第1章:白いカーテンの向こう側
北海道旅行の三日目。大学のサークル仲間である四人の男女は、レンタカーで神秘の湖、摩周湖を目指していた。ハンドルを握るのは、お調子者のリーダー格で、常に場の空気を明るくしようとする陽介。助手席には、繊細で怖がりな性格の里奈。後部座席には、何事も冷静に判断しようとする慎重な健太と、幼い頃から少し霊感があると言われている美咲が座っていた。
「ねえ、本当にこの道で合ってるの? さっきから全然、対向車の一台とさえすれ違わないんだけど…」
里奈が不安を隠せない様子で、白く曇り始めた窓の外を見つめる。窓ガラスには、外の冷気によって細かい水滴がびっしりと付着し、指で拭ってもすぐにまた白く染まっていく。
「大丈夫だって! ナビはちゃんと動いてるし。それにしても、すっげえ霧だなあ。まるで牛乳の中にでも突っ込んだみたいだ…」
陽介は能天気に笑い飛ばしたが、健太は心のどこかで、言いようのない嫌な予感を覚えていた。スマホで確認した天気予報では、この地域は一日中快晴のはずだった。それなのに、山道に入った途端、周囲の景色は一変した。どこからともなく這い出してきた真っ白な濃霧が、壁のように車の行く手を阻み、数メートル先にあるはずのガードレールさえも見えなくなっていた。
「摩周湖って、『霧の摩周湖』っていう有名な歌があるくらいだからね。これがこの場所の本当の姿、名物なんじゃない?」
健太は空気を落ち着かせるように明るい声を出したが、隣に座る美咲は一言も発さず、ただ一点、流れていく霧の渦をじっと見つめていた。彼女の横顔は、まるで血の気が引いたように青白く、石のように硬直して見えた。
「……ねえ、今すぐ引き返さない?」
美咲が、かすかな声でぽつりと呟いた。普段は控えめな彼女が、これほどまでに切迫した、強い拒絶の口調を見せるのは初めてのことだった。
「え? なんでだよ、美咲ちゃん。せっかくガソリン代かけてここまで来たのに。この霧が晴れたら、言葉にできないくらいの絶景が見られるかもしれないじゃん。俺の勘が言ってるんだよ!」
陽介は気にする様子もなくアクセルを軽く踏み込んだ。車は、厚い白いカーテンを力任せに突き破るようにして、ゆっくりと闇の奥へと進んでいく。
「何かが、おかしいと思う。空気が、鉛のように重たい。それに……さっきから、霧の向こうの方で、誰かにずっと見られている気がするの…」
「誰? 誰がいるんだよ、こんな山奥で?」
里奈が怯えた声で、自分の肩を抱いた。
「わからない。わからないけど…でも、数えきれないほどの何かが、私たちのことを品定めするように見ている気がするの。……食べ物を、探すような目で!」
美咲の不吉な言葉に、健太は背筋が凍るような冷たさを感じた。車のヘッドライトが照らす先には、ただ不規則に渦を巻く白い霧の粒子があるだけで、生き物の姿など一つも見当たらないというのに。
第2章:静寂の展望台
どれほどの時間を走っただろうか。ようやくたどり着いた第一展望台の駐車場は、予想通り、他の観光客の車は一台も停まっていなかった。あまりにも静かすぎる。エンジンの音を止めた瞬間、世界そのものから音が永遠に消えてしまったかのような、不思議な錯覚に皆が襲われた。
「うわー、真っ白! 何も見えねえじゃん、これ!」
陽介が一番に車から飛び出した。ドアを開けた瞬間に、湿った冷たい空気が、まるで生き物のように一気に車内へと滑り込んできた。
「寒い……。ねえ、本当に私たち以外に誰もいないの? 売店とかに、誰か一人くらい残ってないのかな?」
里奈が震える腕をこすりながら、おそるおそる車を降りた。健太と美咲も、重い足取りでそれに続く。四人は霧に濡れたコンクリートを歩き、展望台の柵の方へと向かっていった。
本来なら、目の前には「摩周ブルー」と呼ばれる、息をのむほど美しい深い青色の湖が広がっているはずだった。しかし今は、手を伸ばせば掴めそうなほど濃い霧が巨大な壁となって立ちふさがっていた。湖面どころか、数歩先にあるはずの切り立った崖の下さえも、全く判別できなかった。
