SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#293   ブラッド・ソード Blood Sword: The Fencer’s Blade of Revenge

第一章:銀の針と、紅い閃光

 

 

 

 


フェンシングのピスト(試合場)の上に立つとき、俺の視界からはすべての色彩が消失する。鮮やかな観客席も、審判の派手なネクタイも、天井の無機質な照明も、すべてがモノクロの背景へと退いていく。残るのは、対戦相手が纏う抜けるように白いユニフォームと、その右手に握られた鋭利な剣先、そして得点時に審判機が放つ冷徹なランプの光だけだ。

 

 

 

 


「アン・ガルド(構え)!」

 

 

 

 


審判の低い声が、水を打ったように静まり返った会場に響き渡る。俺は慣れ親しんだグリップを握り直し、マスクの奥で静かに、深く呼吸を整えた。全身を包む厚手のプロテクターの中は、すでに自分自身の熱気で蒸れ、不快な汗が首筋を伝っている。だが、心臓の鼓動は驚くほど静かだ。一定のリズムを刻み、嵐の前の静けさを維持している。

 

 

 

 


「アレ(始め)!」

 

 

 

 


合図と同時に、俺は爆発的な力で地を蹴った。俺のスタイルは、フェンシング界では異端、あるいは邪道とさえ称されている。華麗なフットワークも、相手を翻弄するような優雅なステップもそこにはない。ただ最短距離を、最速のスピードで、獲物の急所へと突き刺す。その容赦のない攻撃性と、一度も狙いを外さない精密機械のような正確さから、いつしか俺は「ブラッド・ソード」という不名誉で禍々しい二つ名で呼ばれるようになった。

 

 

 

 

 


剣先が弓のようにしなり、相手の胸元にある有効面を正確に、深く捉える。ピィィィッ、という電子音が耳を突き刺し、俺側の赤いランプが鮮烈に点灯した。対戦相手は、自分が今何をされたのか、どうやって懐に潜り込まれたのかさえ理解できていない様子で、ただ呆然と立ち尽くしている。俺の突きは、見る者にスポーツの感動を与えるのではない。剥き出しの殺気、あるいは野生動物の狩りを目の当たりにしたときのような、本能的な恐怖を与えるのだという。それは競技という枠組みを軽々と超えた、純粋な破壊の意思だった。

 

 

 

 

 


「一点。久我の勝ち!」

 

 

 

 


俺は荒い呼吸を整えながらマスクを脱ぎ、乱れた髪を乱暴にかき上げた。観客席からは、賞賛の声よりも、戸惑いを含んだ低いうめき声のようなどよめきが漏れる。俺にとっては、そんな反応はどうでもいいことだった。

 

 

 

 


フェンシングは、俺にとって肉体を競うスポーツではない。それは、自分の内側に堆積した、処理しきれないどす黒い感情を、細い銀色の剣先に凝縮して吐き出すための唯一の手段に過ぎないからだ。会場の片隅、VIP席の最前列に、一人の男が立っているのが見えた。

 

 

 

 

 


仕立ての良い高級なスーツを隙なく着こなし、腕を組んでこちらを冷たく、値踏みするように見下ろしている男。俺の父親であり、かつて日本フェンシング界の伝説とまで謳われた久我厳一郎。

 

 

 

 


父の視線と、俺の視線が真っ向からぶつかり合う。その瞬間、俺の右手の指先が微かに震えた。それは勝利の武者震いなどではない。十数年の歳月を経てもなお消えることのない、深い嫌悪感と、腹の底から燃え盛る激しい復讐の炎が、指先から溢れ出しそうになっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:置き去りにされた部屋と、錆びた剣

 

 

 

 


俺の記憶の最も古い断片にあるのは、埃っぽくて狭い、小さなアパートの一室。そこには、常に湿ったカビのような空気と、病弱だった母親の、細く、弱々しい咳の音だけが充満していた。壁紙はいたる所が剥がれ落ち、冬になれば隙間風が容赦なく、俺たちの体温を奪っていくような、そんな孤独な場所だった。

 

 

 

 


「蓮、お父さんはね、選ばれた人なの。だから、私たちみたいな普通の人と一緒にいてはいけないのよ。お父さんは、光の中にいなければならない人なの…」

 

