SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#179   明日からのギャツビー Tomorrow’s Gatsby

第一章:くじ引きの神様と、白いスーツ ―― 100億の沈黙

 

 

 

 


山あいに霧が深く立ち込める八見村(はつみむら)。ここで78年間、土を耕し、空の色を読み、牛の息遣いを聞いて生きてきた観音寺作蔵の人生は、ある火曜日の午後、町の宝くじ売り場で一変した。

 

 

 

 


「……10億……。いや、前後賞合わせて、10億円だ!」

 

 

 

 


当選番号を確認する作蔵の指は、長年の野良仕事で節くれ立ち、爪の間には消えない土の色が染み付いている。その手が、震えていた。作蔵には、ずっと忘れられない映像があった。昔、深夜のBS放送でたまたま目にした、アメリカの古い映画。金色のシャンパン、狂ったように踊る人々、そして湖の向こうにある「緑の光」を見つめる、白いスーツの男。

 

 

 

 

 


「あいつは、惚れた女のためにあんなに派手なことをしたんだな…」

 

 

 

 


作蔵は決意した。すごく決意した。明日から、わしはギャツビーになる。かつて貧しさゆえに、この村で一番美しかった娘、トメに何もしてやれなかった自分を、この10億円で「殺す」のだ。

 

 

 

 


作蔵は、村で唯一の無職で、街から都落ちしてきた青年のタケシを呼び出した。

 

 

 


「タケシ、今日からお前は『ニック』だ。わしの隣で、わしが『グレート・サクゾウ』になるのを見届けるんだ!」

 

 

 

 


まずは形からと、作蔵は町の仕立て屋で真っ白な麻のスーツを特注した。しかし、長年の鍬仕事で曲がった腰に合わせて仕立てられたスーツは、どれほど高級な生地を使っても、どこか「一張羅の割烹着」のような哀愁を漂わせていた。それでも作蔵は、鏡の中の自分を見て、満足げにキセルをくゆらすのだった。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:ニック、あるいは村の便利屋の困惑 ―― 納屋のウエスト・エッグ

 

 

 

 


「作蔵さん、アンタ正気かよ。ギャツビーってのは、もっとこう、ニューヨークの摩天楼とか、海の見える大豪邸とかさ……。この八見村じゃ、海どころかドブ川しかねえよ…」

 

 

 

 

 


自称ニックことタケシは、作蔵の納屋に運び込まれた大量の調度品を見て呆れ果てた。イタリア製の革ソファ、なぜかシャンデリア、そして庭に鎮座する巨大なビニールプール。作蔵は10億円の端金で、古びた自宅を強引に「サクゾウ・マンション」へと改造し始めた。

 

 

 

 


「ニックよ。形なんてのは後からついてくるもんだ。大事なのは、明日からわしが『誰でもない存在』になれるかどうかだ!」

 

 

 

 


作蔵がプールの中に満たさせたのは、水ではなかった。近隣の酒蔵からすべて買い叩いてきた、最高級の純米大吟醸だ。

 

 

 

 


「シャンパンだか何だか知らんが、そんな都会の飲み物より、この村にはこの酒が似合う。わしはこの酒のプールで、失った時間を洗い流すんだ!」

 

 

 

 

 


タケシは、作蔵が何を目指しているのかを少しずつ理解し始めていた。作蔵の視線は、常に田んぼの向こう側、村で唯一の商店であり、トメが細々と切り盛りしている「トメ八百屋」に向けられていた。

 

 

 

 

 


べつに作蔵は、自分の財産を見せつけたいわけではない。ただ、あの店で大根を売っているトメに、「今の自分なら、君が欲しがる宇宙のすべてを買い与えられる!」と、言葉なしに伝えたかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 


第三章:狂乱の宴・純米大吟醸の滝 ―― ちんどん屋が鳴らすジャズ

 

 

 

 


ついに「サクゾウ・パーティ」の幕が開いた。作蔵は新聞の折り込み広告を使って、近隣の村々にまで「誰でもいいから遊びに来い。飲み放題、食い放題だ!」と触れ回った。村の静寂は、爆音で鳴り響く「ちんどん屋」の鐘の音にかき消された。ジャズの代わりに流れるのは、どこか懐かしく、そして騒がしい『美しき天然』。

