SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#274   白井ディレクターのどこまでも不都合なドキュメント○○時間 Shirai’s Documentary Gone Wrong

第1章:伝説の幕開けと、絶望の72時間

 

 

 

 

 


白井は、自称「ドキュメンタリー界の最終兵器」である。しかし、テレビ局内での本当のあだ名は「歩く放送事故」だった。彼が情熱を無駄に傾けてカメラを回せば回すほど、事態はなぜか制作側にとって最も不都合な方向へと、強力な磁石に吸い寄せられるように転がっていくのである。彼の着ているベストは、破れたポケットから幸運さえもこぼれ落ちているように見え、その顔には常に、根拠のない自信と、それ以上の不安が同居していた。

 

 

 

 

 

 


今回の新しい企画は、都内のとある静かな公園にある「何の変哲もない古びたベンチ」を、丸々三日間、つまり七十二時間もの間、一秒も休まずに見つめ続けるという過酷極まりないもの。白井は、都会の片隅に漂う深い孤独や、ふとした瞬間に生まれる見知らぬ人同士の温かな心の交流を、至高の感動ドラマとして切り取ろうと本気で目論んでいた。

 

 

 

 

 


「田中くん、よ〜く見ていなさい。このベンチには、現代を生きる人々の魂の叫びや、言葉にならない祈りが、目に見えない年輪のように深く、重く刻まれているんだよ。これこそが真実なのだ。俺たちはその目撃者になるんだ!」

 

 

 

 

 


白井は、新人のアシスタント・ディレクター(AD)である田中の肩を力強く叩き、自分に酔いしれるように自慢げに言った。田中は「はい、はい…」と力なく答え、カメラのセッティングを淡々とこなしていた。

 

 

 

 

 


撮影が始まって、最初の三時間。ベンチの周りには、平和で退屈な時間がゆっくりと流れていた。白井は満足げに、会社の経費で無理やり借りた高い機材のファインダーをじっと覗き込む。しかし、記念すべき最初の「撮影対象」となったのは、白井の描く感動ドラマとは程遠い、理解を超えた存在だった。公園の角から現れたのは、蛍光色の全身タイツに身を包んだ、正体不明のダンス集団。彼らは一言も発することなくベンチをぐるりと囲むと、「溶けゆくアイスクリームの嘆き」というタイトルのなんとも奇怪で激しい踊りを始めたのである。その動きは滑稽であり、どこか不気味さが漂っていた。

 

 

 

 

 

 


「監督、これ……孤独っていうより、ただの近所迷惑ですよ。警察を呼ばれてしまう前に、本当に撮りますか?」

 

 

 

 

 


田中の冷ややかな指摘に、白井は無理やり自分を納得させるように答えた。

 

 

 

 

 


「これも……これも現代社会が生んだ深い心の叫びだ。回せ、回すんだ、カメラを絶対に止めるな! 真実の爆発を逃すな! これがテレビの最前線だ!」

 

 

 

 

 


白井のどこまでも不都合な七十二時間は、こうして最悪のタイミングで、最悪の形で幕を開けたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第2章:空腹のおにぎりと、黒い翼の襲来

 

 

 

 

 


撮影開始から十二時間が経過。ダンス集団が嵐のように去った後、ベンチには再び静寂が戻った。白井は急に激しい空腹に耐えかね、コンビニで買ったばかりの、まだ冷たくて硬いおにぎりの袋をそっと、大切に開けた。

 

 

 

 


「いいかい田中くん。ドキュメンタリーという仕事は、何よりも忍耐が大切だ。この何も起きない退屈な時間にこそ、真実の光が、ダイヤモンドのように輝くんだよ。腹が減っても、心は枯らしてはいけないよ!」

 

 

 

 

 


白井が梅干しのおにぎりを幸せそうに口に運ぼうとした、まさにその時だった。ベンチの背もたれのすぐ後ろから、一匹の巨大で賢そうなカラス、通称「ジェネラル・ブラック」が、音もなく急降下してきた。カラスは、白井の手から鮮やかな手口でおにぎりを奪い取ると、悠々とベンチの真ん中に居座った。そして、あろうことか白井を真っ直ぐに見つめ、落ちていたプラスチックのフォークを器用に使い、まるで小馬鹿にするような高い声で一度、カァ〜と鳴いたのである。その姿は、まるで高級レストランで食事を楽しむ貴族のようだった。

 

 

 

 

 


「あ、あいつ! 俺の今夜の唯一の貴重な食料を、フォークまで使って! 人間の尊厳を奪う気か!」

 

 

 

 

 


