SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#180  時給1200円の冥土派遣研修 Heavenly Temp Training

第一章:ハロウィン会場と間違えた求人 ―― 資本主義の果てのハローワーク

 

 

 

 


冬。佐藤健司の人生は、文字通り「どん底」のさらに数メートル下を這っていた。共同経営者に裏切られ、背負わされた借金は500万円。家賃は三ヶ月滞納し、昨日の食事はコンビニでもらった賞味期限切れのパンの耳だけだ。そんな彼がスマホの求人情報画面で見つけたのは、あまりに不自然な求人だった。

 

 

 

 


『急募! 未経験歓迎の誘導スタッフ。特別な技術、資格は不要。優しく手を振るだけの優しいお仕事です。時給1200円、交通費全額支給、制服貸与。※夜勤中心、直行直帰可』

 

 

 

 


「……交通整理か何かか?」

 

 

 

 


藁にもすがる思いで指定された住所に向かうと、そこは新宿の片隅にある、取り壊し寸前の雑居ビルだった。地下二階。カビの臭いと、チカチカと点滅する古い蛍光灯。扉には『日本冥土振興公社・東京支店』という、お役所仕事の香りがプンプンするプレートが掲げられていた。

 

 

 


「面接? ああ、履歴書はいいよ。君、手が綺麗だね。手招きに向いてる。採用します!」

 

 

 

 


ヨレヨレのワイシャツに安物のネクタイを締めた、いかにも疲れた中間管理職といった風貌の男・田中。彼は健司に、ビニール袋に入った黒い布の塊を押し付けた。

 

 

 

 


「これ、制服だから。それと、これが商売道具の鎌ね。プラスチック製だけど、これがないと形がつかないから…」

 

 

 

 


「あ、あの、仕事内容を詳しく……」

 

 

 


「簡単だよ。君の仕事は『死神』。死ぬ予定の人たちの枕元に立って、あちら側へ手招きしてあげるんだ。魂ってのはさ、意外とシャイでね。誰かが呼んであげないと、なかなか肉体から出てこないんだよ…」

 

 

 

 


健司が反論する間もなく、左手首に「勤務時間計測開始」と赤く光るデジタル端末が埋め込まれた。こうして、健司の時給1200円の「死の案内人」としてのキャリアが幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:初仕事、マニュアル通りの手招き ―― 拒絶される新米の「いざない」

 

 

 

 


健司に与えられた最初の研修場所は、世田谷区にある大規模な総合病院の特別病棟だった。深夜二時。静まり返った廊下を、安っぽい黒いローブを引きずりながら歩く健司の姿は、どう見ても不審者か、悪趣味なコスプレイヤーにしか見えなかった。

 

 

 

 


「いいかい、健司君。手招きは、ただ手を振ればいいってもんじゃないんだよ…」

 

 

 


同行した田中課長代理が、小声でレクチャーを始める。

 

 

 


「基本は肩の力を抜き、手首のスナップを柔らかく使うこと。ターゲットの瞳に『あちら側には苦しみも、増税も、腰痛もありませんよ』という慈愛を映し出すんだ。これが『冥土のいざない』の基本。さあ、やってみて!」

 

 

 

 


ターゲットは、心不全で危篤状態にある八十歳の老人だった。健司はマニュアル通り、病室の隅に立ち、震える手で優雅な手招きを試みた。しかし、モニターの波形が激しく乱れた瞬間、老人がカッと目を見開いた。

 

 

 

 


「だ……誰だ、お前は! お前みたいな安っぽい死神なんぞに連れて行かれてたまるか! ワシはまだ、孫の結婚式を見てねえんだ! 帰れ、不審者!」

 

 

 

 


「えっ、あ、すみません! 課長代理、めちゃくちゃ怒鳴られたんですけど…」

 

 

 


「粘るんだよ、健司君。これが『未練との交渉』だ。今こうしている間にも時給が発生してるんだから、簡単に諦めるんじゃない。あの人が納得するまで、一晩中でも振り続けるんだ。これも一種の接客業なんだから!」

 

 

 

 


健司は、死の尊厳というより、ノルマに追われる飛び込み営業マンのような悲哀を感じながら、朝まで手を振り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:頑固ラーメンと死神の残業 ―― 秘伝のスープと労働基準法

 

 

 

 


二日目のシフトは、下町の商店街で五十年間続く「頑固ラーメン・龍神」の店主、五郎(72歳)だった。深夜、客の途絶えた店内で、五郎は激しく咳き込みながらも寸胴の前に立っていた。予定表によれば、彼の心臓は一時間前に止まっているはずだった。

