SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#368 世紀のなりすまし! 隣のセレブと大シャッフル The Great Celebrity Swap

第1章:右と左の境界線

 

 

 

 


東京都郊外の閑静な住宅街に、一棟の奇妙な二世帯住宅が建っていた。外観は左右対称で、美しい白い壁と洗練されたレンガ造りのアプローチが目を引く。しかし、真ん中の境界線を境にして、住む人間の事情は天と地ほどの差があった。

 

 

 

 


向かって右側に暮らすのは、絵に描いたようなエリート一族の佐藤家である。主人の佐藤博文は外資系投資銀行の役員で、妻の雅美は令嬢育ちのピアノ講師、一人息子の健太は名門私立小学校に通う優等生。彼らの生活は、朝のクラシック音楽と、挽きたての高級コーヒーの香りで始まる。リビングには本物のペルシャ絨毯が敷かれ、壁には出所の確かな絵画が多数飾られている。

 

 

 

 


一方、向かって左側に陣取るのは、絵に描いたような自転車操業を続ける鈴木家である。主人の鈴木一男は、一発逆転を狙って脱サラし、怪しげな健康器具の輸入販売会社を立ち上げたものの、見事に大失敗。倉庫に残されたのは、使い道のわからない電動マッサージ器の山と、膨大な額の借用書だけだった。妻の良子はパートの掛け持ちで、なんとか家計を支え、中学生の長男、洸人はボロボロの制服を着回す毎日を送っている。

 

 

 

 


「ねえ、あなた。今月の返済、本当に大丈夫なの?」

 

 

 

 


朝食の食卓で、良子が薄く切った食パンをかじりながら、青い顔で夫を睨みつけた。皿の上には、特売のマーガリンしか載っていない。一男は頭を抱え、ボサボサの髪をさらにかきむしった。

 

 

 

 


「大丈夫、大丈夫と言いたいところだが、今回は本当にまずい。取引先が夜逃げしやがって、手形の不渡りってやつを食らった。今日までに300万円を用意しないと、あの恐ろしい黒流金融の男たちが家を差し押さえに来るんだ…」

 

 

 

 


「300万円!? そんな大金、うちのどこにあるのよ! 貯金通帳はとっくに底をついているわ!」

 

 

 

 


良子の悲鳴のような声が、薄い壁を震わせた。洸人は黙ってみそ汁をすすりながら、冷めた目で両親を見ている。

 

 

 

 


「いざとなったら、この家を売るしかないか……」

 

 

 

 


「馬鹿なこと言わないでよ! これは私の実家から頭金を出してもらった大切な家よ! 半分は佐藤さんの持ち物なんだから、勝手に売れるわけないでしょ!」

 

 

 

 

 


その時、家の前の道路に、重々しいエンジン音を響かせて黒い高級セダンが止まった。車内から出てきたのは、仕立ての悪い黒いスーツを着た、体格のいい男が二人。一人はサングラスをかけ、もう一人は額に深い傷跡がある。誰が、どう見ても、堅気の人間ではない。彼らは鈴木家の門扉の前に立ち、メモ帳とスマートフォンを交互に見つめていた。

 

 

 

 

 


「おい、鈴木! 来ちまったぞ! 黒流金融だ!」

 

 

 

 


窓の隙間から外を覗き見していた一男が、腰を抜かした。

 

 

 

 


「どうするのよ、あなた! 居留守を使う?」

 

 

 

 


「駄目だ、あいつらドアを蹴り破ってでも入ってくるって噂だ…」

 

 

 

 


パニックに陥った一男は、窓の外の男たちが門をくぐるのを見て、完全に理性を失った。その瞬間、彼の目に留まったのは、お隣の佐藤家の玄関だった。佐藤家は昨朝早くから、家族全員で軽井沢の別荘へ旅行に出かけている。車庫は空っぽで、家の中には誰もいない。

 

 

 

 

 


「よし、こうなったら場所を変えるぞ!」

 

 

 

 


一男は叫ぶなり、玄関を飛び出した。

 

 

 

 


「ちょっと何するのよ、あなた!」

 

 

 

 


「いいから付いてこい! 洸人、お前もだ!」

 

 

 

 


