第一章:銀河帝国の襲来と、たった一枚の提出書類
その日、地球の空は巨大な鉄の板で覆い尽くされた。宇宙の果てからやってきた銀河帝国「ギガ・ザ・ビュロクラシー」の主力艦隊である。彼らはこれまで、数千の惑星をその圧倒的な軍事力で支配してきた。だが、彼らの本当の強さは武力ではない。宇宙で最も緻密で、最も冷酷な「管理システム」こそが、彼らの支配の正体だった。
銀河帝国の全権大使、ザ・ドロドロは、円盤から地上へと降り立ち、日本の東京都千代田区にある役所の窓口の前に立った。彼は身長三メートル、触手が六本あり、全身が青いゼリーのように光っている。ザ・ドロドロは、六本の触手で掲げた黄金のプレートを、窓口の職員に見せつけた。
「地球人よ、聞け。我が帝国は本日をもって、この惑星を植民地として管理下に置く。これは皇帝の署名が入った公式な宣戦布告および占領宣言である。速やかに手続きを進め、全人類の資産を我が方に明け渡せ!」
窓口に座っていたのは、勤続二十年のベテラン職員、佐藤さんだった。佐藤さんは、眼鏡を指で押し上げ、目の前に現れた巨大な宇宙人をじろじろと見た。彼は驚くふうもなく、ただ深いため息をついた。
「……すいません、お客様。ここは『住民票の発行』と『住所変更』の窓口なんですよ。地球の占領とか、そういう大きな話は、お隣の『地域振興課』の、さらに奥にある『非常事態対策室』の方へ行ってください!」
「な、何だと? 私は宇宙の覇者だぞ! このプレートが目に入らぬか!」
「ええ、よく見えますよ。でも、大きすぎて受付のトレイに乗らないんです。あと、そのプレート、日本語で書いてありませんよね? 翻訳文をつけてもらわないと、内容の確認ができないんですよ…」
ザ・ドロドロは困惑した。これまで、どんな惑星の住人も、このプレートを見せれば絶叫して逃げ出すか、その場で跪いた。だが、この「サトウ」という男は、まるで「賞味期限の切れた牛乳」でも見るような目で、銀河の至宝を見ている。
「わ……わかった。ならばその、ヒジョージタイ対策室とやらへ行く。そこへ行けば、すぐに支配が完了するのだな?」
「さあ、どうでしょうね。あそこは今、お昼休みに入っちゃいましたから。午後一時までお待ちください…」
「お昼休み……? 全宇宙の運命が決まろうとしている時に、飯を食うというのか!」
「ええ、労働基準法がありますからね…」
ザ・ドロドロは、怒りで全身のゼリーを煮え立たせた。だが、帝国のルールでは「現地の法律と手続きを尊重すること」が、効率的な管理の第一歩とされている。彼は渋々、役所の硬いプラスチックの椅子に座り、番号札「四百四十四番」を握りしめて、一点が来るのを待つことにした。
これが、人類史上最も長く、そして最もバカバカしい「手続きの戦い」の始まりになるとは、ザ・ドロドロはまだ知る由もなかった…
第二章:魔の「侵略届」と、消えた印鑑の謎
午後一時。ザ・ドロドロは「非常事態対策室」の扉を蹴破らんばかりの勢いで開けた。そこには、さらに疲れ切った顔をした課長の上野さんが座っていた。上野さんは、ザ・ドロドロが差し出した黄金のプレートを、虫眼鏡で念入りに調べた。
「なるほど、地球の占領ですね。承りました。では、まずこちらの書類、『地球侵略および植民地化に関する申請書(様式第一号)』を記入してください…」
差し出されたのは、あまりにも薄っぺらい、わら半紙のような紙だった。
「……これだけか? これを書けば、この星は私のものか?」
「いえ、これはあくまで『相談を受け付けました』という記録のための紙です。本番の手続きは、この後の審査に通ってからになりますので…」
ザ・ドロドロは、六本の触手を駆使して、猛スピードで記入を始めた。氏名、住所(銀河系第三腕、オリオン腕、座標……)、侵略の目的(全資源の剥奪)、予定される犠牲者数(全人類)。