 

 

 

 


「あの……店主さん。お迎えに上がりました…」

 

 

 

 


健司がカウンターの端で手招きを始めると、五郎は平ザルで麺を叩きつけながら睨み返した。

 

 

 


「お前うるせえな! 死神?死神ならそこに座ってろ! このスープを完成させるまでは、閻魔大王が来ようが動かねえぞ!」

 

 

 


五郎には健司の姿がはっきりと見えていた。職人の執念は、死神の権威すら凌駕していた。

 

 

 


「そう言われましても、僕も派遣の身なんで……。予定を過ぎると、課長代理に始末書を書かされるんですよ。お願いしますよ、そろそろ手招きに応じてください…」

 

 

 

 


「黙らないか! 暇ならその皿でも洗って待ってろ!」

 

 

 

 


結局、健司はローブの袖をまくり上げ、山積みになったどんぶりを洗い始めた。死神の鎌をシンクの横に立てかけ、洗剤の泡にまみれる死神。洗い終え後、店主は健司にスープの入ったどんぶりを差し出した。

 

 

 

 


「ほぉ…店主さん、このスープ、鶏ガラだけじゃなくて煮干しも効いてますね…」

 

 

 

 


「ほう、わかるか。若造のくせにいい舌してやがるな!」

 

 

 

 


夜明け前、最後の一杯を自分で飲み干した五郎は、満足げに暖簾を下ろした。

 

 

 

 


「……よし。いいスープができた。あばよ、死神の兄ちゃん。皿洗い、助かったぜ!」

 

 

 

 


五郎は健司の最後の手招きに、戦友のような笑顔で応じた。健司の端末には「時間外労働:3時間(家事手伝い)」という、冥土公社ですら想定外の記録が刻まれた。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:アイドルオタクの執念と、光る鎌 ―― サイリウムとレクイエム

 

 

 

 

 


三日目のターゲットは、二十四歳の青年、タクヤ。彼は不治の病で無菌室にいた。彼が最期まで握りしめていたのは、家族の写真ではなく、人気アイドル『ルルちゃん』の限定フィギュアだった。健司が手招きを始めると、タクヤは驚異的な力で上半身を起こした。

 

 

 

 


「ふざけるな……! 明日は、ルルちゃんの……最初で最後の、武道館ライブなんだ……! 俺が行かずに、誰が……誰が最前列でコールを入れるんだ!」

 

 

 

 


「でも、君の心臓はもう……」

 

 

 

 


「行かせてくれよ! 一曲でいい! 頼む、死神!」

 

 

 

 


健司は悩んだ。本来、予定時間を一分でも過ぎることは許されない。しかし、タクヤの瞳に宿る狂気にも似た情熱は、時給1200円の労働者の心を動かした。

 

 

 

 


「……わかりました。一曲だけですよ。その代わり、終わったらすぐ手招きに応じてくださいよ…」

 

 

 

 


健司は、幽体離脱したタクヤを連れて、夜の武道館へ「不正出勤」した。警備員をすり抜け、最前列に陣取る二人。ステージで歌うルルちゃんの輝きに、タクヤは全力でサイリウムを振った。健司もまた、プラスチック製の鎌をペンライト代わりに左右に振った。

 

 

 

 


「ルルちゃーん! 大好きだー!」

 

 

 

 


絶叫の末、曲が終わると同時に、タクヤの魂は淡い光となって健司の手の中に収まった。

 

 

 

 


「……ありがとう、死神さん。最高のライブだったよ…」

 

 

 

 


健司は、静かに消えていくタクヤの魂を見送りながら、これが究極の「終末ケア」であることを実感した。時給1200円。安すぎるが、この満足感は何物にも代えがたかった。

 

 

 

 

 

 


第五章:死神の「手招き」の重み ―― 職人としての自覚

 

 

 

 


仕事を始めて一ヶ月。健司は、自分の「手招き」にある変化が起きていることに気づいた。最初は、早く終わらせて時給を稼ぎたい、ただの作業だった。しかし、多くの「人生の終幕」をプロデュースするうちに、彼の手の動きには、一種の芸術的な慈愛が宿るようになっていた。

 

 

 

 


「健司君、最近の君の手招き、社内でも評判なんだよ。特に『安心感のあるスナップ』が素晴らしいって。今度、本社の常務が見学に来たいと言っているよ!」

 

 

 

 


田中課長代理が、コンビニのコーヒーを飲みながら言った。

 

 

 

 


「課長代理、死神の手招きって、命を奪うことじゃなかったんですね。この世という長い長い残業を終えた人たちに、『お疲れ様でした』って言って、出口を教えてあげることだったんですね…」

