第一章:震える演壇と黄金の鼻毛抜き
今日もその男、ドミトリー・バカボーン三世は、鏡の前で自らの威厳を最終確認していた。漆黒の軍服には、身に覚えのない戦功を称える五百個の勲章がひしめき合い、歩くたびにジャラジャラと安っぽい鎖の音を立てる。頭上には、純金製ゆえに首の骨を折りかねないほど重い特注の軍帽が鎮座している。
「……よし、完璧だ。今日の余は、どこからどう見ても『世界の終焉を司る絶対者』に見えるな?フッ!」
ドミトリーが鏡に向かって不敵に微笑むと、背後に控えていた側近のイワンが、冷や汗を拭いながら深々と頭を下げた。
「はっ、閣下。その、あの……お鼻の穴から……光り輝く黄金の鼻毛が一本、自由を求めて亡命を企てておりますが…」
「何だと? 不届きな! 余の身体の一部でありながら、余の統制を離れようとは!」
ドミトリーは血相を変えて、ダイヤを散りばめたピンセットを手に取った。この男は、世界征服を成し遂げた独裁者である。だがその実態は、重度の潔癖症と、壊滅的なまでの「うっかり体質」を併せ持つ、歩く災厄のような存在だった。
彼が支配する帝国「バカボニア」の中央広場には、今、全世界の運命を左右する巨大な演壇が設えられていた。壇上の中央には、仰々しいガラスケースに守られた「究極の審判スイッチ」が置かれている。これを押せば、世界中に配備された一万発の核ミサイルが一斉に火を噴き、世界は文字通り、一粒のポップコーンのように弾けて消えてしまう。
「諸君、ついに時が来た! 余をバカにし、余のブレイクダンスの才能を一度たりとも認めなかった、この、この愚かな世界に、盛大なお別れの挨拶をする時が!」
演壇に登ったドミトリーがマイクを叩くと、広場を埋め尽くした数百万の市民は、恐怖のあまり石のように硬直した。テレビ中継を通じて、地球上の全人類がこの狂った独裁者の指先に注目していた。ホワイトハウスの大統領も、クレムリンの指導者も、今はただ、ドミトリーが「くしゃみ」でもしてスイッチを押し間違えてくれることを祈るしかなかった。
だが、当のドミトリーは、別の問題を抱えている。
先ほど抜こうとした「黄金の鼻毛」が、鼻腔の奥深くで絶妙な位置に留まり、猛烈な「ムズムズ感」を引き起こしていたのだ。
「……ッ、ぐぬぬ……諸君、余は今、極めて……神聖な、宇宙の真理と対話している……」
顔を真っ赤にして痙攣する独裁者の姿を見て、市民たちは「ついに破壊の神が彼に降臨した!」と勘違いし、阿鼻叫喚の叫び声を上げた。今まさにドミトリーの指が、ゆっくりと、震えながら、赤いボタンへと近づいていく。鼻の奥では、数千の羽毛が踊っているかのような、耐え難い刺激が最高潮に達しようとしていた。
第二章:未曾有の噴火と崩壊のパントマイム
そして運命の瞬間は、唐突に訪れた。
「余こそが……世界の、ハッ、ハッ、ハ、ハックショイーーーーーーー!!」
それは、人類史上最大にして最悪のくしゃみだった。ドミトリーの全身は、まるで発射されるロケットのように激しくのけ反った。その衝撃で、五百個の勲章が弾け飛び、黄金の軍帽が観客席へとフリスビーのように飛んでいった。そして、彼の右人差し指は、狙い澄ましたかのように赤いボタンを強打した。
カチリ。
静寂が世界を包み込んだ。次の瞬間、大気圏を揺るがすような巨大な機械音が鳴り響き、地下のサイロから核ミサイルが次々と噴射される映像が、広場の巨大モニターに映し出された。
「あああああ! 押しちゃった! 今、本当にあの人、押しちゃった!!」
ドミトリーは演壇の上で、独裁者の威厳など微塵もない格好で転倒し、ジタバタと足をバタつかせた。
「イ、イワン! どうしよう、今のなし!今のはキャンセル!お願い! 余、ちょっと鼻がムズムズしただけなんだよ!」
だが、一度起動した終末プログラムが止まるはずもない。モニターの中では、数万のミサイルが白い尾を引いて次々と青空へと駆け上っていく。世界中の都市で、人々は天を仰ぎ、抱き合い、人生の最期を覚悟した。
ところが、である…
高度一万メートルに達したミサイル群が、突然、不自然な挙動を見せ始めた。本来ならば目標都市へと軌道を変えるはずの弾頭が、何と空中で一斉に静止し、まるで意志を持っているかのように「くるり」と反転したのだ。