「これじゃ、はるばる来た意味が全くないよな。写真の一枚も撮れないぜ!」
陽介が不満げに地面の小石を蹴った。その乾いた音が、静寂の中でやけに不自然に、大きく響き渡った。その時だった。
ゴォォォ……。
湖の底の方角から、低く、唸るような不気味な音が響いてきた。それは風が鳴る音ではなかった。巨大な地の底から絞り出されるような地鳴りだった。
「えっ、何この音? 近くにクマでもいるの?」
里奈が恐怖に震え、健太のコートの袖に強くしがみついた。
「いや、クマの声じゃないと思う……。多分、霧の影響で、風が湖面に当たって変な音に聞こえてるだけだよ…」
健太は自分に言い聞かせるように答えたが、その言葉を自分でも一ミリも信じてはいなかった。周囲の空気は、風一つ吹いていない静止した状態だったからだ。あの音は、明らかに意思を持った「何か」が発した叫びだった。
「……呼ばれてる」
美咲が、凍りついた鉄の柵をぎゅっと握りしめ、霧の向こう側の深淵を凝視していた。
「美咲? どうしたんだよ、急に…」
「聞こえない? ねぇ、聞こえるでしょう?あの唸るような音の中に、たくさんの声が混じってる。何百、何千という人の、悲鳴のような声が…」
美咲の言葉に誘われ、三人は必死に耳を澄ませた。ゴォォォという轟音の裏側に、確かに、ブツブツと何かを呪うように呟くような、低い声が無数に重なり合って聞こえてくるような気がした。
第3章:一人目の消失
不気味な地鳴りは、数分経つと、ふっと止んだ。しかし、展望台を包み込む冷たい空気は、さっきよりもさらに重苦しくなり、呼吸さえも困難にさせるほどだった。
「なんか、急に気味が悪くなってきたな。もうこんな場所、引き上げて帰ろうぜ。美味しいラーメンでも食べに行こう!」
さすがの陽介も、この異様な雰囲気に本能的な恐怖を覚えたようだった。
「大賛成! 早くここから一秒でも離れたい!」
里奈が縋るような声ですぐに同意した。
「そうだね。これ以上の滞在は危険だ。こんな霧じゃ道も危ないし、早く山を降りよう!」
健太がそう決断し、みんなで車に戻ろうとしたその時、陽介が不意に足を止めた。
「あ、ごめん。俺、ちょっとトイレに行ってくる。緊張しすぎて尿意を催しちゃったよ。すぐ戻るから、先に車の中でエンジン温めて待ってて!」
陽介はそう軽く言うと、駐車場の端にある公衆トイレの方へと、霧の中に吸い込まれるように小走りで向かっていった。トイレの石造りの建物も、今やぼんやりとした輪郭しか見えず、幽霊の館のように白く霞んでいた。残された三人は、寒さに耐えながら車の中で陽介が戻ってくるのを待った。しかし、五分が経ち、十分が経過しても、陽介は一向に戻ってくる気配がなかった。
「ねぇ……遅すぎない? お腹でも壊したのかな。様子、見てくるよ!」
健太が心配そうに腕時計の針を確認した。
「ねえ、待って!私たちも一緒に行く。私たち二人で待つのは絶対嫌だよ!」
里奈の切実な提案で、三人は一緒に車を降り、寄り添うようにしてトイレの方へ歩き出した。霧はさっきよりも一段と濃くなり、自分の足元さえも見失いそうなほど、白一色の世界になっていた。
「陽介! 陽介、大丈夫か? 腹でも痛いのか?」
健太がトイレの入り口で大声をかけたが、中からは何の返事もなかった。意を決して健太が男子トイレの内部に入ってみたが、そこには人っ子一人いなかった。個室のドアはすべて全開になっており、ただ冷たい風が吹き抜けているだけだった。
「いない……。どこにも、いない…」
「え、嘘でしょ?いやだ… じゃあ、陽介はどこに消えたの?」
里奈がパニックになり、泣き叫びかけたその時、美咲が足元の暗がりを指差した。
「あれを見て……」
トイレの入り口の冷たいコンクリートの床の上に、陽介がいつも大切にしていたスマートフォンがぽつんと落ちていた。画面には蜘蛛の巣のようなヒビが入り、砂嵐のようなノイズが激しく映し出されていた。そして、そのノイズの奥から、再びあの低い、無数の呟き声が、スピーカーを通したような不気味な響きで聞こえてきた。
