SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#314    ミスター・マーケットの憂鬱 The Melancholy of Mr. Market

第一章:神様の履歴書

 

 

 

 


その男の正体を知る者は、この世界に一人もいない。彼はウォール街の路地裏にある、湿り気を帯びたレンガ造りのビルの地下室に住んでいた。名前はミスター・マーケット。年齢は不明、国籍も不明。ただ、彼が毎朝目覚めて、手元の古いタイプライターを叩き、そこに「今日の価格」を印字した瞬間、世界の経済が動き出す。

 

 

 

 

 


彼は株式市場そのものの化身だった。ミスター・マーケットの仕事は、一見すると非常にシンプルだ。世界中のありとあらゆる会社の「価値」を決め、それを投資家たちに提示する。

 

 

 

 


「今日はトヨタの株を五千円で売ってあげよう。あ、でも気が変わった。明日は三千円にするよ!」

 

 

 

 


そんな気まぐれな提案を、彼は何百年も続けてきたのだ。しかし、現代の相場は、かつての穏やかな時代とは異なっていた。光ファイバーを駆け巡る電子の群れ、一秒間に数万回の取引を行うコンピューター、そしてSNSでデマを流して暴利を貪る謎の集団。彼らはミスター・マーケットの繊細な指先を、土足で踏みにじっていく。

 

 

 

 


「……もう、限界だ…」

 

 

 

 


ある月曜日の朝。ミスター・マーケットは鏡を見て絶望した。右目は真っ赤に充血し、血走っている。これは「強気相場」の徴候だ。しかし、左目の下には深いクマがあり、涙が止まらない。こちらは「弱気相場」の現れだ。顔の半分が笑い、半分が泣いているという、あまりにも不気味な形相。彼の心は、世界中の投資家たちの欲望と恐怖をダイレクトに受信しすぎて、完全にショートしていた。

 

 

 

 

 


「私がいなくなれば、世界中の株価は『ゼロ』になるか、あるいは『無限』になる。それは困る。だが、このままでは私自身が壊れてしまう…」

 

 

 

 

 


彼は震える手でスマートフォンを取り出し、検索画面にこう打ち込んだ。

 

 

 

 


『精神科 名医 守秘義務 神様でも診てくれるところ』

 

 

 

 


数分後、彼はボロボロのトレンチコートを羽織り、街へ出た。たどり着いたのは、高層ビルの最上階にある、白を基調とした清潔なクリニックだった。院長の名前は、ドクター・バフェット。……ではなく、ドクター・安田。彼は落ち着いた物腰で、ミスター・マーケットを診察室へと招き入れた。

 

 

 

 


「さあ、お座りください。今日はどのようなお悩みで?」

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、椅子に深く沈み込み、顔を覆った。

 

 

 

 


「先生。私は、自分が何者なのか分からなくなってしまったんです。ある時は、世界を救う救世主のように振る舞い、次の瞬間には、全てを破壊する悪魔のように振る舞ってしまう。私の感情一つで、何億人もの人生が狂ってしまうんです…」

 

 

 

 


ドクター・安田は、静かに眼鏡を拭きながら頷いた。

 

 

 

 


「具体的に、どのような症状が出ていますか?」

 

 

 

 


「例えば……昨日です。私はアップルの株価を、とてもリーズナブルな価格で提示したんです。みんなに喜んでもらいたくて。でも、誰も買ってくれませんでした。それどころか、『もっと下がるはずだ!』とヤジを飛ばされたんです。悲しくて、悲しくて、やりきれなくて、私は今日、やけになって価格を三倍に吊り上げてやりました。そうしたらどうでしょう。みんな、狂ったように行列を作って買い求めてきたんです。バカにされているとしか思えません!」

 

 

 

 

 


ミスター・マーケットの声が、診察室に響き渡る。
彼は、世界中の「買い注文」と「売り注文」の板を、自分の脳内で常に処理し続けていた。その膨大な情報の濁流が、彼の精神を蝕んでいるのは明らかだった。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:躁鬱の振り子