 

 

 


母は、窓の外に見える繁華街の、華やかなネオンの灯りを見つめながら、自分自身を納得させるようにそう繰り返していた。父は、俺が七歳のときに家を出た。理由は残酷なほどに単純だった。フェンシングの頂点を目指し、常に光の当たる場所を歩き続ける自分にとって、重い病を抱えた妻と、剣の才能が未知数だった幼い息子は、上昇を妨げるだけの重荷でしかなかったのだ。

 

 

 

 

 

父は自分と同じ、あるいはそれ以上の才能を持つ「完璧な後継者」を求めて、別の場所で新しい家族を作り直し、理想の人生を再スタートさせた。俺たちは、使い古されて、価値がなくなった瞬間に捨てられた道具と同じだった。

 

 

 

 

 


母が、寂しさと苦しさの中で静かに息を引き取った夜、俺の枕元に残されていたのは、父が家を出る時に置いていった一本の古びた、錆の浮いた練習用の剣だった。俺はその冷たい剣を強く握りしめ、すでに体温を失って冷たくなった母親の手を握り続けた。

 

 

 

 


なぜか涙は一滴も出なかった。代わりに、ある冷酷な決意が、子供だった俺の胸を完全に支配した。

 

 

 

 


(父さんが愛し、守ろうとしている「世界」を、僕は壊してやる…)

 

 

 

 


それから、俺の孤独な戦いが始まった。まともな指導者も、整った練習場も、恵まれた環境も何一つない。それから俺は独学で、ただひたすらにフェンシングという競技を解体し、自分の中に組み込んでいった。

 

 

 

 


近所の公園の隅や、街灯の下の暗がりの壁に向かって、俺は毎日、何千回、何万回と突きを繰り返した。壁には無数の穴が開き、俺の右手の手の平はマメが何度も潰れ、石のように硬くなった。体中がどれだけ汚れと汗にまみれても、俺は一度も剣を離そうとはしなかった。

 

 

 

 

 


だから俺の剣には、高貴な騎士道精神も、相手への敬意も、スポーツマンシップも存在しない。あるのは、自分と母をゴミのように捨てた父への苛烈な復讐心と、自分をこの暗闇まで追い詰めた不平等な世界への憎悪だけ。

 

 

 

 


俺が勝つたびに、久我厳一郎という名前は泥にまみれ、汚されていく。伝説の男の息子が、凶暴で冷酷な「ブラッド・ソード」として、彼が最も愛し、神聖視しているフェンシングという競技を、鮮血のような赤色に染め上げていく。それが、俺の選んだ、人生をかけた復讐の形だった。

 

 

 

 

 

 

 


第三章:完璧な後継者と、光の裏側

 

 

 

 


そうして今、全日本選手権」の決勝トーナメントを迎えている。会場は、これまでにない異様な熱気に包まれている。メディアは「伝説の父を持つ二人の息子の対決」として、この試合を大々的に煽り立てていた。俺の次の対戦相手は、厳一郎が自らの手で心血を注いで育て上げた、彼の「理想の結晶」である長男、久我翔馬だった。

 

 

 

 


翔馬は、あらゆる意味で俺とは正反対の存在だった。光り輝くような真っ白で、一点の汚れもないユニフォームに身を包み、非の打ち所のない礼儀正しい振る舞いで、観客やメディアを魅了する。彼の動きはどこまでも優雅で、まるでピストという舞台の上で、祝福された神官が舞っているかのようだった。

 

 

 

 


「……久しぶりだね、兄さん。と言っても…」

 

 

 

 


試合前の検尺(用具検査)の際、翔馬が微かな笑みを浮かべて声をかけてきた。その瞳の奥には、隠しきれない冷淡な憐れみと、自分こそが正統であるという確信から来る、ほんの少しの軽蔑が混じっていた。

 

 

 

 


「俺には、弟はいない。お前は、これから俺が踏み潰すべき標的、ただそれだけの存在だ…」

 

 

 

 


「相変わらずだね。父さんが言っていたよ。君の剣には『心』がない、と。ただ相手を傷つけるためだけの、空っぽな破壊の棒だ、とね。そんな悲しい剣で、僕に勝てると思っているの?」

