SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#336    優しい嘘を纏って生きていく Living in Gentle Lies

第一章:鏡の中の知らない男

 

 

 

 

 


​朝の光が、静かな寝室のカーテンを透かして、白いシーツの上に柔らかな縞模様を描いている。七十五歳になった健一は、隣で眠る妻、美族(みたけ)の穏やかな寝顔をじっと見つめていた。彼女の肌には、共に歩んできた四十年の歳月が刻まれている。健一にとって、そのシワの一つ一つが、二人で乗り越えてきた苦難や、分かち合ってきた喜びの証だった。しかし、美族がゆっくりと目を開けた瞬間、その瞳の中に宿っているのは、愛する夫への信頼ではなく、見知らぬ不審者に対する戸惑いと、淡い期待。

 

 

 

 

 

 

 

​「……おはようございます。あなたは、どなたですか?」

 

 

 

 

 

美族の声は、鈴を転がすように澄んでいる。しかし、その言葉は健一の胸を鋭く突き刺す。美族の記憶は、三年前から少しずつ、砂時計の砂が落ちるように失われていた。最近では、自分の家であることも、目の前にいる男が夫であることも、思い出せなくなっている。彼女の記憶は、二十歳の頃、彼女が最も激しく、そして情熱的に恋をしていた時代で止まっていた。

 

 

 

 

 

 

「おはよう、美族さん。私は……君の世話を任されている者だよ…」

 

 

 

 

 

 

健一は、引き裂かれそうな心を押し殺して、穏やかな微笑みを作る。

 

 

 

 

 

 

「そうですか。……今日も、健一さんは来ないのかしら…」

 

 

 

 

 

 

​美族が呼ぶ「健一」とは、今の目の前にいる老いた健一のことではない。彼女の記憶の中に住む、若くて、髪が黒々と茂り、ギターを弾くのが得意だった、あの頃の「健一」。彼女は、かつての恋人がいつか迎えに来てくれると信じて、毎日を待ち続けている。目の前にいる、腰が曲がり、髪の薄くなった老人が、その恋人の成れの果てだとは、夢にも思ってなどいない。

 

 

 

 

 

 

「健一さんはね、今、遠いところで大切な仕事をしているんだよ。でも、あなたのことを片時も忘れていないと言っていた…」

 

 

 

 

 

 

「まあ……。本当ですか? 彼は、私のことをまだ好きでいてくれるのかしら。最近、自分の顔を鏡で見るのが怖いの。なんだか、知らないおばあさんが映っている気がして…」

 

 

 

 

 

 

​健一は、鏡をすべて白い布で覆い隠した。彼女が自分自身の老いに怯えないように。そして、自分が「偽物」であることを悟られないように。

 

 

 

 

 

 

「あなたは、世界で一番美しいですよ、美族さん。健一さんも、そう言っていました。だから、安心していいんです…」

 

 

 

 

 

 

健一は、美族の手を握った。その手は、かつてのように滑らかではないが、彼にとってはかけがえのない、守るべき宝物だった。嘘を纏って生きる。それが、彼女の心に平和をもたらす唯一の道だと信じて、健一は今日も「見知らぬ親切な同居人」を演じ始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

​第二章:偽りの恋文と、消えない旋律

 

 

 

 

 


​午後の日差しがリビングを暖かく満たす頃、美族はいつも決まって、古い木箱を膝の上に乗せて座っている。中には、かつて二人が交わした、色褪せた手紙の束が入っている。美族はそれを一枚ずつ丁寧に取り出し、指先で文字をなぞっていく。

 

 

 

 

 

 

 

「見てください。これは健一さんが、初めて私にくれた手紙なんです。『君の笑い声は、春の風のようだ』って書いてあるのよ。彼、意外とロマンチストだったんですよ…」

 

 

 

 

 

 

美族は、少女のような笑顔を浮かべて、健一に手紙を見せる。その文字を書いたのは、紛れもなく健一自身だった。しかし、今の健一の手は震え、同じような力強い文字を書くことはもうできない。

 

 

 

 

 

 

​「そうですね。彼はあなたのことが、本当に大切だったんですね…」

 

 

 

 

 

 

「ええ。……でも、最近、彼からの手紙が届かないんです。もしかして、身体の調子でも悪いんじゃないかしら…」

 

 

 

 

 

 

不安そうに眉を寄せる彼女を見て、健一は決意した。その夜、美族が眠りについた後、健一は書斎で必死にペンを握った。昔の自分の筆跡を思い出しながら、必死に右手の震えを抑えて、愛の言葉を綴っていった。