一男が向かったのは、自らの玄関ではなく、佐藤家の玄関だった。佐藤家はセキュリティーが厳重だったが、実は先週、佐藤の主人が「もしもの時のために…」と、共通の庭の植木鉢の底に予備の鍵を隠しているのを、一男は偶然目撃していたのだった。

 

 

 

 


一男は素早い動きで植木鉢をひっくり返し、そこにあった鍵を掴むと、佐藤家の重厚なドアを開け放った。

 

 

 

 


「全員、こっちに入れ!」

 

 

 

 


鈴木家の3人は、吸い込まれるように佐藤家の豪華なリビングへと転がり込んだ。それと同時に、一男は庭に走り出ると、鈴木家と佐藤家の門柱に掲げられていたプラスチック製の表札を、素手で強引に引き剥がした。そして、佐藤家の門に「鈴木」、鈴木家の門に「佐藤」の表札を、あり合わせの両面テープで貼り替えてしまったのである。

 

 

 

 


「これでよしだ! あいつらは佐藤家を鈴木家だと思って入ってくるに違いない!」

 

 

 

 


「ちょっと、それって犯罪じゃないの!?」

 

 

 

 


良子が真っ青になって抗議したが、一男は首を振った。

 

 

 

 


「犯罪じゃない、一時的な避難だ! 持ち主がいないんだから、ちょっと部屋を借りて、金持ちのふりをして乗り切るんだ。あいつらも、こんな大豪邸に住んでいる人間が『本当に金がない…』と言えば、何か別の裏があると思って引き下がるかもしれない!」

 

 

 

 


「そんな無茶苦茶な……」

 

 

 

 


しかし、本物の「鈴木家」のインターホンが鳴る代わりに、彼らが今いる佐藤家のインターホンが、重低音のチャイムを響かせた。カメラのモニターには、凄みのある表情でレンズを睨みつける、黒スーツの男たちの顔が映し出されていた。

 

 

 

 

 

 

 


第2章:にわかセレブの品格

 

 

 

 


「はい、どなたでしょうか……?」

 

 

 

 

 


一男は、できるだけ上品で、余裕のある声を意識してインターホンに応答した。喉がカラカラに乾き、声が少し裏返りそうになるのを必死でこらえる。スピーカーからは、地を這うような低い男の声が返ってきた。

 

 

 

 

 


「鈴木さんのお宅ですな。黒流金融の者ですが、本日が約束の期限となっております。中に入らせてもらいますよ!」

 

 

 

 


「あ、ああ、どうぞ、お入りください。今、鍵を開けますので…」

 

 

 

 


一男は震える手でロックを解除し、良子と洸人に向き直った。

 

 

 

 


「おい、二人とも。俺たちは今から、この大豪邸の主人だ。絶対に貧乏くさい真似はするなよ。良子、そのヨレヨレのエプロンを外せ! 洸人、姿勢を正せ!」

 

 

 

 


玄関の扉が開き、重い足音が廊下に響く。リビングに現れたのは、先ほどの二人組だった。リーダー格の男は「鮫島」と名乗り、鋭い目で部屋の中を見回した。もう一人の大柄な男は「子分」らしく、鮫島の後ろで周囲を威圧するように立っている。鮫島は、ペルシャ絨毯を踏みしめ、壁の絵画に目を留めると、ふっと鼻で笑った。

 

 

 

 


「ほう……鈴木さん、随分といい暮らしをされていますな。商売が傾いて金の返済が滞っていると聞いていましたが、この様子じゃあ、ずいぶんと資産を持っていらっしゃるようだ!」

 

 

 

 

 


「い、いやあ、これはすべて昔の遺産と言いますか、ただの見栄でしてね…」

 

 

 

 


一男は佐藤の主人が着るような、クローゼットから拝借したシルクのガウンを羽織り、革のソファに深く腰掛けた。しかし、サイズがまったく合っていないため、袖がだぼだぼで、どう見ても着られている感が否めない。

 

 

 

 


良子はキッチンへ逃げ込み、お茶の準備をしようとした。しかし、佐藤家のキッチンは最新式のシステムキッチンで、ボタンがあまりに多すぎて使い方が全くわからない。エスプレッソマシーンからは「シュー」と妙な蒸気が吹き出し、良子はパニックになった。

