 店なくなっちゃうの?!」

 

 

 


「ガタが来てるって、親父さんの体のことか……!?」

 

 

 


「俺たちの心の灯火が消えちまう!」

 

 

 


「源さんの体を治すための手術代……いや、引退後の生活費だ! カンパを集めよう!」

 

 

 


常連客たちは結束した。佐藤はボーナスを、ミキはブランドバッグを質に入れ、ヤクザな男もパチンコの景品を換金し、なけなしの金を集めた。

 

 

 


そして一週間後、屋台の前で「引退阻止・感謝セレモニー」が勝手に行われることになった。

 

 

 

 

 

 


第7章:湯気と涙と笑い声

 

 

 

 


「源さん! 辞めないでくれ!」

 

 

 


佐藤が「感謝」と書かれた熨斗袋を突き出し、ミキが泣きながら背中に抱きついた。ヤクザな男も男泣きしながら花束を持っている。開店準備をしていた源さんは、ポカンとして箸を止めた。

 

 

 


「……お前ら、何やってんだ? 何の騒ぎだ?」

 

 

 


「隠さないでください! 佐藤さんが聞いたんですよ! 赤電話で『ガタが来てるから畳む』って……体が悪いんでしょ!? 私たちがお金出し合って……」

 

 

 


源さんはしばらく呆然としていたが、みるみる顔を真っ赤にした。そして、持っていた菜箸で鍋のふちをカーン!と叩いた。

 

 

 


「バカ野郎!! 畳むのは田舎の実家の『こたつ』の話だ!!」

 

 

 


「は……?」

 

 

 


全員の動きが止まった。

 

 

 


「オフクロが『こたつの脚がガタついてるから捨てようか』って相談してきたんだよ! もう春だから片付けて、新しいのを買おうかって話をしてたんだ!!」

 

 

 


「ええーっ!?」

 

 

 


全員がその場でズッコケた。屋台の柱が揺れ、赤提灯が激しく揺れた。

 

 

 


「俺の体はピンピンしてるわ! お前らみたいな寂しがり屋がいる限り、死ぬまでここでおでんを煮続けるんだよ! ……ったく、早とちりしやがって!」

 

 

 


源さんは照れ臭そうに鼻の下をこすり、集まった金や花束を押し返した。

 

 

 


「こんなもんいらねえよ! その代わり……」

 

 

 


源さんはニッと笑い、全員の皿にサービスのはんぺんを放り込んだ。ふわふわの白いハンペンが、出汁の中で揺れる。

 

 

 


「食え! 今日は俺の奢りだ! その代わり、出汁一滴も残すんじゃねえぞ!」

 

 

 


「やったー!」

 

 

 

「親父さん、紛らわしいよ!」

 

 

 

「でも良かったぁ!」

 

 

 


安堵と笑いがガード下に爆発した。電車の通過音さえも、祝福のファンファーレに聞こえる。昭和の寒空の下、源さんの屋台だけが、裸電球のオレンジ色の光に包まれていた。湯気の向こうで笑う源さんと、それを囲む常連たち。

 

 

 


その夜のおでんの出汁は、いつもより少ししょっぱくて、でも最高に温かかった…