白井が怒鳴って追い払おうとすると、カラスは周囲の鳩や雀、さらにはどこからか現れた野良猫まで呼び寄せた。十数羽の鳥たちがベンチを完全に占領し、白井と田中を鋭い目で威嚇し始めた。それはまるで、ベンチが鳥たちの秘密の議事堂になったかのようだった。

 

 

 

 


「監督、企画を変更して、鳥たちの政治学ドキュメンタリーにしますか? 視聴率は取れるかもしれませんよ!」

 

 

 

 


「ふ、ふざけるな! 俺は人間ドラマを描きたいんだよ! 鳥の国会なんぞ一秒も興味ない!」

 

 

 

 

 


しかし、カラスたちが陣取るベンチには、怖がって誰も近づくことができない。カラスたちの安息の地と化したベンチを前に、白井は空腹で膝を激しく震わせながらも、意地でカメラを回し続けた。感動の再会や、老夫婦の静かな語らい。そんな白井の美しすぎる理想は、カラスの力強い羽ばたきと共に、夜の空へとどこか遠くへ、跡形もなく飛んでいってしまった。白井はただ、カラスの食べ残したおにぎりの粒を虚しく見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第3章:最新機材と、ピンポイントの豪雨

 

 

 

 

 


夜がさらに深く更けてきた。白井は起死回生を狙い、会社から拝み倒して借りてきた、数百万円もする超高感度の最新夜間撮影カメラ「スーパーゲイズ5000」を設置した。

 

 

 

 


「これで、都会の夜の闇にうごめく人間の本当の本質を、赤裸々に、残酷に捉えてやるぞ。夜こそが人間の素顔が出る時間だ!」

 

 

 

 

 


白井は暗闇の中でニヤリと不気味に笑った。しかし、空からポツリと、嫌な冷たいものが鼻の頭に落ちてきた。

 

 

 

 


「雨……? 天気予報では、三日間ずっと快晴のはずだったが。おかしいな…」

 

 

 

 

 


予報は確かに正しかった。近隣の区では月が綺麗に見えていた。しかし、不幸な白井の頭上には、彼を標的にしたかのような巨大な真っ黒い雨雲がピンポイントで形成されていた。さらに運の悪いことに、公園の自動水撒き器がいきなり故障し、白井の足元から激しい冷水の柱が勢いよく吹き上がった。次の瞬間、バケツをひっくり返したような豪雨と、足元からの猛烈な噴水が撮影チームを容赦なく襲った。

 

 

 

 

 

 


「監督! 機材が!このままでは数百万の最新機材が水没してしまいます! 始末書じゃ済みませんよ!」

 

 

 

 

 


田中の悲鳴に近い叫びが雨音の中に響く。白井は慌ててカメラを抱えようとしたが、濡れた石畳に足を滑らせ、盛大に、そして無様に、スローモーションのように転倒した。最新カメラは白井の手を勢いよく離れ、泥だらけの深い水たまりに真っ逆さまに、美しくダイブした。

 

 

 

 

 


「うあああああ! 俺の、俺の出世が、膨大な修理代に消えていく! ローンが地獄だ! 明日が来なければいいのに!」

 

 

 

 

 


水没したカメラからは、プスプスという頼りない音がして、虚しい白煙が空へと上がった。白井は豪雨の中、泥まみれになりながら、動かなくなった冷たい鉄の塊を子供のように抱きしめた。都会の夜の孤独どころか、白井自身の惨めすぎる姿だけが、田中の持つ予備の家庭用ビデオカメラに、高画質で鮮明に、あまりにも残酷に記録されていた。白井の泣き声は、激しい雨音にかき消されていったが、その表情は誰よりも「孤独」を体現していた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第4章:迷い犬の出現と、犯人扱いの屈辱

 

 

 

 

 


二日目の朝。雨は嘘のように上がった。しかし、白井の心は依然として激しい土砂降りのままだった。濡れた機材をドライヤーで必死に乾かしながら、彼は執念だけでベンチの監視を続けていた。その姿は、もはや公園の浮浪者と区別がつかなかった。そこへ、一匹の小さくて愛くるしい小犬が、トコトコと尻尾を振ってやってきた。ベンチの足元に丸まり、寂しそうにキュンキュンと鳴いている。

 

 

 

 

 


「チャンスだ! 迷子になった小犬と、それを優しく助ける親切な市民。これぞドキュメンタリー番組の王道中の王道だ! これで視聴率を稼いで逆転だ!」

 

 

 

 

 


白井は汚れた顔を再び希望で輝かせた。しかし、現実は常に彼に対して徹底的に甘くない。飼い主を探すふりをして小犬に下心を持って近づいた白井の前に、数人の屈強な警察官が音もなく現れた。その背後には、「泥の怪物が犬をさらおうとしています!」と震えながら通報した、近所の子供の怯えた姿があった。

