SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#289   シャ・ラ・ラ…悪魔の義理チョコ Devil’s Courtesy Chocolate

第一章:ピンク色の憂鬱と計算機

 

 

 

 


二月十日。街は、それはそれは暴力的なまでにピンク色に染まっていた。コンビニも、デパートも、駅の広告も、どこを見てもハートのマークと「感謝を伝えよう♥」という薄っぺらい言葉が踊っている。
オフィス街にあるこの古いビルの中も例外ではなかった。女子更衣室の空気は、重苦しい「義務感」で淀んでいたのだった。

 

 

 

 


「ねえ、サトミ。今年の義理チョコ、どうする?」

 

 

 

 


同僚のミキが、ロッカーの扉の鏡越しにため息をついた。

 

 

 


「去年と同じでいいんじゃない? 部長には千円くらいの箱、課長以下は五百円のバラまき用で…」

 

 

 

 


「えー、またあのメーカーのチョコ? さすがに飽きられない?」

 

 

 


「飽きたって文句を言う人はいないわよ。これはただの通行手形なんだから!」

 

 

 

 


サトミは冷たく言い放った。二十八歳、中堅社員。この会社の「義理チョコ文化」には、もう心の底からうんざりしていた。なぜ、日頃からセクハラまがいのジョークを飛ばす田中部長や、仕事を押し付けてくる高橋課長に、自腹を切って感謝の印を渡さなければならないのか。感謝どころか、積年の恨みの方が多い。

 

 

 

 


「あーあ。信じられない…本命チョコだけ考えていたいのに。なんでこんな罰ゲームみたいな風習があるわけ?」

 

 

 

 


ミキのぼやきは、日本の全OLの代弁だった。

 

 

 

 


「やめればいいじゃない!」と、口では言う。しかし、誰も実行には移せない。「あいつだけ渡さなかった…」という陰口、その後の人間関係のギスギス感。それを考えると、数千円で平和を買う方がマシだという結論に達するのだ。サトミはスマホの計算機を見た。今年の義理チョコ予算、総額一万二千円。新しい春物のブラウスが買える金額だ。

 

 

 

 

 


「……バカバカしい…」

 

 

 

 


小さな声で呟いた。その瞬間、彼女の中で何かがプツンと切れた。毎年、デパートの特設会場で人混みに揉まれながら、愛想笑いのための供物を選ぶ。そんな自分にも、それを当然のように受け取る男たちにも、強烈な嫌悪感が湧き上がった。

 

 

 

 


「私、今年は手作りにするわ…」

 

 

 

 


サトミの突然の宣言に、ミキは目を丸くした。

 

 

 

 


「えっ、手作り? 義理で? 逆に重くない? それに手間でしょ?」

 

 

 


「いいのよ。安く済むし、それに……」

 

 

 

 


サトミは口角だけで笑った。そして、目は全く笑っていなかった。

 

 

 

 


「……私の『本当の気持ち』を、たっぷり込められるから…」

 

 

 

 


その言葉の裏にある響きに、ミキは気づかなかった。ただ、面倒なことを引き受けてくれるサトミに感謝しただけだった。その日の帰り道。サトミはスーパーで製菓材料を次々とカゴに放り込んだ。小麦粉、砂糖、バター、板チョコ。普通の材料だ。しかし、何かが足りない気がした。

 

 

 

 


田中部長の脂ぎった笑顔、高橋課長の無神経な言葉、後輩男子たちのくそ生意気な態度。それらに対する長年の鬱憤を晴らすには、普通のチョコレートでは物足りない。もっと、こう、相手の心臓を止めるような、そんな「隠し味」が必要だった。ふと、路地裏の暗がりから、奇妙な音楽が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 


シャララ……シャララ……。

 

 

 

 


それは、壊れたオルゴールのような、楽しげでいて、どこか不安を煽るメロディだった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第二章:路地裏の老婆と黒い粉

 

 

 

 

 


シャララ……シャララ……。

 

 

 

 

 


その音に導かれるように、サトミは普段は通らない狭い路地へとさらに足を踏み入れた。湿ったコンクリートと、古びた油の匂いがする。突き当たりに、今まで見たこともない小さな店があった。看板はない。ただ、薄汚れたガラス戸の向こうに、老婆が一人、ちょこんと座っていた。店の棚には、埃をかぶった得体の知れない瓶や袋が無造作に並んでいる。

 

 

 

 

 


「お嬢さん、バレンタインかい?」

 

 

 

 


