SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#366 月へ行きたいと願う人 Moonbound

第一章:灰色の砂に刻む名前

 

 

 

 

 


世界がどれほど急速に変貌を遂げようとも、夜空に浮かぶ球体の冷徹な輝きだけは変わらない。西暦2080年代の地球は、慢性的な大気汚染と容赦ない気候変動によって、かつての青さを失いつつあった。地表を覆うのは、極端な乾燥が生み出した微細な砂埃と、高度に発達した都市が吐き出す鉛色の煙だ。人々は防塵マスクを手放せず、限られた清潔な居住区を巡って無言の奪い合いを続けていた。

 

 

 

 

 


そんな閉塞した地上の住人たちにとって、遥か頭上で静かに佇む月面ドーム都市「セレニティ」は、文字通りの理想郷だった。選ばれた特権階級や、極めて優秀な技術を持った人間だけが、あの清浄な灰色の世界へと移住することを許される。そこには汚染された風も、呼吸を脅かす塵もない。完全な管理下で提供される人工の空気が、永遠の安息を保証していると言われていた。

 

 

 

 

 


若き宇宙飛行士候補生である竜也は、その狭き門をくぐり抜けるために、十代のすべてを過酷な訓練に捧げてきた。彼の動機は、自身の栄誉のためではない。同じ訓練学校で出会い、深い情愛を交わした婚約者、美咲と共にあの静謐な大地へ渡るためだった。美咲は優れた植物学者であり、月面での食糧生産プロジェクトの追加要員として、すでに数年後の渡航が内定していた。

 

 

 

 

 


「二人で月へ行こう。あそこなら、もう咳をすることもない…」

 

 

 

 


訓練の合間、防護ガラス越しに歪んだ輪郭の月を見上げながら、竜也は何度もその約束を口にした。美咲は細い指を彼の手に重ね、静かに微笑みを返した。その未来は、確実なものとして二人の前に横たわっているはずだった。

 

 

 

 


しかし、最終選考を控えたある日の定期身体検査が、竜也の軌道を根底から狂わせることになった。
特殊な脳波測定と脳脊髄液の解析の結果、医師から告げられたのは、極めて稀な進行性認知障害の診断だった。地上の深刻な大気汚染物質が、特定の遺伝子配列を持つ人間の脳神経細胞を徐々に破壊していくという奇病。

 

 

 

 

 

初期症状はほとんど自覚できないが、一度発症すれば、脳の記憶領域が外側から削り取られるようにして消滅していく。そして最も残酷な特徴は、患者にとって「最も身近で、最も新しく、最も深い情愛を持った記憶」から順番に白く染まっていくという点にあった。

 

 

 

 

 


「有効な治療法は、残念ながら現在の地球上には存在しません…」

 

 

 

 

 


無機質な診察室で、医師は淡々と事実だけを述べた。

 

 

 

 


「しかし、重力が地球の六分の一である月面環境であれば、脳圧の低下と脳血流量の変化によって、神経細胞の破壊速度を数分の一にまで遅らせることができるという仮説があります。もちろん、完治するわけではないのですが。少しだけ、長く形を保てるというだけですが…」

 

 

 

 


竜也は、自らの頭の中が徐々に砂のように崩れていく恐怖に直面した。今、目の前にある美咲の笑顔、交わした言葉、共有した時間が、自分の内側から真っ先に消えていく。それは、彼女という存在をこの世界から抹殺することと同義だった。

 

 

 

 


彼は決断を迫られた。地上に残り、美咲の目の前で急速に彼女を忘れていく哀れな廃人となるか。それとも、単身で月へと渡り、少しでも長く彼女の記憶を留めながら、孤独に朽ちていくか。

 

 

 

 


竜也が選んだのは、後者だった。彼は自らの病名を秘匿し、月面基地の保全を担当する「危険区域単身赴任枠」の募集に志願した。それは重労働と引き換えに、即時の月渡航が約束されるが、最低でも五年間は地球への帰還が許されないという過酷な任務だった。出発の朝、竜也は美咲に本当の理由を告げなかった。ただ一枚の手紙を彼女の部屋のポストに残した。

 

 

 

 

 


