第一章:焼香の煙と、鳴り止まない腹の虫
最悪だった。何が最悪かと言えば、親友の葬儀の真っ最中に、私のお腹が情けない音を立てたことだ。静まり返った斎場の中で、読経の声の隙間を縫うようにして、グー、という低い音が響いた。隣に座っていた共通の友人の加奈が、一瞬だけ私を怪訝そうな目で見た。私は、悲しみに耐えかねて震えているふりをして、俯いたまま胃のあたりを強く押さえた。
美紀が死んだ。19歳、早すぎる死だった。死因は不注意な大型トラックによる交通事故。昨日まで「今度の休み、どこ行く?」なんてLINEを送ってきていた人間が、今日は小さな木箱の中に入って、白い花に囲まれている。遺影の中の彼女は、去年の夏に海で撮った最高の笑顔を浮かべていた。その笑顔を見れば見るほど、現実は非現実感を増していく。
けれど、私の体は残酷なほどに現実だった。朝から何も食べていなかった。美紀の急死を知らされてからの三日間、私は泣き続け、何も喉を通らなかった。悲しみが胃を圧迫し、食べ物の匂いを嗅ぐだけで吐き気がしたはずだった。それなのに、いざ最後のお別れの儀式が始まると、私の内臓は勝手に活動を再開した。
焼香の順番が回ってきた。抹香を指でつまみ、額にかざす。煙の匂いが鼻を突く。それは死の匂いであり、終わりを告げる匂いだった。祭壇に近づくにつれ、美紀の顔がはっきりと見える。白装束を纏った彼女は、まるで眠っているだけのように見えた。
「美紀、ごめんね。私、お腹空いちゃった…」
心の中でそう呟いた瞬間、自分という人間の浅ましさに、猛烈な吐き気が襲ってきた。親友が焼かれようとしている時に、私は自分の腹を満たすことばかり考えている。私は最低だ。なんて最低なんだ。私は、世界で一番自分勝手な女の子だ。
斎場を出ると、外は驚くほど青い空が広がっていた。初夏の風が通り抜け、喪服の黒い布地が熱を吸い込んで肌に張り付く。ストッキングの締め付けが不快で、慣れないパンプスのせいで踵がチクチクと痛む。参列者たちが神妙な顔で挨拶を交わす中、私は逃げるように駅へと向かった。
頭の中では、美紀との思い出が走馬灯のように駆け巡っていた。一緒に通っていた大学の校舎、深夜まで語り合ったファミレス、喧嘩して一週間口をきかなかったこと。そのどれもが、今は遠い異世界の出来事のように思える。そして、その思い出の合間を縫うようにして、ある特定の映像が浮かび上がってきた。それは、美紀と最後に行った、表参道のパンケーキ屋だった。
「ここのパンケーキ、死ぬほど美味しいんだから!」
そう言って笑っていた彼女の顔が、空腹という生理現象と結びついて、私の頭を支配し始めた。悲しいはずなのに、涙が出るはずなのに、私の頭は「糖分」を激しく要求していた。
第二章:黒い喪服と表参道の雑踏
駅のトイレで鏡を見た。泣き腫らした目は真っ赤で、メイクは所々剥げている。真っ黒なワンピースに、黒い真珠のネックレス。誰が見ても「これから葬儀に行く」あるいは「その帰り道である」ことが一目で分かる姿。私はバッグからハンカチを取り出し、顔を拭った。この格好で、あのお洒落な街へ行くつもり。若者たちが溢れ、流行の服を着た人々が自撮りに勤しむ、あの華やかな表参道へと行くつもり?