老婆の声に、サトミは少し警戒しながら頷いた。

 

 

 

 


「ええ、まあ。義理チョコなんですけど…」

 

 

 

 


「ヒヒッ。義理、ねえ。義理ってのは、重たいもんだよ。感謝のフリした呪いみたいなもんだ…」

 

 

 

 


老婆の言葉に、サトミはドキッとした。なぜなら、自分の心の奥底を見透かされたような気がしたからだ。

 

 

 

 

 


「……何か、特別な材料を探しているんです。普通のチョコじゃ、私の気持ちが伝わらない気がして…」

 

 

 

 

 


そう言うと、老婆はニヤリと笑い、カウンターの下から小さな黒い小瓶を取り出した。ラベルには何も書かれていない。中には、墨のように真っ黒な粉末が入っていた。

 

 

 

 


「これを持っていきな。カカオの原種さ。遠い南の島の、呪術師が育てたという特別な木の実から作ったもんだよ…」

 

 

 

 

 


「呪術師……?」

 

 

 

 


「そうさ。この粉はね、作り手の『念』を吸い込むんだよ。あんたが相手を思えば思うほど、その気持ちが強く味に出る。感謝なら感謝の、憎しみなら憎しみの味がね…」

 

 

 

 


サトミは小瓶を受け取った。ひんやりと冷たく、ずしりと重い。

 

 

 

 


「使い方は簡単さ。チョコを溶かす時に、ほんの少し混ぜるだけさ。ただし、気をつけるんだよ。あんたの心の底にあるドロドロしたもんまで、全部吸い上げちまうからね…」

 

 

 

 


老婆は代金を受け取ろうとはしなかった。「後で面白いもん見せてもらえそうだから、代金はいらないよ…」と言って、気味の悪い笑い声を上げた。店を出ると、背後で再びあの音が聞こえた。

 

 

 

 

 


シャララ……。

 

 

 

 


振り返ると、もう店も老婆の姿もなかった。ただ、冷たい風が吹き抜ける路地裏が広がっているだけだった。夢だったのかとも思ったが、手の中には確かに、あの黒い小瓶が握られていた。

 

 

 

 


足早に家に帰り、サトミは早速チョコレート作りを始めた。キッチンに甘い香りが広がっていく。しかし、今夜のサトミの心は、砂糖菓子とは程遠い場所にあった。ボウルの中で溶かしたチョコレートに、あの黒い粉を耳かき一杯分ほど振り入れてみた。その瞬間、チョコレートの色が、深淵のような漆黒に変わった。艶が消え、光を一切反射しない、不気味な黒い塊となった。サトミはヘラでそれをかき混ぜながら、田中部長の顔を思い浮かべた。

 

 

 

 

 

 


「……いつも『女は愛嬌』とか言って、お茶汲みばかりさせて!」

 

 

 

 


混ぜる手が強くなる。黒い塊が、さらに粘度を増したように思えた。

 

 

 

 


「去年のミスをいつまでもネチネチと……高橋、あんたのことだよ!」

 

 

 

 


憎しみを込めるたびに、ボウルの中のチョコレートが、まるで生き物のように蠢き、微かに熱を帯びていくのを感じた。サトミの脳内で、あのメロディが大きくなった。

 

 

 

 

 

シャララ……シャララ……。

 

 

 

 

 

それはもう、楽しげな音ではなかった。怨念が渦を巻くような、低い海鳴りのように聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 


第三章:呪いのキッチンと完璧な果実

 

 

 

 


深夜一時。サトミのマンションのキッチンは、異様な熱気に包まれていた。換気扇を回しても追いつかないほど、濃厚で重苦しいカカオの匂いが充満している。いや、それはカカオというより、焦げた感情の匂いだった。サトミは一心不乱にチョコレートを型に流し込んでいた。彼女の目は血走り、口元には歪んだ笑みが張り付いている。

 

 

 

 

 


「これも、あれも、全部あんたたちのせいよ!」

 

 

 

 


彼女の心の中に溜まっていた、会社生活でのストレス、理不尽な扱いへの怒り、そして「義理」という名の強制労働への憎悪。それらすべてが、あの黒い粉を触媒にして、得体の知れない形を持とうとしていた。ボウルの中のチョコレートは、サトミの負の感情を吸い尽くし、ありえないほどの艶を放ち始めた。それはもはや食べ物には見えなかった。磨き上げられた黒曜石、いや、凝縮された悪意そのものだった。

 

 

 

 