 

 

 

 

 

 

 

『愛する美族へ。仕事が忙しくて、なかなか会いに行けなくてごめん。でも、心はいつも君の隣にある。窓の外を見てごらん。月が綺麗な夜は、僕も同じ月を見ているよ。……君の健一より』

 

 

 

 

 

 

​翌朝、健一は郵便受けにその手紙を忍ばせ、あたかも今届いたかのように美族に手渡した。

 

 

 

 

 

 

「美族さん、健一さんから手紙が届いていますよ!」

 

 

 

 

 

 

「まあ! 本当ですか!」

 

 

 

 

 

 

手紙を開く彼女の指が、喜びに震えていた。それを読み進めるうちに、彼女の瞳には涙が浮かび、顔全体が輝くような幸福感に包まれた。

 

 

 

 

 

 

「ああ、よかったわ……。彼はまだ、私を想ってくれている。この手紙の匂い、健一さんの匂いがします…」

 

 

 

 

 

 

​実際には、その手紙から漂っているのは、健一が愛用している湿布薬と、古びた紙の匂い。しかし、彼女の思い出というフィルターを通せば、それは若き日の恋人の香りへと変換されていた。健一は、美族の隣で、自分が書いた手紙を喜ぶ彼女を見て、何とも言えない切なさに襲われた。美族が愛しているのは、今の自分ではない。彼女が喜んでいるのは、自分が必死についた嘘の結果。

 

 

 

 

 

 

 

もし、真実を告げればどうなるだろう。「健一さんは、すぐ隣にいる。この老いぼれた男が、健一なんだ」と。

 

 

 

 

 

 

美族はきっと、恐怖に叫び、絶望に打ちひしがれるだろう。自分自身の老いと、失われた時間、そして恋人が醜く変わってしまったという事実に、彼女の心は耐えられないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

​「……ねえ、あなた」

 

 

 

 

 

 

美族が、手紙を胸に抱きしめながら言った。

 

 

 

 

 

 

 

「健一さんが帰ってきたら、二人で海に行きたいわ。あの人がギターを弾いて、私が歌うの。……健一さんは、今でもギターを弾いているのかしら…」

 

 

 

 

 

 

「ああ、きっと弾いていると思います。あなたのために、新しい曲を弾いているはずです…」

 

 

 

 

 

 

健一は、クローゼットの奥に仕舞い込まれた、弦の切れたギターを思い出した。もう何年も触っていない。関節が痛む今の指では、コードを押さえることすら難しい。それでも、健一は嘘を重ねていく。彼女の笑顔という、脆くて美しいガラス細工を守るために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

​第三章:名前のない記念日

 

 

 

 

 

 


​カレンダーの数字が、二人の結婚記念日の日を指していた。美族にとっては、ただの「健一さんの帰りを待つ一日」に過ぎない。彼女の中では、結婚という出来事さえも、霧の向こう側に消えてしまっている。健一は、朝から台所に立ち、美族が昔好きだった料理を作った。焦がさないように、慎重に火加減を調節し、彼女の好みの味付けを再現した。

 

 

 

 

 

 

 

「今日は、健一さんから特別な言付けを預かっていますよ。今日はあなたにとって、とても大切な日だから、豪華な食事を楽しんでほしいと…」

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、何の日かしら。私の誕生日でもないし……。あ、もしかして、私たちが初めて出会った日?」

 

 

 

 

 

 

「……そうかもしれませんね」

 

 

 

 

 

 

 

​健一は、テーブルに花を飾り、ワインの代わりに少し良いブドウジュースをグラスに注いだ。食卓を囲みながら、美族は楽しそうに昔話を語る。健一が忘れていたような、些細な出来事まで、彼女は鮮明に覚えている。

 

 

 

 

 

 

「あの人はね、雨の日に傘を忘れる癖があったの。いつも私の傘に入ってきて、右肩をびしょ濡れにしながら歩いていたわ。……あなたは、そんな風に誰かを愛したことがありますか?」

 

 

 

 

 

 

美族に尋ねられ、健一は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 

 

 

 

 

「はい。……私も、ある女性を深く愛していますよ。彼女のためなら、自分の名前さえ捨ててもいいと…」

 

 

 

 

 

「あなたは素敵な方ですね。その女性は、幸せ者だわ!」

 

 

 

 

 

​美族は、目の前にいる男が、その「幸せ者」である自分自身だとは気づかずに、優しく微笑んだ。食事の途中、美族がふと、健一の顔をじっと見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