「……ん? 何だ、あの動きは。空中でシンクロナイズド・スイミングでも始めるつもりか?」
ドミトリーはしばらくモニターを凝視した。ミサイルの先端から、恐ろしいはずのウラン燃料ではなく、色とりどりの「煙」が噴き出していく。赤、青、黄色、ピンク。空は瞬く間に、子供がクレヨンで塗り潰したような極彩色に。
その時、ドミトリーの背後で火花が散った。先ほど彼が転倒した際、演壇の支柱に頭をぶつけ、制御装置の配線が引き千切れていたのだ。さらに、彼が鼻から放出した「黄金の鼻毛」の微細な粒子が、ショートした回路の隙間に吸い込まれ、奇跡的な導電率を示してシステム全体を書き換えていたのだった。
「……閣下、報告いたします!」
イワンが、タブレット端末を差し出した。
「ミサイルの管制システムが、閣下のくしゃみによる衝撃と、配線のショート、および……謎の生物学的付着物(鼻毛)の影響により、完全におかしくなりました。現在、全核兵器の弾頭は『花火打ち上げ用』のプログラムへと強制置換されています…」
第三章:銀河系最大の空中ショー
空に咲いたのは、人類が見たこともないような巨大な「花火」だった。それは核分裂のエネルギーをそのまま光の色彩へと変換するという悪魔的な芸術。一万発のミサイルは、世界中の上空で一斉に花開き、夜でもないのに太陽を凌駕する輝きで地上を照らした。
パリの上空では巨大なシャンパングラスの形をした花火が踊り、ニューヨークの上空では自由の女神がタップダンスを踊る光の絵が描かれた。そして、バカボニアの広場の上空には、ドミトリーの顔を模した、ひどくブサイクな光の肖像画が出現した。
「……おお、あれを見ろ! 余だ! 空に余がいるぞ!」
ドミトリーは、自分が世界を滅ぼしかけたことなどすっかり忘れ、子供のように手を叩いて喜んだ。
「イワン、これなのだよ! 余が本当にやりたかったのは、これなんだ! 世界中の人々に、余の素晴らしいスマイルを届けることだったのだ!」
イワンは心の中で(絶対に嘘だよね…)と毒づいたが、口に出す勇気はなかった。だが、この奇跡は単なる視覚的なエンターテインメントに留まらなかった。実はこの時、地球には本当に真の危機が迫っていた。
外宇宙から、目に見えない「有害な宇宙放射線の嵐」が地球を直撃しようとしていたのだ。本来なら地球の磁場を突き抜け、全生態系を焼き尽くすはずだったその脅威が、ドミトリーが偶然にも空中に散布させた「核エネルギー由来の特殊な色彩粒子」と激しく衝突した。そして、極彩色の花火の煙は、図らずも地球全体を覆う「最強の防護シールド」となり、宇宙からの死の光をすべて無害なオーロラへと変換してしまったのである。NASAの観測員たちは、モニターを見て腰を抜かした。
「ウソ、信じられない……。バカボニアの独裁者が放ったあの花火が、地球の滅亡をコンマ一秒の差で食い止めたというのか!?」
世界中の科学者たちも、この理論的には説明不可能な「幸運の連鎖」を解析しようとして頭を抱えた。だが、広場のドミトリーにそんな自覚はない。
「諸君、見給え! これこそが余の計算、余の慈悲、余のクリエイティビティだ! 核兵器などという野蛮なものは、こうして空を彩るキャンバスに変えてしまえば良いのだ!」
彼は、先ほどまで震えていたことなどおくびにも出さず、胸を張ってガッツポーズを決めた。
第四章:誤解の連鎖と英雄への昇格
世界中のメディアは、この前代未聞の事態をどう報じるべきか混乱に陥った。だが、人間という生き物は、目の前の「圧倒的な美しさ」と「命が助かったという事実」には弱いもの。
「独裁者ドミトリー、実は平和主義者だった?」
「核なき世界への過激すぎるパフォーマンス! 彼が世界を救った!」
SNSでは、ドミトリーを「ツンデレな神」として崇めるハッシュタグが爆発的に拡散された。バカボニアの広場にいた市民たちも、最初は呆気にとられていたが、やがて一人、また一人と拍手を始めた。
「……あ、あの、ドミトリー様! 素敵です! 僕たちを驚かせようとして、あんなに怖いフリをしてたんですね!」
一人の少年が演壇の下から叫ぶと、ドミトリーは鼻の穴を膨らませて頷いた。