型に流し込まれたチョコレートは、冷蔵庫に入れるまでもなく、常温で急速に固まっていった。固まる際に、ピキピキという小さな音が鳴った。まるで、何かが孵化しようとしているような音。出来上がったのは、一口サイズのトリュフチョコレートだった。形は完璧な球体。表面は鏡のように滑らかで、部屋の照明を不気味に反射している。

 

 

 

 

 


「……きれい」

 

 

 

 


サトミはうっとりと呟いた。それは、彼女が今まで見てきたどんな高級チョコレートよりも美しく、そして禍々しかった。一つ手に取ってみる。指先に、微かな鼓動を感じた気がした。ドクン、ドクンと、小さな心臓が脈打っているような感覚。

 

 

 

 

 


「これで、私の気持ち、伝わるわよね…」

 

 

 

 

 


続いて、サトミは丁寧にラッピングを始めた。可愛らしいピンクの小箱に、その黒い呪いの塊を一つずつ詰めていく。箱にリボンをかけ、最後に「感謝を込めて♥」と書かれた小さなメッセージカードを添えた。

 

 

 

 


一連の作業が終わる頃には、空が白み始めていた。徹夜したにも関わらず、サトミの体は奇妙な活力に満ちていた。達成感と、これから起こることへの淡い期待感で、胸が高鳴っていた。キッチンを見渡すと、そこはまるで魔女の実験室のようだった。飛び散った黒いチョコレートが壁や床にこびりつき、それが何かの魔法陣のように見えなくもない。そして、サトミは満足そうに微笑んだ。耳の奥では、まだあの音が鳴り響いている。

 

 

 

 

 


シャララ……。

 

 

 

 

 

 

悪魔の歌声が、バレンタインの朝を告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:狂宴の始まり

 

 

 

 


そして、二月十四日。決戦の朝。オフィスは、いつも以上に浮足立った空気に包まれていた。女性社員たちは義務感と少しの期待を隠しながらチョコレートを配り歩き、男性社員たちは「いやあ、悪いね!」と謙遜しつつも、もらえる数に神経を尖らせている。サトミは、デスクの下に隠した大きな紙袋から、例のピンクの小箱を取り出した。全部で二十個。彼女の「義理」の範囲内にいる、全ての男たちの分だ。

 

 

 

 

 


「田中部長、いつもありがとうございます。これ、ほんの気持ちです!」

 

 

 

 


サトミは完璧な営業スマイルで、最も憎い男のデスクに歩み寄った。田中部長は、でっぷりとした腹を揺すりながら振り返った。

 

 

 

 


「おっ、サトミちゃんからもらえるとはねえ。今年は手作りだって? いやあ、愛を感じるねえ、ガハハハ!」

 

 

 

 


その無神経な笑い声に、サトミのはらわたが煮えくり返る。「愛」だって? ええ、そうね。殺意という名の愛がたっぷり詰まっているわ!田中部長は早速、箱のリボンを解いた。中から現れた、黒真珠のように輝くトリュフチョコレートを見て、彼は目を細めた。

 

 

 

 


「へえ、こりゃまたずいぶんと上等なもんだ。見た目もすごいが、香りも……ん?」

 

 

 

 


彼は鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ。

 

 

 

 


「なんだか、すごい匂いがするね。濃厚というか、こう、頭がクラクラするような……」

 

 

 

 


「はい、特別なカカオを使ってるんです。疲れが取れますよ!」

 

 

 

 


サトミがそう言うと、田中部長は疑いもせず、その黒い球体を口の中に放り込んだ。ゴクリ。喉が鳴る音が、静まり返ったオフィスに響いた気がした。サトミは息を呑んで、その様子を見守った。そしたら、田中部長の動きが止まった。笑顔のまま、石像のように固まっている。

 

 

 

 

 


「ぶ……部長?」

 

 

 

 


数秒の沈黙の後。彼の体がビクンと大きく跳ねた。そして、ゆっくりと顔を上げた。その目は、焦点が合っていなかった。瞳孔が開ききり、白目の部分が充血して赤く染まっている。

 

 

 

 


「……う、うまい!」

 

 

 

 


しわがれた声が漏れた。

 

 

 

 


「なんだこれは……こんな、こんな美味いものは食ったことがない……!」

 

 

 

 