 

 

 

 

 


「ちょっと、奥さん。お茶なんていいから、ここに座んなさいよ!」

 

 

 

 


鮫島が冷たい声で制した。良子はビクッと肩を震わせ、一男の隣に恐る恐る腰を下ろした。

 

 

 

 


「さて、鈴木さん。本日の返済額は、利息を含めて300万円。まさか、無いとは言わせませんよ。これだけの家をお持ちなんだ、どこかにキャッシュが転がっているでしょう!」

 

 

 

 


鮫島は懐から契約書を取り出し、テーブルに叩きつけた。一男は冷や汗を滝のように流しながら、ハッタリを続けた。

 

 

 

 


「もちろん、300万円くらい、いつでも払えますよ。ただね、投資信託の口座が今、海外の市場の関係でロックされておりましてね。ほら、ニューヨークの株価が急落したとか何とかで…」

 

 

 

 


「ふん、投資ですか。おめでたい頭だ。我々が欲しいのは現ナマですよ。今すぐ用意できないなら、この家にある価値のあるものを色々と片付けさせてもらうがね…」

 

 

 

 


鮫島が立ち上がり、棚に飾られていた高級なクリスタルグラスを手に取った。

 

 

 

 


「あ、それは駄目です!」

 

 

 

 


良子が思わず大声をあげた。それは佐藤家がフランスの旅行で購入したという、一点物の最高級グラスだった。もし、傷でもつけば、鈴木家が弁償しなければならない。

 

 

 

 


「おや、奥さん、急に大きな声を出してどうしました? 命の次に大事なグラスですか?」

 

 

 

 


鮫島が不敵な笑みを浮かべ、グラスを指先で弄ぶ。

 

 

 

 


「そ、そうです! それは、我が家の家宝でして……壊されると困ります!」

 

 

 

 


一男が慌ててフォローを入れた。その時、沈黙を守っていた息子の洸人が、部屋の隅から声をかけた。

 

 

 

 


「父さん、そんなグラスより、僕の部屋にある『あれ』を見せたらどう? ほら、昨日届いた、限定版のすごいおもちゃ!」

 

 

 

 


一男と良子はギクリとして洸人を見た。洸人は、佐藤家の息子である健太の部屋に潜入し、そこにある高価なゲーム機やドローンを指さしていた。

 

 

 

 


「おお、そうだ! 我が家には、最先端の電子機器が山ほどある! それを担保にしてもいいぞ!」

 

 

 

 


一男は洸人の機転に乗り、話を大きく膨らませた。鮫島は疑いの目を向けながらも、子分に命じて部屋の中の物品をチェックさせ始めた。にわかセレブを演じる鈴木家と、その嘘を見破ろうと目を光らせる借金取り。張り詰めた空気の中、事態はさらに最悪の方向へと動き出そうとしていた。佐藤家の固定電話が、大音量で鳴り響いたのである。

 

 

 

 

 

 


第3章:予期せぬ訪問者たち

 

 

 

 


留守番電話に切り替わると、スピーカーから聞き覚えのある、上品な女性の声が流れてきた。

 

 

 

 


「もしもし、佐藤でございますが…メッセージのある方は…」

 

 

 

 

 

「あっ、お父さん、留守番頼んじゃってごめんなさいね。今、高速の入り口の近くにいるから、そうね、あと30分くらいで帰れるわ!」

 

 

 

 

 


リビングの全員が、その音声に耳を傾けた。一男と良子の顔から、血の気が一瞬で引いた。

 

 

 

 


(まずい、本物が戻ってくる! あと30分で!)

