SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#271   勝てば、官軍!内容は……二の次?! Winners Rule! A Samurai Slapstick Comedy

第1章:泥沼の戦場と酒樽の隠者

 

 

 

 


慶応四年、鳥羽・伏見。硝煙が鼻を突く。空は鈍色に淀み、断続的な銃声が鼓膜を震わせる。新政府軍と旧幕府勢力が激突する最前線で、一人の男は震えていた。その名は善吉。志も矜持も持ち合わせぬ、単なる場違いな博徒である。彼は運悪く、軍用荷物の運搬人として徴用されていた。今、彼が身を潜めているのは、空になった巨大な酒樽の中。その隙間から外を覗けば、ぬかるみに足を取られ右往左往する侍たちの姿が見える。

 

 

 

 


「何が王政復古だ!博打の上がりも回収できねえうちに命を落としちゃ元も子もねえよ…」

 

 

 

 


善吉は歯の根も合わぬ震えを抑えようと、懐の干し肉を噛みちぎった。その時、爆裂弾が近くに着弾した。衝撃で樽の固定が外れ、緩やかな斜面を転がり始めた。

 

 

 

 


「わあ、止めてくれ! 目が回る!」

 

 

 

 


叫び声は轟音にかき消される。木製の酒樽はさらに猛烈な速度で加速し、敵味方が入り乱れる平原へと突入していった。それはまさに、戦況を予期せぬ方向へ導く制御不能の弾丸であった。斜面の下には、偶然にも幕府側の精鋭部隊が本陣を構えていた。指揮を執るのは、厳格な武士道で知られる大河原玄蕃。彼は突然現れた巨大な飛来物に目を見開いた。

 

 

 

 

 


「曲者だ、斬れ!」

 

 

 

 


下士官たちが刀を抜いた。しかし、慣性の法則に従い回転する物体は、刀を抜いた兵士たちをまるでボーリングのピンの如く次々と薙ぎ倒していった。善吉の悲鳴が、奇妙な叫びとなって戦場に響き渡る。
樽はついには大きな岩に衝突し、派手な音を立てて壊れた。そして中から飛び出したのは、目を回して千鳥足の、泥だらけな一人の男。善吉は平衡感覚を失い、目の前にいた大河原に抱きつく格好となった。

 

 

 

 


「おひゃ〜っ、助けてくれ、お代官様!」

 

 

 

 

 


その勢いで、大河原の腰に差してあった伝令用の重要文書が、善吉の手に移った。偶然が重なり、彼は幕府軍の作戦要綱を奪った形になった。周囲には、この珍客に呆気に取られた将兵が立ち尽くしている。

 

 

 

 

 

 

 


第2章:偶然が生んだ偽りの軍功

 

 

 

 


霧が晴れる。薩摩・長州を中心とする新政府軍の陣営では、一人の英雄の誕生が噂されていた。その主役こそ、敵陣を壊滅させ密書を持ち帰った(という誤解を受けた)善吉である。

 

 

 

 


「貴殿の果敢な突撃、実に見事であったぞ!」

 

 

 

 


西郷を彷彿とさせる巨漢の将校が、善吉の肩を叩いた。善吉はまだ吐き気に襲われていたが、目の前に出された豪勢な食事を見て、瞬時に状況を判断した。ここで正直に「私は転げ落ちただけにございます〜」と言えば、即座に処刑されてしまうだろう。ならば、この誤解に乗じる他ない!

 

 

 

 


「はっ、死を覚悟した決死の突進にございます。御国のため、この身を捧げる所存!」

 

 

 

 


調子の良い言葉が口を突く。善吉の嘘は、戦果を欲していた指揮官たちの耳に心地よく響いた。彼は瞬く間に、名もなき運び屋から「薩長同盟の隠し球」へと格上げされたのである。手渡された密書には、幕府軍の退却路が詳細に記されていた。これに基づき、新政府軍は一斉射撃を開始。混乱した旧幕府軍は、次々と潰されていった。歴史の歯車が、一人の博徒のデタラメによって大きく回り始めた。

 

 

 

 

 


「これで俺も、一角の武士になれるってわけか…」

 

 

 

 


善吉は支給された新しい袴に袖を通し、鏡に映る自分にしばし酔いしれた。しかし、その背後では、本当の地獄が口を開けて待っていた。戦功を挙げた者は、次の戦闘でも最前線に立たされるのが世の常だからだ。

