第一章:人生最良の獲物、あるいは史上最悪の誤算
とある一月、新宿。夜の街を叩きつける冷たい雨は、ネオンの光をアスファルトの上に無惨に散らしていた。
「おい、健二。本当にこの車で間違いないんだな? センサーの解除に手間取って、パトカーと新年の挨拶をするのは御免だぜ…」
「黙ってろよ、鉄。俺の情報武装型の腕を疑うのか? この最新型のシルバーのレクサス……こいつはただの移動手段じゃない。俺たちが泥棒稼業を引退し、南の島で余生を過ごすための、いわば動く年金なんだよ…」
健二(三十三歳、自称・泥棒界の軍師)は、震える手で特殊なタブレットを操作し、レクサスの高度なセキュリティシステムと格闘していた。隣で周囲を警戒するのは、熊のような巨体に似合わず、極度の心配性で繊細な神経を持つ鉄(三十五歳、元格闘家、特技は繊細な味付けの料理)。二人はこれまで数々の「不運」に見舞われ、ついにこの一世一代の勝負に人生のすべてを賭けていた。
「よし、落ちた! ロック解除だ…」
電子錠が吐息のような音を立てて外れ、二人は滑るように車内へと滑り込んだ。本革シートの芳醇な香りが、勝利の予感と共に鼻を突く。健二がスマートキーをエミュレートし、V8エンジンが静かに、そして力強く目覚めた。
「完璧だ。警報一つつかねえや。さあ、夜逃げ屋の本領発揮だ。このまま港区の解体業者までノンストップで飛ばすぞ!」
二人は歓喜に震えながら、雨の新宿を後にした。この車をバラせば、数千万円の現金が手に入る。もはや、明日の家賃や、コンビニの半額弁当に怯える日々とはおさらばだ。しかし、都心を離れ、街灯の少ない湾岸道路に入った頃、高級オーディオの静寂を切り裂いて「それ」は聞こえてきた。
「……ふぇっ。……ふぇえええええ! ギャアアアアアン!」
鼓膜を鋭く突き刺すような、しかしどこか透き通った、生命力に溢れすぎた高音の叫び。
「健二、今の音なんだ……? まさか、新型の盗難防止アラームか? 精神を攻撃してくるタイプか?」
「バカ言え、そんなもん聞いたことねえよ! ……って、おい、嘘だろ…」
健二が恐る恐るバックミラーを覗き込む。そこには、チャイルドシートにがっしりと固定され、真っ赤な顔をして全身で不満を訴え続ける「世界で最も高価で、最も厄介な家宝」――生後、半年ほどの赤ん坊が、全力で泣き叫んでいた。
「マジかよ!赤ちゃんじゃねえか!! なんでレクサスの後部座席に赤ちゃんが標準装備されてるんだよ!」
「健二、どうすんだよ! これじゃ誘拐だぞ! 窃盗なら数年で済むけど、誘拐は一生モンだぞ、お前!」
「分かってるよ! でも、もうここまで来ちまったんだぞ! 今さら戻れるかよ!」
二人の絶叫は、赤ん坊の圧倒的な肺活量にかき消された。銀色のレクサスは、数千万の価値と、計り知れない絶望を乗せて、夜の闇を狂ったように疾走し始めた。
第二章:コンビニ強勢(?)と、ミルクの洗礼
「おい、泣き止まないぞ! なんでこんなに泣くんだよ! 揺れるからか? それとも、俺の顔を見て、自分の不幸な未来を予感したのか!?」
「知るかよ! 俺に聞くな! 鉄、お前、昔、親戚の子の面倒を見たことがあるって言ってたろ、早くなんとかしろ!」
「俺が見たのは、中学の時に無理やり抱かされた三分の間だけだ! その時も、俺の筋肉を見て怯えて泣き止んだんだよ!」
湾岸の寂れたコンビニの駐車場。二人はパトカーのサイレンに怯えながら、車内という名の「移動式戦場」で途方に暮れていた。後に「レオ」と呼ぶことになるその赤ん坊は、脱水症状でも起こすのではないかという勢いで泣き続けている。
「腹が減ってるんだよ、絶対。いいか、鉄。ミルクだ。ミルクを買ってこい!」
