SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#312  スウィーテスト・ガール Sweetest Girl

第一章:透明な衝動と赤い包み紙

 

 

 

 


商店街の隅にある、色褪せた看板の駄菓子屋。そこは、日向葵にとって唯一の「戦場」だった。放課後の気だるい夕暮れ時、葵は手垢のついた自動ドアをくぐり、狭い通路を音もなく進む。狭い店内に充満する、甘ったるい砂糖と埃の匂い。彼女の目的は、棚の最上段に置かれた、一粒百円の輸入キャンディだった。

 

 

 

 


葵の手が、吸い付くようにその赤い包み紙を捉える。周囲を確認する必要すらなかった。店主の老婆はテレビのクイズ番組に夢中で、防犯カメラは死角だらけの骨董品だ。葵は流れるような動作で、キャンディを制服のポケットに滑り込ませた。

 

 

 

 


「……ふぅ」

 

 

 

 


店を出て、冷たい空気を吸い込んだ瞬間、葵の心臓は小刻みに震え始める。彼女は家が貧しいわけではない。両親は共働きで、不自由のない生活を送らせてくれている。ただ、家の中には会話がなく、学校には居場所がない。透明な壁に囲まれたような退屈な日常の中で、この「万引き」という行為だけが、葵に自分がここにいるという確かな手応えを与えてくれた。ポケットの中で指先に触れる、硬いキャンディの感触…

 

 

 

 

 

「!?」

 

 

 

 


「またやったね、スウィーテスト・ガール…」

 

 

 

 


背後からかけられた声に、葵の肩が跳ね上がった。
振り返ると、そこには見慣れた制服を着た男が立っていた。二十代半ばの、どこか頼りない目つきをした巡査、瀬戸。彼はこの地域の交番に配属されてから、何度も葵の万引き現場に居合わせていた。

 

 

 

 


「……証拠は?」

 

 

 

 


葵は精一杯の強気で言い返した。瀬戸は苦笑いしながら、彼女のポケットを指差した。

 

 

 

 


「証拠なら、君の指が真っ赤に染まっているよ。そのキャンディの包み紙、色が落ちやすいんだ…」

 

 

 


葵が慌てて自分の手を見ると、確かに指先が薄っすらと赤く汚れていた。

 

 

 

 


「あ……」

 

 

 

 


「今日は見逃してあげよう。でも、その代わり、一つ約束してくれないかな…」

 

 

 

 


瀬戸は葵の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。

 

 

 

 


「次からは、盗む前に僕を呼んでほしいんだ。僕の前で、堂々と万引きしてごらん。それができたら、君を捕まえない…」

 

 

 

 


葵は絶句した。警察官が万引きを推奨するなど、聞いたことがない。瀬戸の瞳は真剣で、そしてどこか悲しげだった。

 

 

 

 


「君が本当に欲しいのはお菓子じゃないだろう。誰かに自分を見つけてほしいんだろう。違うかい?」

 

 

 


その言葉は、葵の心の奥底にある、誰にも触れられたくない場所に真っ直ぐ届いた。彼女は真っ赤になった指を隠すように拳を握り、逃げるようにその場を去った。

 

 

 

 

 

 


第二章:夕暮れの追いかけっこ

 

 

 

 


それからというもの、葵の万引きは「瀬戸との鬼ごっこ」に変わっていった。葵が店に入ると、なぜか数分後には必ず瀬戸が店の外に立っている。彼女がポケットに何かを隠して店を出ると、瀬戸は自転車を漕ぎながら、のんびりと後を追ってくる。

 

 

 

 


「今日はコーラ味のグミかな?」

 

 

 

 


「うるさいなぁ、あっち行ってよ!」

 

 

 

 


葵は足早に歩くが、瀬戸は適度な距離を保ったまま離れない。二人の間には、警察官と犯罪者という枠を超えた、奇妙なものが生まれ始めていた。ある日、葵はいつもより大胆な行動に出た。大型スーパーの二階にある、高級チョコレートの詰め合わせを狙った。それは、これまでの小さなキャンディとは比較にならないほど重く、高価なものだった。

 

 

 

 


「これを盗めば、さすがの瀬戸さんも怒るかな…」

 

 

 


葵はドキドキしながら、箱を通学鞄に詰め込んだ。警報機が鳴るのを覚悟で出口を抜けた。しかし、機械は沈黙したままだった。スーパーの外に出ると、案の定、瀬戸が街灯の下で待っていた。

 

 

 

 


「葵ちゃん、それは少しやりすぎだと思うな…」

 

 

 

 


瀬戸の声には、いつもの余裕がなかった。彼は葵に近づき、鞄を取り上げると、中からチョコレートの箱を取り出した。

 

 

 

 


「これは返してくるね。店員さんには僕がうまく言っておくから…」

 

 

 

 


「どうして……どうして捕まえないの? 私を警察に連れて行けばいいじゃない。そうすれば、お父さんもお母さんも、私の方を見てくれるのに!」

 

 

 

 


