SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#204  多々羅放庵の人生 ―― 鬼首村に堕ちた徒花 Tatara Hoan: The Fall into Onikubi Village

第一章:若旦那の春 ―― 黄金色の虚無

 

 

 

 


明治の末、岡山県と兵庫県の県境に位置する鬼首村(おにこべむら)。峻険な山々に囲まれ、外界との接触を拒むかのように沈黙するこの村で、多々羅家は「王」にも等しい権勢を誇っていた。広大な山林を所有し、村の経済を掌握する名家の独り息子として生まれた源一郎――のちの放庵は、産声と同時に莫大な富と、約束された将来を約束されていた。

 

 

 

 


「源ちゃん、あんたはこの村を統べるお方。何不自由なく、ただ堂々としておれば良いのです…」

 

 

 

 


周囲の大人たちは、彼を甘やかし、腫れ物に触るように育てた。多々羅家の広大な屋敷の中で、彼は「努力」や「苦労」という言葉を学ぶ機会を永遠に失った。透き通るような白い肌に、どこか冷めた、全てを蔑むような眼差しを持つ美青年へと成長した彼は、村の娘たちの憧れの的であり、同時に触れてはならない神聖な偶像でもあった。しかし、彼の内側には、幼少期から底の知れない「空虚」が居座っていた。

 

 

 

 


「この村は、あまりにも静かすぎる。そして、あまりにも退屈だ…」

 

 

 

 

 


彼は親の金で、当時まだ珍しかった西洋の煙草を密かに取り寄せ、その紫煙をくゆらせながら、村の伝統的な「手毬唄」を鼻歌で歌う。その調べは美しくも、どこか血の匂いが漂う不気味なものだった。彼は村の因習を古臭いと嘲笑いながらも、その因習によって守られている自分という存在に苛立っていた。

 

 

 

 

 

彼にとっての人生とは、ただ消費されるためにある贅沢品であり、その贅沢を尽くした先に何があるのか、彼は考えようともしなかった。父が用意した医学への道も、彼にとっては知的な探求ではなく、都会で合法的に遊び呆けるための免罪符に過ぎなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:帝都の熱狂 ―― ジャズと魔登(モダン)

 

 

 

 

 


大正デモクラシーの波が日本を席巻していた頃。医学生として上京した放庵は、解剖学の講義室よりも浅草のオペラ館や銀座のカフェにその身を投じていた。

 

 

 

 


「医学など、死にゆく者に引導を渡すだけの無粋な学問よ。それよりも、この刹那の快楽こそが、真の生命の躍動ではないか…」

 

 

 

 

 


彼は蓄音機から流れるジャズの調べに身を任せ、モダンガールたちと夜通し、酒を空けた。多々羅家から送られてくる多額の仕送りは、すべて最高級の香水、仕立ての良いスーツ、そして一晩限りの恋へと消えていった。

 

 

 

 

 


この時期、彼は「放庵」という雅号を自ら名乗り始めた。世俗を捨てた隠者のような響きを持ちながら、その実態は金と女にまみれた放蕩の極致。彼は自らを「風流人」として演出し、都会の洗練された文化を貪り食った。しかし、都会の喧騒の中にいても、ふとした瞬間に脳裏を過るのは、故郷・鬼首村の陰鬱な山の稜線と、子供たちが歌う「手毬唄」の不気味なメロディだった。

 

 

 

 

 


「あの忌々しい村の呪いから、私は逃げ出したのだ。私は自由だ…」

 

 

 

 

 


そう自分に言い聞かせながら、彼は鏡に映る、贅沢で磨り減った自らの顔を眺めていた。しかし、幸福な狂乱は長くは続かない。一九二三年の関東大震災、そしてそれに続く昭和恐慌。実家の資産は相次ぐ不況と、放庵自身の莫大な浪費によって急速に枯渇していった。黄金の夢は、一瞬にして灰へと変わり、彼は「王」から「逃亡者」へと転落したのである。

 

 

 

 

 

 

 


第三章:帰郷の隠者 ―― 湯煙の中の堕落

 