「遠い世界で君を待っている。僕が先に行って、二人の家を整えておくから…」

 

 

 

 


シャトルが地表を離れる瞬間、猛烈な重力が竜也の身体を座席に押し付けた。窓の外で、灰色の地球が急速に小さくなっていく。竜也は胸のポケットに忍ばせた小さな手帳を強く握りしめた。そこには、美咲の顔写真と、彼女に関する詳細な情報が、歪んだ文字でびっしりと書き込まれていた。

 

 

 

 

 

 

 


 第二章:地球の光が届く場所

 

 

 

 


月面基地での生活は、地球での訓練以上に単調で、かつ冷酷だった。竜也に与えられた任務は、ドームの外縁部に設置された太陽光パネルや通信アンテナの保守点検である。宇宙服に身を包み、空気の存在しない漆黒の空間へと足を踏み出すたび、彼は自分が生きているのか死んでいるのかさえ曖昧になる感覚に襲われた。

 

 

 

 


月の重力は確かに、彼の脳内で起こっている異変を一時的に宥めていた。激しい頭痛は収まり、思考の霧は幾分か晴れたように思えた。しかし、それも長くは続かなかった。赴任から三ヶ月が経過した頃、竜也は朝起きた瞬間に、強烈な違和感を覚えるようになっていた。自分の部屋の壁に貼られた、一枚のポートレート。そこに写っている若い女性の「名前」が、すぐに出てこない。

 

 

 

 


「み……、みさ……」

 

 

 

 


喉の奥から絞り出した音節が、正しいものなのかどうか確信が持てない。彼は慌てて机の上に置いていた手帳を開いた。最初のページに、大きな文字で「美咲(みさき)」と書かれているのを見て、激しい動悸と共に冷や汗が流れた。

 

 

 

 

 


『彼女は植物学者。僕の婚約者。二人で月へ行く約束をした。僕が最も愛している人』

 

 

 

 


文字として理解はできる。しかし、その文字が示す感情の総量が、自らの胸の内で明らかに目減りしているのを竜也は実感せざるを得なかった。写真に写る彼女の細い顎、優しい目元、それらを見つめても、かつて全霊を捧げて守りたいと願ったあの激情が、まるで遠い他人の物語を読んでいるかのように、乾いた質感へと変化していた。

 

 

 

 

 


病気は、確実に彼の内側を蝕んでいた。最も深い情愛の記憶から消えるという特性は、彼が美咲を強く想えば想うほど、その想いの根幹を最優先で破壊していくという、悪魔的な仕組みだった。竜也は必死に抗った。業務以外の時間のすべてを、手帳の暗読と、窓から見える地球の観察に費やした。

 

 

 

 


月の空は常に夜だった。大気が存在しないため、太陽が昇っていても星々が輝き、その中心には圧倒的な存在感で青白い地球が浮かんでいる。地球は数日かけて満ち欠けを繰り返し、大陸の輪郭や雲の流れをその表面に変えていく。

 

 

 

 

 


「あそこに、彼女がいる…」

 

 

 

 


竜也は観測窓のガラスに額を押し付け、地球の表面を見つめた。手帳によれば、彼女は今も日本の研究機関で、月へ渡るための最終調整を行っているはずだった。時折、通信端末に彼女からのメッセージが届く。

 

 

 

 


『竜也、そっちでの生活には慣れましたか? 毎日、夜空を見上げて、あなたが生きている月を想っています。こちらの研究も順調です。あと二年もすれば、私もそちらへ行ける許可が下りそうです。体調には気をつけてね…』

 

 

 

 


竜也はその画面を凝視しながら、返信の文字を打ち込もうとする。しかし、指が動かない。どのような言葉を返せば、恋人としての正しさを保てるのかが分からなかった。結局、彼は「こちらは問題ない。待っている…」という、業務連絡のような短文を送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 


月面での一年が過ぎる頃には、竜也の手帳はさらに書き込みが増えていた。忘却を恐れる彼が、日々の出来事や、美咲との過去のエピソードを執拗に書き足したからである。しかし、それは裏を返せば、書かなければ次の日には消えてしまうということの証明でもあった。

 

 