「待てよ健二、俺たち今、日本で一番目立っちゃいけない男たちなんだぞ!こんな目つきの悪い大男が深夜に粉ミルクを買い漁ってたら、通報されるに決まってるだろ!」
結局、鉄が目出し帽を脱ぎ捨て、作業着を裏返して「ごく普通の、少しガタイの良い新米パパ」を演じて店内へ突入した。
「あの……えーと。一番安い粉ミルクと、飲みやすい哺乳瓶と、肌に優しいオムツ。あと、おしり拭きを三袋。……それと、お湯を。今すぐ、特急で、ください!」
レジの女子大生アルバイトは、深夜に現れた、全身から殺気を垂れ流しながら必死の形相でベビー用品を買い揃える巨漢を、恐怖を通り越した不審の目で見つめていた。鉄は「……親戚の子が、空から降ってきて…」という、あまりに支離滅裂な嘘を吐きながら、一万円札を震える手で叩きつけた。急いで車内に戻り、鉄はタブレットのライトで照らしながら、震える指で粉ミルクを作り始めた。
「健二、スマホで調べろ! お湯の温度は何度がベストだ! 分量は? 濃度は?」
「えーと、一さじ二十ミリリットル……七十度以上で溶かし、流水で人肌まで冷ますだ! 鉄、人肌ってのは何度なんだ! お前の手はさっきから沸騰したヤカンみたいに熱いんだよ!」
「うるせえ! 命がかかってるんだ! ほら、クソガキ、頼むからこれを飲んでくれ! お前の父ちゃんは悪党だが、ミルクに罪はない!」
哺乳瓶の乳首が赤ん坊の口に当たった瞬間、奇跡が起きた。それまでこの世の終わりを告げるように泣き喚いていた赤ん坊が、ピタリと静止し、夢中でミルクを飲み始めたのだ。「チュパ、チュパ、ゴキュ」という平和な音が車内に響く。
「……止まった」
「ああ、止まったな。これが、平和の音か…」
二人の指名手配犯予備軍は、深夜の駐車場で、自分たちが車泥棒であることを完全に忘れ、一人の赤ん坊が夢中で食事をする姿を、まるで神聖な儀式を眺めるような敬虔な心で見守った。だが、平和な時間は長くは続かない。赤ん坊の顔が、再び不穏に、そして力強く歪み始めた。
「……おい、鉄。なんか、急に空気が重くなったというか、……臭くないか?」
「……健二、お前がやれよ。俺は調乳を担当したんだ。これは役割分担だろ!」
「断る! 俺は逃走経路を策定する司令塔だ! 現場作業はお前の担当だろ!」
第二の戦い――「オムツ替え」という名の地獄が、今、幕を開けようとしていた。
第三章:黄金の身代金と、北条グループの影
「ふんぬっ……! なんだ、この……この粘着力は! お前、まだミルクしか飲んでないはずなのに、なんでこんな兵器みたいな臭いが出るんだ!」
「健二、おしり拭きをケチるなと言ってるだろ! もっと贅沢に、優しく、赤ちゃんの尻をシルクのように扱え! コイツが不機嫌になったら、またあのサイレン(泣き声)が鳴り響くんだぞ!」
車内は、赤ん坊の排泄物と、二人の男の悲痛な叫び、そして大量のおしり拭きの残骸でカオスと化していた。慣れない手つきで格闘すること十五分。ようやく「清潔な赤ん坊」が完成し、彼が再びスヤスヤと眠りについたとき、健二のスマホがニュースサイトの緊急速報を受信した。
『北条グループ御曹司、行方不明。新宿区で車両ごと拉致か。警察は誘拐事件として捜査』
画面には、先ほど盗んだレクサスのナンバープレートと、レオの父親である北条龍之介のポートレートが映し出されていた。北条龍之介。日本の不動産王であり、政財界のみならず裏社会にも隠然たる影響力を持つという、冷酷非情な実業家だ。
「……健二、これ、ただの金持ちの車じゃなかったぞ。北条って、あの、怒らせたら東京湾の底にコンクリート詰めにされるって噂の……」
「しかも見ろ、これ。懸賞金が一億円だってよ。コイツを無事に返せば、一億円。……一億円だぞ、鉄!」