 

 

 

 


鮫島が眉をひそめ、留守番電話の機械を見つめた。

 

 

 

 


「おい、鈴木さん。今の電話、何だ? 『佐藤ですが』って言ってたな。この家は佐藤っていう人間の持ち物なのか?」

 

 

 

 


最大のピンチが訪れた。一男は脳細胞をフル回転させ、これまでにないスピードで言い訳をひねり出した。

 

 

 

 


「あ、ああ! あれは、私の妻の旧姓ですよ! 妻の実家が佐藤という名前でしてね。ほら、妻がたまに頭が混乱して、自分の実家の名前を名乗ることがあるんですよ。なあ、良子?」

 

 

 

 


「え? あ、そう、そうなの! 私、佐藤良子っていうの! 実家が大好きで、ついうっかり旧姓が出ちゃうのよね、オホホホ!」

 

 

 

 


良子は引きつった笑顔で、不自然極めて高い笑い声をあげた。鮫島は怪訝な表情を浮かべたが、決定的な証拠がないため、それ以上は追及しなかった。しかし、時間は確実に削られていく。あと30分で本物の佐藤家が帰還し、この大嘘がすべて崩壊する。
しかし、災難はそれだけで終わらなかった。

 

 

 

 

 


ピンポーン、と再び玄関のチャイムが鳴った。今度は鈴木家側のインターホンではなく、鈴木家(現在は佐藤の表札がかかっている方)の前で、誰かが騒いでいる。一男が恐る恐る窓から外を見ると、そこには近所の口うるさい主婦仲間たちが集まっていた。彼女たちは、回覧板を届けに来たようだったが、表札が入れ替わっていることに気づき、不思議そうに門の前で話し合っている。

 

 

 

 


「あら、鈴木さんのところ、表札が『佐藤』になっているわよ。どういうことかしら?」

 

 

 

 


「あら本当だわ、お隣と入れ替わっているじゃない。悪質な嫌がらせかしら?」

 

 

 

 


「おい、なんか外が騒がしいぞ!」

 

 

 

 


鮫島が窓辺に近づこうとした。

 

 

 

 


「待ってください! 外は見ない方がいい!絶対に!」

 

 

 

 


一男が鮫島の前に立ちはだかった。

 

 

 

 


「何だと?」

 

 

 

 


「実は、我が家は最近、ストーカーに狙われておりましてね。近所の住人に変装した不審者が、私の心臓を狙っている可能性があるんです。外の人間と目を合わせると、何をされるかわかりません!」

 

 

 

 


一男のめちゃくちゃな大嘘に、子分の方がなぜか怯え始めた。

 

 

 

 


「あ、兄貴、なんかこの家、ヤバい雰囲気ですよ。ストーカーとか、変な電話とか……」

 

 

 

 


「お前は黙ってろ、騙されるな!」

 

 

 

 

 


鮫島は一男を突き飛ばし、窓の外を見た。そこには、不審に思った主婦たちが、鈴木家(佐藤の表札)の敷地内に一歩踏み込もうとしている姿があった。

 

 

 

 

 


「よし、俺が外に出て、あのストーカーどもを追い払ってやる!」

 

 

 

 


鮫島がヤクザのプライドを見せ、玄関へ向かおうとした。

 

 

 

 


「ああっ、駄目!行かないで! 外はとっても危険!」

 

 

 

 


良子が鮫島の腕にしがみついた。もし鮫島が外に出て主婦たちと話せば、ここが佐藤家であり、自分たちが鈴木家であることが一発で露呈する。

 

 

 

 


「離せ、このアマ!」

 

 

 

 


鮫島が腕を振り払おうとしたその時、洸人が叫んだ。

 

 

 

 


「みんな、テレビを見て! 大変なことが起きてる!」

 

 

 

 


洸人が適当につけた大型テレビの画面には、偶然にも「東京都内で多発する、偽装利息請求詐欺グループの逮捕」のニュースが流れていた。容疑者の特徴として「黒いスーツの二人組」「額に傷がある男」という情報が読み上げられた。もちろん、これは全く別の事件の犯人だったが、タイミングがあまりにも完璧すぎた。鮫島と子分は、テレビ画面を見て凍りついた。

 

 

 

 


「あ、兄貴! 俺たちのことじゃねえですか!?」

 

 

 

 


子分はパニックになり、声を裏返した。

 

 

 

 


「馬鹿野郎、俺たちは黒流金融だぞ、あんなセコい詐欺グループとは違う!」

 

 

 

 


鮫島は怒鳴ったが、自分たちの特徴が一致していることに動揺を隠せない。鈴木家はこの好機を逃さなかった。嘘に嘘を積み重ね、状況をさらにカオスへと導いていった。

 

 

 

 

 

 

 


 第4章:大混乱の包囲網

 

 

 

 


「やっぱりそうだ! あなたたち、警察に追われている犯罪者なんだわ!」

 

 

 

 


良子がここぞとばかりに悲鳴をあげた。

 

 

 

 


「違う!違うと言っているだろう!」

 

 

 

 


鮫島が声を荒らげたが、その時、外から車のクラクションの音が鳴り響いた。

 

 

 

 


ププーッ!