 

 

 

 

 


庭に並べられたテーブルには、豪華なオードブルの代わりに、大皿に盛られた「イナゴの佃煮」「わらびのたたき」「鹿肉の燻製」、そして巨大な「おにぎり」の山が並んだ。

 

 

 

 


「飲めや! 歌え! 今日からわしは、八見村のグレート・サクゾウだ!」

 

 

 

 

 


作蔵は白いスーツの裾を泥で汚しながら、金のキセルを振り回した。集まった村人たちは、最初こそ戸惑っていたが、プールの純米大吟醸を柄杓で掬って飲み始めると、すぐに理性を失った。しかし、その喧騒の真ん中で、作蔵の心は凪のように静かだった。彼は、人混みの隙間からトメの姿を探し続けていた。

 

 

 

 


ようやく現れたトメは、お洒落なドレスどころか、いつもの褪せたもんぺ姿で、会場の隅に立っていた。彼女は、プールで泳ぐ酔っ払いたちや、ちんどん屋の騒ぎを、冷めた目で見つめていた。その目は、作蔵の10億円を、ただの「派手なゴミ」として見なしているようだった。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:田んぼの向こうの、殺虫灯 ―― 緑の光への祈り

 

 

 

 

 


宴が終わり、酔い潰れた人々が去った後の夜。作蔵はタケシを伴って、静まり返った縁側に座っていた。夜風が純米大吟醸の香りを運び、遠くで蛙の声が響く。作蔵の視線は、真っ暗な田んぼの向こうにある、一点の微かな光に固定されていた。それは、トメの八百屋の軒先でぼんやりと光る、青緑色の「電気殺虫灯」だった。

 

 

 

 


「ニックよ。あの光が見えるか。あれが、わしの『緑の光』だ!」

 

 

 

 


ギャツビーが対岸のデイジーの邸宅の灯りを見つめたように、作蔵はあの殺虫灯に自分の全人生を投影していた。

 

 

 

 


「わしらは、若い頃、本当に貧しかった。トメと一緒に逃げようと約束した夜も、わしのポケットには小銭すらなかった。わしは彼女に『明日から、もっとええ暮らしをさせてやる!』と言い続けて、気がつけば60年が経っていた…」

 

 

 

 


タケシは、作蔵の横顔に刻まれた深い皺に、月の光が落ちるのを見た。

 

 

 

 


「あの頃のトメは、この世のどんな宝石よりも輝いていた。わしはその輝きにふさわしい男になりたかった。10億円が手に入った今、わしはやっと、あの夜の約束を果たせると思ったんだ…」

 

 

 

 


「作蔵さんよ……あの光、虫がパチパチ死ぬ音しかしてねえよ…」

 

 

 

 


タケシの不器用な慰めは、作蔵の深い溜息にかき消された。作蔵にとって、あの殺虫灯のパチパチという音は、失われた歳月が燃え尽きる音のように聞こえていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 


第五章:大根とロールスロイス ―― 虚飾の衝突

 

 

 

 


作蔵はついに、最後の一手に出ることにした。彼は中古車販売店で見つけてきた、真っ白なロールスロイス(型落ちで塗装は剥げかけていたが、彼には馬車に見えた)に乗り込み、タケシに運転をさせてトメの八百屋へと乗り付けた。店の前で車を止め、作蔵は白いスーツの襟を正し、後部座席から颯爽と降り立った。

 

 

 

 


「トメ。この店にある野菜を、全部買うだ。そして、明日からわしと一緒にニューヨークへ行くべ。そこには、お前が見たこともないような世界が広がっているんだ!」

 

 

 

 


作蔵は、練習した通りの最高にキザな微笑みを浮かべた。しかし、トメの反応は作蔵の想像を遥かに超えていた。彼女は、店頭に並んでいた泥付きの巨大な大根を一本掴むと、それを全力で作蔵のピカピカのロールスロイスのボンネットに叩きつけた。

 

 

 

 

 


「この、バカ作蔵! 10億だか何だか知らんが、何がニューヨークだ! 大根の土も落とせんような手が、あんな派手な車を転がして、恥ずかしくないんか!」

 

