SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#375 水平線までのサイレンス Silence to the Horizon

 第一章:無音の世界に差し込んだ、最初のノイズ

 

 

 

 


鳥取砂丘の風は、僕の肌を容赦なく叩いている。視界のすべてを埋め尽くす黄色い砂の起伏は、まるで海の波のよう。二十一歳になったばかりの青年、創(はじめ)は、自分の原動機付自転車のシートに深く腰掛け、ただじっとその景色を見つめていた。耳の奥で、砂が擦れ合う微かな音が響いている。

 

 

 

 

 


しかし、青年の口からは、何の音も出せない。数ヶ月前、東京の大学に通っていた彼は、ある朝突然、声の出し方を忘れてしまった。医者は「過度なストレスによる失声症」という、ありふれた病名を青年に与えた。周囲の友人たちの顔に浮かぶ、過剰な同情と腫れ物にでも触るような視線。それに耐えかねた青年は、大学を休学し、逃げるように実家のある故郷へと戻ってきた。

 

 

 

 


しかし、狭い地元でも、青年を憐れむ視線からは逃れられなかった。だから僕は、中古の原動機付自転車にまたがり、誰もいない場所を求めて彷徨うようになった。

 

 

 

 


「おいおい、そこの兄ちゃんよ。そんな暗い顔して砂ばっかり見つめてると、せっかくのいい男が台無しになっちまうぜ!」

 

 

 

 


突然、背後から声をかけられた。少ししゃがれた、けれど妙に明るく、リズムの良い声。それは江戸前の落語家を連想させるような、独特のイントネーションだった。これは怪しい勧誘か?僕は驚いて周囲を見回したが、周囲には遮るもののない広大な砂丘が広がっているだけで、人間の姿はどこにもない。

 

 

 

 


「下だよ、下。何を探してやがる。ここさ、ここだよ!」

 

 

 

 


視線を足元に落とすと、そこには一匹の柴犬が座っていた。やや赤みがかった毛並み、ピンと立った耳、そして少し巻き上がった尻尾。どこにでもいる、ごく普通の柴犬。ただ一つ、その犬の瞳だけは、退屈しきった大人のような、奇妙な知性を湛えて輝いていた。

 

 

 

 


「……?」

 

 

 

 


僕は声が出ないから、ただ目を見開いて後ずさりをした。

 

 

 


「おいおい、そう驚くなよ。確かに俺は四本足で歩くし、普段はワンとしか言わねえけど。だがな、頭の中じゃこれくらいペラペラ喋れるんだよ。まあ、実際に言葉として人間に聞こえるように発声するのは、ちょっとしたコツがいるんだがね!」

 

 

 

 


犬は器用に前足で自分の胸を叩き、フンと鼻を鳴らした。

 

 

 


「俺の名前はハチってんだ。観光客に『あら、可愛いねえ』なんて言われて、頭を撫でられる毎日にすっかり嫌気がさしてな。本当の『粋な人生』ってやつを探すために、今朝方、飼い主の家を脱走してきたところよ。で、歩き疲れてここで休んでたら、お前さんに出会ったってわけだ!」

 

 

 

 


ハチと名乗った犬は、僕の顔をじっと覗き込んできた。僕はパニックになりながらも、ポケットから常に持ち歩いている小さなノートとペンを取り出し、素早く文字を書いた。

 

 

 

 


【僕、頭がおかしくなったのかな? 犬が喋るわけがない】

 

 

 


それを覗き込んだハチは、ゲラゲラと笑うような仕草で首を振った。

 

 

 

 


「文字を書く手が震えてるぜ、兄ちゃん。安心しな、お前の頭は正常だよ。ただ、運悪く、いや、運良く、言葉を持つ犬に出会っちまっただけさ。それよりお前さん、声が出ないのかい? さっきから一言も発しねえな…」

 

 

 

 


僕は小さく頷き、ノートにさらに文字を追加した。

 

 

 


【失声症という病気なんだ。喋りたくても、声が出ない】

 

 

 

 


「なるほどな。世の中には喋りたくても喋れない奴がいる一方で、俺みたいに喋りたくて仕方のない犬もいる。これぞ神様のいたずらってやつだ。よし、決めた!俺とお前さんで、ちょっとした旅に出ようじゃねえか。お前さんは俺の足代わりにその鉄の馬を走らせる。俺はお前さんの代わりに、この世のすべてに文句を言ってやる。どうだ、悪くない取引だろ?」

 

 

 

 