第4章:湖底からの呼び声
「陽介のスマホ……。どうして、こんな大切なものが、ここに捨てられてるんだ?」
健太が恐怖を抑えてスマホを拾い上げようとしたが、美咲が鋭い声でそれを制止した。
「触っちゃだめ! それは、もう陽介くんのものじゃない。別の誰かの持ち物になってる…」
美咲の瞳は、底知れぬ恐怖で大きく見開かれ、スマホではなく、その背後に広がるどこまでも白い霧を見つめていた。
「どういう意味だよ美咲! 陽介は今どこにいるんだ! どこかへ逃げたのか!」
健太が叫ぶように問いかけると、美咲は震える唇で、絞り出すように言った。
「……湖。湖の深い底へ、今、連れていかれた…」
「湖って、まさか、あの高さから崖の下に飛び降りたっていうのか?」
里奈が顔面蒼白になり、足をもつれさせながら後ずさる。
「違う。自分の意志で、あの冷たい水の方へと、一歩ずつ歩いて行ったの。……あの、呼ぶ声に答えてしまったから…」
美咲は、この場所に来る前に地元の古い資料やネットで見つけたという、摩周湖にまつわる忘れ去られたおぞましい噂話を、ぽつりぽつりと語り始めた。それは、観光ガイドに載っているようなロマンチックな伝説などではなく、地元の人々さえも口にすることを厭う、禁忌の物語だった。
「この湖には、遥か昔から『ヌシ』と呼ばれている存在がいるの。普段は、光も届かない深い湖の底で、ひっそりと眠っているんだけど、こうして濃い霧が出た日だけ、地上に興味を持って目を覚ますんだって。そして、自らの孤独を埋めるために、地上にいる、生命力に溢れた人間を呼ぶのよ。その声を聞いてしまった人は、自らの意志とは関係なく、抗えない力で湖の方へと引き寄せられてしまう。そして、霧の中へ溶けるように消えて、二度とこの世には戻ってこない……」
「そんなの、ただの古いおとぎ話でしょ! 陽介くんはきっと、どこかで隠れて私たちを驚かせようとしているだけだよ!」
里奈が耳を強く塞いで叫んだ。しかし、美咲の表情は、そんな希望を打ち砕くほど真剣で、そして絶望的だった。
「私も、ただの迷信だと思いたかった。でも、さっき聞こえたあの声……あれは、間違いなく人間を『招く声』だった。陽介くんの魂は、もうそれに応えてしまったのよ…」
その時、再び地面を突き上げるようなゴォォォという轟音が響き渡った。そして、霧の向こう側の展望台の柵のすぐ外側というありえない場所から、聞き覚えのある声が届いた。
「……おーい、みんな。こっちに来いよ。すっごい綺麗な場所だぞ。霧なんて、もうないよ!」
それは、間違いなく陽介の声だった。しかし、その声には何の抑揚もなく、命が全く感じられなかった。まるで、録音された音声を不自然な速度で再生しているような、この世のものとは思えない響きだった。
第5章:霧の中の影
「陽介!? 無事だったのか! どこにいるんだ、今すぐこっちに戻れ!」
健太が安堵が混じった表情で柵の方へ駆け寄ろうとすると、里奈が背後から彼の服を力いっぱい引いた。
「だめだよ健太くん! 絶対、だめ!行っちゃだめ! あれは、陽介くんの声をした『別の何か』よ!」
「でも、陽介の声じゃないか! もしかしたら崖の下の岩場で引っかかって、助けを求めてるのかもしれないだろ! 見捨てるわけにいかない!」
健太が里奈の手を力ずくで振りほどいたその時、霧の中から陽介の声が、再び、よりはっきりと聞こえてきた。
「……里奈、お前も早く来いよ。ここは少しも寒くないし、とても綺麗だぞ。すごく、静かで平和なんだ。本当だよ…」
その声を聞いた瞬間、里奈の様子が、まるで何かのスイッチが切れたように急変した。今まで極限の恐怖に歪んでいた表情がふっと消え、ガラス細工のような虚ろな目つきになった。
「……陽介くん? ああ、陽介くんが私を呼んでる。待ってて、今すぐ行くから!」
里奈はふらふらとした足取りで、まるで見えない糸に操られる人形のように、柵の方へとゆっくり歩き出した。
「おい里奈! 何やってるんだ! 目を覚ませ、そっちは危ない!」