「書いたぞ! これを持っていけ!」
上野さんは、差し出された紙をじっと見つめ、首を横に振った。
「お客様……。ここ、住所の欄ですけどね。『銀河系』から書き始めてもらわないと困るんですよ。あと、この『全資源』っていうのは、具体的じゃないですよね。金、銀、銅、それともお米ですか? 品目ごとに別紙を作成して、それぞれの在庫証明書を添付してください…」
「在庫証明書!? そんなもの、今から略奪するのだから持っているわけがないだろう!」
「ええ、ですから、略奪した後に提出していただいても結構ですが、その場合は『仮占領届』が必要になります。それには、近隣住民……つまり、火星人や金星人の同意書が必要です…」
ザ・ドロドロは絶叫した。
「火星には微生物しかいない! 金星は灼熱で誰も住んでいない!」
「それはお客様の主張ですよね。こちらとしては、公的な機関が発行した『無人環境証明書』がない限り、同意書を省略することはできないんですよ…」
ザ・ドロドロは、宇宙船の科学班に連絡し、特急で金星の無人証明書を作成させた。三時間後、彼は再び窓口に立った。
「持ってきたぞ! これですべて揃ったはずだ!」
上野さんは書類を受け取り、ぱらぱらと捲った。そして、最も残酷な一言を放った。
「……お客様。印鑑は?」
「いんかん……? それは何だ?」
「これですよ、これ…」
上野さんは、自分の机から小さな認め印を取り出し、紙にポンと押してみせた。
「これが、本人の意思であることを証明する唯一の手段です。銀河皇帝の署名? いえいえ、そんな手書きのサインじゃダメです。ちゃんと三文判でいいですから、皇帝の名前を彫った判子を押してください…」
「皇帝は、体長五十メートルの火の鳥のような姿だぞ! 判子を持つ指などない!」
「指がなければ、口でくわえて押してください。あ、シャチハタは不可です。朱肉を使うタイプにしてくださいね…」
ザ・ドロドロは、母船に通信を飛ばした。
「緊急事態だ! 皇帝閣下の名前を彫った特大の印鑑を、至急製造しろ! 素材は象牙……いや、宇宙象牙だ! 急げ!」
宇宙の覇者たちが、一個の判子を作るために、高度なナノテクノロジーを駆使して彫刻を開始した。その間、ザ・ドロドロは役所のロビーで、冷えた缶コーヒーを飲みながら、壁に貼られた「不法投棄禁止」のポスターを眺めて、虚無の時間を過ごした。
第三章:無限の差し戻しと、三世代にわたる待合室
そして季節は、秋から冬へと変わった。ザ・ドロドロは、すっかり役所の常連になっていた。皇帝の印鑑はようやく完成したが、今度は「書類のホチキスの留め方が違う」とか「数字の『7』の書き方が、海外式で斜線が入っているから機械が読み取れない」とか、ありとあらゆる理由で差し戻された。
「上野……! 今日こそは完璧だ! 見てみろ、この『侵略計画図』を! 全ページに皇帝の割印を押してやったぞ!」
上野さんは、分厚い書類の束を一ページずつ、指にキャップをつけて捲っていった。
「……惜しいですね。ザ・ドロドロさん。ここ、十五ページの隅っこ、印影が少し欠けています。これだと、後で法務局で弾かれちゃうんですよ。全部、刷り直しです…」
「な、ななな……全部だと!? 千ページあるんだぞ!」
「ええ、一枚でも不備があれば、全体として無効になりますからね…」
ザ・ドロドロは、あまりのショックに、青いゼリーの体が少しずつ白濁していった。彼は気づけば、役所の地下にある食堂で、定食を食べるのが日課になっていた。
「……おばちゃん、サバ味噌定食、ご飯大盛りで!」
「はいよ、宇宙人さん。今日も手続き大変だねぇ…」
