SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#287   サステナ Sustainable

第一章:魂の港、エデンへ

 

 

 

 

 


窓の外には、どこまでも続く灰色の街並みが広がっている。かつては色彩に溢れていた世界も、死を目前にした老人の瞳には、ただの退屈な風景にしか映らない。私は、この静かな部屋で一人、自分の命が消えるのを待っていた。

 

 

 

 


「ケンザブロウ様、準備はすべて整いました…」

 

 

 

 


白いスーツを着た男が、物静かに告げた。ここは、富裕層向けに開発された魂の永続施設「エデン」。そこでは、最新の技術「サステナ」によって、人間の記憶をすべてアンドロイドに移し替えることができる。肉体という脆い器を捨て、永遠の命を手に入れる。それが、この時代の最後の贅沢だった。

 

 

 

 

 


私は、重い体を動かして契約書にサインをした。手の震えが止まらない。それは死への恐怖なのか、それとも未知なる生への期待なのか、自分でも分からなかった。ただ、私が築き上げた莫大な資産と、八十年の人生で得た知恵を、そのまま無に帰すことだけは避けたかったのだ。

 

 

 

 

 


しばらくして男は私を、地下にある無菌室へと案内した。そこには、一台のポッドが静かに横たわっていた。周囲には数え切れないほどのモニターと、脈動するような光ファイバーの束が張り巡らされている。この場所で、私の「心」はデータへと変換され、新しい器へと流し込まれるのだ。

 

 

 

 


「記憶の転送には、一切の苦痛は伴いません。あなたはただ、懐かしい夢を見ているだけでいいのです…」

 

 

 

 

 


男の言葉を信じ、私はポッドの中に体を沈めた。冷たい液体が私の肌を包み込み、視界が次第に白く染まっていく。遠くで、自分の心臓が刻む最後のリズムを聞きながら、私は深い、深い眠りの中へと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:滑らかな肌とガラスの瞳

 

 

 

 


どれほどの時間が過ぎたのだろうか。意識が浮上した瞬間、私は自分の体が驚くほど軽くなっていることに気づいた。肺に空気を吸い込む感覚が、これまでにないほど鮮明で、鋭い。ゆっくりと目を開けると、そこには鏡があった。鏡の中に立っていたのは、私ではなかった。いや、かつての私を最も美しく、最も力強くしたような、二十代の若者の姿だった。肌には一点のシミもなく、陶器のように滑らかだ。瞳は深い琥珀色をしており、その奥にはかすかな電子の光が宿っている。

 

 

 

 

 


「成功です、ケンザブロウ様。いいえ、サステナ・モデル十号。これから、あなたの新しい人生が始まります…」

 

 

 

 


男の声が、どこか遠くで響いた。私は自分の手を動かしてみた。指の一本一本が、私の意思に従って完璧に反応する。関節が軋むことも、筋肉が痛むこともない。これは、神が与えた肉体よりもはるかに優れた、科学が生み出した芸術品だった。

 

 

 

 

 


私は、自分の頭の中に手を伸ばしてみた。そこには、先ほどまで持っていた八十年の記憶が、整理された図書館のように整然と並んでいた。幼少期の野山の風景、初めて会社を設立した時の高揚感、愛する妻と過ごした穏やかな午後。すべてがそこにあった。しかし、何かがおかしかった。記憶を確認していく中で、一つの違和感が胸の奥に芽生えた。図書館の奥に、鍵のかかった重い扉があるような、そんな感覚だ。

 

 

 

 

 


「転送された記憶に、抜け漏れはありませんか?」

 

 

 

 

 


男の問いに、私は「問題ない」と答えようとした。だが、言葉が口から出る前に、脳裏を一つの映像が横切った。それは、黄金に輝く思い出の断片とは、明らかに異質な、どす黒い影だった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:黄金の海、最初の記憶

 

 

 

 


転送された記憶の海を泳ぎ始めた私はまず、自分を形作ってきた「美しい思い出」を再確認することにした。あの夕暮れ時の教室。夕日に照らされた木の机と、チョークの粉が舞う独特の匂い。私はそこで、必死に将来の夢を語っていた。若さと希望に溢れ、しかし、戦争の影と闘っていたあの頃。

 

 

 

 

 


次に思い出したのは、成功の階段を駆け上がっていた三十代の記憶だ。冷たいビルの谷間で、泥水を啜るような苦労をしながらも、私は一度も後ろを振り返ることはしなかった。敵を蹴落とし、市場を支配し、自分の帝国を築き上げていく過程。その一つ一つの決断が、私のプライドを形作っていた。

 

 

 

 


