SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#351   死の受け止め方の下手さ Failing to Face Death

第一章:布の層、重なる記憶

 

 

 

 

 


その部屋の空気は、春先だというのに驚くほど重く、そしてどこか埃っぽい。二十五歳の真希は、鏡の前に立ち、自分の姿をじっと見つめている。彼女の体は、異様な厚みに包まれている。一番下には、薄いキャミソール。その上に、淡い水色のブラウス。さらにその上に、厚手のウールカーディガン。そして、今はその上から、焦げ茶色のロングコートを羽織ろうとしていた。

 

 

 

 

 

 


これらはすべて、半年前の冬に交通事故で亡くなった姉、美咲の遺品だった。真希にとって、美咲は単なる姉ではなかった。両親を早くに亡くした二人にとって、美咲は親代わりであり、親友であり、そして人生の羅針盤そのものだった。美咲が選ぶ服、美咲が好む音楽、美咲が笑うタイミング。真希はそれらすべてをなぞるようにして生きてきた。だから、葬儀が終わった後、美咲のクローゼットに残された大量の服を前にしたとき、真希はそれを「整理する」という選択肢をどうしても持つことが出来なかった。

 

 

 

 

 

 


「これを捨てたら、お姉ちゃんの居場所がこの世からなくなってしまう…」

 

 

 

 

 


真希はそう確信していた。最初は、姉が気に入っていたマフラーを巻くだけだった。その次は、パジャマの下に姉のTシャツを重ねた。そうして一枚、また一枚と、真希は姉の服を自分の体の上に乗せていった。真希の腕は、何層にも重なった布のせいで、横に広げることが難しいほど膨らんでいた。

 

 

 

 

 

 


「……真希、今日もそれで行くの?」

 

 

 

 

 


同居している幼馴染の沙織が、玄関で心配そうに声をかけた。

 

 

 

 

 


「うん。これ、お姉ちゃんが最後に買ったコートなんだ。まだ一回しか着てなかったから、私が代わりに着てあげないと…」

 

 

 

 

 


真希の声は、服の襟元に埋もれて、少しこもって聞こえた。体感温度は、常に異常なほど高い。外は少しずつ暖かくなっているというのに、彼女は冬の重装備を脱ぐことができない。いや、脱ごうとすると、心臓のあたりから氷のような冷気が噴き出してくるのを感じてしまう。服を重ねることは、真希にとって「死を受け止める」ことの代わりだった。

 

 

 

 

 

 


姉の死という、形のない、底なしの虚無。それを直視する代わりに、彼女は姉が触れていた物質――布という名の皮膚を、自分の体いっぱいに密着させた。布の一枚一枚に、姉の匂いが、姉の体温の記憶が染み込んでいる。それを着込んでいる間だけ、真希は自分が一人ではないと感じることができた。

 

 

 

 

 

 

 


たとえ、歩くたびに布同士が擦れる音がうるさくても、どんなに汗をかいて呼吸が苦しくなっても…

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第二章:重力の檻、動かない日常

 

 

 

 

 

 


一ヶ月が過ぎ、季節は本格的な春を迎えていた。街を行く人々は、薄手のジャケットやシャツ姿に変わり、軽やかな足取りで駅の階段を上り下りしている。その中で、真希の姿は異様を極めていた。彼女が着込んでいる服の総重量は、すでに十キロを超えていた。下着からコートまで、合計で十五枚以上の服が、彼女の細い体にのしかかっている。

 

 

 

 

 


真希の動きは、まるで泥人形のように緩慢だった。腕を上げる、鞄を持つ、靴紐を結ぶ。そんな当たり前の動作の一つ一つが、重い重り(ウェイト)を引きずりながら行う過酷な労働へと変わっていた。

 

 

 

 

 

 


「真希、もう見ていられないよ。病院に行こう? それは弔いじゃない、自分を壊してるだけだよ…」

 

 

 

 

 

 


沙織が何度も訴えたが、真希の耳には届かなかった。真希は、職場でもその格好を貫いていた。デザイン事務所のアシスタントとして働いていた彼女だったが、何枚も重ねた袖のせいで、マウスを操作することさえままならなくなっていた。

 

 

 

 

 


「真希さん、悪いけど、その格好じゃ仕事にならないわ。……お姉さんのことは気の毒だけど、公私混同が過ぎると思うわ…」

 

 

 

 

 


上司からの勧告を受け、真希は結局、休職することになった。それでも、真希は服を脱がなかった。むしろ、家に引きこもるようになると、さらに重ねる枚数は増えていった。昼間でもカーテンを閉め切った暗い部屋の中で、真希はソファに沈み込んでいた。服の重みで、背骨が少しずつ曲がり始めているのを感じる。座っているだけでも、肺が圧迫され、浅い呼吸しかできない。しかし、その「苦しさ」こそが、真希にとっては姉への献身の証だった。