田中部長は、空になった小箱を狂ったように舐め回し始めた。舌を突き出し、箱の隅々に残ったわずかなチョコレートの粉さえも貪ろうとする。その姿は、理性を失った獣そのものだった。周囲の社員たちが、田中部長の異変に気づいてざわめき始めた。
しかし、時すでに遅し。サトミが配ったチョコレートは、他の男性社員たちの口の中にも入っていたのだった。

 

 

 

 


「あ……ああ……!」

 

 

 

 


高橋課長が、デスクに突っ伏して悶え始めた。

 

 

 

 


「サ…サトミさん、これ、すごい……すごく、熱い……!」

 

 

 

 


若手社員が、自分の胸を掻きむしりながら叫んでいる。オフィス中に、男たちのうめき声と、荒い息遣いが響き渡った。彼らの顔は紅潮し、汗が噴き出し、目はサトミの方一点に向けられていた。それは感謝の眼差しではなかった。強烈な渇望と、絶対的な服従の色が浮かんでいた。

 

 

 

 

 


シャララ……シャララララ……!

 

 

 

 


サトミの頭の中で、あの音が大音量で鳴り響いた。それはもう、歌ではなかった。呪いが成就したことを告げる、悪魔の哄笑だった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:女王の誕生と永遠の義理

 

 

 

 

 


オフィスは、もう地獄絵図と化していた。男たちは仕事を放り出し、サトミの周りに群がっていた。彼らは皆、一様に虚ろな目をしながら、口々にサトミへの賛美を叫んでいる。

 

 

 

 


「サトミ様、素晴らしいチョコレートでございました……!」

 

 

 


「もっと、もっと僕たちに『義理』をください!」

 

 

 


「一生、あなたに尽くします……!」

 

 

 

 

 


その中でも、特に田中部長の様子は酷かった。彼は床に這いつくばり、サトミの靴を舐めようとしていた。彼の皮膚は、チョコレートを食べた直後から徐々に黒ずみ、テラテラとした光沢を帯び始めていた。まるで、彼自身が巨大なチョコレートの塊に変異しつつあるようだった。

 

 

 

 


「あぐっ、あがっ……サ…サトミちゃん、いや、サトミ様……私の全てを、あなたに捧げます……義理を、もっと義理を……!」

 

 

 

 

 


彼の言葉は、もはや人間の言語としての体をなしていなかった。ただの欲望の塊が、音を発しているだけだ。サトミは、その光景を冷ややかに見下ろしていた。恐怖はなかった。あるのは、奇妙な納得感と、底知れぬ支配欲だけだった。

 

 

 

 


「そう。それが、あなたたちの『本当の気持ち』なのね!」

 

 

 

 


彼女が込めた憎悪と軽蔑は、あの黒い粉によって増幅され、男たちの精神を破壊する猛毒となったのだ。彼らは今、サトミが長年感じてきた「義理」という名の重圧を、何百倍にもして返されている。彼らは、サトミに「義理」を尽くさなければ生きていけない体になってしまったのだ。

 

 

 

 

 


「ねえ、ミキ!」

 

 

 

 

 


サトミは、部屋の隅で震えているミキに声をかけた。ミキは、変わり果ててしまった男たちの姿と、女王のように君臨するサトミを見て、腰を抜かしていた。

 

 

 

 


「義理チョコなんてバカバカしいって、ミキは言ってたわよね?」

 

 

 

 


サトミは妖艶に微笑んだ。その笑顔は、かつて彼女が浮かべていた愛想笑いとは別物だった。

 

 

 

 


「でもね、考えようによっては、悪くない習慣かもしれないわよ。だって、たった数百円で、こうやって人を支配できるんだから!」

 

 

 

 


サトミは、自分のデスクに戻り、椅子に深く腰掛けた。周りには、彼女の命令を待つ、チョコレート色の奴隷たちが跪いている。田中部長だったものは、もはや人の形を保っておらず、ドロドロに溶けた黒いチョコレートとなって、サトミの足元で蠢いていた。甘ったるい、腐臭のような匂いが漂う。

 

 

 

 


窓の外を見ると、街はまだピンク色に浮かれていた。何も知らない人々が、愛だの感謝だのを語り合っている。サトミは、引き出しの奥から、あの黒い小瓶を取り出した。まだ半分ほど残っている。

 

 

 

 


「さて、来年は誰に『義理』を果たそうかしらね!」

 

 

 

 

 


彼女は小瓶を光にかざして、楽しげに笑った。その背後で、オフィスを支配する新しいBGMが鳴り響いていた。

 

 

 

 

 

 


シャララ……シャララ……悪魔の義理チョコ、万歳…万歳!