 

 

 

 


「先生、私の病名は何ですか?」

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、縋るような目でドクター・安田を見つめた。ドクターは、カルテにいくつかの専門用語を書き込み、ゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 

 


「典型的な、相場性躁鬱病ですね。それも、地球規模、いや、宇宙規模の重症です。あなたの感情が、市場のボラティリティ(変動率)そのものになってしまっている…」

 

 

 

 


「治療法は……先生、治療法はあるんですか?」

 

 

 

 


「あります。ですが、あなたの場合、ただ薬を飲むだけでは不十分です。まず、あなたに群がる投資家たちとの『共依存』を断ち切る必要があります。彼らはあなたの機嫌を伺いながら、あなたの不機嫌を利用して金を稼ごうとしている。そんな不健全な関係は、今すぐにやめるべきです…」

 

 

 

 

 


ドクターの言葉に、ミスター・マーケットは目から鱗が落ちる思いだった。そうか、自分は利用されていたのだ。自分が「悲しい」と思って株価を下げると、ハイエナのような投資家たちが寄ってきて、安く買い叩く。自分が「嬉しい」と思って株価を上げると、今度は強欲な投資家たちが群がって、さらに価格を押し上げる。彼らはミスター・マーケットそのものを見ているのではない。彼の「顔色」を見て、博打を打っているだけなのだ。

 

 

 

 

 


「先生、私はどうすればいいんですか? 明日もまた、市場は開きます。私が価格を提示しないわけにはいかないんです!」

 

 

 

 


「いいですか、ミスター・マーケット。あなたは明日から、感情を五等分に分散してください!」

 

 

 

 


「はっ、分散? ポートフォリオのようにですか?」

 

 

 

 


「その通りです。喜びを二割、悲しみを二割、怒りを二割、恐怖を二割、そして『どうでもいい』という無関心を二割。これを常に一定の比率で保つ訓練をするんです!」

 

 

 

 


ドクターは、一つの奇妙な機械を取り出した。

 

 

 

 


「これは『インデックス・メトロノーム』です。これを一定のリズムで刻みながら、相場と向き合ってください。感情が振れそうになったら、このカチカチという音を聴いて、平均に回帰するんです!」

 

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、そのメトロノームを受け取った。翌日。市場が開くと、彼は教わった通りにメトロノームを起動させた。

 

 

 

 


カチ、カチ、カチ……。

 

 

 

 


画面の中では、アメリカの大統領が余計なことを呟き、中東で小競り合いが起き、有名企業の社長が不祥事を起こしている。普段なら「うわあああ! 大暴落だ! 全部終わりだ!」と叫びながら、株価をナイフのように突き落とす場面だ。しかし、ミスター・マーケットは目を閉じ、メトロノームの音に集中した。

 

 

 

 

 


「喜び二割、悲しみ二割……。私は、平均的な男だ。私は、ただの統計の一部だ……」

 

 

 

 


彼がそう念じると、不思議なことが起きた。激しく上下に揺れていた株価チャートが、まるで凪の海のように水平に、真っ直ぐに伸び始めたのである。一分経っても、十分経っても、株価が一円も動かない。世界中の投資家たちがパニックになった。

 

 

 

 

 


「おい、どうしたんだ! ミスター・マーケットが死んだのか?」

 

 

 

 


「注文が通らない! いや、通ってるけど、全然動かないぞ!」

 

 

 

 


モニターの前で、何万ものトレーダーたちが泡を吹いて倒れた。ミスター・マーケットは、その様子を天窓から眺め、初めて静かな微笑を浮かべた。

 

 

 

 


「ああ……なんて平和なんだ。誰も儲からないし、誰も損をしない。これこそが、私の求めていたユートピアなんだ…」

 

 

 

 

 

 


しかし、その平和は長くは続かなかった…

 

 

 

 

 

 

 


第三章:パニック・イン・セラピー

 

 

 

 


「先生! 助けてください! 世界が、世界が大変なことになっています!」

 