「……不思議ね。あなたと話していると、時々、健一さんと話しているような錯覚に陥るんです。声のトーンや、笑い方が、どことなく似ている気がして…」

 

 

 

 

 

 

健一は心臓が跳ね上がるのを感じた。記憶の断片が、奇跡的に繋がろうとしているのかもしれない。しかし、次の瞬間、彼女は首を振って笑った。

 

 

 

 

 

 

 

「失礼なことを言ってしまいました。ごめんなさい。健一さんは、もっと……もっとシュッとしていて、若々しい方ですものね。あの方が、あなたのような立派な老紳士になるには、まだ何十年もかかるはずだわ…」

 

 

 

 

 

 

 

​立派な老紳士。その言葉に含まれた「他人」としての敬意が、健一の心を冷たく冷やした。自分は、彼女にとっての「健一」ではなく、ただの「親切な誰か」でしかない。どんなに尽くしても、どんなに愛を注いでも、彼女に届くのは「過去の自分」への感謝だけ。

 

 

 

 

 

 

「……そうですね。健一さんは、いつまでも若くて、かっこいいままだと思います。あなたの記憶の中にいる彼が、本当の彼なんです…」

 

 

 

 

 

 

 

健一は、自分自身を否定するように言った。夜、寝室に向かう美族の背中に向かって、健一は心の中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

(おめでとう、美族。四十回目の結婚記念日だ。……愛しているよ…)

 

 

 

 

 

 

 

その言葉が、彼女の耳に届くことは永遠にない。健一は、静まり返ったリビングで、一人、冷めたスープを飲み干した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

​第四章:夜の淵の告白

 

 

 

 

 

 


​冬が近づき、夜の冷え込みが厳しくなった頃、美族の体調が少しずつ崩れ始めた。夜中に突然目を覚まし、「ここはどこ? 家に帰らなきゃ!」とパニックを起こすことが増えた。健一は、そのたびに彼女を抱きしめ、「大丈夫ですよ、ここがあなたの家ですよ!」となぐさめ続けた。ある夜、激しい嵐が窓を叩いていた。美族は、雷の音に怯え、健一の腕の中で子供のように震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……怖い。健一さんはどこにいるの? どうして、こんなに暗いの?」

 

 

 

 

 

 

「ここにいますよ、美族さん。大丈夫、私が守りますから…」

 

 

 

 

 

 

 

健一は、美族を安心させるために、かつて彼女が好きだった子守唄を、掠れた声で歌い始めた。歌い終わると、美族は静かに涙を流していた。

 

 

 

 

 

 

 

「……その歌。健一さんが、私がいつも歌ってくれた歌です。どうして、あなたが知っているの?」

 

 

 

 

 

 

健一は、答えることができなかった。沈黙が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

「……ねえ、本当のことを教えてください。あなたは、誰なの? 健一さんは、もう……この世にはいないの?」

 

 

 

 

 

 

彼女の瞳に、今までになかったような鋭い光が宿った。病の霧が、一時的に晴れたのかもしれなかった。健一は、息が止まりそうになった。ここで真実を言えば、彼女の記憶を、彼女の平穏を、永遠に壊してしまうことになる。しかし、彼女の悲しげな瞳を見て、健一の心の中に、何十年も溜め込んできた孤独が溢れ出してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

​「……私は」

 

 

 

 

 

 

健一は、唇を噛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「僕は……君の健一だよ、美族。ずっと、隣にいたんだ。髪が白くなっても、シワが増えても、君を愛しているのは、僕なんだ…」

 

 

 

 

 

 

 

美族は、目を見開いた。彼女は健一の顔を見つめた。やがて、美族の瞳から光が消え、再び深い霧が立ち込めるのが分かった。彼女は、健一の手を優しく払い、悲しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「……嘘をつかないでください。あなたは、本当に優しい人だけど、そんな嘘は言わないで。私の健一さんは、もっと……太陽みたいな人です…」

 

 

 

 

 

 

​彼女は、健一の告白を「嘘」だと断じた。真実を伝えたはずの言葉が、彼女にとっては、最も受け入れがたい「残酷な嘘」になってしまった。彼女が信じている「真実」は、過去の記憶の中にしか存在しない。健一は、崩れ落ちるように床に膝をついた。

 

 

 

 

 

 

「……ごめんなさい。そうですね。僕は、健一さんじゃない。ただの、嘘つきな老人だ…」

 

 

 

 

 

 