鉄の瞳に、一瞬だけ一億円という名の欲望の火が灯った。だが、健二の冷徹な分析がそれを一瞬で吹き飛ばした。
「待てよ、鉄。冷静になれ。俺たちが今さら、すみません、車を盗んだら赤ちゃんが付いてきたので、一億円ください!なんて警察や北条に連絡してみろ。一億円の代わりに、四十四口径の弾丸か、終身刑が待ってるに決まってる。俺たちは、もう後戻りできない橋を焼いちまったんだぞ!」
「じゃあ、どうするんだよ。捨てていくのか? この冷たい雨の中に? コイツを?」
健二は、後部座席でぐっすりと眠る赤ん坊の寝顔を、スマホの明かりで照らした。小さな、産毛の生えた手が、健二の安物の作業着の袖を、力強く、しかし儚げにぎゅっと握っている。
「……捨てるなんて、泥棒のプライドが許さない。いいか、鉄。俺たちはこの赤ん坊を、最高品質のまま納品する。警察でもなく、北条のクソ親父でもない。もっと安全で、俺たちが捕まらず、かつ、コイツが一番幸せになれる場所へ。それがどこかはまだ分からねえが……」
「どうやって運ぶんだよ。この車、もう全世界にナンバーがバレてるぞ…」
「車を捨てる。レクサスなんて目立つもんはポイだ。別の、誰にも見向きもされない車に乗り換えるんだ!」
「車泥棒が、盗んだ最高級車を捨てて、オンボロに乗るのかよ?」
「ああ。今の俺たちは、単なる車泥棒じゃない。……コイツの命を守る、世界一不器用なボディーガードだ!」
二人は、数千万の価値があるレクサスを埠頭のコンテナの陰に乗り捨て、代わりに近くの工事現場に放置されていた、錆びだらけの軽トラックを「拝借」した。荷台には、粉ミルクとオムツ、そして二人の泥棒と、一人の赤ん坊。奇妙で騒々しい逃避行が、本格的に北へと動き出した。
第四章:国道十六号線のサバイバルと、笑う天使
軽トラックは、神奈川県から静岡の山間部へと、ガタガタと車体を震わせながら走っていた。健二の計画は、北条龍之介と激しく対立する組織の息がかかっていない、地方の隠れ家的な場所へ赤ん坊を一時避難させ、そこから赤ん坊の母親――夫の冷酷さに耐えかねて別居中とされる美奈子へ、直接身代金なしで届けることだった。
「健二、コイツ、なんか熱っぽい気がするんだ。さっきから体が火照ってるというか……。なあ、赤ちゃんってこんなに熱いものなのか?」
助手席で赤ん坊を大切そうに抱く鉄が、泣きそうな声で言った。
「知恵熱か? それとも、このボロ車のサスペンションが死んでるせいか?」
「冷やすものが必要だ。コンビニで氷を買うか? でも、さっきの店員みたいに怪しまれるのはマズい……」
その時、後方から一台の、漆黒のガラスに覆われた大型SUVが、猛スピードで接近してきた。ただの一般車ではない。殺気を感じるほどの威圧感、そしてこちらの動きを完全に先読みしたようなライン取り。
「北条の私設軍隊か! どこで嗅ぎつけやがった!?」
「当たり前だろ! 軽トラに大男二人と、ピンクの毛布に包まった赤ちゃんが乗ってるなんて、怪しさのパレードだろ!」
健二はアクセルを床まで踏み込んだが、軽トラのエンジンは悲鳴を上げるばかりで、時速八十キロが限界だった。SUVが真後ろまで迫り、幅寄せを開始した。
「鉄、しっかり抱いてろ! 衝撃が来るぞ!」
健二は、かつて走り屋として鳴らした技術を駆使し、住宅街の迷路のような極細路地へと急ハンドルを切った。SUVが背後を執拗に追い、サイドミラーをかすめていく。
「おい、あいつら! 赤ちゃんが乗ってるって分かってて、車をぶつけてくるのか!?」
鉄が怒りに任せて、荷台に積んであったスペアタイヤを、SUVのフロントガラスに向けて怪力で放り投げた。
ガシャーン!