 

 

 


昭和の初め。一文無しに近い状態で鬼首村へ舞い戻った放庵を待っていたのは、かつての崇拝を捨てた村人たちの、冷ややかな視線だった。多々羅家の財産は食いつぶされ、彼に残されたのは村外れにある古びた家屋「落花庵(らっかあん)」と、形ばかりの医者の看板、そして隠遁生活を送るための「放庵」という名前だけだった。

 

 

 

 

 


「お帰りなさいませ、若旦那。……いえ、放庵先生…」

 

 

 

 


村人たちは彼を「先生」と呼んだが、その声には隠しようのない侮蔑が混じっていた。放庵は村の診察所をまともに開くこともなく、かつて覚えた医学の知識を、村の権力者たちの弱みを握るための道具、そして自身の享楽のための手段として使い始めた。

 

 

 

 

 


昼間から安酒を食らい、近隣の亀の湯温泉で女たちの肌を卑猥な目で見つめる生活。彼は自らの没落を「隠遁」という言葉で塗り潰そうとしたが、その実はただの自暴自棄だった。彼は、由良家と仁礼家という村の二大勢力の対立を煽り、その隙間で甘い汁を吸うことで、かつての放蕩の残滓を繋ぎ止めていたのである。落花庵に漂うのは、古びた薬の匂いと、腐った酒の臭い。彼はかつての栄華を思い返しては、現在の惨めさを呪い、その怒りを村の「秘密」を暴き立てることにぶつけていた。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:二十年前の毒 ―― 恩田幾三という怪物

 

 

 

 

 


昭和七年。放庵の人生を決定的に歪め、後の惨劇の種を蒔くことになる「事件」が起きる。村に現れた謎の活動写真師、恩田幾三。放庵は、この男の正体が村の均衡を破壊し、自身の地位さえも脅かす悪魔であることを本能的に察知していた。しかし、彼はそれを止めなかった。それどころか、恩田の野心と欲望に加担し、自らもその分け前を預かろうとしたのである。

 

 

 

 


「放庵先生、あんたも好きだろう? この村の女たちが、泥沼に沈んでいく様が。あんたはそれを特等席で眺めていればいい…」

 

 

 

 

 


恩田の邪悪な囁きに、放庵は歪んだ笑みを返した。彼は由良家の娘、仁礼家の娘、さらにリカという女までもが、恩田という蜘蛛の巣に絡め取られていくのを、酒を啜りながら眺めていた。放庵は知っていた。リカが産んだ子供の本当の父親が誰なのかを。そして、恩田が村から消える際、誰が彼を殺し、どこへ死体を埋めたのかを。彼はその「秘密」を、自らの余命を支える最後の財産として、心の奥底に封印した。

 

 

 

 

 

 

この時、放庵は単なる放蕩者から、呪われた物語の「共犯者」へと変貌したのである。彼の心は、恩田が残した負の遺産によって、さらに黒く染まっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:落花庵の孤独 ―― 枯れ果てた情欲

 

 

 

 

 


終戦を経て、昭和二十年代後半。日本が復興の兆しを見せる中、鬼首村は再び静寂を取り戻したかに見えた。しかし、落花庵に閉じこもる放庵の老いは、残酷なまでに進行していた。かつての艶やかな肌は枯れ木のようになり、ジャズに酔いしれた耳には、今や村の子供たちが歌う不気味な手毬唄だけが、呪文のように響き続けていた。

 

 

 

 

 


「雀、雀、御蔵の雀……」

 

 

 

 

 


彼は独り、囲炉裏の前で質の悪い焼酎を煽りながら、黄ばんだ古い手紙を整理していた。彼は村人から避けられ、嫌われ、それでも「放庵先生」として、過去の秘密という毒を盾に、細々と生き長らえていた。彼は知っている。自分がいつか、この秘密の報いを受けることを。放蕩の果てに待っているのは、都会の夜のような華やかなフィナーレなどではなく、誰にも看取られない、寒々しい死であるということを。

 

 

 

 