 

 

 

 


健司は、公園のベンチで静かに息を引き取ろうとしているホームレスの老人の隣に座った。老人は怯えていた。死の先にある虚無を恐れていた。健司は優しく、ゆっくりと手を動かした。まるで、赤ん坊をあやす母親のように。

 

 

 

 


「大丈夫ですよ。あちらには、あなたが失くしたすべてのものが待っています。ゆっくりと、歩き出してください…」

 

 

 

 


老人は健司の手に導かれ、深い安らぎの中で眠りについた。健司は悟った。死神の手招きとは、この冷酷な世界で人間が最後に受け取ることができる、唯一の平等な「優しさ」なのだと。

 

 

 

 

 

 

 


第六章:予定表の「知っている名前」 ―― 復讐と救済の分岐点

 

 

 

 


ある夜、健司の端末に届いたターゲットの名前を見て、彼は心臓が止まるような衝撃を受けた。

 

 

 

 


『宮本浩一(32歳) 死因:薬物過剰摂取による心停止』

 

 

 

 


宮本。彼こそが、健司を裏切り、全財産を奪い、健司の両親すら絶望の淵に追いやった元共同経営者だった。健司は怒りに震えながら、荒れ果てたアパートの一室に向かった。床に倒れ、泡を吹いて苦しんでいる宮本。その背後には、醜い欲望と後悔が黒い霧となって渦巻いている。

 

 

 

 


「……てめえ。てめえのために、俺は死神のバイトまでして……ちくしょう!」

 

 

 

 

 


健司は手に持った鎌を振り上げた。手招きなどするものか。このまま、こいつの魂を地獄へ蹴り落としてやろうか。しかし、死の間際で宮本が見せたのは、かつて親友だった頃の弱々しい表情だった。彼は空中に手を伸ばし、何かを掴もうとしていた。

 

 

 

 


「佐藤……すまなかった……助けてくれ……」

 

 

 

 


健司は立ち尽くした。田中課長代理の言葉が蘇った。

 

 

 


「私情を挟むな、健司君。どんな悪党でも、死の前では平等だ。君が拒否すれば、その魂は永遠にこの世を彷徨ってしまう。それは、死よりも残酷な刑罰なんだぞ…」

 

 

 

 


健司は目を閉じ、深く息を吐いた。そして、これまでで最も静かで、最も許しに満ちた「手招き」を始めた。宮本の魂は、健司の指先に導かれ、震えながら肉体から離れた。その瞬間、健司の心の中にあった黒い澱のような憎しみが、スーッと消えていくのを感じた。他人を許すことが、これほどまでに自分を救うことになるとは、死神になるまで知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 


第七章:時給1200円の「救済者」 ―― 労働は続く、魂のために

 

 

 

 


借金はまだ300万円残っている。相変わらず時給は1200円で、深夜の交通費節約のために自転車で現場を回る日々だ。黒いローブは夏場はサウナのように蒸れるし、冬場は隙間風が身に沁みる。それでも、健司は今日も『日本冥土振興公社・東京支店』の地下室へと階段を下りる。

 

 

 

 


「おはよう、健司君。今日のシフトは、下町の産婆さんと、二十歳で恋に破れて自暴自棄になっているお嬢さんだ。お嬢さんの方は、魂がかなり不安定だから、君の特技の『癒しの手招き』でしっかりサポートしてあげてくれよ!」

 

 

 

 


「了解です、課長代理。お嬢さんの方には、ちょっと奮発して、あちら側のキラキラした景色をイメージさせる手招きで行きます!」

 

 

 

 


健司は、自転車のハンドルを握り、夜の街へ漕ぎ出した。街には、今日も数えきれないほどのドラマがあり、それと同じ数だけの「終わり」がある。人間は誰しも、最期は一人だ。しかし、その孤独な扉の前に、時給1200円で働くお人好しの死神が立っていて、優しく手を振ってくれる。それだけで、この不条理な世界も、少しだけマシな場所に思えるのではないか。

 

 

 

 


「死神の手招き」が見えたなら、それは絶望のカウントダウンではない。長い人生という名の「出向」を終え、ようやく本社に帰れるあなたへの、最高に温かい「お疲れ様」の合図なのだ。今日もどこかの窓の外で、黒いローブの青年が、見えない誰かに向かって優しく手を振っている。

 

 

 

 


「さあ、こちらへ。大丈夫、何も怖くありませんから!」

 

 

 

 


時給1200円。宇宙で最も尊い、代えのきかない仕事だ…