SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#279  罪なオトコ The Guilty Charmer

第1章:おぎゃあと生まれて、すぐウインク

 

 

 

 


むかしむかし……いや、そんなに大昔の話じゃあない。昭和の真ん中あたり、とある下町の長屋で、ひとりの男の子が生まれた。名前は音次郎(おとじろう)。

 

 

 


この音次郎、生まれた瞬間からタダモノじゃなかった。普通、赤ん坊ってのは「おぎゃあ、おぎゃあ」と真っ赤な顔で泣くもんだろう? ところがどっこい、音次郎は違っていた。取り上げた産婆さんが、お尻をぺんぺんと叩くと、音次郎は「ふにゃあ!」と短く声を上げた後、産婆さんの顔をじっと見て、なんとパチリとウインクしてみせたのだ。

 

 

 

 


「あらやだ! この子ったら、もう色気づいてるわ!」

 

 

 

 


産婆さんは腰を抜かしそうになりながらも、その愛くるしい顔にメロメロになってしまった。これが、稀代の人たらし男、音次郎の伝説の始まりだった。
幼稚園に入る頃には、音次郎の才能は早くも開花していた。顔は特別整っているわけじゃない。どっちかといえば、タヌキみたいな愛嬌のある顔立ちだ。だけど、彼がニコッと笑うと、なぜだか周囲の空気がポカポカと温かくなる。幼稚園の先生たちは、みんな音次郎の虜(とりこ)だった。

 

 

 

 


「音ちゃん、今日のおやつは特別に二つあげるわね!」

 

 


「音ちゃん、先生の膝の上においで!」

 

 

 

 

 


他の男の子たちが泥んこになって遊んでいる間、音次郎は保母さんの部屋で、特別なお菓子をもらって優雅に過ごしていた。ある時、同い年のガキ大将、タケシが嫉妬して音次郎をいじめたことがあった。音次郎は泣きもせず、ただタケシの目を見て、悲しそうに微笑んだ。

 

 

 

 


「タケシくん、そんなことしたら、僕も痛いけど、君の手も痛いんじゃない?」

 

 

 

 


その一言でタケシは号泣。「ごめんよぉ、音次郎ぉ!」と謝り、翌日からは音次郎の一番の子分になってしまった。怒っている人も、悲しんでいる人も、音次郎の前では毒気を抜かれてしまう。本人は無自覚なまま、周りの人間を次々と自分のファンにしていく。まさに「天然のジゴロ」とはこのことだ。母親はそんな息子を見て、将来を心配した。

 

 

 

 

 


「この子、将来まともに働けるのかしら……。人に好かれるのはいいけど、それだけで生きていけるほど世の中甘くないわよ…」

 

 

 

 

 


だが、音次郎はどこ吹く風。縁側で猫と昼寝をしながら、のんきな寝息を立てているのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第2章:モテ期は一年中、年中無休!

 

 

 

 


中学、高校と進むにつれ、音次郎の「人たらし」ぶりはさらに加速した。思春期真っ只中。男子たちはニキビ面に悩み、女子とどう話していいか分からずモジモジしている時期。しかし、音次郎にそんな悩みとは無縁だった。彼の周りには、常に女子がいた。しかも、特定の誰かと付き合うわけでもない。全員に優しく、全員にいい顔をするのだ。

 

 

 

 


バレンタインデーともなれば、音次郎の家はチョコレートの山で埋め尽くされた。下駄箱に入りきらないのは序の口で、机の中、カバンの中、ついには自宅の郵便ポストまでチョコで溢れかえり、郵便屋さんが「音次郎くん、勘弁してくれよ…」と泣きを入れてくる始末。

 

 

 

 

 


ある日の放課後、伝説となる事件が起きた。校舎裏で、三人の女子が鉢合わせたのだ。学年一の美女・サユリ、テニス部のエース・マキ、そして図書委員の清楚系・ユキコ。三人とも、音次郎に呼び出されたと思っていた。

 

 

 

 