 

 

彼は、二十年前に死んだはずの「恩田幾三」の幻影に怯えながら、夜な夜な家の周囲を徘徊する「何か」の気配に耳を澄ませていた。風が吹くたび、屋根の瓦が鳴るたび、彼は自らの死期が近づいていることを、本能的に悟っていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 


第六章:青池源次郎の帰還 ―― 最後の招待状

 

 

 

 

 


昭和三十年、秋。放庵の元に、一通の手紙が届いた。それは、二十年前に村を離れたはずの、ある男からの連絡だった。

 

 

 

 


「ついに、この時が来たか。神は私を見捨ててはいなかった…」

 

 

 

 

 


放庵の濁った瞳に、かつてのギラついた欲望が宿った。彼は、その手紙の主が誰であるか、そして彼が何を求めているかを正確に理解していた。彼はその秘密を最後の一滴まで絞り出し、もう一度だけ、若き日のような華やかな「贅沢」を味わいたいという、老いさらばばえた放蕩者の浅ましい夢を見た。彼は、金田一耕助という探偵が村に現れたことを知りながらも、自らの優位を疑わなかった。

 

 

 

 

 


「金田一さん、この村の唄には、血の匂いが染み付いているんですよ。あんたにそれが解けますかな?」

 

 

 

 

 


彼は探偵に思わせぶりな言葉を投げかけながら、密かに「犯人」との接触を試みた。彼は、自分が物語を支配するキャスティング・ボートを握っていると信じ込んでいた。しかし、彼が対峙しようとしていたのは、単なる過去の亡霊ではなく、二十年間の憎悪を凝縮させた、真の「復讐の化身」であったことに、彼は気づくのが遅すぎた。放蕩者が最後に見た夢は、死への招待状に過ぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 


第七章:劇終の鎮魂歌 ―― 毒杯と手毬唄

 

 

 

 


十二月の冷え込みが厳しい、雨の夜。落花庵に、待ち望んでいた客人が現れた。放庵は、戸棚の奥に隠していた最高級の酒を用意し、最後の「交渉」に臨んだ。

 

 

 

 

 


「あんたの秘密は、私が墓場まで持っていく。……その代わり、わかるだろう? 私の余生を保障するだけの礼を、用意してもらわねば困る…」

 

 

 

 

 


放庵は下品な笑みを浮かべ、震える手で酒を煽った。彼にとって、これが人生最後の大勝負であり、最高の悦楽になるはずだった。しかし、その酒には、すでに死の味が混じっていたのである。

 

 

 

 

 


「……あ、……あがっ」

 

 

 

 

 


喉を焼くような激痛。放庵は、目の前の「客人」が、冷酷な、しかしどこか悲しげな微笑みを浮かべて自分を見下ろしていることに気づいた。

 

 

 

 

 


「先生、あんたは遊びすぎたんですよ。この村の唄の通りに、あんたの役目はもう終わった…」

 

 

 

 

 


放庵の意識が急速に遠のく中、耳に届いたのは、あの忌まわしい手毬唄の一節だった。

 

 

 

 

 


「升で量って、漏斗で受けて……」

 

 

 

 


彼は、自分の人生が、ただの「一小節」として、この残酷な唄の中に組み込まれていたことを悟った。かつての放蕩、かつての栄華、すべては一時の幻。彼は升で測られるように命を削られ、漏斗で注がれるように毒を飲まされた。

 

 

 

 


多々羅放庵。鬼首村の「王」として生まれ、都会の闇を泳ぎ、最後は村の因習という名の毒に溺れた男。

 

 

 

 

 


彼の死体は、翌朝、落花庵から、姿を消した。その口元には、自嘲とも絶望とも取れる歪な笑みが残されている。彼が守り抜こうとした「秘密」は、彼自身の無残な死とともに、凄惨な連続殺人の幕開けを告げる鐘の音となった。

 

 

 

 

 


徒花は完全に散った。あとに残ったのは、ただ、冬の雪の中に響く空虚な手毬の音と、救いのない過去の残響だけだった…