SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#365 ブルーバッジの栄光と、その没落につき… Blue Badge Mayhem

 第一章:青き承認の重圧

 

 

 

 

 


砂漠の熱気が、安物のスマートフォンの液晶画面を容赦なく加熱していた。ナイル川の支流からほど近い、舗装もされていない路地裏の古びたアパートの一室。扇風機は生暖かい空気をかき混ぜるだけで、室内の温度を一度も下げてはくれない。パクは、ベッドの端に腰掛けたまま、じっと画面を見つめていた。彼の視線の先にあるのは、世界中で利用されている短文投稿型SNSアプリ「シャッター」の画面だった。

 

 

 

 


画面の上部には、月額料金を支払って購入した青い認証バッジが誇らしげに輝いている。しかし、その輝きはパクにとって、毎月容赦なく銀行口座から引き落とされる負債の象徴に過ぎなかった。

 

 

 

 


「今月の赤字、あと八百円。これを埋めなければ、実家への仕送りどころか、明日のパンすら買えないぞ…」

 

 

 

 


パクは乾いた唇を舐めた。シャッターの仕様変更により、この青いバッジを持つユーザーは、他人の投稿に返信(リプライ)をすることで、その閲覧数に応じた広告収益を得られるようになった。世間では彼らのような存在を「インプレゾンビ」と呼び、忌み嫌っている。しかし、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているパクにとって、他人の嫌悪感など知ったことではなかった。

 

 

 

 

 

一閲覧あたり一銭にも満たない報酬をかき集めるため、彼は今日も日本のトレンドワードを監視し続けている。その時、画面が激しく明滅した。日本の有名芸能人が投稿した悲痛なメッセージが、パクのタイムラインに飛び込んできたのだ。

 

 

 

 


「愛犬が迷子になりました。どうか見つけてください!お願いします!」

 

 

 

 


写真には、白い小型犬が写っている。投稿されてからまだ十秒しか経過していない。これこそが、待ち望んでいた絶好の機会だった。この投稿には、数百万人の注目が集まるに違いない。その返信欄の一番上を確保できれば、莫大な閲覧数を稼ぎ出すことができる。

 

 

 

 


パクは思考を放棄し、指先を動かした。事前に保存しておいた、全く関係のない美女の画像を選択する。そして、自動翻訳で覚えた日本語の定型文を打ち込んだ。

 

 

 

 

 


「エッチな動画はプロフィールから見てちょ!!」

 

 

 

 


犬の安否や、飼い主の悲しみなど、パクの脳内には一瞬たりとも浮かばなかった。ただ画面の向こうにいる無数の人間が、この不謹慎なリプライを不快に思い、立ち止まって画面を凝視することだけを願っていた。送信ボタンを押す。パクのリプライは、狙い通り芸能人の投稿の真下に、最優先で表示された。

 

 

 

 

 


「よし、これで勝てるぞ!」

 

 

 

 


パクが勝利を確信したその瞬間、彼のスマートフォンの画面に、もう一つの青いバッジが割り込んできた。

 

 

 

 

 

 

 


第二章:泥沼のライバル

 

 

 

 


その青いバッジの主は、ハサンという男だった。彼は同じ街の反対側に住む、やはりシャッターの収益にすべてを賭けているプロのゾンビだった。ハサンは、パクの投稿を画面越しに見て、怒りで顔を真っ赤にさせていた。

 

 

 

 


「パクの野郎め、また同じ手を使いやがったな。迷子の犬を探している深刻な投稿に、そんな安っぽい美女の画像を貼り付けるなど、プロの仕事ではない。人間の心理を分かっていない!」

 

 

 

 


ハサンは、自分の机の上に並べられた三台のスマートフォンを交互に操作しながら、独自の理論を展開していた。彼に言わせれば、インプレゾンビとは単なる嫌がらせではなく、人の感情を揺さぶる芸術でなければならなかった。ハサンは即座に対抗策を講じた。彼はまず、飼い主に寄り添うような偽りの同情を日本語で打ち込んだ。

 

 

 

 

 


「とても悲しいですね。あなたの家族が早く見つかることを、心の底から祈っています…」

 

 

 

 


ここまでは普通の優しい返信である。しかし、ハサンがその下に添付したのは、全く文脈のつながらない、画面が激しく明滅するインド映画の派手なダンス動画だった。文章の優しさと、動画の異常なうるささ。この圧倒的なギャップこそが、見た人間の脳をバグらせ、指を止めさせるハサンの必勝パターンだった。

 

 

 

 

 


ハサンの投稿は、シャッターのアルゴリズムによって、パクの投稿のさらに上に表示された。リプライ欄の最上部、通称「神棚」を巡る、一歩も引けない戦いが始まったのだ。パクは自分の順位が下がったことに気づき、歯ぎしりをした。