食堂のおばちゃんだけが、彼の唯一の理解者だった。月日は流れ、ザ・ドロドロの寿命が尽きようとしていた。彼の種族は、地球の時間でいえば百年ほどしか生きられない。
「……息子よ、あとの手続きは……頼んだぞ……」
「はい、父上。必ずや、地球を我らのものに……!」
二代目、ザ・ネバネバが手続きを引き継いだ。しかし、彼を待っていたのは、さらなる地獄絵図だった。
「あ、二代目さん。お父様が亡くなられたんですね。それじゃあ、まず『占領権の相続手続き』から始めてもらわないと。あと、皇帝閣下も代替わりしましたよね? 新皇帝の『印鑑証明書』が必要です…」
「印鑑証明……? それはどこでもらえるんだ?」
「銀河帝国の首都星にある役所でしょうね。あ、日本語の翻訳文をつけて、現地の日本大使館で公証を受けてから持ってきてくださいね…」
二代目は、宇宙船を銀河の果てまで飛ばし、数十年かけて書類を集めた。彼が地球に戻ってきたとき、役所の建物は新しくなり、窓口の佐藤さんや上野さんは、すでに退職しており、彼らの息子たちが働いていた。
「……すいません、この手続きですけど」
新しい窓口の担当者は、古びた書類の束を見て、首を傾げた。
「ああ、これ。旧式の『様式第一号』ですね。これ、三年前の法改正で廃止になったんですよ。今は全部オンライン申請なんです。マイナンバーカード、持ってますか?」
「マイナンバー……? 俺たちは宇宙人だぞ!」
「あ、宇宙人の場合は、まず『特別永住者』としての登録が必要です。それには、地球に百箇所以上の拠点を構えているという実績証明が必要で……」
三代目のザ・ベトベトが手続きを引き継いだ頃には、銀河帝国側でも、なぜ自分たちが地球を侵略しようとしているのか、その理由を知る者がいなくなっていた。ただ、代々の司令官が残した「この役所の審査を通せ!」という呪いのような命令だけが、組織を動かしていた。
第四章:文明の黄昏と、最後に残った「ペン」
侵略開始から、三百年が経過した。かつて空を覆い尽くしていた巨大な鉄の板、銀河帝国の旗艦は、メンテナンス不足と経年劣化により、あちこちが錆びついていた。宇宙船の中では、かつての最新兵器は骨董品となり、兵士たちは戦うことよりも、書類を整理し、判子を真っ直ぐに押す訓練に明け暮れていた。彼らはもはや侵略軍ではなく、銀河で最も「事務処理能力に長けた集団」へと変貌していた。
一方、地球の側も変化していた。度重なる異常気象や資源の枯渇により、人類の文明は衰退し始めていた。かつてのデジタル社会は崩壊し、皮肉なことに、再び「紙と判子」の時代へと逆戻りしていた。
十代目のザ・ヌルヌルは、ついに、三百年かけて集めた全ての書類を、ボロボロになったトランクに詰めて役所の前に立った。書類の総重量、二十トン。
彼は、それを数百台の台車に乗せて、役所のロビーを埋め尽くした。
「……これですべてだ。三万種類の証明書、五万個の同意書、そして、銀河皇帝の指紋、羽毛、DNA配列まで全て添付した。文句はあるまい!」
窓口にいたのは、佐藤さんのひ孫にあたる、佐藤四朗さんだった。佐藤四朗さんは、その膨大な書類の山を見て、深いため息をついた。
「……すごいですね。これだけの熱意、感服します!」
彼は、書類を最初から最後まで、三日間かけてチェックした。ザ・ヌルヌルは、その間、一歩も動かずに結果を待った。四日目の朝、佐藤四朗さんが口を開いた。
「……合格です。全ての不備はありません。完璧な書類です。ザ・ヌルヌルさん、おめでとうございます。これにより、貴殿の『地球侵略および植民地化』の申請は正式に受理されました!」
ザ・ヌルヌルは、勝利の叫びを上げようとした。思えば三百年。自分たちの種族が追い求めてきた夢が、今、叶ったのだ。しかし、佐藤四朗さんは、申し訳なさそうにこう続けたのだった。