タイヤは見事に命中し、SUVはコントロールを失って路肩の電柱に激突した。
「やったぜ、鉄! ホームランだ!」
「喜んでる場合か! 見ろ、健二、コイツ……コイツ、笑ってるぞ!」
驚くべきことに、赤ん坊は死の危険を伴うカーチェイスの中でも、激しい揺れと衝撃をアトラクションのように楽しんでいるかのように、「アー、ウー! ぷぷーっ!」と声を上げて笑い転げていた。
「……大物になるぜ、こいつは。北条の血か、あるいは俺たちの狂気が移ったか…」
「バカ言え。こいつは将来、真っ当な、誰からも愛される金持ちになるんだ。俺たちみたいに、泥にまみれて夜道を逃げ回るような人生は、絶対に送らないんだよ!」
健二は、ハンドルを握る血の気の引いた手に力を込めた。夜明けの空が、箱根の山の向こう側で、ゆっくりと白み始めていた。
第五章:潜伏先のオムツ・ラプソディと、泥棒の父性
二人が命からがら辿り着いたのは、静岡の山中にある、地図からも消えかかった廃屋だった。かつて健二が「大きな仕事」の後の隠れ家として数年前に下見していた場所。パトカーのサイレンも、SUVの不気味なエンジン音も、ここでは聞こえない。聞こえるのは、凍てつく森のざわめきと、レオの穏やかな寝息、そして古びたストーブがパチパチと爆ぜる音だけだった。
「コイツの名前、なんていうんだろな…そうだ!俺がつけてやる。今日から、お前はレオだ!」
「……また飲んだな、レオ。お前、この三時間で四回もミルクを完飲してるぞ。お前の胃袋は四次元ポケットかよ?」
鉄が、カセットコンロで雪を溶かしてお湯を沸かしながら、呆れたようにボヤいた。
「赤ん坊は成長するのが仕事だ。お前みたいに筋肉を育てるのとわけが違うんだよ…」
健二は、古い毛布を何枚も重ねてレオの簡易ベッドを作り、ノートパソコンで周囲の交通カメラの映像をハッキングして、追っ手の動向を監視していた。
ここでの生活は、指名手配犯の逃亡生活としては、奇妙なほどに「家庭的」で、かつ平和なものだった。鉄は、持っていたサバイバルナイフで、近くの農家の無人販売所で手に入れたリンゴを、芸術的な手つきですり下ろし、即席の離乳食を作った。
「ほら、レオ、あーんしろ。これは俺の特製、鉄ちゃんスペシャル・アップルだ。北条の冷たい家で食う、一粒一万円のイチゴより絶対に美味いぞ。愛が入ってるからな!」
レオは、鉄の太い指を小さな手でがっしりと掴みながら、美味しそうにリンゴを頬張った。その姿を見て、かつてリングで相手の骨を砕いてきた鉄の強面が、見たこともないほどだらしなく、優しく崩れていく。
「健二、俺……なんか、このまま時間が止まればいいのにって思っちまうんだ…」
「何がだよ。バカ!寝言は寝て言え!」
「このまま、三人でどっか誰も知らない遠い所へ逃げてさ。俺たちがこいつを育てるんだよ。泥棒なんて辞めて、真っ当な、汗水流して働く仕事をしてさ。レオが学校に行くのを見送って、運動会では場所取りで一番に並んで……」
健二は、タバコに火をつけようとして、レオの肺に悪いことを思い出し、火をつけずに口に加えたまま止めた。
「……夢を見るなよ、鉄。俺たちは泥棒だ。それも、人生の半分以上を失敗してきた、ろくでなしだ。レオを連れている限り、俺たちの人生には、幸せな未来なんて用意されてない。こいつを、この世で一番安全な場所へ、母親の元に返す。それが、俺たちがレオにしてやれる、最初で最後の善行なんだよ…」