 

 

 

 


「善吉殿、次なる任務は敵本陣への夜襲だ。貴殿のような勇士が必要なのだ!」

 

 

 

 


将校の言葉に、善吉の顔は即座に青ざめた。せっかく手に入れた贅沢な生活が、一晩で消え去ってしまおうとしている。そんなのは、絶対にイヤだ!彼は必死に知恵を絞り、どうにか戦場に行かずに済む言い訳を探し始めた。

 

 

 

 


「お、恐れながら、拙者は先の突撃で足の指を……そう、爪を激しく傷めまして…」

 

 

 

 


あまりにも情けない弁明に、周囲の空気が凍りついた。しかし、今の彼は幸運の女神に愛されすぎていた。たまたまそこに、朝廷からの勅使が到着したのである。

 

 

 

 

 

 

 


第3章:錦の御旗は風に舞う

 

 

 

 


到着したのは、黄金に輝く「錦の御旗」だった。これの登場により、新政府軍は正式な「官軍」となり、対する幕府側は「賊軍」の汚名を着せられた。戦いの意味合いが、根本から変わった瞬間だった。

 

 

 

 


「官軍に勝てる道理はなし。これで勝利は揺るぎない!」

 

 

 

 


兵士たちの士気は最高潮に達した。善吉もその熱狂の中に紛れ込み、旗持ちの役職を志願した。これなら武器を持たずに済み、しかも軍の象徴として後方に控えていられると考えた。しかし、現実は非情だった。錦の御旗は戦場のどこにいても目立ってしまう。つまり、敵軍からすれば最も優先すべき攻撃目標になってしまう。善吉は巨大な旗竿を握りしめ、強風に煽られながら広野に立った。

 

 

 

 

 


「おい、この旗、重すぎんぞ! 誰か代わってくれ!」

 

 

 

 

 


不満を漏らすが、周囲の者は「旗を守るために必死なのだ!」と勘違いし、畏敬の念を向けた。その時、敗走中の幕府兵たちが、旗を奪い返そうと捨て身の反撃を仕掛けてきた。弾丸が旗の布地を貫く。善吉は悲鳴を上げながら、旗竿を振り回した。なんとそれが奇跡的にも、接近した敵兵の喉元を強打した。さらには旗が視界を遮り、敵の狙撃手は照準を定められずに困惑した。

 

 

 

 

 


「勝てば官軍! 内容…なんてどうでもいい!」

 

 

 

 

 


半狂乱になった善吉は、ヤケクソで突き進んだ。重い旗竿が勝手に遠心力を生み、彼は再び戦場を蹂躙した。その姿は、後世の記録に「錦旗を掲げて敵陣を突破する軍神の如き勇姿」と記されることになる。

 

 

 

 


実際には、ただ振り回される棒に必死にしがみついているだけなのだが、遠目に見れば、それは神懸かった動きに見えた。事実、彼の進む先で敵は次々と退いていった。戦火の中で、真実は常に不透明。勝者が語る物語こそが正義となり、敗者の言い分は歴史の闇に葬られる。善吉は図らずも、その不条理な構造の頂点に君臨しようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 


第4章:改竄される武勇伝の舞台裏

 

 

 

 


戦闘が一段落し、本陣では記録係の文官、彦馬が筆を走らせていた。彼は善吉を呼び出し、詳細な聞き取り調査を開始した。

 

 

 

 

 


「善吉殿、あの時、どのような奥義を用いて敵を退けたのか、詳しく伺いたいのだが…」

 

 

 

 


彦馬の目は、特ダネを狙う瓦版屋のようにギラついている。善吉は額の冷や汗を拭いながら、即興の物語を紡ぎ出した。

 

 

 

 


「彦馬様……あれは、古流武術の秘伝『風舞の型』にござる。風の流れを瞬時に読み、敵の殺気を逆手に取る高度な技でして…」

 

 

 

 


「なるほど! 風舞の型! それは素晴らしい。我が軍の正当性を証明するに相応しい雅な技名だ!」

 

 

 

 


彦馬は善吉のデタラメを、さらに美化して記録していく。泥まみれで転んだ事実は「大地に伏して地の気を得た」と書き換えられ、酒樽で転がった逸話は「円環の理を悟る修行」に昇華された。

 

 

 

 