 

 


ある日、外壁の修理中に、竜也は自分が持っている工具の名前を忘れた。一瞬の硬直の後、インカムから流れる同僚の声で正気を取り戻したが、背筋に冷たいものが走った。失われているのは、美咲の記憶だけではなかった。彼の人間としての機能そのものが、少しずつ、確実に、月の灰色の砂のように崩落を始めていた。

 

 

 

 

 


それでも、竜也は地球を見上げることをやめなかった。あの青白い球体の中に、自分がかつて命を懸けて守ろうとした「何か」がある。その事実だけが、彼を辛うじてこの過酷な静寂の世界に繋ぎ止めていた。

 

 

 

 

 

 

 


第三章:白く染まる手帳

 

 

 

 


二年目の終わり、竜也の症状は坂道を転がり落ちるように悪化していった。朝、目覚めると、自分がなぜこの機能的な、酷く冷たい個室にいるのかが即座に理解できない。天井の照明を見つめ、自分が月面基地の職員であることを思い出すまでに、数分を要するようになった。机の上の手帳を開くことが、彼の毎朝の儀式であり、生存証明だった。

 

 

 

 

 


『僕の名前は竜也。ここは月面基地。僕は病気で、記憶を失いつつある』

 

 

 

 


そこから始まる文章を、彼は一文字ずつ指でなぞりながら頭に叩き込む。そして、次のページにある女性の写真を見る。

 

 

 

 


「みさき」

 

 

 

 


名前は読める。しかし、もはやその写真を見ても、胸が高鳴ることも、切なさに胸が締め付けられることもなかった。ただ「この人物は重要である」という記号としての認識だけが残り、その周囲にあったはずの、二人で歩いた雨の日の匂いや、夜風の中で交わしたキスの温度といった、生々しい記憶の肉片は完全に削ぎ落とされていた。彼は文字をなぞり直す。

 

 

 

 

 


『美咲は、僕の婚約者。僕は彼女を傷つけないために、この月へ来た』

 

 

 

 


その一文を読んだとき、竜也の心に去来したのは、深い悲しみではなく、底知れない困惑だった。

 

 

 

 


「なぜ、この人を傷つけないために、ここにいるのだろうか…」

 

 

 

 


過去の自分が下した決断の論理が、現在の彼には理解できなくなっていた。記憶の消失は、感情の風化を伴い、彼を徐々に「ただ存在し、作業をこなすだけの機械」へと変貌させていた。

 

 

 

 


その頃、地球からのメッセージの頻度は増していた。美咲の渡航計画が前倒しになり、数ヶ月後には月行きのシャトルに乗ることが決まったという。メッセージに添付された音声ファイルから、彼女の弾んだ声が流れる。

 

 

 

 


『竜也、やっと会えるよ。あなたのいるドームのすぐ近くのセクターに配属されることが決まりました。二人で、新しい生活を始めようね!』

 

 

 

 


竜也はその声を、ノイズの混じった古いラジオを聴くような心地で受け止めていた。彼女の声の抑揚や、そこに含まれる純粋な喜びの感情が、彼の麻痺した脳には強すぎる刺激となって弾かれた。彼は返信をしなかった。正確には、何を書いても嘘になるような気がして、端末を机の引き出しの奥へと仕舞い込んでしまった。

 

 

 

 


ドーム内での竜也の評価は、「極めて寡黙で、忠実に仕事をこなす男」に固定されていた。同僚たちとの会話は必要最低限に限られ、食堂でも常に一人で、味の薄い合成食を黙々と口に運ぶ。周囲の人間は彼をいくら不気味がっても、宇宙空間という極限状態では、他人に深く干渉しないことが暗黙のルールであったため、彼の異変が本格的に問題視されることはなかった。

 

 

 

 

 


竜也は時折、自分が宇宙服を着て外へ出ている最中、そのまま命綱を外して漆黒の虚空へと足を踏み出したらどうなるかを空想した。ここには風もなく、音もない。ただ絶対的な静寂があるだけ。もしそうなれば、これ以上記憶が消えていく恐怖に怯える必要もなくなるのではないか。しかし、手帳の最後の一行が、彼を地表に踏み留まらせていた。