ハチはそう言うと、僕の原動機付自転車のフロントに取り付けられていた、大きなワイヤー製のカゴに、ぴょこんと飛び乗った。小柄な柴犬の体は、驚くほどぴったりとそのカゴに収まった。ハチはカゴの中から、前足で前方を指差した。

 

 

 

 


「さあ、出発だ、相棒!ここから西へ、海岸線をひたすら走ろうじゃねえか。あの水平線の向こうに、夕日が一番綺麗に見える絶壁の展望台があるって聞いた。そこが俺たちの目指す場所だ!」

 

 

 

 


僕は唖然としながらも、ハチの勢いに圧倒されていた。何より、彼の一方的なお喋りは、僕の心を包んでいた重苦しい沈黙を、一瞬で吹き飛ばすほどのエネルギーを持っていた。僕はノートをポケットにしまいこみ、キックペダルを踏み抜いてエンジンを始動させた。トトトト、と軽い排気音が響く。

 

 

 

 


こうして、言葉を失った青年と、言葉が溢れ出る柴犬の、風変わりな逃避行が始まった。

 

 

 

 

 

 


 第二章:風を切るカゴと、騒がしいナビゲーター

 

 

 

 


原動機付自転車は、時速三十キロメートルほどののんびりとした速度で、砂丘を離れ、日本海沿いの国道を走り続けた。左側には荒々しい岩肌と山が迫り、右側にはどこまでも青い、どこか寂しげな海が広がっている。カゴの中に収まったハチは、時折、風に耳をなびかせながら、本当に一秒も黙ることなく喋り続けていた。

 

 

 

 


「おいおい、兄ちゃんよ!今のカーブはちょっと膨らみすぎだぜ。俺を振り落とす気かよ? 安全運転が第一だってのは、教習所で習わなかったのかい? まあ、俺は免許持ってねえけどな!」

 

 

 

 


「見てみろよ、あのカモメ。あいつ、絶対に俺の毛並みを笑いやがった。おい、カモメ! 文句があるなら降りてきてタイマン張ろうじゃねえか!」

 

 

 


ハチの声は、すれ違う車の走行音や、激しい潮風の音にかき消されることなく、僕の耳へとダイレクトに届いてくる。不思議なことに、彼の声を聞いている間は、自分が声を失っているという悲壮感が、驚くほど薄れていくのを感じた。

 

 

 

 


ハチは僕を哀れむこともなければ、無理に喋らせようともしない。ただ、自分が喋りたいから喋る。
その徹底した自己中心的な態度が、今の僕には何よりも心地よかった。しばらく走ると、小さな漁港が見えてきた。ちょうど昼時ということもあり、僕のお腹がグウと鳴った。ハチは敏くその音を聞きつけ、カゴの中で振り返った。

 

 

 

 


「なんだ、腹が減ったのか。ちょうどいい、あそこにある寂れた食堂に入ろうじゃねえか。海の近くの汚い店ほど、美味い魚を出すってのが相場決まってるからな!」

 

 

 

 


僕は自転車を止め、ハチをカゴから降ろした。食堂の入り口には「アジフライ定食」と書かれた手書きの看板が出ている。僕は店に入ろうとしたが、ふと足を止めた。注文をするには、ノートを使わなければならない。店員にノートを差し出す時、相手が一瞬見せる「あっ、この人……」という表情。あの、気まずそうな、そして過剰に親切になろうとする空気が、僕はたまらなく嫌だった。僕が躊躇していると、ハチが僕の足元に擦り寄ってきた。

 

 

 

 


「おいおい、何をモジモジしてやがるんだ。声が出ないなら、俺が代わりに注文してやるって言っただろ。お前さんは黙って俺の後ろに付いてきな!」

 

 

 

 


ハチはそう言うと、堂々と食堂の自動ドアの前に立った。センサーが反応してドアが開く。店内には、地元の漁師風の男たちと、エプロン姿の中年女性店員が一人いた。店員は、犬が入ってきたのを見て慌てて声を張り上げた。

 

 

 

 


「ちょっと、困るよ! ウチはペット連れ込み禁止……」

 

 

 

 


「すまねえな、おばちゃん! この兄ちゃんはちょっと喉をひどく痛めててよ、声が出ねえんだ。だから俺が代わりに注文させてもらうわ。アジフライ定食を二つ、大盛りで頼むわ!」

 

 

 

 


ハチが、店内に響き渡るような大声で喋った。その瞬間、食堂の中が完全に静まり返った。漁師たちは箸を止め、店員は口を開けたまま固まっている。誰もが、自分の耳を疑っていた。犬が、完璧な日本語で、しかも威勢のいい口調で注文をしたのだから当然といえば当然だ。数秒の沈黙の後、店員が悲鳴を上げた。