健二の言葉は正論だったが、その声は微かに震えていた。彼もまた、深夜にレオがふと目を覚まして自分の指を握りしめてきたとき、凍てついた心が熱いお湯で溶かされるような感覚を覚えていることに、自分自身で気づいていた。深夜、二人は交代で番をしながら、レオが泣き出さないように、即興の子守唄を歌った。鉄が歌う「昭和の軍歌」に似た野太いメロディに、レオはなぜか深い安心感を覚えたのか、これまでにないほど穏やかに深い眠りについていた。
明日には、レオを母親の元へ届けるための、人生最大の賭け――「死ぬか、捕まるか、救うか」の三択しかない取引が待っていた。
第六章:真夜中の遊園地、あるいは本当の略奪者
健二がレオの受け渡しに設定した取引場所は、冬の間は閉園している、地方の寂れた遊園地だった。彼は、北条龍之介の妻でありながら、夫の支配から逃れたがっている美奈子に、独自のルートで直接連絡を取っていた。彼女は、レオを「道具」としてしか見ていない夫よりも、レオの安全を何よりも優先していた。
「いいか、鉄。あそこには母親だけじゃなく、必ず北条の回し者が影のように潜んでいる。俺がレオを抱っこ紐で胸に固定して、中央のメリーゴーランドへ向かう。お前は観覧車の最上部まで登り、状況を監視して、何かあったら……俺たちの最終兵器を頼むぞ…」
「分かってる。健二、お前、もし、レオに怪我させたら、俺が一生お前を呪うからな!」
午前二時。凍てつく月明かりに照らされた遊園地は、まるで巨大な墓場のように静まり返っていた。
健二は、レオを胸の鼓動が伝わる位置に固定し、一歩一歩、雪の積まったメリーゴーランドへと進んだ。中央には、一人の女性が立っていた。レオの母親、美奈子だ。彼女の瞳には、夫への恐怖と、息子への狂おしいほどの愛情が混ざり合っていた。
「……渉! 私の渉!」
彼女が駆け寄ろうとした瞬間、周囲のコーヒーカップや茂みの影から、銃を構えた十数人の黒服の男たちが、無機質な機械のように現れた。
「待ちなさい、奥様。社長の厳命です。赤ん坊は我々が責任を持って回収します。……そして、その薄汚い泥棒には、相応の報酬(鉛の弾丸)をたっぷりと差し上げろ!」
リーダー格の男が冷酷に言い放った。健二は、レオを庇うように背中を丸め、周囲を睨みつけた。
「おい、約束が違うぞ! 母親一人に来いって言ったはずだ!」
「北条の辞書に対等な約束などという言葉はない。あるのは、完全な所有だけだ。死ね、鼠め!」
その時、遊園地全体を震わせるような、凄まじい轟音が響き渡った。鉄が、観覧車の非常用電源を強引に短絡させ、全エリアのイルミネーションを、過負荷ギリギリの光量で全開にした。
「うわっ、眩しい! 何だ、この光は!」
闇に慣れていた男たちが、あまりの光量に目を焼かれ、呻き声を上げた。
「今だ、健二! 走れ! レオを渡すな!」
鉄が、園内放送用の巨大なスピーカーから、レオが大好きなあの子守唄――鉄の野太い歌声を、爆音のディストーションをかけて流し始めた。
「な、なんだこの不快な音は!? 鼓膜が裂ける!」
動揺し、銃を乱射しようとする男たちの隙を突き、健二は美奈子の手を取り、用意していた非常出口へと猛然と走り出した。
「奥さん、車へ! 鉄、ずらかるぞ!」
鉄は、観覧車からアクション映画さながらに滑り降りてくると、追っ手の車に向けて、特製の「煙幕(消火器を改造した爆弾)」を十数発叩き込んだ。
「さらばだ、愛のない人形ども! 赤ちゃんは、愛のある温かい場所に帰るんだよ…」
二人の泥棒は、雪を蹴散らしながら、ボロボロの軽トラを走らせ、追っ手のライトを闇の彼方へと置き去りにした。
第七章:最後のドライブ、そして新しい名前の誇り
