SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#300  シェークスピアに罪はない… Don’t Blame Shakespeare!

第一章:無謀なる再生の火蓋

 

 

 

 

 


駅前の古びた雑居ビル。その三階にある「劇団たまご」の稽古場は、重苦しい沈黙に包まれていた。演出家であり団長の五郎(ごろう)は、破れたソファに深く腰掛け、眉間に深い溝を作っている。目の前のテーブルには、督促状の山が積み重なっていた。家賃の滞納、衣装代の未払い、そして劇団員たちの空腹。すべてが限界に達していた。

 

 

 

 


「……もう、普通の演劇じゃ客は呼べん…」

 

 

 

 

 


五郎が重い口を開いた。彼の声は、長年の不摂生と怒鳴りすぎで、錆びた弦を弾くような乾いた響きを帯びている。劇団員たちは、床に座り込んだまま顔を上げた。看板俳優の東小路健(けん)は、顔だけは良いが台詞が覚えられないことで有名だ。ヒロインの黒柳真理(まり)は、過剰な演技が災いして、どんな悲劇もコメディーに変えてしまう特技を持っていた。

 

 

 

 

 


「団長、また解散の話ですか? 僕はまだ、舞台の上で死ぬ覚悟ができてますよ!」

 

 

 

 


健が芝居がかった仕草で叫んだ。五郎はそれを無視し、一冊の分厚い本を叩きつけた。それは、シェークスピアの『ハムレット』だった。

 

 

 

 


「これだ。世界で最も有名な悲劇。著作権料はもちろん無料、そして知名度は抜群。だが、そのままやるんじゃない。現代人に刺さる、超次元的なハイパー・コメディーとして再構築する。題して『ハムレット・オン・ザ・ムーン:電子の復讐者』だ!」

 

 

 

 


一瞬、稽古場の空気が凍りついた。舞台監督の佐藤(さとう)は、眼鏡の奥で目を細め、絶望的な未来を想像した。佐藤はこの劇団で唯一、唯一正気を保っている男だ。

 

 

 

 


「団長、月面で復讐って……。衣装はどうするんですか? 予算なんか一銭もないんですよ!」

 

 

 

 


五郎は不敵な笑みを浮かべた。

 

 

 

 


「アルミホイルがあるだろ。段ボールもあるんだ。知恵を絞るんだよ、佐藤! シェークスピアの台詞は、すべてラップ調に変更する。健、お前は王子でありながら、プロのスケートボーダーという設定にする!」

 

 

 

 


健は目を輝かせた。

 

 

 

 

 

「スケボー! 僕、練習したことないですけど、やってみます!」

 

 

 

 


真理も身を乗り出した。

 

 

 

 

「オフィーリアはサイバー忍者にしましょうよ! 水死する代わりに、デジタル空間の海に沈んじゃうの。なんか素敵じゃない?」

 

 

 

 


五郎の無謀な情熱が、沈みかけていた劇団員たちの心に火をつけた。彼らは、偉大なる劇作家の名を借りて、自分たちの無策を正当化し始めたのだ。五郎は心の中で、海の向こうの故人に語りかけた。

 

 

 

 

 

「悪いな、ウィリアム。でも、あんたの物語はあまりにも頑丈なんだ。多少こねくり回したところで、びくともしないはずだ…」

 

 

 

 

 

不条理な確信と共に、劇団たまごの「最後の冒険」が、今ここに幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第二章:稽古場の不協和音

 

 

 

 

 


翌日から、稽古場は戦場と化した。いや、戦場というよりは、子供たちが無軌道に暴れまわる遊び場に近い惨状だった。五郎が書き上げた脚本は、もはや原型を留めていなかった。ハムレットの名台詞「生か、死ぬか…」は、「跳ぶか、滑るか…それが問題だ、Yo!Yo!」という軽薄なセリフへと変換されていた。

 

 

 

 


健は、中古ショップで安く買い叩いた、車輪が一つ欠けたスケートボードに乗り、狭い稽古場を猛スピードで駆け抜けていた。

 

 

 

 