 

 

 

 

 


『月へ行けば、君を傷つけずに済む』

 

 

 

 


その言葉を残した過去の自分の意志だけが、幽霊のように彼の身体を動かしていた。彼は、自分が誰であるかを完全に忘れるその瞬間まで、この灰色の砂の上で生き続けなければならないという、奇妙な義務感に縛られていた。

 

 

 

 

 


月面を歩く竜也の足跡は、大気が存在しないため、永遠に消えることはない。彼が歩いた軌跡だけが、灰色の荒野に無数に刻まれ、彼の存在を証明していた。しかし、彼の内面は、その足跡とは対照的に、風もないのに刻一刻と平坦に、何も残らない砂漠へと均されていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:再会のドーム

 

 

 

 


赴任から三年が経過しようとするとき、ついにその日が訪れた。地球からの定期輸送シャトルが、月面基地の第一発着場に滑り込んできた。竜也はその日、発着場周辺の気密弁の点検作業を命じられていた。

 

 

 

 


重いバイザー越しに、シャトルから降りてくる乗客たちの姿が見える。皆、初めて体験する六分の一の重力に戸惑いながら、慣れない足取りで連絡通路を歩いていく。その集団の中に、一人の女性がいた。

 

 

 

 


彼女は周囲を見回し、やがて作業服を着て佇んでいる竜也の姿を見つけると、その目を大きく見開いた。防護ヘルメット越しでも、彼女の瞳が歓喜で濡れていくのが分かった。彼女は重力を無視するようにして、竜也の元へと駆け寄ってきた。連絡通路の気密室に入り、互いのヘルメットを外した瞬間、彼女は竜也の胸に飛び込んできた。

 

 

 

 


「竜也! やっと、やっと会えた……!」

 

 

 

 


彼女の身体から、地上の、ほんの少し埃っぽい、どこか懐かしい匂いがしたような気がした。しかし、竜也の身体は硬直したままだった。彼の両腕は、彼女を抱き返す方法を忘れてしまったかのように、だらりと側面に垂れ下がっていた。竜也は、自らの胸にしがみついている女性の顔を見つめた。手帳にあった写真の人物。目は確かにその特徴を捉え、脳のデータベースと照合している。

 

 

 

 

 


「……みさき、さん」

 

 

 

 


彼が発した声は、信じられないほど冷淡で、抑揚がなかった。美咲はそのトーンに異変を察知したのか、ゆっくりと顔を上げ、竜也の瞳を覗き込んだ。

 

 

 

 


「竜也? どうしたの? 私のことが、分からないの……?」

 

 

 

 


竜也は彼女を見つめ返したが、その瞳には何の感情の揺らぎもなかった。そこに映っていたのは、愛しい恋人を迎える男の目ではなく、見知らぬ訪問者を不審に思う管理人の、無機質な視線だった。

 

 

 

 


「名前は、知っています。手帳に書いてありますから…」

 

 

 

 


竜也は淡々と答えた。そしてポケットから、ボロボロになり、無数の付箋が貼られた手帳を取り出して見せた。美咲は、その手帳を受け取り、震える手でページをめくった。そこには、自分の写真と共に、彼女の趣味、好きな食べ物、二人で行った場所、そして竜也自身がどのようにして記憶を失っていったのかが、日付と共に克明に記録されていた。後半のページにいくほど、文字は殴り書きのようになり、同じ内容が何度も、狂気的な執着で繰り返されていた。

 

 

 

 


『美咲を忘れるな』

 

 

 


『彼女は僕のすべてだった』

 

 

 


『記憶が消えても、彼女を悲しませるな』

 

 

 

 


美咲は手帳を押さえつけ、溢れ出る涙を止めることができなかった。彼女は、竜也がなぜ突然自分を置いて月へ旅立ったのか、その本当の理由をこの瞬間に理解した。彼は、自分が壊れていく姿を彼女に見せたくはなかった。彼女の心の中に、美しいままの自分を残し、自分だけがこの遠い星で消えていこうとしたのだ。

 

 

 

 


「どうして……どうして言ってくれなかったの……。一緒に闘えたのに、私なら、何か方法を……」

 