 

 

 

 


それは、戻ってきた、本物の佐藤家の車だった。佐藤博文は、自分の家の前に黒いセダンが止まっており、さらに門の表札が「鈴木」に変わっているのを見て、激怒して車から降りてきた。

 

 

 

 


「おい! 誰だ、私の家に勝手な車を止めているのは! それにこの表札は何だ!」

 

 

 

 


佐藤の怒声が、リビングまで筒抜けに聞こえてきた。鮫島は窓から外を見て、高級車から降りてきた仕立てのいいスーツの男(佐藤)を発見した。

 

 

 

 


「おい、鈴木。外にいるあの男は誰だ? お前を『鈴木』と呼んで怒鳴っているぞ!」

 

 

 

 


一男は冷や汗を拭いながら、最後のハッタリをかました。

 

 

 

 


「あ、あの男こそが、私を狙う最強のストーカー、通称『佐藤』です! 彼は自分が金持ちだと思い込んでいて、私の家を自分の家だと主張する狂人なんです!」

 

 

 

 


「何だと……?」

 

 

 

 


この頃には鮫島も、何が真実で何が嘘なのか、完全に脳の処理が追いつかなくなっていた。外では、佐藤博文が鈴木家(佐藤の表札)のインターホンを激しく連打している。さらに、回覧板を持った主婦たちも加わり、「佐藤さん、どうされたの?」「鈴木さんの様子がおかしいのよ!」と、大騒ぎになっていた。

 

 

 

 

 


「兄貴、もう限界です! 警察が来る前にズラかりましょう!」

 

 

 

 


子分が泣き言を言った。しかし、鮫島は執念深かった。

 

 

 

 


「待つんだ!まだ金を回収していない。鈴木、お前が本当に金持ちなら、財布にある現金をすべて出せ。それで今回は手を打ってやる!」

 

 

 

 

 


一男はポケットを探った。しかし、入っているのは小銭が数百円と、クシャクシャになったスーパーのレシートだけだ。

 

 

 

 


「財布は……今、書斎に置いてありまして…」

 

 

 

 


「早く案内しろ、俺も行く!」

 

 

 

 


鮫島が一男の胸ぐらを掴んだ。その瞬間、佐藤家の玄関ドアが外から鍵で開けられた。佐藤博文が、予期せぬ事態に備えて、もう一つの予備の鍵を使って、自らの家に入ってきたのだ。

 

 

 

 

 


「誰だ! 人の家に無断で侵入している奴は!」

 

 

 

 


佐藤博文がリビングのドアを勢いよく開けた。そこには、シルクのガウンを着た一男、怯える良子、すました顔の洸人、そして黒スーツの男二人が立っていた。

 

 

 

 


「鈴木さん!? あなたたち、私の家で何をしているんだ!」

 

 

 

 


佐藤博文の目が点になった。鮫島は佐藤博文の顔と、一男の顔を交互に見比べた。

 

 

 

 


「おい、どっちが鈴木で、どっちが佐藤なんだ?」

 

 

 

 


「私が佐藤だ! この家は私の家だ!」

 

 

 

 


佐藤博文が叫んだ。

 

 

 

 


「違う! こいつはストーカーの佐藤だ! 騙されるな!」

 

 

 

 


一男も負けじと叫び返した。

 

 

 

 


良子はキッチンの陰で祈るように手を合わせ、洸人はスマホでその様子を動画に収めていた。主婦たちも玄関から中を覗き込み、「あら、鈴木さんが佐藤さんの服を着てるわ!」「泥棒かしら?」と口々に言い合い、現場は完全にカオスと化した。

 

 

 

 

 

 


第5章:無い袖は振れません!

