第一章:鉄の粗大ゴミと六人の生贄
佐藤学は、今この瞬間、自分の指を一本ずつ折ってやりたいほどの猛烈な後悔に苛まれている。目の前に鎮座しているのは、パンフレットに踊っていた「豪華寝台特急」の文字とは程遠い、ただの巨大な粗大ゴミだった。車体全体を覆う赤サビは、まるで皮膚病を患った巨大な芋虫のようで、窓ガラスにはいつの時代のものか分からない指紋と油膜がびっしりと張り付いている。
「ねえ、これ本当に動くの? 詐欺じゃないかしら…」
背後から飛んできた、心底嫌そうな声。振り返ると、そこには不自然なほど真っ赤なドレスを翻す女、自称・売れない女優の佐藤美奈子が立っていた。俺と同じ苗字なのが不愉快でたまらない。彼女の香水は、安っぽい石鹸と焦げた砂糖を混ぜたような、鼻を突く悪臭を放っていた。
「動くからホームにいるんでしょうよ。文句なら主催者に言ったら?」
俺は偽の探偵バッジをポケットの奥で握りしめた。今回の仕事は、このオンボロ列車で行われる「体験型ミステリーツアー」のサクラだ。参加者と一緒に謎解きを楽しみ、最後にかっこよく「犯人はお前だ!」と叫ぶだけで、報酬がもらえるおいしい仕事。そんな甘い話に乗った自分が、今となっては最高にマヌケに思えた。
列車の中に足を踏み入れると、そこは湿ったカビと、誰かがこぼした古いビールの酸っぱい匂いが充満していた。床のカーペットは所々擦り切れ、歩くたびに「ギュ、ギュ」と、湿った断末魔のような不気味な音を立てる。食堂車に集められたのは、俺を含めた六人の精鋭たち。
ヒステリックに扇子を動かしまくり、真珠のネックレスをいじり回す主婦の田中さん。イヤホンを片耳にかけ、退屈そうにスマホの画面を叩き続ける金髪の大学生、鈴木。なぜか知らぬが終始、額の脂汗をハンカチで拭いながら、手元の手帳に何かを書き込んでいる、背中の丸まったサラリーマンの伊藤。
そして、端の方で一人、ブツブツと呪文のように何かを呟いている、顔色の悪い老紳士。
「さあ、皆様、死の旅へようこそ。心ゆくまで恐怖を味わって、そして死んでください!」
突如、天井のスピーカーから、ざらついた音が流れた。現れたのは、安っぽいビニール製のピエロマスクを被った男。その衣装は所々綻び、赤いペンキのようなシミがついていた。
「この列車が終着駅に着くまでに、惨劇が起きます。名探偵の皆様、どうか犯人を捕まえてくださいね。くっくっく……」
演出だ。分かってはいる。だが、その笑い声の後に続いた、古い機械が軋むような不快なノイズが、俺の耳の奥を不吉に刺した。
第二章:暗闇の咆哮と、偽らざる死の感触
「さて、さて、まずは腹ごしらえでもするか。このサンドイッチ、石みたいに硬そうだが…」
俺はテーブルに置かれた、乾燥して反り返ったパンの一切れに手を伸ばそうとした。その瞬間、車内の電気が一斉に消えた。完全な静寂。次の瞬間、空気を切り裂くような佐藤美奈子の、甲高い絶叫が響いた。暗闇の中で、誰かが走り回る激しい足音、皿が床に叩きつけられて粉砕する音、そして「ドサッ」という重い肉の塊が落ちる音が重なった。
「おい、誰かライトを点けろ! 何が起きてるんだ!」
俺が叫ぶと、数秒後にチカチカと不規則に瞬きながら照明が戻った。そこには、期待通りの、そして予想を遥かに超えた光景が広がっていた。さっきまで威勢よく喋っていたピエロの司会者が、床に這いつくばるように倒れていた。胸には安っぽいプラスチック製には見えない、重厚なナイフが深く突き刺さり、そこから真っ赤な液体がドクドクと溢れ出し、薄汚れたカーペットを黒ずんだ紫に変えていた。
「うわ、すごいリアリティっすね。最近の特撮技術ってマジですげえ!」
大学生の鈴木が感心したように近づき、スマホのカメラを死体へと向けた。フラッシュの光が、飛び散った血飛沫を白く浮かび上がらせる。
「どれどれ、俺が第一発見者の役をやってやるよ。こういうのは慣れてるんだ!」
俺は名探偵らしく、ゆっくりと死体に歩み寄った。芝居がかった動作で床に膝をつき、男の首筋に指を当てる。(ここで『死んでいます』と告げれば、イベント開始だな…)そう確信して指を置いた瞬間、俺の全身を氷のような寒気が突き抜けた。
ウ、ウソ……温かさがない。脈がない。ないない。それどころか、肌は爬虫類のように冷え切り、異様なほど乾燥していた。そして、鼻を突くのは舞台用の血糊の甘い香りじゃない。古い肉が腐敗し始めたような、あの独特の、本脳が警鐘を鳴らす最悪の悪臭。俺は思わず、弾かれたように飛び退いた。
「おい、これ……演技じゃないぞ。マジだ。本物の仏様だ!」