 

 

 


美咲は竜也の肩を掴み、激しく揺さぶった。しかし、彼はただ静かに彼女の手を外した。

 

 

 

 


「すみません。そう言われても、私には、その『一緒に闘いたかった過去』の記憶がないのです。この手帳に書かれている『竜也』という男は、確かにあなたを深く愛していたようですが、今の私は、その男を知りません…」

 

 

 

 


彼の言葉には、悪意もなければ、悲哀すらなかった。ただ、冷厳な事実の陳列があるだけだった。記憶を失った竜也にとって、美咲の涙は「自分を巡って泣いている他人の不条理な行動」にしか見えなかった。最も大切だった記憶が完全に消去された今、彼は自らの喪失を嘆くための感情そのものを失っていた。

 

 

 

 


美咲は、目の前にいる男が、自分の知っている竜也でありながら、完全に別人に変化してしまったことを悟った。彼の肉体はここにある。しかし、彼女を愛し、共に未来を夢見たはずのあの精神は、すでに宇宙の塵となって消え去っていた。二人の距離は、同じドームという狭い空間にいながら、地球と月の距離よりも遥かに遠く離れてしまっていた。

 

 

 

 

 

 


美咲は月面都市の植物栽培セクターで働き始め、毎日のように竜也の元を訪ねた。彼女はあきらめきれなかった。手帳に書かれた過去の記憶を一つずつ語り聞かせれば、彼の脳のどこかで眠っている火種が、再び燃え上がるのではないかと信じていた。

 

 

 

 

 


「覚えている? 訓練校の裏庭で、二人で隠れて食べたあの不味いクッキーのこと!」

 

 

 

 


「いいえ…」

 

 

 

 

 


「私たちが、初めて一緒に行ったあの海の青さを…」

 

 

 

 

 


「手帳には確かに書いてありますが、イメージが湧きません。ここの空は、いつも黒いですから…」

 

 

 

 

 


会話は常に、平行線をたどった。竜也は美咲の訪問を拒みはしなかったが、同時に歓迎もしなかった。彼はただ、自分のスケジュール通りに外壁の点検に出かけ、戻り、手帳を読み、眠るというサイクルを繰り返した。美咲の存在は、今の竜也にとっては「毎日やってきて、自分に理解できない過去の話をして涙を流す、奇妙な同僚」以上の意味を持たなくなっていた。彼女が語るエピソードは、彼の脳を刺激するどころか、すでに死に絶えた神経回路の表面を虚しく滑り落ちていくだけだった。

 

 

 

 

 


やがて、美咲にも限界が訪れた。彼女の献身は、竜也の無反応という底なしの沼に吸い込まれ、彼女自身の精神をどんどん摩耗させていった。どれだけ言葉を尽くしても、彼の瞳に宿る冷徹な静寂を破ることはできない。彼は「月へ行きたい」と願い、その願いを叶えたが、その代償として、地上のすべてを、彼女との絆をも、完全に無くしてしまった。

 

 

 

 

 


ある日の夕方、美咲はいつもと同じように竜也の部屋を訪れた。しかし、その手にはもう、思い出の品も、過去を語るための手帳も握られていなかった。彼女は、ただ静かに竜也の前に座った。

 

 

 

 

 


「竜也、私ね、明日、地球に帰ることにしたの…」

 

 

 

 

 


その言葉に、竜也は作業着の手入れをしていた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

 

 

 

 

 


「そうですか。任期途中での帰還は、手続きが大変だと聞きますが…」

 

 

 

 

 


「うん。でも、もうここにいる理由が、なくなっちゃったから…」

 

 

 

 

 


美咲は無理に微笑みを作ろうとしたが、その唇は微かに震えていた。彼女は、目の前の男をこれ以上追い詰めることも、自分自身が傷つき続けることにも耐えられなくなっていた。

 

 

 

 

 


「そうですか…」

 

 

 

 


竜也はそれだけを言った。「引き留めないのですか」とも、「寂しくなります」とも言わなかった。彼にとって、彼女が月にいることも、地球に帰ることも、もはや自らの世界を揺るがす要因にはなり得なかった。

 

 