 

 

 

 


「心?心なんて、勝利という結果の前には邪魔な不純物でしかない。勝つか負けるかだ。お前がその優雅な踊りで観客を喜ばせている間に、俺がその薄っぺらな心臓を貫いてやるよ…」

 

 

 

 


俺たちの試合が始まると、会場の空気は張り詰めた糸のように緊張した。翔馬の剣は、まるで陽光そのもののように鮮やかで、変幻自在だった。彼は俺の電光石火の突きを、数ミリの差で鮮やかにかわし、流れるような無駄のない動作で反撃を繰り出してきた。

 

 

 

 


審判機が放つ緑色のランプ。翔馬が一点を取るたびに、会場からは割れんばかりの拍手と、彼を称える歓声が沸き起こった。観客は皆、正義のヒーローが、影から現れた悪役を美しく成敗する、そんなありふれた物語の結末を期待している。その期待という重圧に押されるように、俺は次第にスコアで、翔馬に追い詰められていった。

 

 

 

 

 


しかし、俺の心は氷のように冷静だった。マスクの奥で、俺は一点を見つめていた。VIP席に座り、自慢の最高傑作である息子が、目障りな過去の遺物である俺を、完膚なきまでに打ち倒す瞬間を、優越感に浸りながら待ち構えている父の顔を。

 

 

 

 


(まだだ。まだ終わらせない。絶望の淵まで、お前を引きずり落としてやる…)

 

 

 

 


俺は、自分のユニフォームを重く湿らせる汗の感触を、今、生きている証として噛み締めた。血管の中を、沸騰するような熱い血が駆け巡っていく。俺の血が、銀色の剣に宿り、意思を持ち始める感覚。俺の剣は、単なる鉄の棒ではない。俺の全人生、全憎悪、そして母の無念を乗せた、ブラッド・ソード…

 

 

 

 

 

 


第四章:剥き出しの牙と、静寂のピスト

 

 

 

 


試合は最終盤を迎えていた。スコアは十四対十四。
フェンシングにおいて、最後の一点を取った者がすべてを手に入れ、敗れた者はすべてを失う。翔馬の額からは、それまでの余裕を剥ぎ取ったような激しい汗が流れ落ち、その優雅だった動きにも、致命的な焦りが混じり始めていた。俺の「ブラッド・ソード」が、翔馬の完璧だと思われていた防御を、少しずつ確実に削り取っていた。

 

 

 

 


「アン・ガルド!」

 

 

 

 


審判の声が、自分の心臓の鼓動よりも、はるかに大きく頭に響く。俺は低く構えた。剣先は、もはや微塵も揺れていない。

 

 

 

 

 


「アレ!」

 

 

 

 


翔馬が、勝負をかけるべく仕掛けてきた。彼の美しく鋭い刺突が、俺の喉元へと一直線に迫った。その瞬間、俺の視界は針の穴を通すように狭まり、周囲の雑音さえもが完全に消失した。俺は身体を限界まで捻り、翔馬の剣を、火花が散るほどの距離で受け流した。金属が激しく擦れ合う、甲高い悲鳴のような音が耳元で鳴り響く。

 

 

 

 

 


そして、俺は一歩、踏み込んだ。それは、暗闇の中であの日から何万回、何十万回と繰り返してきた、魂の全てを乗せた突きだった。翔馬の胸にある、一点の曇りもない白い有効面に、俺の剣先が深々と、重く突き刺さった。剣が大きくしなり、俺の手首には「獲物」を確実に捉えた、生々しい確かな感触が伝わってきた。

 

 

 

 

 


ピィィィッ。

 

 

 

 


真紅のランプが、静寂の闇を切り裂くように点灯した。会場は、一瞬にして水を打ったような、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。誰もが、目の前で起きたあまりに速く、あまりに残酷な、一撃の結末を理解できずにいた。翔馬は、右手の剣を力なく落とし、自分の胸に灯った赤い光を信じられないものを見るように見つめたまま、膝からそのまま崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 


「……勝者、久我蓮!」

 

 

 

 

 