「ちょっと、あんた何よ。音次郎くんは私と帰る約束したのよ!」

 

 

 


「はあ? あんた何言ってるの。昨日の夜、電話で『君の笑顔が一番好きだ』って言われたのは私よ!」

 

 

 


「ふ、二人ともやめてください……音次郎さんは、私にこの本を貸してくれて、感想を聞きたいって……」

 

 

 

 


修羅場である。空気が凍りつき、いつ取っ組み合いの喧嘩が始まってもおかしくない状況。そこへ、遅れて音次郎がやってきた。食パンをかじりながら、まったく悪びれない様子で。

 

 

 

 


「おや、みんな揃ってるね。奇遇だなぁ!」

 

 

 

 


三人の女子が一斉に音次郎を睨みつける。

 

 

 

 

 

「音次郎! どういうこと!?」

 

 

 

 


普通ならここで土下座でもして謝るところだが、音次郎は違った。彼は食パンを飲み込むと、きらきらした目で三人を見渡し、こう言ったのだ。

 

 

 

 


「いやあ、困ったなぁ。みんなが素敵すぎちゃって、誰かひとりなんて選びきれないんだよ。ねえ、いっそのこと、みんなで一緒に喫茶店でも行かない? パフェ、おごるよ!」

 

 

 

 


 ……信じられないことに、このふざけた提案が通ってしまった。

 

 

 


三人は呆れながらも、「もう、音次郎くんったらしょうがないわね…」と毒気を抜かれ、結局四人で仲良く喫茶店へ行くことになったのだ。この事件を目撃していた男子生徒たちは、「あいつは魔法使いか何かか?」と本気で疑ったという。音次郎の前では、常識も嫉妬も通用しない。彼はただニコニコしているだけで、全てのトラブルを「まあいっか…」で済ませてしまう、不思議な力を持っていた。

 

 

 

 

 

 

 


第3章:就職?なにそれ、おいしいの?

 

 

 

 


高校を卒業した音次郎。当然のように大学には行かず、かといってまともに就職する気配もなかった。

 

 

 

 


「働くってのは、どうも性に合わなくてねぇ…」

 

 

 

 


なんて言いながら、毎日フラフラと出歩いている。しかし、不思議なことに彼が食いっぱぐれることはなかった。商店街を歩けば、八百屋のおばちゃんが「あら音ちゃん、いい男になったねぇ! これ持っていきな!」とリンゴをくれる。肉屋の大将が「おう音次郎、昨日の野球の話の続きだがな…」とコロッケを揚げてくれる。

 

 

 

 

 


音次郎は、ただ彼らの話に「へえ、すごいですねぇ!」「それは大変でしたねぇ…」と相槌を打っているだけなのだが、誰もが彼と話すと気分が良くなってしまう。

 

 

 

 


そんなある日、音次郎は小さな定食屋の前で足を止めた。「腹減ったなぁ…」と腹をさすっていると、中から頑固そうな親父が出てきた。この店の親父、辰さんは「客を選ぶ」ことで有名な偏屈者だった。

 

 

 

 


「おい若いの、金がないなら他を当たりな。うちは冷やかしはお断りだ!」

 

 

 

 


辰さんはカミナリ親父のような顔で睨みつけた。普通ならビビって逃げ出すところだが、音次郎はニッコリ笑ってこう言った。

 

 

 

 


「いやぁ、親父さん。店の中からすごくいい出汁の匂いがしたもんで、つい足が止まっちまったんですよ。こんなに食欲をそそる匂いは、久しぶりだなぁ!」

 

 

 

 


辰さんの眉がピクリと動いた。

 

 

 

 


「……フン、口の上手い奴だ。まあ入れ。一杯だけ食わせてやる!」

 

 

 

 


出されたサバの味噌煮定食を、音次郎はそれはそれは美味しそうに食べた。「うまい! こんなうまい味噌煮は初めてだ!」と目を輝かせながら。その見事な食べっぷりと、嘘のない笑顔を見た辰さんは、すっかり音次郎を気に入ってしまった。

