SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#294   妖気… His Demonic Aura

第一章:妖気の胎動

 

 

 

 


古美術商を営む五十嵐雄介は、今日も薄暗い店内で一人、静かに骨董品の手入れをしていた。店の中に漂うのは、古い和紙が放つ独特の匂いと、長い年月を経て染み付いた香の残り香。窓から差し込むわずかな光が、宙に舞う細かな埃を照らし出している。
雄介はこの静寂を愛していた。長年、こうして言葉を発しない古物と向き合う生活は、彼の荒んだ心を落ち着かせるには十分すぎるほどだった。

 

 

 

 

 

しかし、彼の心の奥底には、自分でも気づかないふりをしている深い傷があった。それは、彼が二十代の若さで失った親友、秋山の面影だった。秋山は芸術家を志していたが、冷たい冬の朝、心臓発作で呆気なくこの世を去った。その喪失感が、五十を過ぎた雄介の心に、常に長い影を落とし続けていた。
そんなある日の午後、店の重い木の扉が、勢いよく開け放たれた。静かな店内に、バタンという騒々しい音が響き渡った。

 

 

 

 


「すみません、この壺、見ていただけますか?」

 

 

 

 


飛び込んできたのは、二十代前半とおぼしき一人の青年だった。若草色の薄いシャツを羽織り、肩で息をしている。その姿は、この埃っぽい古美術店にはあまりに不釣り合いな、眩しいほどの生気に満ちていた。青年が差し出したのは、包みからも出されていない、なんの変哲もない青磁の壺だった。雄介は無造作にその壺を受け取ろうとしたが、指先が陶器の肌に触れた瞬間、背筋に冷たい電流が走った。

 

 

 

 


(これは……ただの物じゃない…)

 

 

 

 


雄介にはわかった。長年、数多の偽物と本物を鑑定してきた彼の直感。この壺の表面には、まるで目に見えない霧のような、禍々しくも美しい“妖気”がゆらゆらと漂っている。そして、それ以上に雄介を驚かせたのは、目の前に立つ青年のその瞳。

 

 

 

 


「……青島といいます。変な壺でしょう?」

 

 

 

 


青年は屈託のない笑顔を見せた。その鼻筋、唇の形、そして少しだけ茶色がかった柔らかな髪の毛。それは、雄介がかつて愛し、そして守りきれなかった秋山に驚くほど似ていた。

 

 

 

 


「この壺は……どこで手に入れたんだい…」

 

 

 

 


雄介の声は、自分でも驚くほど震えていた。

 

 

 

 


「蔵の整理をしていたら見つけたんです。でも、なんだかこいつが、俺に『ここへ持っていけ』って語りかけてくるような気がして…」

 

 

 

 


雄介は壺を慎重に台の上に置いた。青磁の表面は、まるで深海の底を切り取ったような、不気味なほど透き通った青緑色をしている。

 

 

 

 


「この壺は、ただの壺じゃありませんね。なんというか…この青磁の輝きは、およそこの世の火で焼かれたものとは思えない……」

 

 

 

 

 


雄介が真剣な面持ちで言うと、青島は悪戯っぽく、少年のような笑みを浮かべた。

 

 

 

 


「さすが、お目が高いですね。じゃあ、俺もただの男じゃないってこと、わかっちゃいました? 俺、あなたに会うために、ずっとこの壺を連れて歩いていたんですよ……」

 

 

 

 


雄介はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が激しくざわめくのを感じた。「おかしなことを言うな…」と心の中でつぶやいたが、どうしても彼を追い出す気にはなれなかった。

 

 

 

 


「……面白いことを言う青年だ。気に入ったよ。しばらく、ここで預かってみよう…」

 

 

 

 

 


その言葉を皮切りに、青島は雄介の店に、まるで自分の家であるかのように入り浸るようになった。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:惑乱と古物の秘密

 

 

 

 


青島が店に来るようになってから、雄介の日常は音を立てて崩れ始めていった。青島がもたらす目に見えない空気。いや、彼自身の放つ“妖気”は、雄介の心に不思議な熱をもたらした。五十を過ぎ、枯れた木のように静かに朽ちていくだけだと思っていた情熱や、衝動的な感情が、再び彼の内側でざわめき始めていた。

