第一章:夕暮れの室内練習場
華やかな歓声も、勝利を称えるための派手な音楽も、一切届かない場所。プロ野球の常勝球団として知られる「東京ビーグルス」の本拠地スタジアム。その地下深くにある室内練習場は、夏の遠征試合が始まったため、普段の賑やかさが嘘のように静まり返っている。湿った臭いと、使い古された革手袋の油の臭いが混ざり合った空間の中に、三十三歳の坂本達也(さかもと・たつや)は、一人で立っていた。
達也の仕事は、試合で投げることではない。彼は十年前、ドラフト一位という高い期待を集めてこの球団に入団した。しかし、入団からわずか二年目の春、右肩の靭帯を激しく断裂する大怪我を負ってしまった。数回に及ぶ過酷な手術と、血のにじむようなリハビリの日々。それらを乗り越えたものの、かつて時速百五十キロを超えていた自慢のストレートが戻ってくることは二度となかった。一勝も挙げられないまま戦力外通告を受けた彼に、球団が提示したのは「打撃投手」という裏方の仕事だった。
打撃投手の役割は、チームの主力打者たちが試合で活躍できるように、バッティング練習で打ちやすい球を正確に投げ続けること。試合の投手がいかに打者を抑えるかを競うのに対し、打撃投手はいかに打者に気持ちよく打たせるかを追求する。それは、かつてエースを目指した達也にとって、自らのプライドを毎日少しずつ削り落としていくような、過酷な作業の始まりでもあった。
「坂本さん、今日もいつものコースにお願いします!」
そう言ってバッターボックスに入ってきたのは、球団の期待を一身に背負う若き四番打者、木村蓮(きむら・れん)だった。木村は、ここ最近の十試合で打率が一割台にまで落ち込んでおり、深刻なスランプにあえいでいた。新聞やテレビからは連日のように厳しい批判を浴び、その表情には明らかな焦りと疲労の色が濃く滲んでいた。
達也は何も言わず、ただ静かに頷いた。彼は右手に握った白いボールの感触を確かめ、捕手が構えるミットの真ん中、木村が最も得意とするベルトの高さのコースへと、正確に腕を振った。シュッという短い風切音の直後、カキィィンという鋭い金属音が静かな練習場に響き渡った。打たれた打球は、前方の防球ネットを激しく揺らした。
「よし、もう一球行きます!」
達也は、木村の目の奥にある、まだ諦めていない強い光を見逃さなかった。かつてマウンドで挫折した自分だからこそ、今、目の前で苦しんでいる若者の痛みが、誰よりも痛烈に理解できた。達也は、打球の行方を追うこともせず、ただ次のボールへと意識を集中させていった。
第二章:指先の感覚と白い球の軌跡
打撃投手の仕事は、見た目以上に身体への負担が大きい。シーズン中、達也は毎日百五十球から二百球近くのボールを投げる。試合に出る投手のように中何日といった休息の日はなく、チームが試合を行う日は、ホームであれ遠征先であれ、常にマウンドに上がって腕を振り続けなければならない。達也の右手の人差し指と中指の腹は、長年の摩擦によって硬いタコができ、爪の端は何度も割れては固まるのを繰り返していた。
「坂本さんのボールは、本当にブレないですよね…」
練習の合間、ベンチで冷たい水を飲みながら、木村がぽつりと言葉を漏らした。
「打撃投手のボールがブレたら、打者のフォームが崩れてしまうからね。俺たちのコントロールは、投手の命綱なんだよ…」
達也は、自分の右腕を軽くさすりながら、穏やかな口調で答えた。木村は、バットのグリップを握り直しながら、自分の足元を見つめた。
