第一章:台所の不審な煙
その日の朝も、台所からは不穏な音が響いていた。
ガチャン、という派手な音に続いて、「アカン!」という野太い叫び声。それから、ジュウ、という何かが激しく焼ける音と、鼻を突くような焦げ臭い匂いが漂ってくる。高校三年生の結衣は、二階の自室で制服に着替えながら、深く大きなため息をついた。
「……またやっとるわ…」
時計を見れば、家を出るまであと十五分しかない。階段を急いで駆け下り、ダイニングキッチンへ飛び込むと、そこには案の定、地獄のような光景が広がっていた。父親の康夫は、頭にタオルを巻き、エプロンを裏返しに着た状態で、フライパンと格闘していた。
「お父ちゃん、またやったん? これ、一体何なん?」
結衣が指差すと、康夫はバツが悪そうに鼻の頭をかいた。
「いや、その、お好み焼きや。結衣、お前、お好み焼き好きやんか? 今日は金曜日やし、景気づけにと思ってな……」
「お好み焼きって、普通はもっと黄色とか茶色とか、そういう色しとるもんやろ。これ、ただの燃えカスやんか!」
「アカン、火力が強すぎたんやな。いや、待て、裏返せばまだ食えるかもしれん…」
「もうええよ、お父ちゃん。時間ないし、コンビニでパン買うわ!」
「アカン! それはアカンぞ!コンビニのパンばっかり食うてたら、体が弱る。父ちゃんが、すぐにちゃんとしたもん作り直すから……」
「ちゃんとしたもん? 時間ないねん!お母ちゃんが生きてた時は、こんなん一回もなかったで…」
結衣が思わず口にした言葉に、康夫の動きがピタリと止まった。三年前、病気で急逝した母・美津子。彼女が生きていた時の台所はいつも清潔で、温かい湯気と美味しそうな匂いに満ちていた。康夫は、母が亡くなってからというもの、「これからは俺が結衣を守る」と宣言し、慣れない料理に挑戦し始めた。しかし、康夫が作るものは、どれも味が濃すぎるか、生焼けか、あるいは今日のように炭になるかの三択だった。
「……悪かったな。お母ちゃんみたいには、上手くいかへんわ…」
康夫は力なく笑い、真っ黒な塊をゴミ箱へ捨てた。
結衣は、少し言い過ぎたかな、と胸の奥がチクリと痛んだ。
「お父ちゃんも、仕事遅れるよ!私、もう行かなあかん!」
「おう。気をつけて行けよ。……晩飯は、牛丼でも買ってくるわ!」
「うん、それがええわ。ほな、行ってくるわ!」
玄関を閉める間際、振り返ると、康夫はまだ台所に立ち、小麦粉のついた手で、汚れたコンロを必死に拭いていた。
第二章:真っ黒な弁当箱
お昼休み。教室の活気の中で、結衣はカバンから弁当箱を取り出した。結局、朝、康夫は「コンビニはアカン!」と意地を張り、十五分で何かを詰め込んだのだ。
「今日の弁当、何やろな……」
親友のマイが、自分の色鮮やかな弁当を広げながら覗き込んできた。
「期待せんといて。うちのお父ちゃん、料理に関してはほんまに壊滅的なんやから…」
結衣がおずおずと蓋を開けると、そこには期待を裏切らない「絶望」が詰まっていた。ご飯の上には、朝の残骸と思われる「焦げたお好み焼き」が散らされていた。
「……結衣の父ちゃん、ワイルドやなあ!」
マイが気を遣って言ったが、結衣は顔を伏せた。
「アカン、恥ずかしくて、蓋開けられへんわ…」
「でもさ、お父さんなりに一生懸命作ったんちゃう? ほら、材料切るのだけでも大変やんか!」
「そうかもしれんけど……味がなあ……」
結衣は一口、焦げたお好み焼きを口に運んだ。苦い。ひたすらに苦い。ソースの味だけが暴力的に主張してくる。ふと、結衣は、弁当箱の隅に、小さなメモが入っているのに気づいた。
『結衣へ。焦げたところは、ビタミンが多いと聞いたことがある。しっかり食えよ。お父ちゃんより』
「……嘘ばっかり。焦げたところにビタミンなんかあるわけないやんか、もう…」
結衣は独り言を呟き、メモを丸めてポケットに突っ込んだ。康夫は、毎朝四時に起きて、YouTubeの料理動画を見ながら格闘している。包丁で指を切って、絆創膏だらけの手で食材を刻んでいるのも知っている。でも、その結果はこれ。
「アカンもんは、アカンって…」
そう突き放してしまえば楽になれるのに、父の必死な顔を思い出すと、どうしても最後まで冷たくなりきれない自分がいた。
第三章:雨の日の「アカン」
その日の放課後、突然の豪雨が街を襲った。結衣は傘を持っていなかった。学校の昇降口は、立ち往生している生徒たちが溢れている。
「結衣、どうするの?」
マイが声をかけてくれたが、彼女の家は反対方向。
「大丈夫、すぐ止むと思うわ。お父ちゃんに迎えに来てもらうから…」