 

 

 

 

 


「ハサンのやつ、またあのうるさい動画を使いやがったな。あんなものを貼られたら、俺の美女画像がかすんでしまうじゃないかよ!」

 

 

 

 

 


パクはすぐさま、別のアカウントに切り替えた。彼もまた、複数の身分を偽ってアプリに潜入していた。パクはハサンの投稿に対して「この返信はスパムです!」という通報を促すリプライを送り、ハサンの信用を落とそうと試みた。

 

 

 

 


対するハサンも負けてはいない。ハサンは別のアカウントから、パクの美女画像に対して「この女性は詐欺師です。騙されないでください!」という偽の注意喚起をぶら下げた。

 

 

 

 

 


二人の間には、会話など存在しなかった。ただ、日本語という彼らにとって意味を持たない言語を武器に、相手を蹴落とし、自分の配置を少しでも上に持ち上げるための、最低の泥仕合が繰り広げられていた。画面の向こうで、迷子の犬を心配している日本のユーザーたちは、この二人の奇妙な争いに巻き込まれ始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


第三章:狂気のインターネット

 

 

 

 

 


日本のシャッター利用者たちは、困惑していた。

 

 

 

 

 


「愛犬の捜索願いのコメ欄が、地獄のようになっている!」

 

 

 

 


「美女とインド人が戦っているんだけど、これ何のアピールなの?」

 

 

 

 


本来であれば、犬の目撃情報を共有するための場所であるはずのリプライ欄は、パクとハサンによる激しい小競り合いによって、完全に占拠されていた。
パクは焦っていた。ハサンのダンス動画の勢いが凄まじく、閲覧数の伸びで負けている。ここで負ければ、青いバッジの月額料金が完全に無駄になってしまう。彼は奥の手を出すことにした。スマートフォンのカメラを起動し、自分の足元を撮影した。そこには、部屋の隅を這い回る大きな油虫が写っていた。

 

 

 

 


パクはその動画を保存し、シャッターにアップロードした。文句は「これを見て癒されてくださいませ!」とした。不快感の極致を提供することで、強制的にタイムラインをスクロールする人間の指を止める作戦だった。これを見たハサンは、自室で椅子から立ち上がった。

 

 

 

 


「この野郎!そこまでやるか、パク! ならばこっちは音響兵器だ!」

 

 

 

 


ハサンは、著作権を完全に無視した大音量の爆破音を合成した、意味不明なアニメーション動画を投稿した。もはや、どちらが多くの閲覧数を稼ぐかという目的すら見失いつつあった。二人のゾンビは、互いの存在を消し去ることだけに執着し、スマートフォンの画面が壊れんばかりの勢いでタップを繰り返した。

 

 

 

 

 


その頃、日本のネット空間では、この異常なリプライ欄が別の意味で注目を集め始めていた。

 

 

 

 

 


「この二人のアカウント、会話が全く噛み合っていないのに、なぜかお互いを執拗に攻撃し合っている。これは高度なAI同士の対話実験ではないか…」

 

 

 

 


「いや、これは現代社会の孤独を表現した、海外の芸術家によるパフォーマンスアートに違いない!」

 

 

 

 


ネット民たちは、勝手に彼らの背後に壮大な物語を想像し、面白がり始めた。皮肉なことに、犬の捜索願いよりも、パクとハサンの不条理な戦いの方が「おもしろ動画」として拡散されていき、閲覧数が爆発的に上昇していった。パクの画面には、見たこともないような速度でインプレッションの数字が加算されていく。数万、数十万、そして百万。

 

 

 

 

 


「勝てる、勝てるぞ!これなら今月のバッジ代どころか、新しいスマートフォンが買えるぞ!」

 

 

 

 


パクは興奮で呼吸が荒くなった。隣のブロックにいるハサンもまた、同じ数字を見て歓喜の声を上げていた。二人は富の絶頂へと向かって、さらに過激なコンテンツを投稿し続けた。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:一瞬の夢、そして強制終了

 

 

 

 

 


二人の戦いが最高潮に達したその時、突如として日本のタイムラインに激変が起きた。芸能人が、新しい投稿を行ったからだ。

 

 

 

 

 


「皆様、ありがとうございました! 先ほど、近所の公園で無事に愛犬が発見されました! ご協力に感謝いたします!」

 

 

 

 


この投稿がなされた瞬間、先ほどの捜索願いのポストは、芸能人の手によって完全に削除された。

 

 

 

 


「あ…」

 

 

 

 

 


パクのスマートフォンの画面が、一瞬で真っ白になった。何度も読み込みを試みるが、「この投稿は存在しません…」という無機質なエラーメッセージが表示されるだけだった。

 

 

 