「最近、試合で打席に立つと、相手投手のボールが全部怖く見えてしまうんです。内角に厳しい球が来たらどうしよう、変化球で誘われたらどうしようって、頭の中が雑音だらけになって、自分のスイングが全くできなくなっているんです…」
二十二歳の若さで名門球団の四番を任される重圧は、達也の想像を超えるほどに重いもののはず。失敗すれば即座にスタジアムを埋め尽くす何万人もの観客からため息を惹かれ、インターネットでは容赦のない言葉が並ぶ。達也は、木村の隣に腰掛け、自分の硬くなった手のひらを見せた。
「木村、相手投手のボールを打とうとするな。お前が戦っているのは、相手投手じゃない。自分の頭の中にある不安だ…」
「自分の、不安……」
「俺は、肩を壊したとき、世界が全部終わったと思った。でも、打撃投手になって気づいたんだ。打たれることは、悪いことじゃない。誰かの役に立つために投げるボールも、一勝を目指して投げるボールも、同じ一球なんだってな。お前はただ、自分が一番気持ちよくバットを振れることだけを考えればいいんだ…」
達也の言葉は、派手な励ましではなかったが、長年の裏方生活で培われた重みを持っていた。木村はその言葉を噛みしめるように、静かに目を閉じた。
第三章:真夜中の居残り特打
八月の半ば、チームは最下位の球団を相手に、痛烈な逆転負けを喫した。木村はその試合でも四打数無安打、三振が二つという散々な結果に終わり、ついに次の試合から先発メンバーを外されるという報道が流れ始めた。
夜の十一時、誰もいなくなったスタジアムの地下練習場に、再び二人の影があった。スランプを脱出するために居残りの特別打撃練習を志願した木村と、それを二つ返事で引き受けた達也だった。
練習場の照明は、必要最低限の数しか点けられておらず、周囲は薄暗い影に包まれていた。達也は、すでに昼間の練習で肩や肘が悲鳴を上げているのを自覚していた。右肩の奥が、鋭い針で刺されたようにズキズキと痛む。しかし、彼はその痛みを顔に一切出すことなく、マウンドの上に立った。
「坂本さん、お願いします!」
バッターボックスに入った木村の目は、血走っていた。達也は一球目を投げた。木村のバットは空を切り、鈍い音が響いた。
「力んでいるぞ。もっと肩の力を抜け!」
達也は二球目を投げた。今度はボテボテのゴロが転がった。
「ボールを呼び込め!自分のポイントまで引きつけるんだ!」
達也は、木村のフォームのわずかな狂いを、自分の目で正確に見極めていた。トップの位置がわずかに下がっていること、踏み出す左足の開きがほんの数センチ早いこと。それらは、試合での焦りが生み出した微小な狂いだった。達也は、その狂いを修正させるために、あえて少しだけコースを厳しくしたり、高さを変えたりしながら、木村が自然と正しい形でバットを出せるような球を投げ続けた。
投球数が五十球を超えた頃、達也の額からは大粒の汗が流れ落ち、地面の土を濡らした。右腕の感覚は麻痺し始め、ボールを離す指先の感覚だけでコントロールを維持していた。それでも、達也は腕を振るのをやめなかった。主役になれなかった自分が、今、この場所で主役を支えるための命を燃やしている。その事実に、達也の胸の奥には、現役時代には決して味わえなかった、静かで強烈な誇りが満ち満ちていた。
「来い、木村! お前の本物のスイングを見せてみろ!」
達也の心の叫びとともに放たれた六十二球目、木村のバットが、完璧な軌道を描いて空気を切り裂いた。
第四章:一瞬の覚醒と、快音の行方
カキィィィィィン!