「は? 何言ってるんすか、探偵さん。冗談きついっすよ…」
鈴木の手からスマホが滑り落ち、カーペットの上に鈍い音を立てて転がった。
第三章:暴かれたプライバシーと、塩の迷宮
「冗談はやめてよ! 私はこんなの望んでないわ!」
田中さんが扇子を落とし、化粧の剥げた顔を真っ白にしている。
「本当だ。触ってみろ、こいつはもう生きてない。人間じゃないんだよ!」
俺の叫びに、車内は一瞬にして狂乱の渦に飲み込まれた。サラリーマンの伊藤は「ありえない、計算と違う…」と呪文のように呟きながら、過呼吸で泡を吹きそうになっている。佐藤美奈子は窓を拳で叩き続け、「出して! ここから出して!イヤだ!」と泣き叫んでいるが、その声は列車の走行音にかき消された。だが、ミステリートレインは止まらない。窓の外を流れる景色は、月明かりすら届かない深い森の中。
「犯人は、この中にいる……ってことっすよね。そういう設定……いや、現実っすか?」
大学生の鈴木が、震える声で言った。そうだ、これは密室殺人だ。俺は震える手で、全員に持ち物検査を命じた。誰もが拒否したが、俺の必死の形相に押され、渋々カバンを開いた。
「これ、一体何のつもりだ?」
俺は田中さんのカバンから溢れ出した、数十種類の小さな小瓶を指差した。
「……それは、塩よ。伯方の塩、岩塩、トリュフ塩。不吉な場所だと思ったから、お清めのために持ってきたのよ!悪い?」
不自然すぎる。ミステリーツアーに、まるで専門店のように塩を詰め込んでくる主婦がいるのか?
「じゃあ、君のこれはどう説明するんだ?」
俺は鈴木のカバンの底から見つけた一冊の古びた本を突きつけた。タイトルは『絶対にバレない死体の処理法:家庭にある薬品で溶かす方法』。
「そ、それは、ただの趣味っすよ。法学部のゼミの課題っす。ホントっすよ!マジで関係ないっす!」
言い訳が苦しすぎるじゃないか。さらに、伊藤の手帳を開くと、そこには列車の運行ダイヤと、乗客全員の年齢、推定体重、そして「解体にかかる予想時間」と思われるメモがびっしりと書き込まれていた。
「皆さん、落ち着いてください。全員が怪しすぎて、誰を疑えばいいのか分かりません…」
俺は頭を抱えた。この列車には、社会不適合者しか乗っていないのかよ。その時、車両の連結部分から、巨大な金属が擦れ合う、耳を劈くような激しい音が響き渡った。
第四章:蒸発した遺体と、極寒のコンテナ
「ギャアアアア!」
今度は食堂車の奥、調理場から、心臓を鷲掴みにされるような叫び声がした。全員で駆けつけると、そこにあるはずの「ピエロの死体」が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っていた。床には引きずられたような血痕だけが残り、それはズルズルと厨房の巨大な業務用冷蔵庫の前で途絶えていた。
「死体が自分で動いて、冷蔵庫に入ったとでも言うの?」
佐藤美奈子が、俺の腕に爪が食い込むほどしがみついてくる。い、痛い。俺は彼女を振りほどき、手に持ったサビだらけの包丁を構えて、冷蔵庫の重い取っ手を掴んだ。
「開けるぞ。全員、死ぬ気で下がってろ!」
冷気が一気に溢れ出し、中から転がり落ちてきたのは、死体ではなかった。パンツ一丁で、全身を銀色のガムテープでぐるぐる巻きにされた、本物の司会者の男だった。
「むぐ、むぐぐー! ぷはぁ!」
ガムテープを外してやると、男は酸欠で顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「ギャア、殺される! あの偽物のピエロに殺される! 私は控室で襲われてしまったんだ!」
男の話によれば、乗車直前にピエロ姿の男に背後から殴られ、衣装と役目を奪われたのだという。
「じゃあ、さっきのピエロは誰なんだ? 誰が死んで、誰が消えたんだよ?」
俺たちが顔を見合わせたその時、頭上の通気口から、カラカラという乾燥した、不快極まりない笑い声が聞こえてきた。
第五章:チョコレートの悪夢と、偽りの暴露
「いやー、素晴らしいパニックぶりですね! 100点満点中、120点! いや、200点!」
通気口の格子が外れ、ひょっこりとピエロのマスクが覗いた。
「吉村さん、もういいですよ。そろそろバラしちゃいましょう!」
厨房の隅にあるオーブンの裏や、天井のパネルがスライドし、小型カメラを持ったスタッフたちがゾロゾロと現れた。
「え……? 嘘だろ?」