 

 

 

 


「い、犬が、犬が喋った……!」

 

 

 

 


「喋っちゃ悪いかい? 喉がついてりゃ言葉くらい出るさ。それよりおばちゃん、アジフライだ。腹が減って背中と腹がくっつきそうなんだよ。あ、俺の分は皿に盛って床に置いてくれりゃいいからな。もちろん、お金は兄ちゃんがちゃんと払うぜ!」

 

 

 

 


ハチは平然とそう言うと、空いている座敷の席の横にちょこんと座った。僕は苦笑いしながら、ポケットから財布を取り出し、店員に見せた。店員は未だに狐につままれたような顔をしていたが、僕の財布を見て、ようやく現実に戻ったようだった。

 

 

 

 


「あ、頭がおかしくなりそうだけど……わ、分かったよ。アジフライ、二つね……」

 

 

 

 


漁師たちも、最初は驚愕していたが、ハチが「なんだよ、おっさんたち。人の顔、いや、犬の顔をそんなに見つめるんじゃないよ。惚れると火傷するぜ!」と冗談を飛ばすと、一転して大爆笑に包まれた。「おい、この犬、めちゃくちゃ面白いぞ!」「ビールでも飲むか、犬公!」と、一気に宴会のような雰囲気になった。

 

 

 

 

 


僕はその様子を、驚きと共に見つめていた。ここではハチの存在によって、僕の「声が出ない」という事実が、面白いシチュエーションの一部に変わってしまっていたからだ。

 

 

 

 


運ばれてきたアジフライは、サクサクとしていて驚くほど美味しかった。ハチは床に置かれたアジフライを、美味そうにバクバクと平らげていた。僕は久しぶりに、心の底からリラックスして食事を楽しむことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 第三章:沈黙の夜と、明かされた脱走の理由

 

 

 

 


食事を終え、再び国道に戻った頃には、太陽はすでに西に傾き始めていた。潮風が少しずつ冷たさを増していく。僕たちは、今夜の宿を決めていなかった。もちろん、喋る犬を連れてホテルに泊まれるはずもない。僕はさらに自転車を走らせ、海岸沿いにある無料のキャンプ場へと向かった。そこは、オフシーズンということもあり、人影は全くなかった。

 

 

 

 


原動機付自転車を止め、僕は荷物から小さなテントを取り出して設営した。一人旅が好きな僕は、キャンプの道具を一通り持っている。ハチはテントの横に寝そべり、設営の様子をじっと眺めていた。

 

 

 

 


「手際がいいじゃねえか、兄ちゃん。伊達に引きこもってたわけじゃなさそうだな!」

 

 

 

 


ハチの言葉に、僕は苦笑しながらノートを広げた。

 

 

 

 


【昔はよく一人でキャンプに行っていたんだ。声が出なくなってからは、初めてだけどね】

 

 

 

 


「そうかい。まあ、喋らなくてもテントは張れるし、自転車も走る。お前さんが思ってるほど、声が出ないってことは、人生の致命傷にはならねえよ…」

 

 

 

 


ハチはそう言うと、大きなあくびをした。やがて夜が訪れ、周囲は完全な闇に包まれた。波の音が、昼間よりもずっと大きく聞こえる。僕は小さな焚き火を起こし、その炎をハチと共に見つめていた。昼間あれほど騒がしかったハチが、今は静かに揺れる炎を見つめている。その横顔は、どこか寂しげに見えた。僕はノートに文字を書き、ハチの目の前に差し出した。

 

 

 

 


【ハチは、どうして飼い主の家を飛び出したんだ? 粋な人生を探すため、というのは本当か?】

 

 

 

 


ハチは炎から目を離さず、静かにパチパチと鳴る薪の音を聞いている。そして、昼間の軽い調子とは打って変わった、低く、落ち着いた声で話し始めた。

 

 

 

 


「……半分は本当さ。でもな、もう半分は、ただの意気地なしの逃げ出しだよ…」

 

 

 

 


ハチはフゥ、と息を吐き出した。

 

 

 

 


「俺の前の飼い主は、独り暮らしのじいさんだった。耳が遠くてよ、俺がどれだけ大声で喋っても、ただ『ワンワンとよく吠える元気な犬だ』としか思ってなかった。でも、優しかったんだぜ。俺の言葉は伝わらなくても、心は伝わってたんだ…」

 

 

 

 


ハチの瞳に、焚き火の炎が赤く反射している。

 

 

 

 