 

 

 


「最後に一つだけ、聞かせてほしいの…」

 

 

 

 

 


美咲は立ち上がり、ドアへと向かいながら振り返った。

 

 

 

 


「あなたは今、幸せなの?」

 

 

 

 


竜也はその問いに対して、しばらく考え込んだ。彼の麻痺した脳が、「幸せ」という抽象的な概念の定義を探していた。

 

 

 

 

 


「分かりません…」

 

 

 

 


やがて、彼は静かに答えた。

 

 

 

 

 


「ただ、ここには風がありません。何も変わりません。それが、とても静かで、心地いいということだけは分かります…」

 

 

 

 

 


美咲は小さく頷き、それ以上何も言わずに部屋を出て行った。ドアが閉まる金属音が、部屋の静寂を一層深いものにした。

 

 

 

 

 

 

 


第五章:帰らざる軌道

 

 

 

 

 


美咲が地球へ帰還するシャトルが出発する日、竜也はいつも通り、ドーム外壁の定期点検のために宇宙空間へ出ていた。彼が作業を行っているセクターからは、発着場から垂直に打ち上げられるシャトルの全景がよく見えた。

 

 

 

 

 


「間もなく、第三便が発射されます。周囲の作業員は安全圏へ退避してください!」

 

 

 

 

 


インカムから無機質なアナウンスが流れる。竜也は命綱を構造物に固定し、その場にしゃがみ込んで静かにその瞬間を待った。サイレントの世界の中で、シャトルの底部から目も眩むような鮮烈な光が放たれた。空気がないため、音は一切聞こえない。ただ、激しい光の波動と、地面を伝わる微かな振動だけが、彼の宇宙服を通じて伝わってきた。シャトルは灰色の月面を蹴り、漆黒の宇宙へとその身を躍らせた。

 

 

 

 

 


竜也は、上昇していくその光の筋を目で追った。
その船の中に、かつて自分が人生のすべてを賭けて愛したはずの女性が乗っている。手帳によれば、彼は彼女を幸せにするために、この不毛な星へとやってきたはずだった。だが、結果として彼女に与えたのは、生涯癒えることのない深い拒絶の傷だけだった。

 

 

 

 


「僕は、間違えたのだろうか…」

 

 

 

 

 


竜也は呟いた。しかし、その呟きも宇宙服のヘルメットの内部で跳ね返り、そのまま消えた。シャトルの光は、やがて夜空に浮かぶ青白い地球の影へと吸い込まれ、見えなくなっていった。

 

 

 

 


竜也はゆっくりと視線を落とし、自分の足元を見た。そこには、彼が三年間の作業の中で刻み続けてきた、無数の足跡があった。月の砂、レゴリスに刻まれたその窪みは、数百年、数千年の間、風に風化されることもなく、この場所に残り続ける。彼が誰であるかを忘れ、人間としての尊厳を失った後も、この冷たい記号だけは永遠に消えない。

 

 

 

 

 


彼は胸のポケットから、もう開くことも少なくなった手帳を取り出した。グローブをはめた指では、ページの感覚がうまく掴めない。彼は手帳を目の前に掲げ、その表紙を見つめた。そこには、彼自身の文字でこう書かれていた。

 

 

 

 

 


『月へ行きたいと願う人』

 

 

 

 

 


それが、かつての自分自身のことであったのか、それとも別の誰かの物語であるのか、今の竜也にはもう判別がつかない。彼はその手帳を、持っていた工具のケースの脇へとそっと置いた。もう、これを読み返す必要もないのだ。記憶を維持しようとする行為そのものが、彼にとっては無意味な労力。

 

 

 

 

 


竜也は再び立ち上がり、作業を再開した。アンテナのネジを締め、配線の電圧をチェックする。彼の動きは正確で、無駄がない。感情というノイズが完全に排除された彼の身体は、月面基地という巨大なシステムの、優秀な一つの部品として完全に完成している。

 

 

 

 

 


頭上には、変わらず地球が輝いている。それは美しく、生命に満ち溢れた星のはずだった。しかし、この月の乾燥した大地から見上げるそれは、ただの冷たい、遠くにあるただの発光体…