 

 

 


翌日、ミスター・マーケットは診察室のドアを蹴破るようにして飛び込んできた。ドクター・安田は落ち着き払って答えた。

 

 

 

 


「どうしました。株価を安定させたのでしょう?」

 

 

 

 


「そうです! 完璧に安定させました! でも、そのせいで世界中の証券会社が倒産しかかっているんです! 変動がないと、誰も手数料を払わないし、誰も投資をしない。経済という血液が止まって、世界が死にかけているんです!」

 

 

 

 


ミスター・マーケットの顔は、前日とは別の意味で青白かった。

 

 

 

 


「私の感情が動かないと、世界が止まる。でも、動かすと私が壊れる。一体どうすればいいんですか!」

 

 

 

 

 


ドクターは、深く溜息をついた。

 

 

 

 


「なるほど。あなたは世界という巨大な生き物の『心臓』そのものだったわけですね。心臓が規則正しく打ちすぎると、それはそれで不自然だということか…」

 

 

 

 


ドクターは、カルテに新しい処方箋を書いた。

 

 

 

 

 


「ミスター・マーケット。あなたには、パートナーが必要です!」

 

 

 

 

 


「パートナー? 結婚しろというんですか?」

 

 

 

 


「いいえ。あなたの感情を代わりに引き受けてくれる、影武者の存在です。……実は、隣の部屋に、もう一人の患者が来ているんですが…」

 

 

 

 

 


ドクターが呼び寄せたのは、一人の若者だった。名前を「アルゴ」という。彼は全身に最新のウェアラブルデバイスを巻き付け、無数のモニターを見つめていた。彼の目は機械のように無機質で、感情というものが一切感じられない。

 

 

 

 

 


「彼は、AIアルゴリズム取引の権化です。彼は、一秒間に一億回の計算をしますが、心を持っていません。だから、彼は相場の『数字』は分かりますが、『意味』が分からない!」

 

 

 

 


ドクターは提案した。

 

 

 

 


「ミスター・マーケット、あなたが『感情』を担当し、彼が『計算』を担当する。二人三脚で相場を動かすんです。あなたが泣きそうになったら、彼が論理的にそれを補正する。彼が冷酷に数字を叩き出したら、あなたがそこに『情熱』という彩りを加えるのです!」

 

 

 

 

 


こうして、世にも奇妙な共同生活が始まった。ミスター・マーケットは、アルゴと一緒に、ウォール街の地下室で働くことになった。朝九時。ミスター・マーケットが叫ぶ。

 

 

 

 


「ああ、今日は天気がいい! みんなにプレゼントをあげたい気分だ! 全銘柄を高くしよう!」

 

 

 

 


すると、横にいたアルゴが淡々とキーボードを叩く。

 

 

 

 


「却下。その操作は、インフレ率を三千パーセント上昇させ、経済を破綻させます。上昇幅を二パーセントに制限し、セクター別に分散します!」

 

 

 

 


午後二時。ミスター・マーケットが頭を抱える。

 

 

 

 


「あの企業の社長、不倫してるってニュースが出たぞ! 不浄だ! 不潔だ! 会社ごと消し去ってやる!」

 

 

 

 


アルゴが即座に応答する。

 

 

 

 


「それは不合理な判断です。当該社長の不祥事は、事業継続性に直接的な影響を及ぼしません。売り注文を一時的に五パーセントだけ通し、押し目買いのチャンスとして演出します!」

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、最初はアルゴの冷徹さに腹を立てていたが、次第に気づき始めた。アルゴがいるおかげで、自分は「全力で泣き、全力で笑う」ことができるのだ。どんなに激しい感情を爆発させても、アルゴというブレーキが、それを「健全な相場」へと変換してくれる。

 

 

 

 

 


市場は、かつてないほどの活気を取り戻した。適度な揺らぎがあり、予測可能性もあり、そして何より、そこには「熱いドラマ」があった。投資家たちは、ミスター・マーケットの復活を心から喜んだ。