 

 


これまで積み上げてきた数百万の閲覧数、ハサンと繰り広げた死闘の足跡、そして確かに発生するはずだった莫大な広告収入のデータが、元の投稿の削除によって、一瞬にして宇宙の塵へと消え去った。シャッターのシステムは冷酷だった。元となる投稿が消えれば、そこにぶら下がっていたリプライの閲覧数もすべて無効化される仕様になっていたのだ。

 

 

 

 

 


パクはベッドの上に崩れ落ちた。指先は過度のタイピングによって痙攣が止まらない。画面に表示された今月の確定収益の欄を確認すると、そこには「三十四円」という文字だけが寂しく残されていた。八百円の赤字を埋めるどころか、今日消費した電気代すら賄えない。

 

 

 

 

 


一方のハサンも、自室で頭を抱えていた。

 

 

 

 

 


「消えた……すべてが消えた!あの犬、なぜ見つかってしまったんだ。あと十分、あと十分だけ迷子でいてくれれば、俺はインプレ王になれたのに…」

 

 

 

 

 


ハサンは怒りのあまり、机を叩いた。しかし、いくら悔やんでも数字は戻らない。彼らの手元に残ったのは、無駄になった美女の画像と、インド映画の動画と、油虫の死骸の映像だけだった。二人が呆然自失の状態でスマートフォンの画面を見つめていると、シャッターの公式運営アカウントから、全ユーザーに向けて一つの通知が届いた。それは、彼らにとって本当の絶望の始まりを告げるアナウンスだった。

 

 

 

 

 


「スパム行為に対する規約を改定しました。本日より、元の投稿と無関係な内容のリプライを反復して行うアカウントは、事前の警告なしに永久に凍結します!」

 

 

 

 

 

 

 


 第五章:戦いの終わり

 

 

 

 


翌朝、砂漠の街に容赦のない太陽が昇ってきた。パクが目を覚まし、真っ先にスマートフォンを起動した。シャッターのアプリをタップする。しかし、いつもなら表示されるはずのタイムラインは現れなかった。画面の中央に、赤い文字で冷たい警告文が表示されていた。

 

 

 

 


「あなたのアカウントは、コミュニティ基準に違反したため永久に凍結されました!」

 

 

 

 


パクは何度も画面をこすったが、結果は変わらなかった。彼が毎月高い金を払って維持していた青いバッジは、跡形もなく消え去っていた。ログアウトされた画面には、新規登録を促す冷徹なボタンが並んでいるだけだった。

 

 

 

 

 


パクは深い溜息をつき、スマートフォンをベッドに放り投げた。部屋を出て、埃っぽい路地を歩き始める。世界の仕組みが変わってしまったのだ。もう、他人の不幸に便乗して小銭を稼ぐ手法は通用しない。路地の角を曲がったところで、向こうから同じようにうなだれて歩いてくる男の姿が見えた。ハサンだった。ハサンの手にあるスマートフォンの画面もまた、真っ黒なままで凍結されていた。

 

 

 

 

 


二人は足を止め、至近距離で見つめ合った。画面の中では何度も名前を見かけ、互いを呪い合ったライバルだったが、現実世界で顔を合わせるのはこれが初めてだった。しかし、言葉を交わさずとも、お互いがすべてを失ったことは一目で理解できた。ハサンが自嘲気味に笑った。

 

 

 

 

 


「お前が、あの油虫の男かよ…」

 

 

 

 


「お前こそ、あのうるさいインド人の正体だな…」

 

 

 

 

 


二人はそれ以上、何も言わなかった。インターネットという架空の戦場で、一円にも満たない価値のために魂を削り合っていた時間が、急激に馬鹿らしく思えてきた。彼らが必死に奪い合っていたものは、最初から実体のない幻に過ぎなかったのだ。

 

 

 

 

 


「さて、これからどうしようかな?」

 

 

 

 


パクの問いかけに、ハサンは空を見上げた。太陽の光が、二人の疲弊した顔を容赦なく照らし出す。

 

 

 

 


「新しいSIMカードを買いに行くさ。別のアプリが、また新しい収益プログラムを始めたらしいぞ…」

 

 

 

 


ハサンはそう言うと、足早に歩き去っていった。パクはその背中を見送りながら、自分のポケットの中で静まり返っているスマートフォンの重みを感じていた。彼はもう一度だけ画面を開き、アプリのアイコンを長押しした。そして、躊躇することなく「削除」のボタンを押した。

 

 

 

 

 


砂漠の風が、路地のゴミを巻き上げて吹き抜けていく。パクは深く息を吸い込み、シャッターの存在しない現実の世界へと、ゆっくりと歩き出した。彼の目の前には、ただどこまでも続く、乾いたアスファルトの道が広がっている…