SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#183   Merryが消えた聖夜 The Night Merry Disappeared

第一章:消灯された銀座 ―― 華やぎの埋葬

 

 

 

 


1988年(昭和63年)12月。東京の街は、奇妙な沈黙に包まれていた。本来であれば、日本中がバブル経済の絶頂を謳歌し、シャンパンの泡と派手なネオン、そして街中に溢れる山下達郎やワム!のクリスマス・ソングに酔い痴れているはずの時期だった。しかし、その年の暮れ、テレビの画面の隅には常に「天皇陛下のご病状」を伝えるテロップが流れ、日本中が「自粛」という名の、目に見えない重圧に押し潰されていた。

 

 

 

 


銀座のレコードショップで働く透(とおる)は、閉店時間を早めた店内で、売れ残ったクリスマス・アルバムを棚の奥へと片付けていた。

 

 

 

 


「去年の今頃は、飛ぶように売れたのにな……」

 

 

 

 


店長の力のない呟きが、コンクリートの壁に虚しく反響する。店のウィンドウに飾られたサンタクロースのオブジェは、不謹慎だという誰かの苦情によって、一週間前に撤去されていた。銀座の通りを彩るはずの壮麗なイルミネーションも、電力不足ではなく「自粛」のために点灯が見送られ、並木通りは黄昏時の街灯だけが等間隔に寒空を照らしている。

 

 

 

 


透にとって、この静寂は単なる社会現象ではなかった。それは、一ヶ月前に出会った一人の女性、芽理(めり)への想いそのものだった。

 

 

 

 


「芽理……Merry」

 

 

 

 


彼女の名を呼ぶとき、透の胸には聖夜の輝きが宿るような気がしていた。しかし、今の東京でその名を呼ぶことは、どこか時代の終わりを冒涜しているような、後ろめたい響きを伴っていた。透は、暗くなった店内の鏡に映る自分の顔を見た。そこには、一つの巨大な時代が息を引き取ろうとしている瞬間に立ち会っている、寄る辺ない若者の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:公衆電話の約束 ―― 10円玉に託した震え

 

 

 

 

 


芽理との出会いは、晩秋の雨の日に立ち寄った、御茶ノ水の古いジャズ喫茶だった。重い扉を開けた先にいた彼女は、バブル全盛期の派手なメイクや肩パッドの入ったジャケットとは無縁の、どこか影を帯びた、けれど凛とした美しさを持つ女性だった。二人が言葉を交わすようになるのに、時間はかからなかった。彼女の父親は厳格な官僚で、家ではクラシック以外の音楽を聴くことも許されないという。携帯電話もメールもない時代。二人の仲を繋ぐのは、街角に立つ緑色の公衆電話と、数枚のテレホンカードだけだった。

 

 

 

 


「24日の夜、8時に。銀座の和光の時計塔の下で待ち合わせましょう…」

 

 

 

 


クリスマスイブの一週間前、受話器越しに聞こえる芽理の声は、寒さのせいか、それとも家を抜け出す決意の重さのせいか、微かに震えていた。

 

 

 

 


「本当は、お祝いなんてしちゃいけない雰囲気なのは分かってるけど。でも、透さんにだけは会いたい。今年が終わる前に、どうしても…」

 

 

 

 


透は、公衆電話の小さなデジタル表示が刻一刻と減っていくのを眺めながら、受話器を強く握りしめた。

 

 

 


「分かってるよ。僕たちだけの、静かな夜にしよう。豪華なディナーもパーティもいらない。ただ、君と一緒にいたいんだ…」

 

 

 

 


「ありがとう、透さん。……待ってるから。必ずね!」

 

 

 

 


プツリ、という無機質な切断音とともに、会話は終わった。透は、凍てついた10円玉が返却口に落ちる音を聞きながら、自分たちの恋が、沈みゆく昭和という時代の荒波に飲み込まれて消えてしまうのではないかという、根拠のない不安に襲われていた。

 

 

 

 

 

 

 


第三章: ghost town の聖夜 ―― 失われた Merry

 

 

 

 