審判の声が、震えていた。俺はゆっくりとマスクを外した。冷たい会場の空気が、火傷したように熱を持った俺の顔に触れた。視線の先、俺が見つめていたのは、ほかの誰でもない。立ち上がったまま、信じられないという表情で硬直している父の姿だった。

 

 

 

 

 


彼の作り上げた「完璧で美しい物語」は、今、俺の復讐という名の汚れた剣によって、完膚なきまでに、跡形もなく打ち砕かれたのだ。彼の愛する理想の息子は、無様に床に伏し、彼が遠い日にゴミのように捨てた「息子」が、日本一という頂点に立った。

 

 

 

 


俺は父の瞳を、真っ向から見据えた。そこにあったのは、息子への賞賛でも、敗者への同情でもない。自分自身の分身であり、誇りであった翔馬を完全に否定されたことへの、底知れぬ恐怖と絶望だった。俺は、唇の端をわずかに吊り上げた。これが、俺が二十数年の歳月をかけて、暗闇の中で待ち望んでいた、最高の、そして最も残酷な復讐の瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 


第五章:真紅の果てに、見える景色

 

 

 

 


表彰式が終わり、狂騒の余韻が残る会場の裏側、薄暗い廊下で、俺は父と二人きりで対峙した。

 

 

 

 

 


「……満足か。こんな無様な真似をして、私の名に泥を塗って…」

 

 

 

 

 


父の声は、かつての絶対的な威厳を完全に失い、ただの、老いさらばえた負け犬の震えを含んでいた。

 

 

 

 


「ああ。最高に気分がいいよ。あんたがこれまで大切に育て、光り輝かせてきた完璧な物語を、俺がこの手で、徹底的に汚してやったんだからな…」

 

 

 

 


「お前の剣は、フェンシングではない。ただの復讐という名の暴力だ。そんな歪んだもので勝って、お前に何が残るというんだ…」

 

 

 

 


「何も残らない。それでいいんだよ。俺は、あんたに母さんも、希望も、すべてを奪われたあの日から、自分の人生に何も残さないために、ただあんたを壊すためだけにずっと生きてきたんだから…」

 

 

 

 


俺は父の横を、一度も目を合わすことなく通り過ぎようとした。

 

 

 

 


「蓮!」

 

 

 

 


背後から、父は名前を呼んだ。俺は足を止めなかった。その名前を呼ぶ権利は、あの暗いアパートで母を捨てた瞬間に、父からは永遠に失われている。
会場の外に出ると、冬の、刺すような冷たい夜風が吹き抜けていた。街の無数の明かりが、遠くで冷たく点滅している。俺は、ピストの上では決して見せなかった自分の右手を、街灯の下で広げてみた。マメで硬くなり、剣を握りすぎてしまったせいで不自然に歪んでしまった指。

 

 

 

 

 


復讐という名の長い旅は、今、終わった…

 

 

 

 



俺の胸の中に広がっていたのは、期待していたほどの熱い高揚感ではなかった。ただ、どこまでも重く冷たい底の見えない空虚。俺はポケットから、母の唯一の形見である、古びた小さな写真を取り出した。色あせた写真の中に映る母は、いつもと同じ、どこか寂しげで、それでいて優しい笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 


「……母さん、やっと終わったよ…」

 

 

 

 


俺は母の写真を、祈るように強く握りしめ、冬の澄んだ空を見上げた。厚い雲の間から、鋭く冷たく光る月が見える。その光は、俺がこれまでずっと振るい続けてきた、銀色の剣と同じ、無慈悲な色をしていた。

 

 

 

 


「俺は、これからどこへ向かえばいいのだろうか…」

 

 

 

 


復讐という、人生で唯一の目的を失ってしまった今、俺の剣は、明日からはただの、何の価値もない鉄の棒に戻ってしまうのだろうか。しかし、不思議と足取りは軽かった。俺は、自分をずっと縛り付けていた「久我」という呪われた苗字を、この戦いの場所にすべて捨てていくことに決めた。

 

 

 

 


そうすれば、明日からは、誰かへの憎しみのためでも、誰かを壊すためでもなく、ただ俺自身が呼吸をするための剣を振るうことができる気がして…

 

 

 

 

 

俺は、人通りの途絶えた、暗い夜道へと一歩を踏み出した…