「編集……いや、★★の力は偉大だな。これなら俺がどんなにヘマをしても、立派な英雄に仕立て上げてくれるな…」

 

 

 

 


善吉は内心で舌を出した。しかし、嘘が大きくなればなるほど、後に引けなくなる怖さもある。彦馬は「この武勇伝を冊子にして全軍に配布する」と意気込んでいる。その時、陣幕の外から怒鳴り声が聞こえた。

 

 

 

 


「善吉という詐欺師を出せ! あいつは俺から博打の金を奪って逃げた男だ!」

 

 

 

 


現れたのは、かつての博打仲間であり、今は新政府軍の別部隊に所属する銀次だった。善吉の顔色が土色に変わる。過去の悪事が露呈すれば、官軍の英雄という地位は脆くも崩れ去るだろう。彦馬は不審げに銀次を見た。善吉は慌てて割り込んだ。

 

 

 

 

 


「ああ、彼は……私の修行時代のライバルでございまして! 互いに切磋琢磨した仲なのです。銀次、久しぶりだな、その、あの時の借金の話は……」

 

 

 

 

 


「借金だと? 俺が貸したのは三両だぞ!」

 

 

 

 


銀次の言葉を遮るように、善吉は彼を外へ連れ出した。ここを乗り切らなければ、なんとしても乗り切らねば、明日の朝には首が飛んでいる…

 

 

 

 

 

 

 


第5章:旧幕府軍の残党、現る

 

 

 

 

 


銀次を賄賂で黙らせようとした矢先、さらなる災難が降りかかった。新政府軍の捕虜収容所から、先の大河原玄蕃が脱走したという報が入ったのだ。大河原は、善吉が酒樽から飛び出してきた時の醜態を唯一目撃している人物。彼に証言されてしまえば、善吉のメッキは剥がれ、ただの卑怯者として処刑、待ったなし!

 

 

 

 


「まずい。あいつだけは消えてもらわないと……」

 

 

 

 

 


善吉は銀次を仲間に引き入れ、大河原の捜索を装って戦線の外れへと向かった。銀次は呆れた顔をしながらも、善吉の「英雄報酬」の分け前に目がくらみ、協力することに同意した。一方の大河原は、森の中に潜伏し、新政府軍への逆襲を画策していた。彼は善吉を「官軍の卑劣な秘密兵器」だと思い込んでいる。

 

 

 

 

 


「あの樽使いの男、只者ではない。正体を必ずや見極め、叩き斬らねば幕府の無念は晴らせぬ!」

 

 

 

 


復讐心に燃える武士と、保身に走る博徒。森の中で両者は対峙した。月明かりが、銀色に光る日本刀の刃を照らし出す。善吉は震える手で、支給されたばかりの最新式拳銃を構えた。

 

 

 

 


「観念しろ、大河原! お前は賊軍、俺は官軍だ! 正義はこっちにあるんだよ!」

 

 

 

 


「正義だと? 樽の中から這い出した貴様に、武士の魂などがあるものか!」

 

 

 

 


大河原が突進する。善吉は目をつぶって引き金を引いた。しかし、弾丸は銃身の中で詰まって不発し、代わりに、銃の反動で善吉の手から離れた銃本体が、大河原の眉間に直撃した。

 

 

 

 


「ぐ、ぐはっ!」

 

 

 

 


名門の武士が、投げつけられた鉄の塊に当たって気絶した。またしても、善吉のヘマが決定的な打撃を与えた。銀次は隣で口をあんぐりと開けていた。

 

 

 

 


「お前……本当に運だけは天下無双だな…」

 

 

 

 


「運も実力のうち、って言うだろ。さあ、こいつを縛り上げて本陣へ連れて行くぞ。二階級特進間違いなしだ!」

 

 

 

 

 

 


第6章:露見寸前の大宴会

 

 

 

 

 


大河原の再捕縛という手柄を挙げた善吉は、もはや神格化に近い扱いを受けていた。軍の司令部では、彼の功績を讃える大宴会が催された。会場には、上級士官や公家たちが集まり、善吉を囲んで酒を酌み交わす。

 

 

 

 


「さあ、英雄・善吉殿。あの時の『風舞の型』をここで披露していただきたい!」

 

 

 

 


酔った士官が、無茶な要求を突きつけてきた。周囲も拍手喝采で期待を寄せる。善吉は、また冷や汗が背中を流れるのを感じた。技など存在しない。だって、だって、ただのデタラメなのだから…