 

 

 

 

 

 


(私は、お姉ちゃんの代わりに重さを引き受けているんだ。お姉ちゃんが死の瞬間に感じた苦しみを、私が少しでも肩代わりできれば、お姉ちゃんは向こうで楽になれるはず…)

 

 

 

 

 

 


そんな歪んだ理屈が、真希の思考を完全に支配していた。彼女にとって、服を脱ぐことは「姉を見捨てること」と同義だった。一枚脱いでしまえば、姉の存在が薄まっていき、遠ざかっていってしまう。その恐怖に比べれば、身体的な苦痛や社会的孤立など、取るに足らないものだった。

 

 

 

 

 

 


真希は、鏡を見ることも止めた。鏡に映るのは、不自然に膨れ上がった、人間とも怪物ともつかない塊。彼女はただ、目を閉じて、布の感触だけに集中する。ウールのチクチクとした刺激、綿の柔らかさ、ポリエステルの滑らかさ。それらが複雑に絡み合い、真希を外界から遮断する繭(マユ)のようになっている。

 

 

 

 

 

 

 


外の世界では、花が咲き、風が吹き、人々が新しい出会いに胸を躍らせている。しかし、真希の時間は、半年前の冬の日のまま、止まっている。彼女は、死者の衣装という名の牢獄の中で、静かに朽ちていくことを選んでいるようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第三章:汗と涙の飽和点、消えゆく境界

 

 

 

 

 

 


五月。梅雨の走りを感じさせる、湿った熱気が街を包み始めた。真希の部屋の室温は三十度近くに達していた。冷房をつければいいものを、真希は「お姉ちゃんが寒い思いをするから…」という理由で、頑なに窓を閉ざし、暖房器具を出しっぱなしにしていた。

 

 

 

 

 


彼女の体からは、滝のような汗が流れ落ちている。
汗は、何層にも重なった服に吸収されていき、布は水分を含んでさらに重さを増していく。湿った布が肌に張り付き、強烈な蒸れと不快感が真希を襲う。
真希はその不快感さえも「姉との一体感」として歓迎した。

 

 

 

 

 

 

 


「……まき……」

 

 

 

 

 

 


幻聴だろうか。服の層の奥底から、美咲の声が聞こえたような気がした。真希は、必死に自分の胸元を探った。一番奥にある、姉がよく着ていた薄いコットンのタンクトップ。その布に耳を押し当てるようにして、真希は身体を丸めた。自分の心臓の音が、厚い布に阻まれて、遠くの太鼓のように低く響く。

 

 

 

 

 

 

 


(お姉ちゃん、どこ? もっと、もっと近くに来てよ…)

 

 

 

 

 

 


真希は、さらに服を重ねようと、床に散らばった姉のカーディガンを手に取った。しかし、もはや彼女の腕は、自分の胸元まで上がらなかった。肩の関節が、服の厚みに阻まれてロックされている。もはや彼女自身の肌がどこにあり、姉の服がどこから始まっているのか、その境界が曖昧になっていた。汗と涙でぐしょぐしょになった布の塊。それは、真希という個人の形を完全に消し去り、ただ「美咲の遺品の集積」という無機質な物体へと変質させていた。

 

 

 

 

 

 


沙織が部屋に入ってきても、真希は返事をしない。食事も、服の隙間からストローで栄養剤を流し込むだけ。真希の意識は、常に過去へと向かっていた。

 

 

 

 

 

 


あの時、もし自分が車を運転していたら…

 

 

 

 


あの時、もし姉を買い物に行かせなかったら…

 

 

 

 

 

 

 


ある夜、真希はひどい脱水症状に陥り、意識を失いかけた。熱に浮かされる頭の中で、彼女は美咲の姿を見た。美咲は、いつも通りの穏やかな笑顔で、お気に入りの白いワンピースを着て立っていた。それは、真希がいま一番上に着込もうとして、諦めた服だった。

 

 

 

 

 

 


「真希、重くない?」

 

 

 

 

 

 


美咲が問いかけた。

 

 

 

 

 


「重いよ、お姉ちゃん。でも、脱いだらお姉ちゃんがいなくなっちゃう…」

 

 

 

 

 


「私は、服の中にいるんじゃないよ。私は、あなたの思い出の中にいるんだよ…」

 

 

 

 

 


美咲の手が、真希の頬に触れようとした。しかし、真希が何枚も重ねた分厚い襟(エリ)が邪魔をして、美咲の手は真希の肌に届かなかった。真希は、皮肉な現実に打ちのめされた。姉を感じるために着込んだ服が、結果として、姉の魂に触れることを拒んでいたから…

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 第四章:剥離の儀式、皮膚の痛み

 

 

 

 

 

 


六月、激しい雨が降り続く日のことだった。沙織は、ついに強硬手段に出ることに決めた。彼女は、近所に住む共通の友人を二人呼び、真希の部屋に押し入った。

 