 

 

 

 

 


「ちょっと君、そこで何をしているんだね? その犬に何か卑劣なことをしたか?」

 

 

 

 

 


「あ、いや、私はドキュメンタリーの撮影をしていまして、決して怪しいものでは……私は監督です!」

 

 

 

 

 


泥まみれの格好で、目の下に深いクマを作り、全身ガムテープだらけの機材を抱えた白井。警察官の鋭い目には、凶悪な不審者以外の何者にも映るはずがなかった。

 

 

 

 


「通報が入っているんだよ。犬を誘拐しようとしている、泥だらけの怪しい男がいるとね。署まで来てもらおうか。詳しい事情は署の方で聞くから!」

 

 

 

 

 


「ち、違いますよ! これは純粋な演出……じゃなくて、真実の記録なんです! 離してください、俺の情熱を!」

 

 

 

 

 


白井は必死に抵抗したが、あえなく署まで連行された。ベンチには、一匹の小犬と、完全に取り残されて呆然とする田中だけが残された。白井が三時間あまりの厳しい取り調べを経て、ようやく釈放されたとき、ベンチでは小犬が本物の飼い主と涙の再会を果たしていた。白井はその最高に感動的な瞬間を、護送されるパトカーの狭い窓越しに、遠くから眺めることしかできなかったのである。彼のカメラには、警察署の灰色の壁しか映っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第5章:謎の老人と、ガムの哲学迷宮

 

 

 

 

 


撮影開始から五十時間が経過。白井はもはや、何が正解で、自分が何を撮りたかったのかすらわからなくなっていた。彼の精神は極限に達し、ベンチそのものが神聖な、意思を持つ巨大な生き物のように見え始めていた。

 

 

 

 

 


「田中くん、あのベンチは今、何を想ってここに座っていると思う……? 彼はすべてを見ているんだよ…すべてを…」

 

 

 

 


「監督、疲れてますね。あれはただの硬い板ですよ。それ以上でも以下でもありませんよ…」

 

 

 

 

 


そこへ、一人の老人がゆっくりとした足取りで歩いてきて、ベンチの端に静かに腰を下ろした。老人は深いシワの刻まれた顔で、遠くの何もない空をじっと見つめている。その背中はとても哀愁に満ちていた。

 

 

 

 


「今だ……。これこそ、俺が心の底から求めていた『人生の重み』というやつだ。間違いない。この一瞬のために俺は生きてきたんだ!」

 

 

 

 

 


白井は震える手でカメラを回し、老人に慎重な、祈るようなインタビューを試みた。

 

 

 

 


「おじいさん。このベンチに座って、今、何を深く考えているんですか? 人生の終着駅ですか?」

 

 

 

 

 


老人はゆっくりと、白井を見つめ、重々しい、深い声で短く答えた。

 

 

 

 

 


「……ガムだよ」

 

 

 

 

 


「ハッ!ガム? それは人生の甘さと苦さを、噛めば噛むほど味が出るガムに例えているのですか? 実に奥深いですね!」

 

 

 

 

 


「何を言ってるんだ。いや、さっきからズボンのケツに、誰かが吐き捨てたベタベタのガムがくっついて取れないんだよ。誰だ、こんなところにガムを捨てたのは。不愉快極まりない、最低な気分だ。おまけに左の靴下の穴も気になる…」

 

 

 

 

 


老人は立ち上がると、急に激しく怒り出し、ベンチを思い切り蹴り飛ばしてどこかへ去っていった。白井は呆然と立ち尽くした。哲学的な、人生についての深い対話を期待した結果が、ただのガムの苦情と靴下の穴への怒り。白井の「不都合」は、もはや神のイタズラを通り越した領域に達していた。彼はベンチの端にこびりついた、古いガムを虚無の目で見つめ、何故か理由もわからず涙が止まらなくなった。田中のカメラは、その全行程を容赦なく、克明に記録し続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第6章:幻覚の世界と、深夜のダンスバトル

 

 

 

 

 


六十時間が経過。白井の意識は、すでに現実の向こう側、銀河の彼方へと飛んでいた。三日間ほとんど寝ていない彼の目には、公園の木々が自分を嘲笑っている巨大な人間に見え、硬いベンチが最高級のシルクのベッド、あるいは回転寿司の巨大なレーンに見えていた。

 

 

 

 

 


「田中くん……見ろよ。ベンチの上を、大トロやウニが美味しそうに流れているぞ……あ〜食べたいなぁ〜」

 

 

 

 