 

 

 

 


トメの怒号は、村の山々に反響した。

 

 

 

 

 


「あんたが本当にやるべきことは、ニューヨークに行くことじゃないだろう! 壊れかけた村の水路を直すことだ! 自分の金で、自分の心を汚して、何がグレートだ!」

 

 

 

 


大根の泥が、白いスーツの袖に飛び散った。作蔵は、自分の築き上げた「グレート・サクゾウ」という虚像が、トメの放った一本の大根によって、音を立てて崩れ去るのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 


第六章:祭りのあとの、泥の味 ―― 偽りの富豪の終わり

 

 

 

 

 


ロールスロイスのボンネットには大きな凹みができ、白いスーツは泥と大根の汁で無惨に汚れてしまった。やがて作蔵の邸宅には、金の匂いを嗅ぎつけた遠い親戚や、怪しげな投資話を持ってくるスーツ姿の男たちが列をなした。

 

 

 

 


「作蔵さん、こっちの土地を買えば倍になりますよ…」

 

 

 

 

「伯父さん、息子の学費が……」

 

 

 

 


作蔵は、自分を囲む人々の目が、かつて自分が軽蔑していた「金への執着」で濁っていることに気づき、激しい自己嫌悪に陥った。

 

 

 

 


「ニック……わしは、ただの馬鹿なジジイだったな…」

 

 

 

 


作蔵はシャンデリアの灯りを消し、納屋の片隅で膝を抱えた。10億円という大金は、トメとの距離を縮めるどころか、彼女が愛した「かつての純朴な作蔵」をも奪い去ってしまっていたのだ。

 

 

 

 


「作蔵さんよ、ギャツビーってのはさ、結局、過去を買い戻そうとして失敗する男の話なんだよ。でも、あんたのパーティで出た漬物、村のみんな『あんなに旨いのは初めてだ!』って言ってたぜ…」

 

 

 

 


タケシは、作蔵の肩にそっと手を置いた。

 

 

 

 


「金で買った酒よりも、あんたの漬物の方が、みんなをよっぽど幸せにしてたんだよ…」

 

 

 

 


作蔵はその言葉を聞き、泥に汚れた自分の手を見つめた。この手は、まだ土を弄ることができる…この手は、まだ何かを直すことができる…

 

 

 

 

 

 

 


第七章:明日からの本当の二人 ―― 殺虫灯の向こう側

 

 

 

 


翌朝、作蔵は驚くべき速さで行動を開始した。彼はロールスロイスを即座に売却し、庭のビニールプールも撤去した。そして、10億円の大部分を使い、村の長年の懸案だった古い灌漑設備を修理するための基金を設立した。さらに、村の集会場に最新のマッサージチェアを30台寄贈し、誰もが自由に使えるようにした。

 

 

 

 


彼はもう、白いスーツもロールスロイスも欲しがらなかった。いつもの、色褪せた作業着と、使い古した長靴が、今の自分には一番しっくりくることを知ったからだ。数週間後。夕暮れ時の田んぼ道を、作蔵は一人で歩いていた。水路からは、新しく整備された水の流れる清らかな音が聞こえてくる。

 

 

 

 


「おい、作蔵!」

 

 

 

 


後ろから呼ぶ声に振り返ると、自転車に乗ったトメが立っていた。カゴには、やはり泥のついた大根が積まれている。

 

 

 

 


「水路、あんたが直したんだってね。おかげで今年の大根は、今までで一番瑞々しいよ!」

 

 

 

 


トメは、少しだけ照れくさそうに目を逸らした。

 

 

 

 


「……明日から、うちの畑の収穫を手伝え。給料は出せんが、茶と、あんたの好きな大根の煮付けぐらいは出してやる…」

 

 

 

 


作蔵は、顔をくしゃくしゃにして笑った。10億円を積んでも得られなかった「明日」の約束が、そこにあった。

 

 

 

 


「ああ、行くべ!トメ。明日から、わしの本当の人生が始まるべ!」

 

 

 

 


二人の影が、夕闇の中に長く伸びて重なった。遠く、八百屋の軒先で、青緑色の殺虫灯がパチリと音を立てた…