 

 

 

 


「真希、もう終わりにするよ。このままじゃ死んじゃうわ!」

 

 

 

 

 


沙織たちは、真希をベッドの上に横たわらせ、無理やり服を脱がせ始めた。

 

 

 

 

 


「やめて! 触らないでよ! お姉ちゃんが、お姉ちゃんが逃げちゃう!」

 

 

 

 

 


真希は必死に抵抗した。重い服に自由を奪われた彼女の抵抗は、ひっくり返った亀のように無力だった。服を脱がせる作業は、まるで巨大な果実の皮を剥くような、異質な生物を解体するような、壮絶な光景だった。一番上のコートを脱がせ、その下のジャケットを脱がせ、カーディガンを脱がせる。ボタンを外し、ジッパーを下ろすたびに、内側に閉じ込められていた熱気と、汗の匂いが部屋中に広がった。

 

 

 

 

 

 


三枚、五枚、八枚……。

 

 

 

 

 

 


服が剥ぎ取られるたびに、真希の叫び声は小さくなっていった。代わりに、彼女の顔に現れたのは、むき出しの「恐怖」だった。服を一枚失うことは、彼女にとって肉体の一部を引きちぎられるのと同じ痛みだった。

 

 

 

 

 

 


「嫌よ……お願い、返して……」

 

 

 

 

 

 


真希の肌が、数ヶ月ぶりに外気に触れた。汗でふやけ、青白くなった皮膚。そこには、服のボタンや縫い目が、まるで焼印のように深く刻み込まれていた。そして、最後の一枚。美咲が最も大切にしていた、コットンのタンクトップ。真希は、それだけは握りしめて離さなかった。

 

 

 

 

 

 

 


「これだけは、これだけはダメ……!」

 

 

 

 

 

 

 


「真希、お姉さんはここにいないの。……見て。ここにあるのは、ただのタンクトップなの!」

 

 

 

 

 


最後の一枚が、真希の体から剥がされた。その瞬間、真希は全身を襲う激しい「寒さ」に襲われた。
エアコンもついていない、蒸し暑い部屋であるはずが、彼女は突然、北極の真ん中にでも放り出されたような絶望的な孤独を感じた。

 

 

 

 

 

 



(支えてくれる重みが、どこにもない…)

 

 

 

 

 

 


真希は、自分の細い腕を抱きしめた。美咲の服の温もりではない、自分の冷たく痩せ細った肌の感触。
部屋の床には、山のような服が積み上がっていた。
それは、ついさっきまで「姉」だったものの抜け殻。真希は、抜け殻の山を見つめながら、初めて、姉がもうこの世のどこにもいないという事実を、逃げ場のない真実として突きつけられた。

 

 

 

 

 

 

 


彼女は、子供のように声を上げて泣いた…
 

 

 

 

 

 

 

 


第五章:空っぽのクローゼット、終わらない弔い

 

 

 

 

 

 


真希がすべての服を脱いでから、二週間が経った。
彼女は、病院のベッドの上で、静かに窓の外を眺めていた。体温調節機能が狂ってしまった彼女の体は、まだ時折、激しい震えに襲われる。今はもう、姉の遺品を身に着けることはしていない。

 

 

 

 

 

 


病院から支給された、何の変哲もない綿のパジャマ。その軽さが、最初は怖くて仕方がなかったが、今は少しずつ、その軽さに慣れようとしている。
あの大量の服たちは、真希の承諾を得て、沙織が、クリーニングに出した後、段ボール箱に詰められていった。

 

 

 

 

 

 

 


「真希、これ、どうする? ……いつか、また着る?」

 

 

 

 

 


沙織の問いに、真希は首を振った。

 

 

 

 

 


「……ううん。……誰かに、あげて。……お姉ちゃんの服が、誰かを温めるために使われるなら、お姉ちゃんもきっと喜ぶと思うから…」

 

 

 

 

 

 


それは、真希がようやく手に入れた、「死の受け止め方」だった。自分を閉じ込めるのではなく、姉の一部を世界に解き放つこと。そうしなければ、自分も姉も、永遠に闇の中に閉じ込められたままだと気づいたのだ。

 

 

 

 

 

 


やがて退院し、真希は自分のアパートに戻った。クローゼットを開けると、そこは驚くほどガランとしている。かつて、溢れんばかりに詰め込まれていた姉の服は、そこに一枚もない。真希は、クローゼットの奥を指でなぞった。木の匂い、そして静寂。
 

 

 

 

 

 


「……お姉ちゃん」

 

 

 

 

 

 


 
冷たい風が、心の隙間を通り抜けていくような感覚…
 
 

 

 

 

 


 
真希は、買ったばかりの真っ白なシャツに袖を通した。

 

 

 

 

 


 
シャツに、自分の体温と、姉の思い出を静かに宿して…