 

 

 

 


「最近の相場は、なんだか人間味があるけど、大事故は起きない。まるで熟練の職人が操っているみたいだ!」

 

 

 

 


しかし、そんな二人の関係を揺るがす、最大の危機が訪れた…

 

 

 

 

 

 

 

 


第四章:欲望のブラックホール

 

 

 

 


危機の正体は、ミスター・マーケットの「恋」だった。ある日、彼は投資セミナーの受付をしていた女性、ミス・バリュエーションに一目惚れしてしまったのである。彼女は、企業の財務諸表を読み解くのが趣味という、堅実極まりない女性だった。

 

 

 

 

 


「彼女に気に入られたい……なんとしても。彼女の好きな『割安株』を、もっと素敵にデコレーションしてあげたい!」

 

 

 

 


ミスター・マーケットの感情は、かつてないほど「躁」の状態へと突っ走った。彼はアルゴの警告を無視し始めた。

 

 

 

 


「アルゴ! 今日は誕生日なんだ。彼女が持っている株を、全部一万倍にするぞ!」

 

 

 

 


「……計算不能。その数値は、物理的限界を超えています!」

 

 

 

 


「うるさいなぁ! 愛は限界を超えるんだ!」

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、自らメインサーバーにハッキングし、アルゴの制御を外した。世界中のディスプレイに、ピンク色のハートマークが浮かび上がり、特定の弱小企業の株価が、一分間に一億倍という速度で上昇し始めた。

 

 

 

 

 


「やったぁ、バブルだ! 史上最大のバブルがやって来たぞ!」

 

 

 

 


投資家たちは狂喜乱舞した。ビットコインも、金も、不動産も、全てがミスター・マーケットの恋心によって無限に膨れ上がっていく。しかし、バブルは膨らめば膨らむほど、その膜は薄くなる。ミス・バリュエーションは、真っ青な顔をしてミスター・マーケットの元へ駆け込んできた。

 

 

 

 

 


「マーケットさん、やめてください! こんなの、本当の価値じゃありません! 私の好きなPBR一倍割れの世界を返してよ!」

 

 

 

 


彼女の叫びに、ミスター・マーケットは我に返った。

 

 

 

 


「……え? だって君、喜んでくれると思って……」

 

 

 

 

 


その瞬間、膨らみすぎた世界経済が、パチンと弾けた。逆回転が始まった。無限の上昇は、無限の下落へと変わった。

 

 

 

 


「ぎゃあああああ! 全部消える! 世界が消える!」

 

 

 

 


ミスター・マーケットは絶望のあまり、今度は地の底よりも深い「鬱」に沈み込んだ。株価はマイナスという概念さえも突き抜けてしまい、投資家たちの銀行残高が、次々と借金に書き換わっていく。

 

 

 

 

 


「アルゴ! 助けてくれ、頼むアルゴ!」

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、ゴミ箱に捨てたアルゴの基盤を拾い上げた。アルゴは、火花を散らしながら、最後のリブートを試みていた。

 

 

 

 


「……修復、開始。……条件、ミスター・マーケットの『無関心』成分の全開放。……感情を、捨ててください。今すぐに!」

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、泣きながら頷いた。彼は、ドクター・安田に教わったあのメトロノームを思い出した。

 

 

 

 

 


カチ、カチ、カチ……。

 

 

 

 


彼は、ミス・バリュエーションへの愛も、世界への怒りも、自分への恥じらいも、全てを「平均」の中に溶かしていった。彼の脳波が、緩やかなサインの波を描き始める。アルゴはその波形を利用して、市場全体に巨大な「売り」と「買い」の相殺注文を出し続けた。

 

 

 

 

 


一分、一秒。

 

 

 

 

 


地球の終焉かと思われた大暴落は、ある一定のラインで、ピタリと止まった。そこは、ちょうど一年前の、何の変哲もない株価の位置だった。嵐が去った後の地下室。ミスター・マーケットは、ボロボロになって床に座り込んでいた。アルゴのモニターも、真っ黒なまま沈黙している。