電車に揺られながら、私は必死に自分を納得させようとした。これはお別れの儀式なんだ。美紀が好きだったものを私が食べることで、彼女を供養するんだ。これは私の身勝手ではなくて、親友だった彼女への揺るぎない愛なのだ、と。でも、その言い訳が嘘であることは、私自身が一番よく知っていた。私はただ、自分の欲求に従っているだけ。美紀を失った喪失感を、物理的な「重さ」で埋めたいだけなんだ。
表参道駅を降りると、そこには美紀の死など微塵も関係ない世界が広がっていた。ガラス張りのビル、高級ブランドの看板、道端で笑い合うカップル。私の着ている黒い服だけが、この街の色彩を吸い取って浮いているように感じた。目的の店は、路地裏を少し入ったところにある。以前は美紀と二時間も並んだ店、平日の昼下がりということもあって、行列はそれほどでもなかった。
「一名様ですか?」
店員の若い女性が、私の格好を見て一瞬だけ戸惑ったような表情を見せた。しかし、彼女はすぐにプロの笑顔に戻り、テラス席に近い窓際の席へと案内してくれた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください!」
メニューを開く必要なんてなかった。頼むものはすでに決まっている。美紀が大好きだった、たっぷりのクリームと季節のフルーツが乗った、三段重ねのふわふわなパンケーキ。
「これと、アイスコーヒーを。あ、セットでお願いします!」
注文を終えると、私は深く椅子に沈み込んだ。窓の外を通る人々は、誰も私を見ない。私の親友が死んだことも、私が今、喪服でパンケーキを食べようとしていることも、この街にとっては無価値な情報。
ふと、私はスマホを取り出した。美紀とのトーク画面を開く。一番下には、私が三日前に送った「了解!」という文字が、既読がつかないまま残っている。この文字が既読に変わることは、もう永遠にないんだ。その事実が、冷たい氷の塊のように胃の中に落ちていった。それなのに、厨房から漂ってくる甘いバニラの香りに、私の胃はまた小さく鳴りやがった。私は自分の太ももを、痛いくらいに強くつねった。
第三章:甘い暴力と、消えない生の実感
「お待たせいたしました。季節のフルーツパンケーキです!」
テーブルの上に、それは現れた。想像していたよりもずっと大きく、なんか暴力的なまでの白さと鮮やかさを放っていた。厚みのある生地が三枚、プルプルと震えながら重なっている。その上には、雪のように真っ白な生クリームがこれでもかというほど、大量に盛られ、イチゴやブルーベリーが宝石のように散りばめられて輝いていた。
私はナイフを握った。手が少し震えていた。パンケーキの生地に刃を入れる。それは驚くほど柔らかく、抵抗なく沈んでいく。切り分けた一切れに、たっぷりとクリームを絡め、さらにメープルシロップを垂らす。シロップは金色の光を放ちながら、生地の隙間にしっかりと染み込んでいった。
口に運んだ。その瞬間、強烈な甘さが口いっぱいに広がった。熱々の生地が舌の上で溶け、冷たいクリームと混ざり合う。フルーツの酸味が後から追いかけてきて、完璧なハーモニーを作り出した。
「……美味しいすぎる…」
思わず独り言が漏れた。美味しい。信じられないくらいに、美味しい。親友を亡くした悲しみなんて、この一口の快楽の前では、一時的に消えてしまう。私の脳内には幸せを司る物質が溢れ出し、細胞の一つ一つが「私は生きている!」と叫び始めた。食べ進めるうちに、美紀との記憶が蘇ってきた。
「ねえ、これ本当にヤバくない? 私、これなら毎日食べられるけど!」
そう言って、口の周りにクリームをベタベタつけたまま笑っていた彼女。ダイエット中だからと半分こにする約束をしたのに、結局ほとんどを彼女が食べてしまったこと。
「美紀、あんた本当に勝手だよね!」
あの時、私は笑いながらそう言った。美紀は「だって、美味しいんだもん!」と悪びれずに答えた。
今、そのパンケーキを一人で食べている。彼女の取り分だったはずの半分も、私の胃の中に収まっていく。食べること。それは、他の生命を奪い、自分の血肉に換える行為。私が今、こうして甘美な味覚に酔いしれている間にも、美紀の体は焼却炉の中で灰になろうとしている。
このパンケーキの甘さは、私に対する罰のように思えた。生きている人間だけが味わえる特権。その残酷なまでの格差を、舌の上の感覚がこれでもかと強調してくる。私は、ほぼ機械的にフォークを動かし続けた。美味しいと感じるたびに、自分が薄情な人間に思えて仕方がない。でも、手が止まらない。なぜか、止まらない。私は空腹だった。喉が渇いていた。そして、生きたいと願っていた。
「私、自分勝手な女の子ですか?」
空中に向かって問いかけてみた。返事はない。ただ、ストローでアイスコーヒーを吸い込む音が、虚しく響いただけだった。
第四章:隣席の会話と、剥き出しの孤独
半分ほど食べたところで、急に手が止まった。急激に膨れ上がった糖分が、胃に重くのしかかる。それと同時に、今まで蓋をしていた感情が、逆流するように溢れ出してきた。隣のテーブルには、大学生くらいの二人組の女の子が座っていた。
「マジでその彼氏、ありえないんだけど!」
「わかるー、超自分勝手だよね!」