 

 

 

 


「お前さん、見どころがある。明日からうちで働きな。飯は食わせてやる!」

 

 

 

 


こうして音次郎は、定食屋の看板店員となった。彼が店に立つと、偏屈親父の店は連日大繁盛。女性客が急増し、売上は倍増した。音次郎は相変わらず皿洗いをサボったり、客と話し込んだりしていたが、辰さんは「まったく、しょうがねぇ奴だ…」と笑って許した。働かなくても生きていける才能。それを「ヒモの才能」と呼ぶ者もいたが、音次郎の場合は、関わる人すべてを幸せにする、奇跡のような「共生能力」だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 


第4章:運命の女(ひと)、現る!

 

 

 

 


二十代後半になっても、音次郎の浮き名は絶えることがなかった。今日も今日とて、三人の女性と同時にデートの約束をしてしまい、どうごまかそうかと頭を悩ませていた時だ。定食屋の常連客が連れてきた、一人の女性と出会った。彼女の名前はおとみ。キリッとした眉毛が印象的な、しっかり者の女性だった。音次郎はいつもの調子で、おとみに愛想を振りまいた。

 

 

 

 

 


「やあ、はじめまして。おとみさんって言うんですね。素敵な名前だなぁ。まるで春の風が吹いてきたみたいだ!」

 

 

 

 


これまで百発百中だった必殺の口説き文句。しかし、おとみには全く通じなかった。彼女は冷ややかな目で音次郎を見つめ、鼻で笑った。

 

 

 

 


「あんた、何言ってんの? 口から出まかせばっかり言ってると、いつかバチが当たるわよ。それに、エプロンの紐、ほどけてるわよ。だらしないわね!」

 

 

 

 


音次郎は雷に打たれたような衝撃を受けた。今まで自分の笑顔にケチをつけた女はいなかった。しかも、初対面で説教だと!?

 

 

 

 


「……面白い」

 

 

 

 


音次郎の心に、初めて本気の火がついた。それからの音次郎のアタックは猛烈だった。他の女性との関係を清算し(たぶん)、おとみ一筋になった。しかし、おとみは如何せん手強かった。音次郎が花束を持ってきても「こんなものより大根一本の方が役に立つわ!」と突き返し、甘い言葉を囁いても「はいはい、ご苦労さんでした…」と受け流す。

 

 

 

 

 


だが、音次郎は諦めなかった。彼は初めて、自分の「人たらし」の才能を、一人の女性を喜ばせるためだけに使った。おとみが風邪を引けば、誰よりも早く駆けつけて看病した。彼女が仕事で悩んでいれば、一晩中愚痴を聞いた。彼の武器は笑顔と愛嬌だけだったが、それを全力でおとみに注いだのだ。そして一年後。ついに根負けしたおとみが言った。

 

 

 

 


「あんたって、本当にバカで、だらしなくて、口先ばっかりのダメ男ね。……でも、あんたといると、なぜか笑っちゃうのよね。仕方ないわね、私が面倒見てあげるわよ…」

 

 

 

 


それが、おとみなりのプロポーズの言葉だった。
二人の結婚式は、それはそれはもうカオスなものとなった。新郎側の席には、音次郎の元カノ(と自称する女性たち)がずらりと並び、ハンカチで涙を拭いている。商店街のおっちゃん、おばちゃんたちも大勢押し寄せ、宴会騒ぎ。おとみは呆れ顔で、隣でヘラヘラ笑っている新郎の足を踏んづけた。

 

 

 

 


「あんた、これどうすんのよ!」

 

 

 


「痛い痛い! まあいいじゃないか、みんながお祝いしてくれてるんだから。ねえ、おとみちゃん、今日の君は世界一綺麗だよ!」

 

 

 


「うるさい! 調子のいいことばっかり言って!」

 

 

 


怒りながらも、おとみの顔は幸せそうに赤らんでいた。稀代の人たらし男は、ついに最強の猛獣使いを手に入れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 