海岸沿いの国道。水平線から、ゆっくりと、力強く、新しい一日の始まりを告げる朝日が昇り始めていた。指定の場所で待っていた、美奈子が手配した信頼できる支援者の車に、健二はレオを預けた。
レオは、健二の作業着のボタンを、小さな指でぎゅっと握りしめたまま、離そうとしなかった。その力強さに、健二の目から、これまで一度も見せたことのない熱いものが溢れ出した。
「お前、渉っていうのか……おい、渉。いや、レオ…もうお別れだな。これからは、高いミルクを飲み放題だぞ。広い家で、真っ当な教育を受けて、立派な大人になれよ。俺たちのことなんて、一秒も思い出さなくていいからな…」
健二が優しく、しかし断固としてその手を解くと、レオは一瞬だけ、今にも泣き出しそうな悲しい顔をしたが、母親の温かい腕の中で、安心したように、そしてすべてを許すかのように、大きな大きなあくびをした。
「……ありがとうございました。あなたたちは、泥棒なんかじゃない。渉を救ってくれた、本当の英雄です…」
美奈子が、涙を流しながら深く頭を下げた。彼女はこれから、北条の支配が及ばない海外へと、レオと共に新天地へ旅立つ準備をするのだという。
「英雄なんて柄じゃないですよ。俺たちはただの、しくじった車泥棒ですから…」
健二は照れ隠しに鼻を啜ると、鉄と共に、エンジンが限界を迎えつつある軽トラに乗り込んだ。車が走り出す。バックミラーの中で、レオを抱いた美奈子の姿が、朝の光に溶けて小さくなっていく。一億円の懸賞金も、盗んだ最高級のレクサスも、そして自分たちの自由さえも、すべてを失ってしまった。手元に残ったのは、空になった粉ミルクの缶と、使い古しの数枚のオムツ、そしてレオの温もりが染み付いた、汚れだらけの作業着だけ。
「……なあ、健二。俺たち、これからどうするんだよ。警察に自首するか? それとも、また不運の続きを走るか?」
「決まってんだろ。また一からやり直しだ。……いや、もう泥棒はやめだ。誰かのものを盗むより、誰かを守る方が、何万倍も腹が減るし、何万倍も気分がいいだろ!」
「じゃあ、何をやるんだ? 格闘家に戻るとか?」
「さあな。……でも、レオのオムツを替えることに比べりゃ、どんな肉体労働も、天国のようなバカンスに思えるはずだぜ!ハッ、ハッ、ハッ!」
健二と鉄は、朝日を全身に浴びながら、これまでの人生で一番大きな声を上げて笑った。数日後、世間を騒がせた「北条グループ御曹司失踪事件」は、無事保護という形で幕を閉じたが、そこには「二人の泥棒」の存在は、歴史の隙間に綺麗に隠されたままだった。ただ、レオの母親が、夫から奪い取った慰謝料で設立した新しい児童養護施設の門柱に、「ケン&テツ・メモリアル」と刻まれたことを、二人が知る日はまだ先のことだ。
彼らの軽トラは、燃料の尽きかけたゲージを見ながら、どこまでも続く自由な国道を走り続けた。助手席には、レオが最後に握りしめていた、小さなプラスチック製のガラガラが一つ、転がっている。健二がそれを手に取り、窓の外の海に向かって振ると、カシャカシャと、世界で一番幸せで、世界で一番誇らしい音が、潮風の中にどこまでも響き渡った。
「また、どっかで会えるさ、レオ。その時は、最高に美味い離乳食を作ってやるよ!」
「ああ。それまで、俺たちも真っ当に生きてやろうじゃねえか…」
不器用な二人の男の物語は、新しい一日の眩しい光の中に、静かに、しかし力強く溶けていった。彼らはもう、何も盗む必要はなかった。たった一週間の逃亡劇の中で、彼らは「誰かを守るための誇り」という、世界で最も高価で、決して盗まれることのないお宝を、その胸の中に手に入れていたのだから…