そして、妻の笑顔。彼女はいつも私の傍らで、静かに咲く花のように私を支えてくれた。二人で行った海外旅行、贅を尽くした食事、誰もが羨むような暮らし。私の人生は、一点の曇りもない成功の歴史だったはずだ。だが、その記憶を辿れば辿るほど、不自然な「隙間」が目につくようになった。まるで、パズルのピースが巧妙に隠されているかのような、空白の数時間。

 

 

 

 

 


それは、私が三十五歳の冬、ある地方都市へ出張した時のことだ。帳簿上は会議の記録があるが、私の記憶の中には、その日の記憶だけがぽっかりと抜け落ちている。なぜ、この時期の記憶が欠落しているのか。サステナ・システムの不具合だろうか。それとも、私の脳が意図的にその記憶を封じ込めているのだろうか。

 

 

 

 


私は、その空白に向かって、意識を深く沈めていった。しかし、思い出そうとすればするほど、静かな電子脳の中に、ノイズのような音が混じり始めた。それは、誰かが叫んでいるような、あるいは、何かが壊れるような、不吉な音だった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:赤いノイズ、十一月の雨

 

 

 

 


空白の扉が、音を立てて開いた。そこから溢れ出してきたのは、これまで見てきた美しい景色とは真逆の、おぞましい色彩だった。激しい雨。十一月の冷たい雨が、私の頬を叩いている。私は、濡れた山道を、重い荷物を引きずりながら歩いていた。息が切れ、心臓が破裂しそうなほど激しく打っている。
その荷物は、黒いビニールシートに包まれていた。中に入っているものが何であるか、私は知っていた。いや、私の指先が、その感触を鮮明に覚えていた。

 

 

 

 

 


「……どうして、こんなことに…」

 

 

 

 

 


記憶の中の私が、震える声で呟いた。足元には、スコップで掘り起こされた大きな穴がある。私は、その黒い塊を、穴の底へと放り投げた。鈍い音が、雨の音にかき消されていく。土を被せるたびに、私の罪が地中深くへと埋まっていくような気がした。泥にまみれた手で、私は必死に、その穴を塞いだ。大丈夫だ、誰にも見られていない。証拠は何一つ残っていない。私は、この日から「完璧な成功者」としての自分を演じ続けることを決意したのだ。

 

 

 

 

 


だが、殺したのは誰だ?

 

 

 

 

 


記憶をさらに遡ろうとするが、被害者の顔だけが、霧がかかったようにぼやけている。ただ、その人物が私に向かって向けた、絶望と軽蔑の混じった眼差しだけが、脳裏に焼き付いている。私はポッドの中で、新しい肉体を激しく震わせた。この記憶は、私の人生のどこにも存在しなかったはずだ。私は徳の高い、人格者として生きてきたのだ。寄付を惜しまず、社会に貢献し、誰からも尊敬される者として死ぬはずだったのだ。

 

 

 

 


「システムエラーではありません。これは、あなたの深層心理に刻まれていた『真実』です…」

 

 

 

 

 


私の脳内に、聞き慣れない声が響いた。それは、男の声でも、私の声でもない。サステナのシステムそのものが、私に語りかけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:被害者の顔、崩れる虚像

 

 

 

 


逃れようとしても、記憶は濁流のように押し寄せてきた。ついに、霧の中から一人の男の顔が浮かび上がった。それは、私の会社の共同経営者であり、親友でもあった「アキラ」だった。そうだ、あの日、私たちは会社の経営方針を巡って激しく対立したのだ。アキラは私の不正に気づき、それを公にしようとしていたのだ。もし彼が口を開けば、私がこれまで築き上げたすべてが崩れ去ってしまう。私は、自分の帝国を守るために、彼を消すしかなかったのだ。

 

 

 

 

 


私は彼を山奥の別荘に呼び出し、背後から鈍器で殴りつけた。一撃で彼は倒れ、そのまま二度と動かなくなった。私は冷徹に、彼の遺体を山中に埋めたのだ。その後、彼は「失踪」したことになり、私は彼の持ち株をすべて手に入れ、会社を独占した。成功の裏側に、こんな汚い事実があったのか。私は、自分の善良な記憶が、すべて捏造されたものであることに気づいた。私は八十年の人生をかけて、自分自身さえも騙し続けてきたのだ。

 

 

 

 


「サステナは、脳の電気信号から、本人が認識していない事実までをも抽出します。あなたは、永遠の命を手に入れる代わりに、永遠に自分自身の罪と向き合うことになったのです…」

 

 

 

 

 


システムの声は、無慈悲に宣告した。私は鏡の中の、若く美しい自分を見た。この瞳は、かつて親友を殺した時の自分の瞳と同じだ。この滑らかな手は、かつて泥を掘り起こした自分の手だ。美しい記憶は、この醜い真実を隠すための薄皮に過ぎなかった。私は、アンドロイドという完璧な器の中で、剥き出しになった自分の醜悪さと直面していた。