12月24日、午後7時。銀座は、かつてないほどの異様な雰囲気に支配されていた。例年なら、この時間は着飾ったカップルや、プレゼントを抱えた人々で歩行者天国は埋め尽くされているはずだった。しかし、今の銀座にあるのは、行き場を失ったタクシーの列と、黒いコートの襟を立てて足早に駅へ向かう人々の影だけだった。百貨店のショウウィンドウは、煌びやかなデコレーションを隠すようにシャッターが下ろされ、掲げられた「Merry Christmas」の文字は、誰かの手によって消されているか、あるいは消灯されて闇に沈んでいた。

 

 

 

 


「Merry(メリー)が、消えちゃったみたいだ…」

 

 

 

 


透は銀座四丁目の交差点に立ち、呟いた。それは彼女の名前であり、そして日本中が昨日のように忘れてしまった「陽気さ」のことでもあった。街の至る所に、天皇陛下の快癒を祈る記帳所が設けられ、奉納された白い花が、寒風に揺れている。人々は声を潜めて会話し、笑うことさえ慎んでいるようだった。

 

 

 

 

 

透は時計塔を見上げた。巨大な時計の針は、残酷なほど正確に、時代の終幕へと向かって時を刻んでいた。透はコートのポケットの中で、一枚のカセットテープを弄っていた。彼女のために一晩中かけて編集した、世界でたった一本のミュージック・テープ。その中には、今の街では決して流れない、優しくて温かいメロディが詰め込まれていた。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:届かないベル、止まった時間 ―― 祈りと絶望

 

 

 

 


約束の8時を過ぎた。時計塔の鐘が重々しく響き、夜の冷気は一段と厳しさを増していく。透の吐く息は真っ白になり、指先は感覚を失い始めていた。9時になっても、芽理は現れなかった。透は何度も近くの公衆電話へ走り、彼女の家の電話番号をダイヤルした。しかし、受話器の向こうからは、虚しい呼び出し音が響くだけだった。彼女の厳格な父親が、この「自粛」の夜に娘が外出することを許すはずがない。ましてや、クリスマスイブという、当時の社会では不謹慎の極みとされる日に。

 

 

 

 

 


「芽理……」

 

 

 

 


ニュースでは連日、陛下のご病状が「一進一退」であることが報じられ、日本中の空気が張り詰めていた。テレビ局はバラエティ番組を自粛し、CMすらも華美なものを控えていた。そんな異常な静寂の中で、透は一人の女性を待ち続ける自分の姿が、ひどく滑稽で、同時にこの上なく切実なものに思えていた。

 

 

 

 


10時を過ぎ、周囲の人影はさらに疎らになった。時計塔の針が11時を指そうとしたとき、透の心には「もう彼女は来ないのではないか…」という諦念が、冷たい雪のように降り積もっていた。昭和という時代が、文字通り息を引き取ろうとしている。その巨大な歴史の波に、二人の小さな約束は押し流されてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 


第五章:聖夜の邂逅(かいこう) ―― 凍てついた肌の体温

 

 

 

 


深夜11時過ぎ。透が凍えた体を震わせ、重い足取りで駅の地下階段へ向かおうとしたその時だった。

 

 

 

 


「透さん……! 透さん!」

 

 

 

 


静まり返った交差点に、引き裂くような声が響いた。振り返ると、そこには白いコートを激しく乱し、肩を上下させて激しく呼吸する芽理の姿があった。彼女の髪は乱れ、頬は涙と寒さで赤く染まっている。足元を見ると、普段の彼女なら決して履かないような、安っぽいスニーカーを履いていた。

 

 

 

 


「ごめんなさい……! お父さんが……部屋の鍵を閉めてしまって。窓から……庭に飛び降りて、ここまで走ってきたの。交通機関も、不謹慎だからって使わせてもらえなくて……」

 

 

 

 


彼女の言葉は、途切れ途切れだった。彼女の家がある世田谷から、ここまで何キロの道のりを走ってきたのだろうか。彼女の白いコートには、庭の土や枯れ葉がこびりついていた。透は駆け寄り、芽理の体を力いっぱい抱きしめた。

 

 

 

 


「いいんだ、芽理。来てくれただけでいいんだ…」

 

 

 

 