葵の叫びが夜の街に響いた。彼女にとって、万引きは両親の愛を試すための儀式だった。捕まれば、何かが変わる。自分を叱り、抱きしめてくれる。そんな微かな期待を、瀬戸の「優しさ」がことごとく打ち砕いていく。瀬戸は黙ってチョコレートを抱え、葵の頭に手を置いた。

 

 

 

 


「捕まることでしか得られないものなんて、偽物だと思うな。君は友達はいないの?」

 

 

 

 


「友達なんていないから、私……」

 

 

 

 


「ここにいるよ。僕が君の『お菓子』の代わりになる。だから、これ以上自分を傷つけるようなことはしないでほしいなぁ…」

 

 

 

 


瀬戸の手は温かかった。葵は、瀬戸の腕の中で子供のように泣きじゃくった。物を盗むことでしか埋められなかった心の穴が、瀬戸の言葉という名の「甘さ」で、少しずつ満たされていくのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 


第三章:没収された包み紙の秘密

 

 

 

 


それから数週間後、葵は万引きを止めていた。代わりに彼女が通うようになったのは、瀬戸がいる交番だった。瀬戸は勤務時間外になると、葵の話をよく聞いてくれた。学校での出来事、進路の悩み、そして両親への複雑な思い。葵にとって、瀬戸は唯一の理解者であり、いつしか世界の中心になっていた。

 

 

 

 

 


ある日、瀬戸が席を外した隙に、葵は彼のデスクの引き出しに目が留まった。少しだけ開いた隙間から、カラフルなものが見えたのだ。好奇心に勝てず中を覗くと、そこには葵がこれまで盗もうとして、瀬戸に没収された数々のお菓子の包み紙が、丁寧にスクラップされていた。

 

 

 

 


「これ……」

 

 

 

 


一つ一つの包み紙の横には、日付とその日の葵の様子が細かくメモされていた。

 

 

 

 


『六月十日、赤いキャンディ。少し寂しそうな顔をしていた』

 

 


『七月二日、レモン味のガム。テストの結果が悪かったらしい。次は笑わせてあげようか』

 

 

 

 


葵の胸に、熱いものがこみ上げた。瀬戸は彼女を監視していたのではなく、彼女が落とした「心の欠片」を、一つずつ拾い集めてくれていた。

 

 

 

 


「見られちゃったか…」

 

 

 

 


背後で瀬戸が困ったように笑った。

 

 

 

 


「それは僕の宝物なんだ。君が『スウィーテスト・ガール』だった頃の記録だよ。でも、もうこれが増えることはないね。今の君は、何も盗まなくても十分に輝いているからね!」

 

 

 

 


葵は振り返り、瀬戸の胸に飛び込んだ。

 

 

 

 


「瀬戸さん……私、警察官になりたい。瀬戸さんみたいに、迷っている人の手を引いてあげられるような人になりたい…」

 

 

 

 


瀬戸は少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく葵を抱きしめ返した。

 

 

 

 


「いい目標だね。でもね、警察学校は厳しいんだよ。僕みたな人ばかりじゃないんだよ!」

 

 

 

 


二人の間には、かつての「追いかけっこ」の緊張感はなかった。葵が盗んできたのはお菓子ではなく、自分を愛するための「きっかけ」だった。そしてそれを与えてくれたのは、法を守るはずの男が隠し持っていた、ルール違反の慈愛だった。窓の外では、夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。それは、葵が盗んだお菓子の包み紙たちよりも、ずっと美しく、温かな色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:甘い毒と現実の影

 

 

 

 


しかし、幸せな時間は、長くは続かなかった。瀬戸の「規律違反」が問題視されてしまった。万引きを見逃し、個人的な交流を続けていたことが、上層部の耳に入ってしまったのだった。瀬戸には他県への異動と、降格処分が下されることになった。

 

 

 

 


「ごめんね、葵ちゃん。僕はもう、ここにいられないんだ…」

 

 

 

 


雨の降る夜、瀬戸は交番の前で葵に告げた。彼の表情は、出会った頃よりもずっとやつれているように見えた。

 

 

 

 


「私のせい……私のせいで、瀬戸さんの人生がめちゃくちゃになっちゃった…」

 

 

 

 

 

瀬戸は首を振った。

 

 

 

 


「それは違うよ。僕は自分の意志で、そうしようと思ったんだ。法を守るのが僕の仕事だけど、一人の女の子の未来を守るのは、僕の『誇り』だった。後悔なんて一文字もしていないよ…」

 

 

 

 


瀬戸はポケットから、一粒のキャンディを取り出した。それは、最初に出会った時に葵が盗んだ、あの赤いキャンディだった。

 

 

 

 


「これは僕が自分のお金で買ったものだ。これからは、欲しいものがあったら、自分の力で手に入れるんだよ。君ならできるから!」

 

 

 

 


瀬戸はキャンディを葵の手に握らせると、一度も振り返らずに雨の中に消えていった。葵は一人、手の中の赤いキャンディを見つめ、雨に打たれながら立ち尽くしていた。瀬戸という光を失った葵にとって、世界は再び色を失い、透明な壁が迫ってくるように感じられた。

 

 

 

 


「……イヤ。こんなの、イヤ!」

 

 