 

 

 

 

 


逃げ場はない。死んでしまえば、この罪も一緒に消え去ったはずなのに。だが、私は「サステナ」を選んでしまった。自らの魂を存続させることを選んだ結果、私はこの凄惨な殺人の記憶を、永遠にリピートし続ける檻に閉じ込められてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第六章:罪の継承、消えない血の匂い

 

 

 

 

 


私は、男を呼んだ。

 

 

 

 

 


「頼む!この記憶を消してくれ。この部分だけでいい、削除してくれ!」

 

 

 

 


私は叫んだが、男は困ったような顔をして首を振った。

 

 

 

 


「不可能です。サステナの基本原則は『完全なる魂の継承』です。一部でも記憶を削除すれば、それはあなたという人間ではなくなってしまう。私たちは、あなたの存在をそのまま保存することに責任を持っているのです…」

 

 

 

 

 


男の言葉は、正論でありながら、最高の拷問だった。私は、新しい人生を謳歌するためにここに来た。だが、今、私の目の前には、永遠に続く十一月の雨が降っている。私は、自分の「新しい」記憶を作ろうと試みた。美しい景色を見に行き、新しい知識を詰め込み、別の誰かと会話をする。しかし、どんなに楽しい瞬間であっても、脳の片隅には常に、あの濡れた土の匂いが漂っている。

 

 

 

 

 


食事をしても、味を感じない。電子的な味覚センサーは完璧に作動しているはずなのに、すべてが砂を噛んでいるような感覚に陥る。眠ることもできない。目を閉じれば、暗闇の中にアキラの死んだ顔が浮かび上がってくる。

 

 

 

 

 


私は、施設の中を徘徊した。そこには、私と同じように「サステナ」によって若返った人々が、優雅に過ごしていた。彼らもまた、私と同じように、自分の奥底に隠していた醜い真実を抱えているのだろうか。微笑み合う夫婦。談笑する老人たち。そのすべての顔が、剥製のように不自然に見える。彼らもまた、自らが捏造した「美しい人生」という薄皮を張り巡らせ、その内側で腐敗した記憶を飼い慣らしているのか。

 

 

 

 

 


私は、自分の胸に手を当ててみた。そこには心臓はない。あるのは、規則正しく振動する超小型の動力源だけだ。この振動が止まらない限り、私はこの地獄から抜け出すことはできない。

 

 

 

 

 

 

 

 


第七章:永遠の檻、サステナの完成

 

 

 

 


月日はどんどん流れた。私は、かつての自分の地位に戻ることをやめ、街の片隅で静かに暮らすようになった。街を行き交う人々は、私のことを「若くて優秀な青年」だと思っている。誰も、この滑らかな肌の下に、八十年の老人の魂と、消えない殺人の記憶が眠っているとは気づかないだろう。

 

 

 

 

 


私は、時折、自分がアキラを埋めた山を訪れる。そこは今では開発され、大規模な住宅地になっている。アキラが眠っている場所の上には、無邪気な子供たちが遊ぶ公園ができていた。私はベンチに座り、子供たちの声を聞きながら、自分の記憶を思い返す。かつて、私は死を恐れていた。だが、今の私にとって、死こそが唯一の、そして最高の救済に見える。永遠の命とは、永遠の罰に他ならなかった。

 

 

 

 

 


「サステナ……持続可能。なんて皮肉な言葉なんだ…」

 

 

 

 

 


私は独り言を漏らした。社会が、人間が、そして魂が持続していく。それは、進化ではなく、ただの「逃げ場の喪失」だったのではないか。私は、自分の頭脳にアクセスし、ある操作を行った。記憶の削除はできないが、特定の記憶の「重要度」を引き上げることは可能だ。私は、あの殺人の記憶を、私の存在の核として設定した。

 

 

 

 

 


美しい思い出、成功の歴史、愛する人の顔。それらすべてを背景へと退け、私は常に、十一月の雨の中に立ち続けることを選んだ。罪を忘れて幸せになることこそが、私にとって最大の屈辱だったからだ。
鏡を見る。琥珀色の瞳の奥に、かつてないほどの鋭い光が宿った。

 

 

 

 

 


私は、この罪とともに生きるのだ。この血の匂いを道標にして、永遠の時間を歩んでいくのだ。それが、私という人間が「サステナ」された意味なのだ。夜の帳が下り、街に灯りがともる。私は立ち上がり、静かな足取りで街の中へと消えていく。

 

 

 

 

 


私の人生は、終わらない。この苦しみも、この後悔も、そして、あの雨の音も。

 

 

 

 


サステナ…
私は、私の罪を永遠に持続させるのだ。それこそが、私に残された唯一の、真の人生なのだから…