「いいえ、いいんですよ。……疲れているんでしょう。明日は、きっと健一さんが帰ってくるわ。そんな予感がするの!」

 

 

 

 

 

 

 

​美族は、再び穏やかな眠りへと落ちていった。健一は、嵐の音を聞きながら、暗闇の中で一人、声を殺して泣いた。自分が誰であるかを証明する術は、もう何もない。自分が最も愛する人にとって、自分は「死んだも同然の存在」であることを、彼は突きつけられた。優しい嘘は、今や健一自身を縛り付ける鎖となってしまい、彼を永遠の孤独へと閉じ込めてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

​第五章:降り積もる忘却の果てに

 

 

 

 

 

 


​春が来た。庭の桜が、かつて二人が出会った頃と同じように、淡いピンク色の花を咲かせている。美族の病状はさらに進行し、今ではもう、言葉を発することも少なくなっていた。彼女は、窓辺の椅子に座り、ただぼんやりと外を眺めている。手元には、あの日、健一が代筆した手紙が握られている。

 

 

 

 

 

 

 

健一は、彼女の隣に座り、彼女の細くなってしまった指を、自分の震える手で包み込んだ。彼女はもう、彼が誰であるかどころか、自分が誰を待っているのかさえも、忘れてしまったようだった。

 

 

 

 

 

 

 

​「……美族さん。桜が綺麗ですよ!」

 

 

 

 

 

 

 

健一が語りかけても、彼女は反応しない。ただ、遠くを見つめる瞳に、一筋の涙が流れた。彼女は、何を悲しんでいるのか。届かない手紙のことだろうか。どれだけ待っていても帰ってこない恋人のことなのか。それとも、自分の心の中から、大切な何かが消えていくことへの、本能的な恐怖だろうか…健一は、彼女の涙をそっと指で拭った。

 

 

 

 

 

 

 

「……大丈夫ですよ。あなたがすべてを忘れても、私が覚えていますから。あなたが私を忘れても、私があなたを愛していますから…」

 

 

 

 

 

 

 

​健一は、静かに立ち上がり、クローゼットの奥からギターを取り出した。弦は錆びつき、音は狂っている。彼は、痛む指で、不器用に弦を弾いた。ポロン、と悲しい音がリビングに響く。それは、かつて彼女が大好きだった、ある歌のメロディ。美族の体が、微かに震えた。彼女は、ゆっくりと顔を上げ、健一の方を見た。その瞳に、一瞬だけ、懐かしそうな色が浮かんだような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

「……健、ちゃん?」

 

 

 

 

 

 

​健一の心臓が、激しく高鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

「そ、そうだよ、美族! 僕だよ、健一だよ!」

 

 

 

 

 

 

 

彼はギターを投げ出し、彼女の元へ駆け寄った。しかし、彼女の視線は、すぐに彼を通り抜け、再び窓の外へと向かってしまった。

 

 

 

 

 

 

「……いいえ。気のせいね。……健一さんは、もっとギターが上手だったもの…」

 

 

 

 

 

 

彼女は、再び忘却の底へと沈んでいった。それが、彼女が最後に発した、健一の名前だった。数日後、美族は眠るように息を引き取った。その顔は、驚くほど穏やかで、まるで長い待ち時間を終えて、ようやく愛する人に会えたかのような幸福感に満ちていた。彼女の枕元には、健一が代筆した手紙が、大切に置かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

葬儀を終え、誰もいなくなってしまった家で、健一は一人、美族がいつも座っていた椅子に腰を下ろした。家の中は、恐ろしいほどの静寂に包まれている。

 

 

 

 

 

 

 

もう、自分を「別の誰か」として演じる必要はないのだ…

 

 

 

 

 

自分は、ようやく「健一」という名前に戻ることができた。しかし、その名前を呼んでくれる人は、もうこの世界のどこにもいない。健一は、テーブルの上に置かれた、美族の写真を見つめた。その写真に映っているのは、二十歳の頃の、弾けるような笑顔の美族。彼女は、永遠に若いままの「健一」と一緒に、記憶という名の天国へ旅立っていった。残されたのは、老いさらばえ、嘘を纏い続けて自分を見失った、抜け殻の男だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

​健一は、再びギターを手に取った。窓の外では、風に舞った桜の花びらが、雪のように地面を白く染めている。彼は、音の外れたギターを弾きながら、掠れた声で歌い始める。それは、愛の歌であり、鎮魂歌であり、そして自分自身の存在を確かめるための、絶望的な叫び。

 

 

 

 

 

 

 

 

風にかき消され、誰に届くこともなく…