「……尼寺へ行け! じゃない、ラップで言うと、ディスってやるぜ、尼寺へGO!」

 

 

 

 


健が叫びながらターンを決めようとした瞬間、車輪の欠けた部分が床のささくれに引っかかってしまい、彼は見事な放物線を描いて壁に激突した。ドスン!という鈍い音と共に、稽古場の石膏ボードに新しい穴が開いた。

 

 

 

 


「いいぞ、健! その身体を張った演技こそが、現代の苦悩だ!」

 

 

 

 


五郎が拍手する横で、佐藤は頭を抱えていた。

 

 

 

 


「団長、今の激突はただの事故です。それより真理さんの衣装を見てくださいよ。あれは忍者の格好というより、ただの黒いゴミ袋を繋ぎ合わせた何かですよ…」

 

 

 

 


見ると、真理は全身を黒いポリエチレン袋で覆い、頭にネオン管を巻き付けていた。

 

 

 

 


「これよ! デジタル忍者の輝き! 触れるものすべてをハッキングする殺意を感じない?」

 

 

 

 


真理が華麗な旋回を見せるたびに、ゴミ袋がカサカサと不純な音を立てた。彼女の瞳には、役柄への深い没入という名の狂気が宿っていた。佐藤は、劇団の共有備品であるタブレットを使い、舞台装置の計算を試みた。しかし、五郎の要求はすべてを無視していた。

 

 

 

 


「佐藤よ、ハムレットの父親の亡霊は、巨大なホログラムで投影したいんだ。だが機材がない。機材がないから、古いプロジェクターを三台繋いで、霧吹きで水を撒いてそこに映せ。幻想的にだぞ!」

 

 

 

 


「団長、それをやると機材が漏電して、全員感電しますけど…」

 

 

 

 


「感電も演出なんだよ! 役者が小刻みに動く様子は、まさに亡霊の恐怖を表現するのに最適だろう!」

 

 

 

 


五郎の指示は日に日に過激さを増していった。彼はシェークスピアの古典的な深みを、すべて派手な色彩と雑音の中に埋もれさせようとしていた。佐藤は、台本の片隅に「シェークスピアに罪はない」と小さく書き込んだ。それは、この暴挙に関わってしまったすべての人間への、せめてもの免罪符だった。稽古場の熱気は、外部の静かな夜気とは対照的に、不健康なほどの高まりを見せていた。

 

 

 

 

 

 

 


第三章:ハリボテの要塞

 

 

 

 

 


本番まであと三日。稽古場は、巨大なゴミ屋敷と見紛うばかりの「美術品」で埋め尽くされていた。舞台の背景となるエルシノア城は、近所のスーパーから譲り受けたミカンの段ボールで作られていた。五郎はそれに、鮮やかなレモン色と、少し毒々しい赤色を塗りたくった。

 

 

 

 


「団長、城の色が派手すぎませんか? 悲劇というより、バラエティ番組のセットになってます!」

 

 

 

 


佐藤が進言したが、五郎はまったく聞く耳を持たなかった。

 

 

 

 


「いいか、佐藤よ。これは『ポップ・シェークスピア』なんだ。視覚的な暴力が、観客の脳を直撃しなければならないんだ!」

 

 

 

 


衣装担当も兼ねる真理は、さらに過激な工夫を凝らしていた。復讐に燃える王妃ガートルードのドレスを、銀色のアルミホイルと、壊れた電飾看板の破片で組み上げたのだ。

 

 

 

 


「これを着て照明を浴びれば、私は光の化身になれるわ。観客は眩しすぎて、もう直視できないはずよ!」

 

 

 

 


真理が自慢げにドレスを披露すると、そこら中にキラキラとした金属の破片が飛び散った。それは美しさよりも、むしろ掃除の大変さを予感させる光景だった。

 

 

 

 


そして最も頭を悩ませたのは、健が演じるハムレットの「亡霊との対話」のシーンだった。五郎の指示通り、古いプロジェクターを駆使して霧の中に映像を映し出す実験が行われた。

 

 

 

 


「よし、水を撒け! スイッチオン!」

 