「……ただ、受理はされましたが、『執行』については、別の手続きが必要になります。あ、それとですね…」
「……なんだ?」
「この申請、有効期限が切れちゃってるんですよね…」
「……はぁ?」
「ほら、ここ。第一章の一ページ目。これ、西暦二三二六年に申請されたものですよね。現在の法律では、受理から一ヶ月以内に占領を開始しないと、申請自体が無効になるんです。でも、お客様が書類を全部揃えるのに時間がかかりすぎて、一番古い証明書の有効期限が、百五十年前に切れちゃってます…」
「……あ」
「というわけで、また最初から、証明書を取り直してきていただけますか?」
その瞬間、ザ・ヌルヌルの頭の中で、何かが音を立てて崩れた。彼は、手に持っていた、三百年書き続けてきた「宇宙ペン」を、床にポトリと落とした。
窓の外を見れば、銀河帝国の母船から、最後の一枚の外壁が剥がれ落ち、夕日に照らされてヒラヒラと落ちていくのが見えた。
帝国の財政は、この三百年の「書類作成費用」と「公証手数料」によって、完全に破綻していた。彼らにはもう、一回分のワープを動かす燃料も、一食分のバナナを買う金も残っていなかった。
第五章:去りゆく背中と、役所の静寂
翌朝、地球の空を覆っていた鉄の板は、影も形もなくなっていた。銀河帝国の残党たちは、書類の山を役所に残したまま、壊れかけた宇宙船で、とぼとぼと故郷の星へと帰り始めた。彼らは戦いに負けたのではない。地球という星の、底知れない「事務手続き」という名の沼に、沈められたのだ。
十代目のザ・ヌルヌルは、一人、砂浜に立ち、遠ざかっていく母船を見送っていた。彼の手には、もう判子もペンも握られていなかった。そこへ、定年退職を迎えた佐藤四朗さんが、釣竿を持って通りかかった。
「あら、ヌルヌルさん。帰らなくていいのかい?」
「……ああ。もう、あんなに書類を書く生活は嫌だ。私はここで、漁師として生きていくことにしたよ。魚を捕るのには、判子はいらないから…」
「そう。まあ、魚にもたまに『漁業権』とかの手続きがあるけどね。はっはっは…」
ザ・ヌルヌルは、佐藤さんの冗談に、苦笑いさえできなかった。彼は、自分が持っていた「地球侵略受理通知書」を、指先で小さく千切り、海へと投げた。紙の破片は、波に揉まれ、瞬く間に消えていった。三百年かけて築き上げた紙の城が、ただの水溶性のゴミとして処理された瞬間だった。
人類は、核兵器も、ビーム砲も使わずに、ただ『明日までにもう一通、書類を持ってきてください』と言い続けるだけで、宇宙最強の帝国を見事に滅ぼしてみせた。
ザ・ヌルヌルは、遠くの地平線を、静かな瞳で見つめた。そこには、かつて自分たちが支配しようとした美しい地球が、相変わらず無秩序で、そして果てしなく面倒くさそうな姿で横たわっていた。彼は、一歩、また一歩と、波打ち際へと歩き出した。彼の背中は、もはや侵略者のものではなく、ただ「明日からの役所の手続き」を心配しなくてよくなった、一人の解放者のものだった。
人類の役所は、今日も元気に営業している。窓口の佐藤五朗(佐藤四朗の息子)は、新しくやってきた謎の知性体、深海から来たという「アトランティス帝国」の大使を前に、笑顔でこう言った。
「あ、アトランティスの方ですね。占有許可については……まず、こちらの『様式第九号、海底資源および呼吸権に関する申請書』を記入してください。あ、もちろん、判子は忘れずにお願いしますね。シャチハタは不可ですよ?」
エイリアン対策に、高度な技術はいらない。ただ、彼らが一生かかっても揃えられないほどの書類と、絶対に真っ直ぐ押せない角度の判子、そして「お昼休み」があれば十分なのだ。空を飛ぶ円盤よりも、地上の役所の方が、はるかに高い壁なのだから…