「そのじいさんがな、先月、急に亡くなっちまったんだ。病気さ。あとに残されたのは、じいさんの親戚連中。あいつらは、俺のことを『面倒な遺品』としか見てなかった。あいつらがヒソヒソ話してるのが聞こえたんだよ。『保健所に連れて行くか』『それともどこかに捨ててくるか』ってな…」

 

 

 

 

 


ハチは、自嘲気味に鼻を鳴らした。

 

 

 

 

 


「憐れまれるのも、邪魔者扱いされるのも、俺のプライドが許さなかった。だから、あいつらが檻に入れる前に、自分で鍵を開けて飛び出してやったのさ。自分で自分の運命を決めてやるってな。でもよ……本当は、ただ怖かっただけさ。誰も俺の言葉を本当に理解してくれない世界で、一人ぼっちになるのがな…」

 

 

 

 

 


ハチの言葉は、僕の胸に深く突き刺さった。形は違えど、ハチが抱えている孤独は、僕の孤独と同じように思えた。居場所を失い、傷つく前に自ら関係を断ち切って逃げ出す。僕が大学を休学してここにいるのも、ハチが家を飛び出したのも、本質的には同じ逃避だった。

 

 

 

 


僕はノートに、ゆっくりと文字を書いた。

 

 

 

 


【僕も同じだ。声が出なくなって、みんなの目が怖くて逃げ出した。でも、ハチに出会えてよかった。ハチの言葉は、僕に届いているから】

 

 

 

 


ハチはその文字を見つめ、それから僕の顔を見上げると、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 


「へっ、ありがとよ、兄ちゃん。お前さん、いいやつだな。よし、お互いの傷の舐め合いはここまでだ。明日はあの展望台に行って、最高に綺麗な夕日を拝もうじゃねえか。そのためにも、今日はもう、とっとと寝るぜ…」

 

 

 

 

 


ハチはそう言うと、テントの隅に丸くなった。僕は焚き火に水をかけ、静寂の戻った夜空を見上げた。雲の隙間から、星がいくつか顔を覗かせている。一人ではないという感覚が、冷え切った僕の心を、少しだけ温めていた。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:世界の境界線、届かない言葉

 

 

 

 


翌朝、僕たちは再び原動機付自転車を走らせた。目的地である西の展望台までは、あと数十キロメートルの距離だった。空は抜けるように青く、海はおだやかだった。ハチは再び、カゴの中で大声でヘタクソな歌を歌ったり、通り過ぎる看板の文句に、いちいちツッコミを入れたりしていた。その騒がしさが、今の僕には愛おしくてたまらなかった。

 

 

 

 

 


午後を過ぎた頃、道は徐々に上り坂へと変わっていった。海岸線の断崖絶壁を登る、ワインディングロード。小さな原動機付自転車は、二人の体重(一人と一匹)を支えながら、苦しそうなエンジン音を立てて坂を登っていく。ハチはカゴの縁に前足をかけ、どんどん高くなっていく視界を楽しんでいた。

 

 

 

 


「おい、兄ちゃん! 見てみろよ、海があんなに下に見えるぜ! 地平線が丸みを帯びてやがる。世界ってのは、本当に広いよな!」

 

 

 

 

 


その時だった。急なカーブを曲がった先で、道路の真ん中に大きな石が転がっているのが見えた。僕は慌ててブレーキをかけた。速度が出ていたわけではないのに、原動機付自転車の古いタイヤは砂に足を取られ、車体は大きく横滑りした。

 

 

 

 


「うわっと!」

 

 

 

 


ハチが叫んだ。僕は必死にハンドルを立て直そうとしたけど、車体は無情にも横転してしまった。ガガガ、と激しい金属音が響き、僕の体はアスファルトの上を滑っていった。それと同時に、前のカゴからハチの体が放り出されるのが見えた。

 

 

 

 


「ハチ!」

 

 

 

 


心の中で叫んだけど、口からはただの空気の抜けるような音しか出なかった。幸い、速度が遅かったため、僕自身の怪我は擦り傷程度で済んだ。僕はすぐに起き上がり、ハチの姿を探した。ハチは、道路の脇の草むらに倒れていた。小さな体が、小刻みに震えている。僕は駆け寄って、ハチの体を抱き起こそうとした。

 

 

 

 


「……痛えな、クソ。着地に失敗しちまったぜ…」

 

 

 

 



見ると、ハチの後ろ足から血が流れている。骨が折れているわけではなさそうだが、深く切れている。
ハチの顔は苦痛に歪んでいた。僕はパニックになりながらも、すぐにリュックから救急キットを取り出した。

 

 

 