「監督、しっかりしてくださいよ。あれはただの掃除のおじさんが置いた黄色いバケツです。魚じゃありませんよ!」

 

 

 

 

 


白井は、掃除のおじさんがベンチを丁寧に拭く姿を「天界から来た使者が、汚れた銀河の星々を一つずつ清めている!」と勝手に解釈し、熱烈で意味不明な実況を始めた。

 

 

 

 

 


「今、神の指が……銀河のチリを、真っ白な雑巾で拭い去った! おお、なんという慈悲深さだ! 宇宙が綺麗になるぞ! 俺の汚れもついでに拭いておくれ!」

 

 

 

 

 


白井は重いカメラを構えながら、おじさんの足元にひざまずき、泣きながら超至近距離での撮影を強行した。

 

 

 

 


「ちょ、ちょっとあんた、さっきから清掃の邪魔だよ! どきなさい、危ないだろ! 警察呼ぶよ!」

 

 

 

 

 


おじさんに激しく怒鳴られても、白井は恍惚とした幸せそうな顔で笑っていた。さらに、そこへ初日に現れたあのダンス集団が再び姿を現した。今度は夜光塗料を全身に塗りたくり、さらに光り輝くフラフープを持って、暗闇の中でさらに不気味な姿に進化している。

 

 

 

 

 


「あ、宇宙人が俺を迎えに来た……。コンタクトだ、人類の歴史が今、大きく変わる瞬間だ! 連れてってくれ!」

 

 

 

 

 


白井はおじさんから奪い取ったホウキをマイクに見立て、ダンス集団の中に猛然と飛び込んでいった。
深夜の静かな公園で、正気を完全に失ってしまった監督と、怪しく光るタイツ集団が謎の激しい舞を踊る。それはドキュメンタリーという名を借りた最高に滑稽な喜劇だった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第7章:前代未聞の放送事故と、新たな地獄

 

 

 

 


ついに、七十二時間の過酷な撮影は終わりを告げた。白井の手元に残ったのは、使い物にならない水没した高価な機材と、脈絡のない映像が不気味に詰まった数本の予備テープだけだった。編集室で映像を恐る恐る確認したチーフプロデューサーは、顔を真っ赤にして、廊下まで響く怒声で絶叫した。

 

 

 

 

 


「白井! なんなんだこれは! 肝心のベンチが映っているのは、全編通してわずか数分じゃないか! あとはカラスのドアップと、警察官の怒鳴り声と、お前の情けない泣き顔と、宇宙人のダンスだけだぞ!こんなもん 放送できるわけないだろ!」

 

 

 

 

 


しかし、不都合という名の魔物は、最後まで白井の不思議な味方をしたのである。放送枠を埋めるために、ほぼ未編集のまま流されたその支離滅裂なドキュメンタリー番組は、「前衛的すぎる芸術作品…」「テレビの限界を突破した挑戦!」として、ネット上で爆発的な話題となった。

 

 

 

 

 


「一人の男が不都合な現実に打ちのめされ、狂っていく姿に現代社会の虚無を見た。涙が出た!」

 

 

 


「カラスの鳴き声が、まるで今の腐った政治への鋭い風刺に聞こえてくるから不思議だ。これは天才の仕業だ…」

 

 

 

 

 

 


さらにこのドキュメンタリーは、フランスの国際映画祭で「最高の不条理賞」を受賞した。視聴者たちは、白井の制作意図とは全く違う、勝手で深読みしすぎた解釈で大いに盛り上がった。結果として、番組の視聴率は局の過去最高記録をあっさりと塗り替えてしまったのである。局長室に呼び出された白井は、輝かしい表彰状を手渡された。

 

 

 

 

 

 


「白井くん、君の才能は本物だよ。次は、一週間、百六十八時間のドキュメントだ。期待しているよ。断ることは万死に値するぞ!」

 

 

 

 

 


白井の顔は、喜びよりも、底知れぬ恐怖と絶望で激しく引きつっていた。

 

 

 

 

 


「ディレクター、次は何の真実を見つめますか?」

 

 

 

 

 


田中の容赦ない問いかけに、白井は死んだような目をして答えた。

 

 

 

 

 


「……もう何も見たくない。不都合のない、自分の部屋の天井だけを……一週間……ずっと……。天井のシミを、一秒も逃さず…」

 

 

 

 

 

 


白井ディレクターの、真実を求めるドキュメンタリーへの果てなき挑戦は、これからも「どこまでも不都合」に、そして「どこまでも滑稽」に続いていく。次はどんな想像を絶する災難が、彼の細い肩を優しく叩くのか。それは神と、白井の恐るべき不運だけが知っている…