 

 

 


五郎の合図で、佐藤が霧吹きを猛烈に動かし、健がスイッチを入れた。プロジェクターから放たれた光は、湿った空気の中で乱反射し、確かに何かの形を成した。しかし、映し出されたのはハムレットの父親の顔ではなく、佐藤のタブレットに保存されていた「料理動画の猫」の映像だった。

 

 

 

 


「……お父様! なぜ猫の姿に!?」

 

 

 

 


健が真顔で叫んだ。プロジェクターの入力切り替えが、湿気で誤作動を起こしたのだった。

 

 

 

 


「これだ! 輪廻転生だ! 父親が猫に生まれ変わって復讐を促す。新しい! 斬新だ!シェークスピアも腰を抜かしてしまうぞ!」

 

 

 

 


五郎が歓喜の声を上げ、演出ノートに激しく書き込んだ。佐藤は、もう何も言わなかった。合点がいったのだ。この物語に、理性を持ち込むことが最大の無駄であることを。

 

 

 

 


彼らは、廃材と勘違いを積み上げ、自分たちだけの要塞を築き上げた。それは今にも崩れそうな、不格好な「芸術」の塊だった。佐藤は、舞台の裏側に、鮮やかな黄身の色をしたペンキで大きく太陽を描いた。それは、破滅に向かって突進する彼らを、冷ややかに照らし出しているようだった。劇場という名の実験場で、古典の名作が、かつてない形の「汚れ」へと変貌しようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:暗転と失笑の幕開け

 

 

 

 

 


ついに、公演当日がやってきた。客席は、物珍しさに惹かれた数少ない観客と、ただの義理で呼ばれた親戚一同で半分ほど埋まっていた。幕が上がる直前、舞台裏では健がスケートボードの上で戦慄していた。

 

 

 

 


「団長、緊張で台詞が飛びそうです……」

 

 

 

 


「安心するんだ、健。忘れたら全部ラップで繋ぐんだ。『アイ・アム・ハムレット、俺の心はアンセット(不安定)』。これで乗り切るんだ!」

 

 

 

 

 


五郎が力強く背中を叩くと同時に、佐藤が照明のスイッチを入れた。幕が開いた瞬間、観客の目に飛び込んできたのは、レモン色の段ボールの城と、ゴミ袋を纏ったサイバー忍者の群れだった。客席から、失笑とも驚愕ともつかぬ、低いざわめきが漏れる。

 

 

 

 

 


「……生か、死ぬか! 滑るか、転ぶか! ヘイ、お父様、天国からのメッセージを受け取れ、Yo!Yo!」

 

 

 

 


健が猛スピードで舞台に登場した。アルミホイルを繋ぎ合わせた衣装が、照明を反射して激しく輝く。観客は思わず目を細め、何人かは眩しさのあまり手で顔を覆った。

 

 

 

 


そして中盤、伝説の「猫の亡霊」が登場するシーンで、事件は起きてしまった。佐藤が霧吹きで大量の水を撒きすぎてしまっため、舞台の床が必要以上に滑りやすいぬかるみのようになっていた。そこへ、健が全力のターンで突っ込んできた。

 

 

 

 

 


「お父様……オギャッア!」

 

 

 

 

 


健のスケートボードが水を切り、彼はそのまま観客席へとダイブした。最前列に座っていた五郎の親戚の膝の上に、ハムレットが着地した。

 

 

 

 

 


「……これも演出だ! 観客との見事な一体感!」

 

 

 

 

 


五郎が舞台袖から小声で叫んだ。健は必死に起き上がり、親戚の肩を叩いて「復讐……よろしくな」と囁き、舞台へ這い戻った。

 

 

 

 


真理演じるオフィーリアが、デジタル空間で水死するシーンでは、背後のプロジェクターが過熱し、シュウシュウと白い煙を吹き上げた。

 

 

 

 


「見て、私の魂が蒸発していくわ! データの藻屑となるのよ!」

 

 

 

 