 


「う、うおっ! 染みる! 染みるぜ、兄ちゃん! もっと優しくやれよ!」

 

 

 

 


ハチは悲鳴を上げたが、僕は必死で包帯を巻きつけた。ハチは僕の表情を見て、徐々に静かになり、暴れるのをやめた。包帯を巻き終えると、ハチの呼吸は少し落ち着いたようだった。

 

 

 

 


「……ふぅ、ありがとよ、兄ちゃん。お前さん、手際がいいだけじゃなくて、度胸もあるんだな。見直したぜ…」

 

 

 

 


僕はハチをそっと抱き上げ、原動機付自転車の様子を確認した。バックミラーは割れてしまい、ステップが少し曲がってしまった。しかし、エンジンは問題なく始動してくれた。僕はハチを、今度はカゴではなく、僕の胸の前に抱きかかえるようにして座らせた。ハチの体は温かく、そして小さかった。

 

 

 

 


「すまねえな、兄ちゃん。足を引っ張っちまってよ…」

 

 

 

 


ハチが胸元で小さく呟いた。僕は首を横に振った。
ノートを取り出す余裕はなかった。僕の気持ちはハチに伝わっているはずだった。傷ついた二人が、互いに寄り添いながら、最後の坂道を登っていく。目的地の展望台は、もう目の前だ。

 

 

 

 

 

 

 


第五章:星屑のダイアローグ

 

 

 

 


夕暮れ時、僕たちはついに目的地の断崖絶壁の展望台に到着した。そこは、日本海に突き出た岬の最果てだった。周囲には遮るものは何もなく、視界のすべてが海と空で満たされている。太陽はまさに、水平線の彼方へと沈もうとしているところだった。空は、深い青から鮮やかなオレンジ、そして燃えるような赤へと、美しいグラデーションを描いていた。

 

 

 

 

 


僕は原動機付自転車を止め、ハチを優しく抱き上げて、展望台のベンチに座らせた。ハチの包帯には、うっすらと血がにじんでいた。けれど、ハチはそんなことを忘れたかのように、目の前に広がる圧倒的な景色に見入っている。

 

 

 

 

 


「……すげえな」

 

 

 

 


ハチが、ぽつりと呟いた。その声には、いつもの江戸前口調の軽さはなく、なんだか一人の旅人としての純粋な感動がこもっていた。

 

 

 

 


「おい、兄ちゃん。俺さ、生まれて初めてこんなに広い景色を見たよ。じいさんの家の庭は狭かったし、観光地じゃ人の足元ばっかり見てたからな。世界ってのは、こんなに綺麗だったんだな…」

 

 

 

 



沈みゆく太陽の光が、僕たちの影を長く、東の空へと伸ばしていく。僕には声がなく、ハチには人間の体がない。それでも、僕たちは同じ景色を見て、同じ風を感じ、同じ感動を共有していた。太陽が完全に水平線の下へと姿を消すと、空は急速に闇に支配されていった。入れ替わるようにして、夜空には無数の星が瞬き始めた。

 

 

 

 


ハチは夜空を見上げたまま、静かに言った。

 

 

 


「兄ちゃん。俺、お前さんに出会えて、本当によかったよ。声が出ないお前さんと、犬の俺。はたから見れば、おかしな二人組だったろうけどさ。俺たちの旅は、最高に粋だったじゃねぇか!」

 

 

 

 


僕はポケットからノートを取り出そうとして、その手を止めた。僕は、ただハチの頭を、優しく撫でていた。ハチは目を細め、気持ち良さそうに僕の手のひらに頭を預けてきた。その時、僕の胸の奥から、何かがせり上がってくるのを感じた。それは、これまで僕を縛り付けていた、恐怖や絶望、そして孤独の塊ではなかった。

 

 

 



僕は深く息を吸い込んだ。僕は、夜空に向かって、自分の声を解き放とうと思った。

 

 

 

 

 


「……あ、あ……」

 

 

 

 



僕は、もう一度、力を込めた。

 

 

 

 


「ハ……ハチ!」

 

 

 

 



ハチは驚いたように耳をピンと立て、僕の顔を見つめた。ハチは、嬉しそうに尻尾を、大きく振った。
その瞬間、満天の星空を切り裂くように、一筋の大きな流れ星が、鮮やかな光の尾を引いて夜空を駆け抜けていった。僕は思わず、その光の軌跡を指差した。

 

 

 

 


「あっ!」

 

 

 

 


僕が声を上げたのと同時に、ハチもまた、その光に驚いて声を漏らした。

 

 

 

 

 


「えっ!」