 

 

 

 


初めは、ただの迷惑な若い客だと思っていた。勝手にカウンターの奥に入り込み、雄介の淹れた茶を飲み、仕事の邪魔をする。しかし、日が経つにつれ、彼の予測不能な言動、そしてふとした瞬間に見せる、年相応の無邪気な瞳に、雄介の心は少しずつ、確実に揺れ動き始めていた。ある雨の夜、店を閉めようとしていた雄介は、帰る気配のない青島から、意外な提案を受けた。

 

 

 

 

 


「雄介さん、今夜は外がひどい雨です。俺の酒の相手、してくれませんか? 今夜はなんだか、あなたと深く話したい気分なんです…」

 

 

 

 


青島はどこから持ってきたのか、古い陶器の徳利を取り出した。断りきれず、雄介は店の奥にある小さな居間で、二人向かい合ってグラスを傾けた。窓を叩く雨音だけが響く中、青島は雄介の過去を、そして彼の孤独な生活を、まるで全てを隣で見てきたかのように語り始めた。

 

 

 

 


「雄介さんは、ずっと誰かを探しているんだと思う。でも、その人はもうどこにもいない。そうでしょう?」

 

 

 

 


青島の声は、心地よい音楽のように雄介の耳に忍び込み、強張っていた心の結び目を一つずつ解いていく。

 

 

 

 


「雄介さんは、もっと笑った方がいいと思うな。そんなに悲しい顔をしてたら、俺まで胸が苦しくなっちゃうじゃないですか……」

 

 

 

 


そう言って、青島は雄介の頬にそっと触れた。その指先の熱さは、初夏の陽だまりのように温かく、同時にひどく官能的だった。雄介は反射的に息をのんだ。初老の男と、光り輝くような奔放な青年。二人の間に、目に見えない赤い糸が、幾重にも絡みついていくのを雄介は感じていた。それは、理性を粉々に砕く、抗いがたい引力だった。

 

 

 

 

 


しかし、その甘い空気の中で、雄介は一つの異変に気づいた。青島が持ち込んだあの青磁の壺が、店の最も奥に安置されている、古い「鏡台」に異常なほど引き寄せられている。その鏡台は、雄介の曾祖父が明治の頃に異国の商人から買い付けたという曰くつきの品だった。黒い漆が塗られた枠には不気味なほど精巧な彫刻が施されており、地元では「見る者の魂を喰らう」という伝説さえ囁かれていた。

 

 

 

 

 


ふと、雄介がその鏡台の覆いを取ろうと手を伸ばしたとき、青島の顔から笑みが消えた。彼は雄介の手首を、痛いほどの強さで掴んだ。

 

 

 

 

 


「その鏡台には、俺の昔の力が封じられているんです。もし触れたら、雄介さんがどうなっても知らないですよ?」

 

 

 

 


青島の瞳が、一瞬だけ鋭い縦長の瞳孔に変わったように見えた。

 

 

 

 


「それに、その鏡台自体、雄介さんの魂を狙っている。だから、絶対に触れてはいけない。あなたを失いたくはない……」

 

 

 

 


その言葉は、青島の正体に対する雄介の疑念を、逃れようのない確信へと変えつつあった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:告白と契約

 

 

 

 

 


雨は数日間降り続き、街全体が湿った霧に包まれていた。薄暗い店内で、二人きりの時間はさらに深まっていった。青島はもう、一人の客という境界線を越え、雄介の生活の一部となっていた。朝、雄介が店を開けると、すでに青島が裏口から入っており、鼻歌を歌いながら朝食を作っていることさえあった。ある夜、閉店後の店内で、青島は雄介を背後から包み込むように抱きしめた。

 

 

 

 

 


「雄介さん、俺、あなたのことが好きなんです。何百年も、あなたの魂がこの世に再び現れるのを、俺はずっと暗闇の中で待っていました。あなたに、どうしても再会したかった……」

 

 

 

 


その真っ直ぐすぎる告白に、雄介は激しく動揺した。

 

 

 

 


「……何を言っているんだ。私はもう、若くはない。ただの古びた人間だ。君のような輝かしい若者が、私のような男を待っていたなどと、信じられるわけがないだろう…」

 

 

 