呆然とする俺たちの前で、ピエロはマスクを脱ぎ捨てた。そこにあったのは、今をときめく人気お笑い芸人、「チョコバット吉村」のニヤけ面だった。
「大成功ー! 実はこれ、新番組『極限探偵・佐藤学の無能ぶりを晒せ!』のドッキリ収録でした!」
壁がパカっと開き、眩しいスポットライトを浴びたスタッフたちが、拍手をしながら現れた。
「なんだよ……。あの冷たい死体は? あの腐敗臭は?」
「ああ、あれはハリウッドの特殊造形チームが作った、シリコン製の最高級ダミーですよ。匂いは化学反応で合成した『偽・死体臭』。驚いた?」
吉村が笑いながら俺の肩を激しく叩く。田中さんも、鈴木も、伊藤も、実は全員が番組が雇ったプロの役者だったというわけだ。
「佐藤さん、あんたのあの情けない顔、鼻水の垂れ具合。最高に映えてましたよ。ギャラ、三倍にしておきますからね!」
俺は膝から崩れ落ちた。緊張の糸がぷつりと切れ、胃の奥から込み上げる不快な酸を飲み込んだ。
「……紛らわしいことするんじゃないよ、死ぬかと思っただろうが…」
俺は吐き捨てたが、心の底では「これで助かった!」と、安堵に浸っていた。
第六章:祝杯の毒と、崩れ落ちる台本
「さあ、ネタバラシも済んだことだし、撮影終了を祝してシャンパンを開けましょう! 最高の結果でした!」
吉村が音頭を取り、スタッフたちが冷えたグラスを配り始めた。車内は一転して、勝利の凱旋パレードのような明るいムードに包まれた。
「乾杯!」
全員がグラスを掲げ、一気に飲み干した。俺も喉の乾きを癒そうと、泡立つ液体を口に運ぼうとした。
その時だった。
「……あ、あが、う……っ」
目の前でシャンパンを豪快に飲み干した吉村が、急に喉を掻きむしり、白目をむいて、その場に倒れ込んだ。
「吉村さん、イヤだなぁ、また演技ですか? もう騙されませんよ!」
カメラマンが笑いながらレンズを向けたが、次の瞬間、そのカメラマンも口から不気味な白い泡を吹き出し、機材ごと床に叩きつけられた。
「……冗談だろ?」
一人、また一人と、スタッフも役者も、まるで糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ちていく。皆、顔を紫色に変え、喉を切り裂くような悲鳴を上げながら、絨毯を爪で引き裂いている。
「嘘だろ……。これもドッキリなのか? まさか第二段階か?」
俺は隣にいた佐藤美奈子を見た。彼女もまた、グラスを握りしめたまま、美しい顔を醜く歪めて事切れていた。車内に立っているのは、酒を飲まなかった俺と、冷蔵庫に入れられていた本物の司会者だけだ。
「吉村さん! 起きろよ! 演出だろ、おい!しっかりしろよ!」
俺は吉村の体を激しく揺さぶったが、その瞳は完全に濁り、光を失っていた。今度はシリコンじゃない。本物の、取り返しのつかない死。その時、列車のスピーカーから、冷酷な声が流れた。
『ドッキリの中に、本物の死神を混ぜておきましたよ。お味はいかがでしたか、名探偵さん?』
第七章:虚無の終着駅と、最後の拍手
「誰だ、お前は! どこに隠れている!」
俺はマイクに向かって叫んだが、返ってきたのは、深淵から響くような嘲笑だけだった。
『私はあなたの、唯一無二のファンですよ。偽物の謎解きに一喜一憂し、安堵した瞬間に本当の地獄へ突き落とされる。その極上の絶望が見たかったんです。素晴らしい演技でしたよ!ハッ、ハッ、ハッ』
列車が不自然なほど加速を始めた。老朽化したエンジンが断末魔を上げ、車体が空中分解しそうなほど激しく振動している。俺は狂ったように運転席に駆け込んだが、そこには誰もいなかった。操作レバーは根元から折られ、ブレーキ系統はすべて焼き切られている。そして、計器パネルには、血のように赤い文字でカウントダウンが表示されていた。
「00:05」
「00:04」
「00:03」
「00.02」
俺は窓の外を、呪うような目で見つめた。霧が晴れたその先には、途切れたレールと、無限に続くかのような漆黒の崖が待ち構えていた。
「……なんだよ、最後くらい本物の探偵らしくさせてくれよ…」
俺は偽の探偵バッジを取り出し、窓の外に力一杯放り投げた。
「名探偵なんて、二度と御免だよ…」
列車の先端が宙を舞い、重力から解放される、奇妙に穏やかな浮遊感が全身を包んだ。俺の視界の最後を飾ったのは、血の海と化した食堂車の中で、主を失ってもなお、虚しく回り続けていた一台のビデオカメラだった。
「はい、カットー! 最高のエンディングだ!」
奈落の底に落ちていく俺の耳に、最後に届いたのは、本物かどうかも分からない、誰かの乾いた拍手の音だった…