それまでの鈍い音とは明らかに違う、澄んだ、そして凄まじく高い金属音が、室内の空間全体に響き渡った。放たれた打球は、一直線にセンター奥の壁へと突き刺さり、バウンドして転がった。木村はバットを持ったまま、その打球の軌跡を、呆然とした表情で見つめていた。
「今の感覚だ!」
達也はマウンドの上で、息を切らしながら小さく笑った。木村は自分の両手を見つめ、そしてゆっくりと達也の方を向いた。その目からは、先ほどまでの焦りや恐怖の色が完全に消え去り、かつて四番打者として君臨していた頃の、絶対的な自信の光が戻っていた。
「坂本さん……、今、今、分かりました。俺、ボールを打とうとして前に突っ込んでいました。坂本さんのボールが、俺の身体の軸を、もう一度真ん中に戻してくれました!」
木村はバットを置き、マウンドの達也の元へと駆け寄った。そして、深々と頭を下げた。
「遅くまで、本当にありがとうございました。俺、明日の試合、絶対に打ちます!坂本さんが投げてくれたこの六十二球を、絶対、無駄にはしません…」
「ああ、信じているよ。お前はうちの四番だ。明日は胸を張って打席に立ってこい!」
達也は、木村の肩を、自分の硬くなった右手で力強く叩いた。木村が練習場を去った後、達也は一人マウンドに残り、散らばったボールを一つずつバケツに回収していった。右腕はもう、自分の意志では肩より上に上がらないほどに使い切られていた。明日になれば、また激しい痛みが襲うだろう。それでも、彼の心は、これまでにないほどに軽く、澄み切っていた。
スタジアムの地下通路を歩きながら、達也は自分の仕事の持つ本当の意味を噛みしめていた。誰も見ていない場所で、誰かのために投げるボール。それが、巡り巡ってチームの勝利へと繋がり、人々の歓声へと変わっていくのだと。
第五章:歓声の隙間と、明日のマウンド
翌日の夜、スタジアムは満員の観客で埋め尽くされていた。九回裏、二対三と一項目のリードを許したビーグルスの攻撃は、二死満塁という、一打逆転サヨナラの絶好のチャンスを迎えていた。スタジアム全体のボルテージは最高潮に達し、地鳴りのような応援歌が、夜空へと響き渡っている。
バッターボックスに向かうのは、四番、木村。達也は、三塁側のベンチの裏にある、関係者用の通路の小さなテレビモニターで、その様子をじっと見つめていた。彼の周りには、他の裏方スタッフや、出番を終えた選手たちが息を呑んで画面を注視している。相手の守護神投手が投じた初球、時速百五十二キロの内角高めのストレート。普通の打者なら恐怖で腰が引けるような厳しい球。
しかし、木村の身体は全くブレなかった。彼は、昨日の深夜、達也のボールを呼び込んだあのフォームのまま、鋭く、迷いのないスイングを放った。
パキィィィン!
テレビのスピーカーを通してでも、その打球が完璧に捉えられたことが分かった。打球は、ライトの頭上を遥かに超え、そのまま総立ちになった観客席の最前列へと飛び込んでいった。逆転サヨナラ満塁ホームラン。スタジアム全体が、まるで爆発したかのような凄まじい歓声と紙吹雪に包まれ、テレビ画面の中では、木村が仲間たちにもみくちゃにされながら、歓喜のホームインを果たしていた。
「やったぞ!」
「木村が復活した!」
周りのスタッフたちが抱き合って喜ぶ中、達也は静かにテレビの前を離れ、自分のロッカーへと歩き進んでいった。彼の手元には、明日から始まる次の遠征試合のための、新しいボールの詰まった箱が置かれている。木村がヒーローインタビューで何を語るのか、達也は聞かない。自分の仕事は、あの深夜の練習場で、すでに完結している。
達也は、アイシング用の氷を右肩に当てながら、ロッカーの鏡に映る自分の顔を見た。かつてドラフト一位で入団した頃の、尖った若者の表情はそこにはない。代わりにあるのは、数々の挫折を乗り越え、自分の居場所を見つけた、一人の大人の男の、深く落ち着いた目。
「よし、明日もまた、いい球を投げようか…」
達也は、自分の右手のひらの硬いタコを愛おしそうになぞりながら、小さく呟いた。主役にはなれなかった。けれど、自分の腕には、誰かの未来を支えるための確かな力が宿っているのだ…