健太が慌てて里奈の腰を後ろから抱きかかえ、力いっぱい引き戻そうとした。その時、健太は、この世で最も恐ろしいものを、その目に焼き付けることとなった。
柵の向こう側の、渦巻く濃霧の中に、真っ黒な、人の形をした巨大な影のようなものがぼんやりと浮かび上がっていた。それは人間の輪郭をしている、目も、鼻も、口さえもない、ただの「空洞」だった。その黒い影が、長い腕を伸ばして里奈の細い手を掴み、湖の深淵の方へと、ゆっくりと引っ張っていた。
「うわあああ! なんだお前は! 里奈を放せ!」
健太は必死の形相で里奈を引き戻そうと抵抗した。しかし、その黒い影が放つ力は、人間が抗えるような類のものではなかった。まるで巨大な磁石に吸い寄せられるように、里奈の体は少しずつ宙に浮き上がっていった。
「……ごめんね、健太くん。私、もう行かなくちゃいけないの。あっちで、みんなが待ってるから…」
里奈が空ろな笑顔を浮かべてそう呟くと、彼女の体は健太の指先から、霧に濡れた絹のようにするりとすり抜け、黒い影とともに真っ白な霧の中へと溶けるように消えていった。悲鳴一つ上げず、物音一つさせず、彼女はただ、霧に飲み込まれていった。後には、さらに濃く、冷たくなった白い霧と、膝から崩れ落ちて呆然とする健太、そして全身を激しく震わせる美咲だけが残された。
第6章:美咲の告白
「里奈……嘘だろ……。里奈が消えてしまった……」
健太は地面を拳で叩き、涙を流した。ほんの数分の間に、二人の大切な仲間が消えてしまった。それも、この世界の常識を無視した、あまりにも不条理な方法で。
「健太、早く逃げよう。これ以上ここにいたら、私たちも、同じにされてしまう…」
美咲が力のない手で健太の腕を引いた。二人は這うようにして車に戻り、すべてのドアを内側からロックし、震える手でキーを回した。車内という、薄い鉄板一枚に守られた密室空間が、今の彼らにとって唯一の、あまりにも頼りない聖域だった。しかし、恐怖の手は止まらなかった。外の霧は、車のわずかな隙間から侵入してくるかのように、車内の空気を少しずつ白く、冷たく染め始めていた。
「……ねえ、健太、ごめんね…」
美咲が、死人のような青白い顔で、震える声で言った。
「本当はね、私、今日ここに来るのが死ぬほど怖かったの。……私、ここに来るのは、今日が初めてじゃないの…」
「え? どういうことだよ、美咲。君は、北海道は初めてだって言ってたじゃないか?」
「嘘をついていたの。小学生の頃、家族旅行でこの摩周湖に来たことがあるの。その日も、今日みたいに、不気味なくらい霧が濃かったの。私は一人で展望台の近くで遊んでいて、ふと気づいたら、霧の中に深く迷い込んでしまったの…」
美咲は、過去の忌まわしい記憶を掘り起こすように、遠い目をして続けた。
「その時、霧の向こうから、誰かが私の名前を優しく呼んだ気がした。ふらふらと導かれるように近づいていったら、一瞬だけ霧が晴れて、足元に湖が見えたの。……ううん、あれは湖じゃない。湖の底、水鏡の奥に、巨大な、青く光る『目』があったの…」
健太はあまりの恐怖に、唾を飲み込むことさえ忘れた。
「目? 湖に目があったのか?」
「そう。人間のものじゃない、何千年も生きているかのような、冷たくて巨大な目。その目と、私の目が、合っちゃったの。その瞬間、頭の中に聞いたこともないような低い声が響いてきたの。『やっと、見つけた』って。……それ以来、私、ずっと霧という存在が怖かったの。霧が出るたびに、あの目が私を探しているような気がして。……まさか、本当に今日、私を迎えに来るなんて思わなかった…」
美咲の話を聞き、健太はすべてを悟った。今日、この場所にこれほど異常な霧が出たのも、自分たちが他の観光地を無視してここに来たのも、偶然などではなかった。すべては、あの湖の底にある何かが、美咲をこの場所へ呼び戻すために仕組んだ、巨大な罠だったのだ。
「じゃあ、陽介と里奈は、美咲……君を連れて行くための、ただの巻き添えだったっていうのか?」