 


世間体、年の差、そして何より、自分自身の肉体の衰え。様々な不安が雄介の心を締め付ける。しかし、青島は雄介の首筋に顔を埋め、熱い吐息を吹きかけた。

 

 

 

 


「雄介さん、怖いですか? 俺から逃げたいですか? あなたは俺にとって、ただの人間じゃないんです。俺が長い時をかけて探し求めてきた、唯一の運命の人なんです。例えあなたが俺を拒んだとしても、魂の深い場所では繋がっているんですよ…」

 

 

 

 


雄介は、青島の腕の中から逃げ出すことができなかった。

 

 

 

 


「……君が人ではないことは、もうわかっている。君が私に何を求めているのかも。一体私をどうするつもりだ?」

 

 

 

 


絞り出すような雄介の問いに、青島は慈しむような笑みを浮かべた。

 

 

 

 


「大丈夫です。俺が全部、雄介さんごと、永遠へと連れ去ってあげるから。そして、雄介さんの魂を、俺の永遠の命を維持するための器にする。そうすれば、病で死ぬことも、醜く老いることも、冷たく別れることも、もう二度とないんです。俺たちは、一つになれる…」

 

 

 

 

 


青島の言葉に、雄介は背筋が凍るような恐怖を覚えた。それは文字通り、人間としての死を意味していた。しかし同時に、彼の枯れ果てた孤独な心は、青島という唯一無二の光を拒絶できなかった。青島の瞳の奥に、かつて亡くなってしまった秋山の面影を、執拗なまでに重ねてしまっていた。

 

 

 

 


それからの生活は、奇妙な幸福に満ちていた。青島は店の掃除を手伝い、雄介の肩を揉み、まるで本物の恋人のように振る舞った。雄介は、自分の人生が破滅へと向かっていることを自覚しながらも、その温もりに溺れていった。彼の孤独だった心は、青島という人ならざる者の愛によって、歪んだ形で満たされていった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:嫉妬と絶望

 

 

 

 

 


幸せな時間は、同時に雄介の心に醜い毒を植え付けた。それは、自分でも制御できないほどの、激しい嫉妬心だった。ある日、店に若い女性客が訪れた。彼女は青島の整った容姿に目を輝かせ、親しげに話しかけた。青島もまた、いつもの屈託のない笑顔で彼女に応じ、冗談を言って笑わせている。その光景を見た瞬間、雄介の胸の奥で、鋭い針で刺されたような痛みが走った。

 

 

 

 

 


(私は、もうあんなふうに笑うことはできない。私にあるのは、老いと、過去の記憶だけだ…)

 

 

 

 

 


自分とは違う、若くて瑞々しい存在。青島が、いつか自分のような古い人間を見捨て、あのような眩しい存在に惹かれるのではないか。その不安が、夜な夜な雄介を蝕んでいった。ある晩、青島がいつもより数時間も遅く帰ってきた。店を閉めてから、雄介は暗い部屋で一人、膝を抱えて待っていた。

 

 

 

 

 


「どこに行ってたんだ。なぜ、連絡ひとつよこさない。私がどれほど心配したか……」

 

 

 

 


青島は悪びれる様子もなく、「ちょっと昔の知り合いと飲みに行っていただけですよ…」と答えた。その瞬間、雄介の中で張り詰めていた糸が、音を立てて切れた。

 

 

 

 

 


「私には、君を縛る権利なんてないことはわかっている! だが、これ以上、私を不安にさせないでくれ……! 頼む、私の目の届く場所にいてくれ。君がいなくなったら、私はもう……」

 

 

 

 

 


雄介の叫びは、悲鳴に近かった。青島は初めて、その山吹色の瞳に深い悲しみを湛えて、雄介を見つめた。

 

 

 

 


「雄介さん……ごめんなさい。でも、俺は……あなたのそばにいたい。それだけは、何があっても本当なんです…」

 

 

 

 

 


青島は雄介を強く抱きしめた。その温もりは、雄介の嫉妬心を一時的に溶かしていった。しかし、雄介の心には、ある暗い決意が芽生えていた。

 

 

 

 

 


「あの鏡台を壊せば、君はどうなる? なぜ、君はあんな不気味な品に執着するんだ…」

 

 