真理のあまりの熱演に、本物の煙が混ざり合い、舞台は異様な臨場感に包まれた。観客はそれが演出なのか事故なのか判別できず、ただ圧倒されていた。舞台袖で佐藤は、消火器を抱えたまま、冷や汗を流していた。

 

 

 

 

 


物語は、シェークスピアの意図を遥か彼方に置き去りにし、カオスという名の絶頂へと向かっていた。健のラップはもはや意味を成さず、真理の忍術はただの暴れ踊りとなり、段ボールの城は湿気でゆっくりと崩れ始めていた。それなのに、舞台上の役者たちは、人生で最も輝かしい瞬間を謳歌しているかのように、晴れやかな顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:喝采は不条理の向こう側に

 

 

 

 

 


物語は、いよいよクライマックスへと差し掛かった。ハムレットとレアティーズの決闘。五郎の演出によれば、それは剣ではなく、色とりどりの光を放つ棒――ケミカルライトを振り回しての「光のダンスバトル」だった。

 

 

 

 

 


「俺の光で、お前を浄化してやるぜ!」

 

 

 

 

 


健が激しく踊り、折れたケミカルライトから中身の液体が飛び散った。それが真理のゴミ袋衣装に付着し、暗闇の中で彼女の身体が不気味に発光し始めた。

 

 

 

 

 


「……ああ、これが死の光なのね! デジタルの極楽浄土が見えるわ!」

 

 

 

 

 


真理が叫び、舞台中央で崩れ落ちた。その拍子に、背後の巨大な城壁(段ボール製)が、ドミノ倒しのように観客側へ倒れ込んできた。佐藤が慌てて飛び出し支えようとしたが間に合わず、舞台は砂煙ならぬ段ボールの埃で白く染まった。

 

 

 

 

 


完全な沈黙…

 

 

 

 

 


誰もが、これで「劇団たまご」の歴史は終わってしまったと確信した。舞台上には、倒れた城の下から足だけ出している健と、青く光りながら息絶えている真理、そして消火器を持ったまま呆然とする佐藤の姿があった。が…その沈黙を破ったのは、客席の後ろから聞こえてきた、一人の批評家の拍手だった。

 

 

 

 


「……ブラボー! 素晴らしい!」

 

 

 

 

 


一人が叩き始めると、それは波のように会場全体に広がっていった。観客たちは、自分たちが今目撃したものが「高度な前衛演劇」であり、古典を徹底的に破壊することで現代の虚無を描き出した「天才的な解体」であると、勝手に解釈し始めたのだ。

 

 

 

 

 


「見たか、佐藤よ。これがシェークスピアの底力なのだ。俺たちのデタラメを、すべて芸術に変えちまったんだ!」

 

 

 

 

 


五郎が舞台袖で感極まって叫んだ。カーテンコールでは、ボロボロのアルミホイルを纏った健と、光るゴミ袋の真理が、鳴り止まない拍手の中で何度も頭を下げた。翌日の新聞には、こう書かれていた。

 

 

 

 

 


『伝統への反逆、不条理の極致。劇団たまごが提示したのは、古典という重石から解放された、新しい生命の形である!』と…

 

 

 

 

 


公演は大成功を収め、劇団の借金は一気に完済された。事務所で祝杯を挙げる団員たちの前で、五郎はすでに次作の台本を開いていた。

 

 

 

 

 


「次は『マクベス』だ。マクベスをプロレスラーにして、三人の魔女をアイドルユニットにするんだ。タイトルは『マクベス・リング:地獄のセンター争奪戦』!」

 

 

 

 

 


佐藤は、窓から見える夕日のような鮮やかな黄色い空を眺め、深く溜息をついた。彼の前には、新しい脚本の山が積まれている。彼は再び、台本の余白にこう書き込んだ。

 

 

 

 


「シェークスピアに罪はない…」

 

 

 

 


そしてその横に、彼は少しだけこう付け加えた。

 

 

 

 


「だが、俺たちを許してくれるとも限らない…」

 

 

 

 

 


笑い声が響く稽古場で、劇作家シェークスピアの肖像画だけが、どこか呆れたような顔で彼らを見守っているように見えた…