 

 


葵は叫び、走り出していた。かつての衝動が、再び彼女の心を支配しようとしていた。お菓子を盗めば、また瀬戸が戻ってきてくれるのではないか。そんな馬鹿げた考えが、彼女を突き動かした。彼女が駄菓子屋の自動ドアの前に立ったその時、瀬戸の声が耳の奥で聞こえた気がした。

 

 

 

 


『君ならできる…』

 

 

 

 

 


葵の足が止まった。ここでまたお菓子を盗んでしまえば、瀬戸が守ってくれた自分の未来を、自分自身で踏みにじることになってしまう。葵は拳を強く握りしめた。爪が指に食い込むのを感じた。痛い。その痛みが、彼女を現実に繋ぎ止めた。彼女は店に背を向け、一歩ずつ、家に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 


第五章:再会の約束と新しい色

 

 

 

 


そして五年後。葵は、警察学校の卒業式を終えた。手元にあるのは、厳しい訓練を乗り越えた証である卒業証書。彼女の制服の胸ポケットには、五年間一度も封を切っていない、一粒の赤いキャンディが忍ばせてあった。彼女は配属が決まった交番へ向かう前に、ある場所へと立ち寄った。瀬戸がかつて勤務していた、あの古びた交番。今は別の若い警察官が勤務している。あの頃と変わっていなかった。

 

 

 

 

 


「あ……」

 

 

 

 


交番の向かいのベンチに、見覚えのある一人の男が座っていた。パーカーを着て、どこか疲れたような、でも穏やかな目をした男。

 

 

 

 


「瀬戸さん……?」

 

 

 

 


駆け寄った葵の声に、男がゆっくりと顔を上げた。

 

 

 

 


「……葵ちゃん? 葵ちゃんか…いや、今は日向巡査かな…」

 

 

 

 


瀬戸は立ち上がり、葵の立派になった姿を眩しそうに見つめた。彼は警察を辞め、今は地域の福祉施設で働いているという。

 

 

 

 


「約束通り、自分の力で掴み取ったんだね…」

 

 

 

 


瀬戸の言葉に、葵の視界が滲んだ。

 

 

 

 

 

「瀬戸さんがいたから、私は自分を諦めずに済みました。今度は私が、昔の私みたいな子を救う番です!」

 

 

 

 


二人は、並んで歩き出した。かつてのような「追いかけっこ」ではない。同じ速度で、同じ地平を見つめて歩いた。

 

 

 

 


「ねえ、瀬戸さん。このキャンディ、まだ食べてないんです…」

 

 

 

 


葵がポケットから赤いキャンディを取り出すと、瀬戸は懐かしそうに笑った。

 

 

 

 


「さすがに、それはもう賞味期限切れだよ。でも、味はきっと、世界で一番甘いはずだよ!」

 

 

 

 


葵は包み紙をゆっくりと剥がした。中から現れた赤い琥珀のようなキャンディを、半分に割って、片方を瀬戸に差し出した。

 

 

 

 


「半分こです。私たちの、新しいスタートのために!」

 

 

 

 


空には、あの日と同じ美しい夕焼けが広がっていた。でも、今の葵には、その色が以前よりもずっと鮮やかに、輝きを持って見えていた。世界は最初から彩りに満ちていた。ただ、それに気づくための「誰か」が必要だっただけ。

 

 

 

 

 

かつて、瀬戸から「スウィーテスト・ガール」と呼ばれた少女は、今、一人の女性として、そして誰かの光となる存在として、新しい一歩を踏み出した。彼女の指先はもう、盗んだお菓子の色で汚れてはいない。その手は、誰かを優しく包み込むために、強く、温かく握られていた。

 

 

 

 

 

 

 


第六章:未来へ繋ぐ甘い残り香

 

 

 

 


葵の巡査としての初仕事は、昔の自分とよく似た少年の補導だった。駅前のスーパーでチョコレートを万引きしたその少年は、ふてぶてしい態度で葵を睨みつけていた。

 

 

 

 


「どうせ説教するんだろ? 僕のことなんて、誰も見てないんだから勝手だろ!」

 

 

 

 


葵は少年の前にしゃがみ込み、かつて瀬戸が自分にしてくれたように、少年の瞳をじっと見つめた。

 

 

 

 


「説教はしません。でも、一つだけ教えあげる。あなたが今盗んだそのチョコより、もっと甘いものがこの世界にはあるのよ!チョコは私が返しておくから!」

 

 

 

 


代わりに葵はポケットから、キャンディを一つ取り出し、少年の手に握らせた。

 

 

 

 


「これは私が自分で買ったもの。あげるから食べてみて。そして、もし明日も寂しくなったら、交番に来なさい。私は逃げないし、あなたを見捨てないから!」

 

 

 

 


少年は戸惑ったような顔をして、すぐにゆっくりと俯いた。その小さな肩は、微かに震えていた。葵は少年の帰りを見届けながら、心の中で瀬戸に報告した。

 

 

 

 


「瀬戸さん、私、間違っていませんよね。法を守るために、まずその人の心を守る。それが、私があなたから受け取ったバトンですから…」