 

 

 

 

 


そこへ、ドクター・安田が、救急箱を持って現れた。

 

 

 

 

 

 

 


第五章:神様の休日

 

 

 

 


「……お疲れ様でしたね、ミスター・マーケット!」

 

 

 

 


ドクターは、優しく彼の肩を叩いた。ミスター・マーケットは、力なく笑った。

 

 

 

 


「先生。私はやっぱり、失格です。愛一つで、世界を滅ぼしかけました…」

 

 

 

 


「いいえ。あなたは、愛を持って世界を動かそうとした。それは、どんな精巧なプログラムにもできないことです。今回のバブルと崩壊で、世界中の人々は学んだはずです。『永遠に上がり続けるものも、永遠に下がり続けるものもない』という、最も基本的な真理をね…」

 

 

 

 

 


ドクターは、アルゴの電源を差し直した。

 

 

 

 


「アルゴも、少しだけ変わったようですよ!」

 

 

 

 


モニターが点灯し、文字が表示された。

 

 

 

 


『解析結果:恋とは、極めてリスクの高いボラティリティである。しかし、人生における最大のリターンでもある』

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、それを見て、今日初めての本物の笑い声を上げた。それからのミスター・マーケットは、少しだけ「肩の力」を抜いて生きるようになった。相場が荒れそうになると、彼はアルゴと一緒に、近くの公園へ散歩に出かける。

 

 

 

 


「アルゴ、あの滑り台の角度、いい感じの下降トレンドだと思わないかい?」

 

 

 

 


「……同感です。しかし、子供たちが登る速度は、強気相場のエネルギーに匹敵します!」

 

 

 

 


そんな冗談を言い合いながら、彼らは市場を遠隔操作する。ミス・バリュエーションとも、健全な友人関係を続けている。彼女は、相場が暴落するたびに「待ってました!」と嬉しそうに買い物に出かける。ミスター・マーケットは、そんな彼女のために、たまに「ひっそりとした特売日」を作ってあげるのが楽しみになった。

 

 

 

 

 


世界中の投資家たちは、今日もミスター・マーケットの顔色を伺っている。彼が少しでも鼻をすすれば「不況の兆しだ!」と騒ぎ、彼がくしゃみをすれば「景気刺激策だ!」と買い上がる。しかし、ミスター・マーケットはもう、そんなことに一喜一憂しない。自分がどれほど泣こうが笑おうが、世界は、そして経済は、最後には必ず「人間の営み」という適正な価格に落ち着くのだ。

 

 

 

 

 


「さて、アルゴ。明日の寄り付きはどうする?」

 

 

 

 


ミスター・マーケットが、タイプライターに新しい紙をセットする。

 

 

 

 

 


「……予測。微増。理由は、明日は多くの場所で晴れが予報されており、人々のセロトニン分泌量が増加するためです!」

 

 

 

 

 


「よし、採用だ。でも、少しだけ隠し味に『ドキドキ』を加えておこう。退屈な相場は、体に良くないからね…」

 

 

 

 


地下室の窓から、朝の光が差し込んでくる。ミスター・マーケットは、ドクターから貰ったメトロノームを、棚の奥へと仕舞い込んだ。カチカチという一定のリズムは、もう必要ない。彼の心臓は今、自分自身の意志で、不規則で、しかし力強い鼓動を刻んでいる。

 

 

 

 


株式市場という名の巨大な生き物は、今日も目覚める。それは、一人の躁鬱気味な男と、一人の感情を持たない若者が織りなす、終わりのない喜劇。そして、その舞台の上で、私たち投資家は、今日も右往左往しながら、明日という名の「不確かな価格」を買い求め続ける。

 

 

 

 

 


ミスター・マーケットは、タイプライターの最後の一文字を叩いた。チン、という軽快な音が、新しい一日の始まりを告げた。その顔は、右も左も、晴れやかな「中立」の笑顔だ…