嘘をついた。
一時間待っても、雨は一向に弱まらない。そこへ、一台の古びた軽トラックが、水しぶきを上げて校門に入ってきた。
「結衣! アカン! こんなところで、ずぶ濡れになったら風邪引くぞ!」
結衣は周囲の目が恥ずかしくて、顔を赤くしながらトラックへ駆け寄った。
「お父ちゃん、何してんのよ。仕事は?」
「ちょうど一段落したんや。ほら、乗れ!」
「……あのな、結衣。今日、学校の先生から電話があったんや。三者面談があるんやろ!」
「あ……。そういえば、プリント出すの忘れとったわ…」
「進路のことやろ。お前、大学行きたいんやろ? お父ちゃんな、学費のことなら心配すな。なんぼでも働くからな!」
「お父ちゃん。……もう、お弁当はええよ。自分で作るわ…」
結衣が意を決して言うと、康夫は信号待ちの間に、結衣をじっと見つめた。
「アカン。それはアカンぞ、結衣。お前は今、勉強するのが仕事や。料理なんて、お父ちゃんが全部やる。お母ちゃんとの約束なんや!」
「でも、お父ちゃん、全然寝てへんやんか。それに、お弁当、ほんまはな……」
言いかけて、結衣は言葉を飲み込んだ。
「……なんでもない。明日も、お好み焼きがええわ!」
「おう! 任せとけ! 明日はな、チーズ入れてみるわ!」
康夫は嬉しそうにアクセルを踏んだ。雨音にかき消されそうな小さな声で、結衣は「バカやなあ……」と呟いた。
バカ正直で、不器用で、暑苦しくて、そして世界で一番自分を愛してくれている、この「アカン」父親。結衣は窓の外を流れる景色を見ながら、鼻の奥がツンとするのを感じた。
第四章:卒業式の朝の奇跡
卒業式の朝。結衣がリビングへ下りると、台所が信じられないほど静かだった。康夫は、静かにまな板の前に立っていた。その手つきは、前とは比べものにならないほど落ち着いている。
「……お父ちゃん?」
「おう、結衣。起きたか。……今日はな、お前の高校生活最後やから。ちょっと気合入れて作ったんや!」
テーブルの上に置かれたのは、完璧な形をしたお好み焼きだった。表面は美しいきつね色に焼け、ソースの塗り方も丁寧だ。焦げ目はどこにも見当たらない。
「……これ、ほんまにお父ちゃんが作ったん?」
「そうや。昨日の夜、何十枚も練習したんや。……失敗したやつは、お父ちゃんが全部食うた。おかげに腹パンパンや!」
結衣は、箸を手に取った。一口食べると、中からトロリとした生地と、たっぷりのキャベツが溢れ出した。美味しかった。母が作ってくれたあの味に、一番近い味がした。
「……アカン」
結衣の口から、父の口癖がこぼれた。
「どうした? やっぱり、どっか焦げてたか?」
「ちゃうよ、お父ちゃん。……美味しすぎて、アカンわ……」
結衣の瞳から、大粒の涙が溢れ、お好み焼きの上に落ちた。
「……三年間、ごめんな。下手くそなもんばかり食わせて。お父ちゃん、ほんまにアカン親父や…」
「ううん。お父ちゃんは、最高や。……お父ちゃんのヘタクソな料理があったから、私、頑張れたんやで。……毎日、朝早く起きてくれて、ありがとう。私のために、一生懸命になってくれて、ありがとう…」
結衣は、泣きながらお好み焼きを口に運び続けた。康夫は、結衣の頭を大きな手で優しく撫でた。
「……卒業、おめでとう。結衣。」
第五章:受け継がれる「アカン」
都会での一人暮らし。結衣は、使い古されたフライパンを握り、コンロの前に立っていた。
「結衣、何か作ってくれるの?」
遊びに来た友人が尋ねた。
「お好み焼き。うちの秘伝の味やで!」
結衣は、キャベツを手際よく刻み、生地を混ぜた。
いざ焼こうとした時、父のあの「アカン!」という声が耳の奥で蘇ってきた。
「あ、火が強すぎたかな……。あー! アカン! また焦がしてもうた!」
結衣は叫び、少し苦笑いした。出来上がったお好み焼きは、端っこが少しだけ炭のようになっていた。
「はい、お待たせ。ちょっと焦げてもうたけど!」
友人が一口食べ、目を丸くした。
「……ねえ、これ。焦げてるけど、すごく美味しい!」
「せやろ? これが私の原点なんやわ!」
結衣は誇らしげに言った。明くる日の朝、彼女は、父にショートメッセージを送った。
『お父ちゃん、昨日、お好み焼き焼いたで。少し焦げてもうたわ。アカンなあ』
数分後、康夫から返信が来た。
『焦げてるくらいが丁度ええんや。それが我が家の味やからな。……あと、あんまり無理すなよ。アカンと思ったら、いつでも帰ってこい』
添えられていた写真は、相変わらず散らかった台所で、ドヤ顔を決めている父の姿だった…