 

 

 

 

 


「ええい、ままよ!」

 

 

 

 


善吉は酒瓶を片手に、舞台の中央で踊り始めた。それは武術とは程遠い、江戸の盛り場で流行っていた卑俗な踊りだった。しかし、観客たちはそれを「敵を油断させる奇妙な演舞」と解釈した。

 

 

 

 


「素晴らしい! 敵を幻惑する無拍子の動き! これはまさに芸術!」

 

 

 

 

 


賞賛の声が上がる中、善吉は調子に乗って踊りを激しくさせる。その拍子に、舞台の床が重みに耐えきれず崩落した。善吉は階下へと落下し、そこで偶然にも、陣営内に潜入していたスパイの集団の上に直撃した。

 

 

 

 


「何事だ!」

 

 

 

 


駆けつけた兵士たちが、気絶したスパイたちを取り押さえた。善吉は瓦礫の中から這い出し、空っぽの酒瓶を掲げた。

 

 

 

 


「宴の最中も油断は禁物……敵の気配を感じたので、わざと舞台を壊して急襲しました!」

 

 

 

 


この、なんとも苦し紛れの嘘も、信じられないことに通用してしまった。指揮官たちは「なんと用心深い男だ!」と感涙し、彼に特注の軍服と多額の報奨金を贈ることを約束した。銀次は隅で酒を飲みながら、独り言を漏らす。

 

 

 

 


「勝てば官軍、負ければ賊軍。真実なんて誰も見ちゃいねえ。信じたいものを信じるのが人間ってわけか。こりゃあ、真面目に生きてる奴が馬鹿を見るな…ハァ、ハァ、ハァ!」

 

 

 

 


夜は更けていくが、善吉の虚像は肥大化を続け、止まるところをもはや知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 


第7章:勝者の美学と明日への逃亡

 

 

 

 


やがて、明治という新しい時代が幕を開けた。かつての戦場には静寂が戻り、善吉の物語は現代の教科書!?に載るほどの名誉ある伝説として定着していた。彦馬が書き上げた『官軍武勇伝』はベストセラーとなり、善吉は政府の要職に推薦された。しかし、本人はその地位を辞退し、荷物をまとめて姿を消そうとしていた。

 

 

 

 

 


「どうして行くんだよ。一生遊んで暮らせる地位が手に入ったのに!」

 

 

 

 

 


銀次の問いに、善吉は苦笑いで応えた。

 

 

 

 


「これ以上いたら、本当に自分の嘘に飲み込まれちまうよ。俺は博徒だ。勝負っうもんはよ、引き際が肝心なんだよ!」

 

 

 

 


彼は報奨金を銀次と分け合い、一通の手紙を残して夜逃げ同然に屋敷を出た。手紙にはこう記されていた。

 

 

 

 


「歴史とは、幸運な嘘つきが書き残した落書きである。内容は二の次。勝ったという事実だけが、後世の正義になる!」

 

 

 

 


善吉は港へ向かい、新政府の蒸気船ではなく、小さな小舟に乗り込んだ。向かう先は大陸か、それとも名もなき島か…

 

 

 

 

 


数十年後、ある老人が海外の酒場で、日本の革命を影で操った「樽の英雄」の真実を語ったというが、誰もそれを信じる者はいなかった。なぜなら、公式の歴史書には「完璧な英雄」としての善吉しか存在しないからだ。

 

 

 

 

 


勝てば官軍。敗者の嘆きも、真実の醜さも、勝利の美酒で洗い流されるのだ。

 

 

 

 

 


善吉は水平線を眺めながら、最後の一切れの干し肉をかじった。その顔には、英雄としての威厳など欠片もなく、ただ自由を謳歌する一人の博徒の、晴れやかな笑みが浮かんでいた。歴史は今日も、勝者にとって都合の良い物語を編み続けている。その裏側で、真実が酒樽の中で眠っていることも知らずに。
善吉が消えた後の日本は、彼が冗談で言った「風舞の型」を真面目に研究する剣術家が現れるなど、妙な方向に発展していった。だが、それもまた歴史の滑稽な一幕に過ぎない。

 

 

 

 

 


「さらば、官軍。俺は俺の、デタラメな人生を勝ち抜くさ…」

 

 

 

 

 


小舟は朝焼けの中へ消えていった…