第5章:オヤジになっても罪作り

 

 

 

 


結婚して子供が生まれても、音次郎の本質が変わることはなかった。彼は相変わらず定食屋でほとんど適当に働き(ほとんど辰さんとおとみが切り盛りしていた)、暇を見つけてはパチンコに行ったり、近所の人とお茶を飲んだりしていた。

 

 

 

 


「お父さん! またPTAの会議でよそのお母さんたちと長話してたでしょ!」

 

 

 

 


小学生になった娘が、頬を膨らませて怒る。授業参観に行けば、音次郎の周りにはいつもママさんたちの人だかりができてしまうのだ。

 

 

 

 


「いやぁ、困ったなぁ。みんなが俺の話を聞きたがるもんでねぇ!」

 

 

 


「もう! お母さんに言いつけるからね!」

 

 

 

 


家に帰れば、おとみのカミナリが落ちる。「あんたって人は! 少しは父親らしくしなさいよ!」と怒鳴られても、音次郎は「ごめんごめん、これでおいしいケーキでも買っておいで!」と小遣いを渡してごまかすのだった。そんな「ダメ親父」の音次郎だったが、彼には不思議な力があった。それは「揉め事を丸く収める」才能だ。

 

 

 

 

 


ある時、近所でゴミ出しのルールを巡って、隣人同士の大喧嘩が勃発した。町内会長もお手上げの状態だったが、そこに音次郎がふらりと現れた。彼は双方の言い分をニコニコと聞き、「うんうん、分かるよぉ!」「それは大変だったねぇ…」と相槌を打った。そして最後に、こんな提案をした。

 

 

 

 

 


「まあまあ、お互い様じゃないですか。どうです、今度の日曜、みんなで町内の掃除をして、そのあとウチの店でパーッと宴会でもしませんか? 辰さんの特製鍋、サービスしますよ!」

 

 

 

 


論理的な解決策は何一つ示していない。なのに、彼の屈託のない笑顔と「まあ、いいじゃないか!」という空気に、喧嘩していた当人たちも毒気を抜かれてしまった。

 

 

 

 

 


「……音さんがそう言うなら、今回は折れてやるか…」

 

 

 

 


結局、その日曜日は町内総出の大宴会となり、喧嘩はいつの間にか仲直りに変わっていた。おとみは、酔っ払って寝ている音次郎の顔を見ながら、ため息をついた。

 

 

 

 


「本当に、罪な男ねぇ……。あんたがいなかったら、この町はもっとギスギスしてたかもしれないわね…」

 

 

 

 

 


彼女はそう呟いて、夫に毛布をかけてやった。音次郎は、地域の潤滑油であり、みんなの心の安定剤だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


第6章:嵐を呼ぶジジイ、ここにあり

 

 

 

 

 


そして月日は流れ、音次郎もすっかりお爺さんになった。頭は白髪になり、顔には深いシワが刻まれたが、あの愛嬌のある笑顔だけは変わらなかった。最愛の妻、おとみが病気で先に逝ってしまった時、さすがの音次郎もひどく落ち込んだ。葬式の間中、彼は抜け殻のようにぼんやりとしていた。誰もが「音さんはもうダメかもしれないね…」と心配した。

 

 

 

 

 


しかし、音次郎は復活した。しかも、以前よりパワーアップして。きっかけは、近所の公園でやっていたゲートボールだった。寂しさを紛らわすために参加してみたところ、ここでも彼の「人たらし」の才能が爆発したのだ。

 

 

 

 


「あらやだ、音さんってばお上手!」

 

 

 


「音さんのフォーム、素敵だわぁ!」

 

 

 

 

 


ゲートボール仲間のおばあちゃんたちが、こぞって音次郎に黄色い声援を送る。音次郎は満更でもない顔で、「いやぁ、それほどでも!」と手を振る。彼の周りには、常に数人のおばあちゃんが取り巻き、手作りのお漬物やら煮物やらを差し入れしてくれる。音次郎の「老人モテ期」の到来である。娘が心配して様子を見に来ると、音次郎は派手なアロハシャツを着て、おばあちゃんたちと談笑していた。