抱きしめた彼女の体は、氷のように冷たかった。しかし、その胸の鼓動は驚くほど力強く、透の耳に直接「私はここにいる」と訴えかけていた。この沈黙の街で、この凍てついた東京で、互いの体温だけが唯一の「真実」だった。二人は、昭和最期の聖夜の闇の中で、まるで世界に二人きりしかいないかのように、強く、長く、抱き合い続けた。

 

 

 

 

 

 


第六章:二人だけのカセットテープ ―― 地下室のレクイエム

 

 

 

 


「どこか、温まれる場所へ行こう…」

 

 

 

 


透は芽理の手を引き、以前偶然見つけていた、地下にある小さな古い喫茶店へと向かった。そこは看板の明かりも消え、入り口に「本日営業終了」の札が出ていたが、中には微かに明かりが灯っていた。透がドアを叩くと、店主の老人が怪訝そうな顔で顔を出したが、二人のボロボロになった姿を見て、黙って中へ招き入れてくれた。

 

 

 

 


「……今日はどこも、静かだね…」

 

 

 

 


店主はそう言って、湯気の立つコーヒーを二人の前に置いた。店内のスピーカーからは、音楽さえ流れていなかった。透はポケットから、あの一本のカセットテープを取り出し、店主の許可を得てカウンターにある古いデッキにセットした。

 

 

 

 


「これ、芽理のために作ったんだ。本当はもっと、明るい曲を入れるつもりだったんだけど。……今の街の空気を吸っていたら、こういう曲ばかりになってしまって…」

 

 

 

 


カセットがカチリと音を立てて回り始める。流れてきたのは、フォーレの『レクイエム』から「ピエ・イエス(慈しみ深き主よ)」。そして、静かなピアノでアレンジされた古い賛美歌。バブルの喧騒とは無縁の、魂の深淵に触れるような清冽な旋律。

 

 

 

 


「綺麗ね……」

 

 

 

 


芽理は目から一筋の涙を流し、透の肩に頭を預けた。

 

 

 

 


「Merry(メリー)が消えたって、透さんの隣にいられれば、私はそれでいい。この静けさが、今はとても心地いいの…」

 

 

 

 


外の世界では、一つの巨大な時代の歯車がまもなく止まろうとしている。けれど、この地下室の、珈琲の香りと静かな調べに満ちたわずかな空間だけは、誰にも侵されることのない、二人の「王国」だった。

 

 

 

 

 

 

 


第七章:新しい夜明け、新しい時代 ―― 語り継ぐ沈黙

 

 

 

 


翌年、1989年(昭和64年)1月7日…

 

 

 

 


昭和天皇が崩御され、元号は「平成」へと変わった。昭和という激動の、そして最後には熱病のような狂乱に包まれた時代は、深い雪がすべてを覆い隠すようにして、静かに幕を閉じた。

 

 

 

 

 

それから三十数年の月日が流れた…

 

 

 

 


バブルは崩壊し、街の風景は様変わりした。銀座には外資系のブランドショップが並び、人々はスマートフォンという小さな窓を見つめながら、かつてないスピードで情報と時間を消費している。クリスマスの銀座は、再び煌びやかなイルミネーションと、賑やかな音楽で溢れかえるようになった。

 

 

 

 


「あの年のクリスマスは、本当に不思議な夜だったわね…」

 

 

 

 


今の銀座を歩きながら、芽理――今では透の妻となった彼女が、白髪の混じった髪を揺らして微笑んだ。二人の自宅のリビングには、今もあの日聴いたカセットテープが、大切に保管されている。テープは劣化し、音は揺れているかもしれない。けれど、二人があの沈黙の聖夜に誓った想いは、何一つ変わっていなかった。

 

 

 

 


「ああ。あの日、街から Merry が消えたからこそ、僕たちは本当の『愛』の音を聞けたんだと思う。騒がしい世界では聞こえない、心の奥底にある本当の声をね…」

 

 

 

 


窓の外では、21世紀のきらびやかなネオンが夜空を焦がしている。けれど、二人の心には今も、昭和最期の、あの清冽で、孤独で、けれど誰よりもお互いの存在を尊んだ「沈黙の聖夜」の青い光が、消えることのない道標として灯り続けていた。

 

 

 

 


時代が変わっても、 Merry は消えはしない。それは、大切な人の名を呼び、その手を取るという、一途な祈りの中に永遠に存在し続けるのだから…