健太の声が恐怖で裏返った。美咲を責めるつもりはなかった。しかし、あまりにも大きすぎる二人の犠牲を前にして、言葉が刃のように鋭くなってしまった。美咲は悲しそうに、微笑を浮かべた。
「そうかもしれないわね。……でも、もう大丈夫。私が、私がすべてを受け入れれば、終わるから…」
美咲の瞳から、最後の光が急速に消え失せようとしていた。
第7章:霧が晴れる時
ズズズ……、ズズズ……。
車の窓ガラスを、外側から何かが無数に擦るような、不快な音がし始めた。白く濁ったガラスの向こう側で、無数の蒼白い手のひらが、まるで獲物を探すように窓を撫で回しているのが透けて見えた。
「……あ、来たわ。私を迎えに来た…」
美咲が静かに呟いた。彼女の焦点の定まらない視線は、もう隣にいる健太を捉えてはいなかった。フロントガラスの向こう側、渦を巻いて猛り狂う白い霧の壁を、恋焦がれるような目で見つめていた。
「美咲、しっかりしろ! 俺が君を絶対離さない! 早く、街まで逃げよう!」
健太は必死の思いで、魂が抜けかかったような美咲の肩を強く揺さぶった。しかし、美咲の耳にはもう、人間の声は届いていないようだった。彼女の意識は、すでにあの深い湖の底へと沈んでいた。
「……呼ばれてる。みんな、あの水の中で楽しそうに笑って、私を待ってるの…」
美咲の細い手が、ゆっくりとした動きでドアノブに伸びた。
「やめろ! 開けるな! 開けたら終わりだ!」
健太が力任せに美咲の手を押さえ込もうとしたが、一瞬、早かった。ガチャリという重い音が車内に響き、ロックが外された。美咲は、吸い込まれるようにドアを力いっぱい押し開き、氷のような冷たい霧の世界へと一歩、足を踏み出した。
「美咲、待て! 行くな!」
健太も慌てて車を飛び出し、霧の中に消えゆこうとする彼女の背中を追いかけた。しかし、霧は一瞬にしてさらに濃度を増し、数センチ先の自分の指先さえも見失わせるほどの完璧な遮断空間を作り出していた。
「美咲! どこだ! どこにいるんだ、返事をしろ!」
健太は霧の中で、狂ったように腕を振り回しながら叫び続けた。その時、霧の向こう側の、はるか遠く、いや、すぐ近くから、美咲の声が響いた。
「……さようなら、健太…」
声はすぐに湿った霧に吸い込まれ、永遠に消えた。
健太は、たった一人、展望台の駐車場に、狂気と恐怖の狭間に取り残された。仲間たちは全員、あの白い霧の中へ、湖の深淵へと消えてしまった。あまりの孤独に、健太は叫ぶ力さえ失い、その場に突っ伏した。
その時だった。それまで止まっていた風が、急に激しく吹き荒れ始め、視界を覆い尽くしていた重苦しい濃霧が、嘘のように一気に晴れ渡っていった。目の前には、言葉を失うほどに神々しく、美しい光景が広がっていこうとしていた。雲一つない完璧な青空の下、神秘的なほどに深い青色、まさに「摩周ブルー」を湛えた湖が、鏡のように静かにそこに横たわっていた。湖面は一点の乱れもなく空を映し出し、中央には伝説のカムイシュ島が、何事もなかったかのように静かに浮かんでいた。
それは、あまりにも美しく、あまりにも慈悲深く、そしてあまりにも残酷な静寂だった。さっきまでの地獄のような時間が、すべて白昼夢だったかのように。健太は震える足で展望台の柵に歩み寄り、静まり返った湖を見下ろした。そこには、陽介も、里奈も、美咲の姿も、どこにもなかった。ただ、永遠に続くかのような、深い沈黙だけがあった。
ふと、深い湖面の一部が、太陽の光を浴びてきらりと鋭く光ったような気がした。それは健太の目には、湖の底にある巨大な「目」が、新しい贄(にえ)を飲み込み、一度だけ、深く瞬きをしたように見えた。霧は晴れたのではない。三人の若者を飲み込み、その乾いた渇きを癒したことで、湖の主が再び深い眠りについたのだ。
美しい湖は、三人の未来を永遠に封じ込めてしまった。健太は、広がる湖の圧倒的な美しさに心を壊されながら、ただ一人、空っぽになった車の横で、いつまでも立ち尽くすしかなかった。摩周湖の青は、少しだけ、深く、濃くなっているように見えた…