彼女たちの軽快な笑い声が、耳に刺さる。「自分勝手」という言葉が、まるで私のことを指しているかのように聞こえて、肩が強張った。彼女たちは、死を知らない。少なくとも、今この瞬間は、死という重苦しい概念から切り離された場所にいる。彼女たちの悩みは生臭く、そして輝いている。一方の私はどうだ。黒い服を着て、親友の思い出を咀嚼し、胃袋へ流し込んでいる。
私はパンケーキの上のイチゴを一つ、口に放り込んだ。なんだか冷たくて酸っぱい。美紀が生きていたら、今の私を見て何と言うだろう。「いいじゃん、食べなよ。お腹空いてるんでしょ?」と言うだろうか。それとも、「信じらんない、私の葬式の帰りにパンケーキって!」と怒るだろうか?いや、美紀はきっと、何も言わないはず。死んだ人間は、何も言わないのだ。許しも、怒りも、与えてはくれない。残された人間が、自分勝手に想像して、自分勝手に苦しむんだ。
「自分勝手」の本当の意味を考えてみた…
私は自分のために、この店に来た。自分の空腹を癒すために、この甘いパンケーキを注文した。美紀のためなんていうのは、体裁を繕うための嘘なんだ。
私は、美紀がいなくなった世界で、これからも生きていくのだ。彼女が経験することのできない明日や未来を、私は当然のように享受する。新しい服を買い、誰かと恋をして、美味しいものを食べる。その一つ一つの行為が、死者に対する裏切りであり、究極の自分勝手ではないのか…
気がつくと、パンケーキは最後の一切れになっていた。皿の上には、溶けたクリームとシロップの混ざった不純な液体が残っている。それは、先ほどまでの美しさを失い、ひどく無残な姿をしていた。私はアイスコーヒーを飲み干し、氷を噛み砕いた。ガリッという音が頭蓋骨に響いた。
生きているということは、こういうことなんだ。音を立て、熱を発し、排泄し、何かを壊し続ける。美紀はもう、音を立てることもない。彼女は静寂そのものになってしまった。私は、この静寂が怖かった。だから、パンケーキという騒がしい味覚で、耳を塞ごうとしたのかもしれない。自分を守るための、防衛本能。それを「自分勝手」と呼ぶのなら、私は今、喜んでその名前を受け入れよう。
第五章:完食の向こう側、歩き出す黒い影
最後の一切れを口に運んだ。もう味はよく分からなかった。ただ、胃の中に重い感覚だけが残った。はい、完食。皿の上には、何も残っていない。私はバッグから財布を取り出し、レシートを持って席を立った。
「ありがとうございました!」
店員の言葉に、小さく会釈をして会計を済ませる。一、八〇〇円。美紀との思い出に対する対価としては安すぎ、そして、今の私の罪悪感を消すには高すぎる金額だった。店を出ると、街は夕暮れに包まれ始めていた。空は青から深い紫へと溶け込み、ビルの明かりがポツポツと灯り始める。表参道の並木道を歩きながら、私は大きく息を吐いた。胃の中にあるパンケーキが、私の体に重い芯を作っている。その重さが、不思議と私を地面に繋ぎ止めていた。
もう、腹の虫は鳴らない。栄養は行き渡り、私の心臓は力強く血液を送り出している。ふと、自分の手の甲を見た。そこには、小さな傷跡がある。小学生の頃、美紀とふざけ合っていて転んだ時にできた傷だ。美紀も同じ場所に、同じ形の傷があった。彼女の傷は、もう消えてしまった。焼却炉の炎の中で、皮膚とともに消え去った。でも、私の手の甲には、まだそれは残っている。私は歩みを止めた。街路樹の葉が風に揺れ、ザワザワと音を立てる。
「美紀…」
名前を呼んでみた。声は風にかき消されたけど、胸の奥で何かが弾ける音がした。やっぱり私は自分勝手だ。親友を亡くしたその日にパンケーキを食べ、その美味しさに感動し、明日も生きようとしている。彼女を忘れていく未来を、どこかで受け入れ始めている。
でも、それでいいのだと思う。死者が遺した最も過酷な呪いは「悲しみ続けろ!」という命令ではない。残された者が、否応なしに生きてしまうという現実そのものだ。私はこの自分勝手さを抱えて、そして生きていく。美味しいものを食べた時の喜びも、ふとした瞬間に襲ってくる絶望も、そのすべてを自分の血肉にして。美紀が食べられなかった分まで、なんて傲慢なことは言わない。私はただ、私のために、この重い体を引きずって歩き続ける。
駅のホームに、電車が滑り込んできた。ドアが開く。私は大勢の乗客の中に混じり、車内へと足を踏み入れた。ガラス窓に映る自分の姿を見る。喪服を着た、少しだけ顔色の戻った、19歳の女の子。私はバッグの中からリップクリームを取り出し、乾燥した唇に塗った。微かなミントの香りが鼻を抜ける。
電車が動き出す。加速する振動が、足の裏から伝わってくる。
「私、自分勝手な女の子ですか?」
窓に映る自分に向かって、もう一度だけ問いかける。窓に映る私は、悲しそうな、それでいて少しだけ力強い目で私を見返していた。
答えはもう知っている…やっぱり私は自分勝手だ。そして、だからこそ、まだここに立っている。電車がトンネルに入り、視界が暗転する。私は目を閉じ、胃の中にあるパンケーキの重みを感じながら、深く、静かな呼吸を繰り返した。
明日の朝、目が覚めたら、私はまたお腹が空くだろう。そして私は、自分のために、何かを食べるんだ…