「いかにも! 余はサプライズが大好きなのだ! 諸君の腰が抜けるほど驚く顔が見たくて、わざわざ核起動のフリまでしたのだよ。はーっはっは!」
調子に乗ったドミトリーは、さらに畳み掛けた。
「いいか、世界中の諸君! 今日から、兵器はすべて花火に作り変えることを命ずる! 戦車からはポップコーンを射出し、戦闘機からは香水を散布せよ! 余の帝国では、笑わない者こそが重罪となるのだ!」
この支離滅裂な演説は、なぜか「新しい時代の平和宣言」として、世界中の人々の心に深く(そして奇妙な形で)刺さった。隣国の軍隊などは、ドミトリーの「不可解な最新兵器」を恐れるあまり、本当に武器を捨ててしまい、花火工場へと次々と転職し始める始末。
その頃イワンは、演壇の隅でシステムログを再確認していた。そこには、ドミトリーが転んだ際に引き千切った配線の代わりに、彼の豪華な軍服から零れ落ちた「ダイヤのボタン」が、奇跡的に回路の接点を繋いでいた記録が残っていた。
「……閣下は、運だけで世界を支配しているのかもしれない……」
イワンは、主君のあまりの強運に、畏怖を通り越して諦めに似た境地に達していた。その夜、世界中で祝杯が挙げられた。核の恐怖に怯えていた人々は、空に浮かぶドミトリーの「ドヤ顔」を見上げながら、爆笑と共に酒を酌み交わした。かつての独裁者は、一夜にして「世界一愛されるマヌケな救世主」へと変貌を遂げていた。
第五章:独裁者の休日と平和の残響
それから数年後、バカボニアは世界最大の観光都市へと生まれ変わっていた。ドミトリーが発案した(というか、適当に口走った)「戦車からポップコーン」は、実際に「バカボーン式移動おやつ販売車」として実用化され、今や子供たちに大人気を博していた。かつての政治犯収容所は、世界一巨大な「お笑い養成所」となり、ドミトリーの滑稽な挙動を模写する芸人たちが、日々その腕を競い合っている。そしてドミトリー本人はと言えば………今日も広場の中央で、黄金の椅子に深く腰掛けていた。
「イワン、どうだ。余が救ったこの世界は、実に平和ではないか。やはり、余のような天才がトップに立つべきなのだ!そうだろう?」
彼は、特注の「鼻毛ガード付き黄金マスク」を装着しながら、満足げに周囲を見渡した。
「はっ、閣下。おかげさまで、世界中から平和賞のメダルが届きすぎており、倉庫がパンクしております。中には『史上最も幸運なバカ賞』という、少々、なんか無礼なタイトルのものも混じっておりますが…」
「な、何だと? バカだと? 失礼な! それはきっと、『バカみたいに素晴らしい』という最大級の賛辞に違いない!」
ドミトリーは笑い飛ばすと、マスクを少しずらして、お気に入りのイチゴパフェを口に運んだ。その時、彼の耳に微かな羽音が聞こえた。どこからともなく一匹の小さなハエが、彼の鼻先を掠めるように止まった。
「……ッ、む、むむ……この感覚は……まさか……」
ドミトリーの表情が、劇的に歪み始めた。顔は真っ赤になり、目からは涙が滲み、全身が小刻みに震え出す。周囲の市民たちは、それを見て「おお! またドミトリーの『神聖なくしゃみ』が来るぞ!」「今度はどんな奇跡を見せてくれるんだ!?」と、期待に満ちた眼差しでカメラを構えた。
「ハッ……ハッ……ハ、ハックショオオオイーーー!!」
本日一番のくしゃみが、広場に轟いた。ドミトリーの身体は椅子ごとひっくり返り、空中に放り出されたパフェのイチゴが、偶然にも広場にあるドミトリー平和銅像の鼻の穴にスポリと収まった。それを見た市民たちは、一瞬の静寂の後、雷鳴のような歓声と爆笑を上げた。
「さすがドミトリー様! イチゴのシュートまで計算通り!」
「世界一のエンターテイナー!」
ドミトリーは、地面に転がったまま、空を見上げた。そこには、かつて自分が滅ぼそうとした世界が、変わらずに美しく広がっていた。彼は、自分の鼻をさすりながら、小声で呟いた。
「……まあ、よかろう。余が救った世界なのだ。これくらい楽しませてやるのが、私の務めというものだ…」
独裁者のくしゃみは、今日もどこかで、意図せぬ幸福を撒き散らしている。かつて恐怖の象徴だった男は、今や世界で最も無害で、最も必要な「笑いのスイッチ」となった。
世界は、今日もバカバカしいほど平和だ…