 

 

 

 


静寂をもたらしたのは、鮫島の一喝だった。

 

 

 

 


「うるさい! 全員黙れ!」

 

 

 

 


その圧倒的な迫力に、佐藤家の家族も主婦たちも一瞬で口を閉ざした。鮫島は鋭い目を一男に向けた。

 

 

 

 


「おい、鈴木。お前のそのガウン、袖が長すぎて手が隠れてるぞ。それに、さっきから時計も指輪も安物ばかりだ。本当にこの家の主人なら、そんなみすぼらしい格好はしないはずだ!」

 

 

 

 


長年の取り立て屋としての勘が、ついに真実を捉えた。一男は万策尽き、ガウンの袖を握りしめたまま、その場にへたり込んだ。

 

 

 

 


「……バレちゃ、仕方がありませんな…」

 

 

 

 


「やっぱり騙してやがったな! ここはお前の家じゃねえ。お前はただの、一文無しの借金まみれの男だ!」

 

 

 

 


鮫島が激高し、一男に掴みかかろうとした。しかし、その時、佐藤博文が前に出た。

 

 

 

 


「待ちたまえ! 君たちが誰かは知らないが、私の家で暴力を振るうことは許さない。それに、鈴木さんが君たちに借金をしているとしても、それは君たちと鈴木さんの問題だ。私の家から今すぐ出て行きなさい。さもなければ、本当に警察を呼ぶぞ!」

 

 

 

 

 


佐藤博文は、スマートフォンの通報画面を鮫島に見せつけた。鮫島は歯噛みした。これ以上騒ぎを大きくすれば、自分たちの違法な取り立て(恐喝罪や不法侵入の教唆など)が明るみに出てしまう。特に、テレビで詐欺グループのニュースが流れた直後。警察が来れば、面倒なことになるのは確実だった。

 

 

 

 

 


「チッ……クソが。おい、鈴木。今回は引き上げてやる。だがな、1週間後までに300万円を用意しろ。場所がどこだろうと、地の果てまで追い詰めてやるからな!」

 

 

 

 


鮫島は吐き捨てるように言うと、子分の腕を引っ張って、足早に佐藤家から退散していった。外にいた主婦たちも、ただ事ではない雰囲気を察して、蜘蛛の子を散らすように去っていった。嵐が去ったリビングには、鈴木家の3人と、怒り心頭の佐藤家が残された。一男はガウンを脱ぎ捨て、佐藤博文の前に正座して頭を床に擦りつけた。

 

 

 

 

 


「佐藤さん! 本当に申し訳ありませんでした! 家を、勝手に使いました! 表札も貼り替えました! すべて、私が悪い!」

 

 

 

 


良子も隣で深く頭を下げた。

 

 

 

 


「申し訳ありません、お隣のよしみで、どうか警察だけは勘弁してください……!」

 

 

 

 


佐藤博文は深くため息をつき、腕を組んだ。

 

 

 

 


「鈴木さん、君たちの事情は、壁越しに聞こえる声である程度は察していたよ。商売が大変なのも、借金に追われているのもね。だが、私の家を騙しの道具に使うのは筋違いだ。今回はあの男たちを追い払うために協力する形になったが、これで許したわけじゃないですよ…」

 

 

 

 


「はい、おっしゃる通りです……」

 

 

 

 


一男は消え入るような声で返事をした。

 

 

 

 


「で、どうするんですか? 1週間後までに300万円を返さなければ、あの男たちはまた来ますよ。あなたたちに、そんな大金を用意する当てはあるんですか?」

 

 

 

 


佐藤博文の問いかけは、現実的で、最も重いものだった。一男はゆっくりと頭を上げた。その顔には、先ほどまでの怯えやハッタリは消え失せ、不思議とすっきりとした、ある種の開き直りにも似た表情が浮かんでいる。

 

 

 

 

 


彼は自分の着ている、ヨレヨレの、ポケットに小銭しか入っていない上着の袖を両手で掴み、佐藤博文に見せるように左右に激しく振ってみせた。空っぽの袖が、パタパタと虚しく風を切る音だけが室内に響く。世界中のどんな言語でも、どんな文化でも、共通する真理が一つだけある。持っていないものは、どうあがいても差し出すことはできない。
一男は満面の笑みを浮かべ、声を大にして言い放った。

 

 

 

 

 

 


「無い袖は振れませんから!」