 

 

 

 

 


「ちょっとお父さん、何やってんのよ……。お母さんが草葉の陰で泣いてるわよ!」

 

 

 

 


娘が呆れると、音次郎はニカッと笑って言った。

 

 

 

 


「何言ってるんだ。お母ちゃんは、俺がこうやって元気に生きてる方が嬉しいに決まってるさ。それにな、人間、いくつになっても『ときめき』がなくちゃあ、枯れちまうんだよ!」

 

 

 

 


そう言ってウインクする父を見て、娘は何も言えなくなってしまった。そんな音次郎だったが、ふとした瞬間に、深い孤独を見せることがあった。縁側で一人、夕日を眺めている時。仏壇のおとみの写真に手を合わせている時。その背中は、急に小さくなったように見えた。

 

 

 

 


「おとみちゃん、そっちはどうだい。俺はもう少し、こっちでみんなを笑わせてから行くからな。待っててくれよな…」

 

 

 

 


誰にも聞こえない声でそう呟く音次郎の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。彼の笑顔の下には、亡き妻への変わらぬ深い愛情が隠されていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


第7章:さよなら、愛しき罪人(つみびと)

 

 

 

 


音次郎の最期は、彼らしいものだった。八十を過ぎたある日、彼はいつものようにゲートボールを楽しんだ後、「ちょっと疲れたな…」と言ってベンチに座り、そのまま静かに息を引き取ったのだ。顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。医者は「老衰ですね。苦しまずに、眠るような大往生です」と言った。

 

 

 

 


音次郎の通夜と葬儀には、信じられないほどの数の人が集まった。親戚や家族はもちろん、商店街の人々、定食屋の常連客、ゲートボール仲間のおばあちゃんたち。さらには、「昔、音次郎さんに優しくしてもらったんです!」という、誰も知らない中年女性や、「若い頃、音さんに恋してました…」という上品な老婦人まで。

 

 

 

 

 


小さな葬儀場は人で溢れかえり、入りきれない人が外の通りまで列を作った。焼香の列はいつまでも途切れなかった。普通、葬式といえばしめやかなものだが、音次郎の葬式は違った。あちこちから、泣き笑いの声が聞こえてくるのだ。

 

 

 

 

 


「音さんてば、若い頃は本当にどうしようもない人でねぇ。十股かけたって噂もあったのよ!」

 

 

 


「仕事はサボるし、金はないし、ダメな男だったけど……でも、あの人の笑顔を見ると、なぜか許せちゃうのよねぇ…」

 

 

 


「私の作った煮物、いつも『世界一うまい!』って食べてくれてね。まぁ、嘘だって分かってたけど、嬉しかったわぁ…」

 

 

 

 


誰もが、音次郎との「罪な」エピソードを語り合っていた。彼に振り回されたこと、迷惑をかけられたこと。でも、それ以上に、彼からもらった温かい言葉や、屈託のない笑顔の記憶を。娘は、遺影の中の父を見つめた。やっぱり、ニカッと笑っている写真を選んだ。

 

 

 

 


「本当、お父さんってば最後まで人騒がせなんだから。こんなにたくさんの人を泣かせて、本当に罪な男ね…」

 

 

 

 


娘の目から、涙が溢れ出した。音次郎は、財産も名誉も何も残さなかった。彼が残したのは、関わった全ての人々の心の中に咲いた、温かい笑顔の記憶だけだった。出棺の時、空は突き抜けるような青空だった。誰かが言った。

 

 

 

 

 


「音さん、きっと天国でも、女神様たちを口説いてるんだろうなぁ…」

 

 

 

 


その言葉に、その場にいた全員が泣きながら笑った。稀代の人たらし、音次郎。彼の一生は、最後まで愛と笑いに包まれた、最高にハッピーな喜劇だった…