 

 

 


雄介の問いに、青島は鏡台を見つめながら、遠い目をして答えた。

 

 

 

 

 


「……俺の魂は、器を失ってしまったら、永遠に虚無を彷徨うでしょうね。あの鏡台は、俺が持つ強すぎる力を閉じ込めるための牢獄なんです。同時に、俺の忌まわしい過去を映し出す呪いでもある。雄介さんが、死んだ親友に縛られ続けているのと一緒ですよ…」

 

 

 

 

 


その言葉を聞き、雄介は悟った。青島を救うため、そしてこの狂ったような愛を繋ぎ止めるためには、青島の言う通り「永遠の命の器」になるしかないのだと。彼は、人間としての余生を捨て、青島という魔物と心中する覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:妖気の終焉

 

 

 

 

 


満月が、青白い光を古美術店の屋根に降らせる夜。雄介は意を決して、店の奥にある鏡台の前に立った。部屋には灯りをつけていない。ただ、窓から差し込む月の光だけが、漆黒の鏡台を不気味に浮かび上がらせている。雄介は、背後に立つ青島を呼んだ。

 

 

 

 


「君の言う通りにしよう。私は君の魂の器になろう。だが、その前に、君を縛り付けている忌まわしい過去を、私がすべて壊してやる…」

 

 

 

 

 


雄介が鏡台の覆いを取り払い、その古びた鏡面に触れようとしたその時だった。

 

 

 

 

 


「う、うあああ……! やめて……雄介さん、離れて……!」

 

 

 

 

 


突然、青島が激しい苦痛に顔を歪ませ、その場に崩れ落ちた。彼は両手で自分の頭を抱え込み、床を転げ回った。雄介は驚いて駆け寄ったが、腕の中の青島の身体は、驚くべき熱を帯び、まるで石のように硬くなっていた。

 

 

 

 

 


「一体どうしたんだ!」

 

 

 

 


「雄介さん……逃げて……今すぐ……俺はもう……自分を、抑えられない……!」

 

 

 

 

 


青島の声は、もはや人間のそれではなく、複数の生き物が同時に唸っているような、地を這う響きへと変わっていた。青島の指先からは、鋭く研がれた獣のような爪が突き出し、彼の瞳は、暗闇の中で爛々と、燃える琥珀のような山吹色に輝き始めた。

 

 

 

 

 


「……私は、お前を救う方法を見つけたんだ! この鏡台を壊せば、君は自由になれるんだろう!」

 

 

 

 


雄介は必死に鏡台へと手を伸ばした。しかし、その瞬間、青島は獣のような悲痛な雄叫びを上げた。

 

 

 

 


「馬鹿な……! 俺は……あんたを救うために来たんじゃない……! あんたを食らい尽くすために……ここにいるんだ……! 運命の……生贄……! ああ、なんて皮肉なんだ。愛した者を手に入れるために、その命を奪わなければならないなんて……!」

 

 

 

 

 


青島の意識は、その言葉を最後に、深い闇に支配された。異形へと変貌した青島は、凄まじい力で雄介を押し倒した。逃げる間も、抵抗する間もなかった。雄介の喉元に、獣の鋭い牙が深く、容赦なく突き立てられた。

 

 

 

 


「あ……ぁ…」

 

 

 

 

 


激痛と共に、雄介の視界が真っ赤に染まった。首筋から大量の血が溢れ出し、温かな液体の感触が全身を包み込んだ。意識が急速に遠のいていく中で、雄介は確かに見た。自分の首を食らっている化け物の、その大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ちているのを。

 

 

 

 

 


それは、雄介の魂を永遠の苦痛と闇に閉じ込める直前、愛する者を食らうことで青島が初めて流した、本物の、そして最後の涙だった。静まり返った古美術店には、もはや物音一つしない。床には、かつて人間だった五十嵐雄介の抜け殻と、その傍らで蹲り、血の匂いに咽び泣く異形の影だけが残されていた。

 

 

 

 


窓の外では、何も知らぬ満月が冷ややかに街を照らし続けている。そこに残されたのは、永遠の闇と、決して癒えることのない飢え。古美術店を包んでいた妖気は、雄介の命を吸い込み、静かに、そして残酷に幕を閉じた…