SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#382 星をめざしたちいさな爪 Little Claws to the Stars


 第一章:お空にのびる、大きな岩のかべ

 

 

 

 


むかしむかし、深いもりのなかに、くろくてフワフワした毛皮をもつ、ちいさな男の子のクマがいました。名前はクウといいます。クウはまいにち、じぶんのまあるい手を見つめては、フゥ、とため息をついていました。

 

 

 

 


「ぼくのツメ、まだまあるくて、やわらかいな。これじゃあ、あのお山のうえにはいけないよ…」

 

 

 


クウのとなりには、まるでおおきな木のように、たくましくて頼もしいおかあさんのエルダが立っていました。二人の目の前には、お空をツンとつきさすような、とっても高くて大きないわ山がそびえ立っています。山のうえには、しろい雲がふわふわと浮かび、冷たい風がヒュウヒュウと音を立てて吹きつけていました。

 

 

 

 


このきびしい岩のかべをいちばん上まで登りきること。それが、この森にいきるクマたちが、大きなおとなになるためのたいせつな約束だったのです。エルダは何も言わずに、クウのあたまをぽん、と一回だけなでました。そして、するどいツメを岩にしっかりたてて、スタスタと登りはじめたのです。

 

 

 

 


「おかあさん、待ってよ。本当にここを登るの?」

 

 

 

 


クウがちいさな声で呼びかけると、エルダは足を止めずに、やさしいけれど強い声で答えました。

 

 

 

 


「前だけを見るのですよ、クウ。私たちのうしろには、もう戻れる道はないのですからね…」

 

 

 

 


クウはこわい気持ちをギュッとむねに押しこんで、つめたい岩のまるい突起に右手をかけました。

 

 

 

 


「ひゃあ、つめたい! 氷みたいにひえひえだよ!」

 

 

 

 


指先からつたわる寒さに、クウのからだはぶるぶる震えました。それでも、一歩、また一歩と、おかあさんのあとを必死に追いかけます。

 

 

 

 


「おかあさん、この岩、ツルツルしてすべるよ。ねぇ、どこを掴めばいいの?」

 

 

 

 


「じぶんでよく見るのです、クウ。わたしの足あとを、おなじようにたどってきなさい。それが上へすすむ、いちばん安全なみちですよ!」

 

 

 

 


おかあさんの大きくて黒い背中は、いつも少しだけ先にあります。その背中を見失わないことだけが、クウにとっての、たったひとつの道しるべでした。
けれど、おかあさんの進むスピードは、ちっとも遅くなりません。それは、クウがじぶんの力で強くなれるようにという、おかあさんの愛のきびしさでもありました。

 

 

 

 


「待って、待ってよ、おかあさん! 早すぎるよ!」

 

 

 

 


「弱音をはいてはダメですよ。お山の神さまは、立ち止まった子をまってくれませんからね!」

 

 

 

 


岩のかべは、どんどん坂がきつくなっていきます。クウの手足の筋肉は、もうパンパンに張って、痛くなってきました。けれど、クウはお腹の底にある力をふりしぼって、岩のちいさなすきまにしがみつきました。下をちらりと見ると、目がまわるほど高い景色が広がっています。

 

 

 

 


「ぼくは、できる。ぜったいに、おかあさんと上までいくんだ!」

 

 

 

 


じぶんに言い聞かせる言葉も、冷たい風にかき消されてしまいます。おかあさんは、けっして後ろを振り返りません。クウはおかあさんの大きな背中だけを見つめて、必死についていきました。

 

 

 

 


「おかあさん、待ってよ!ぼくをおいていかないでよ!」

 

 

 

 


「わたしはここにいますよ。でもね、クウ。お空に近づくのは、あなた自身の足なのです!」

 

 

 

 


お日さまが、お空のまんなかまで登ってきました。けれど、ちっとも暖かくなりません。それどころか、お日さまの光が岩に反射して、クウの目がチカチカしてきました。おでこから流れた汗が目に入って痛かったけれど、クウは手をはなすわけにはいきませんでした。

 

 

 

 

 

 


 第二章:がんばる足と、つめたい嵐

 

 

 

 


岩のかべを登りはじめてから、長い長い時間がすぎました。クウのちいさなからだは、もうクタクタのボロボロでした。指先の感覚はすっかりなくなって、ただロボットみたいに、岩を掴んでからだを持ち上げることを繰り返していました。ちいさなクウにとって、この大きな山は、まるでお化けのように重たくのしかかってくるようでした。

 

 

 

 


けれど、前を歩くおかあさんのエルダは、すこしも疲れた様子を見せません。おかあさんのツメは、まるで魔法の道具のように岩にガチッとくい込み、歩きやすい足あとを作っていきます。クウは、その足あとにぴったり手足を合わせることで、なんとか落ちずにすんでいましたが、もう体力の限界が近づいていました。ハァハァ、ホォホォと、苦しい呼吸が山に響きます。

 

 

 

 


「おかあさん、すこしだけ、すこしだけ休みたいよ……。お願いだから、一回だけ止まって…」

 

 

 

 


「だめですよ、クウ。ここで止まったら、からだが凍って動かなくなってしまいます。生きていたいなら、手と足をうごかしつづけなさい!」

 

 

 

 


「でも、もう手が冷たくて、岩をさわっているのかも分からないんだよ!」

 

 

 

 


「頭で考えるのをやめなさい。あなたの中にある、クマのちからを信じるのです!」

 

 

 

 


そのとき、ゴォォォと激しい風がふいてきました。いじわるな風の神さまが、クウのちいさなからだを山から引きはがそうと、ビュービューと吹きつけます。クウは必死に岩にへばりついて、嵐がすぎるのを待ちました。そのあいだに、おかあさんとの距離は、どんどん離れていってしまいます。見上げるおかあさんの姿が、霧のなかでゆらゆらと小さくなっていきました。

 

 

 

 


クウのあたまの中に、むかし住んでいた、みどりいっぱいの優しい森のけしきが浮かびました。きれいなお花、あったかいお日さま、おいしい木の実。けれど、あのおうちは、つめたい雪がいっぱい降って、もう食べものがなくなってしまったのです。生きのこるためには、この高い山をこえて、新しい、あたたかい原っぱへ行かなくてはなりません。

 

 

 

 


「ねえ、おかあさん。どうしてこんなに苦しい思いをしてまで、お山の向こうへ行かなきゃいけないの?」

 

 

 

 


「あのみどりの森は、もう眠ってしまったのです。ここを越えなければ、お腹がペコペコになって倒れてしまうわ。生きるということは、つらい坂道をのぼっていくことなのですよ!」

 

 

 

 


「あきらめちゃ、ダメだ……。ぼくだって、かっこいいクマのおとなになるんだから!」

 

 

 

 


クウは、むねのなかで一生懸命につぶやきました。けれど、からだの疲れは、クウのやさしい心をいじめてきます。腕は石のように重たく、足はガクガクと震えて、ただ岩にしがみつくだけで精一杯になってしまいました。

 

 

 

 


「おかあさん、ぼく、もう足がうごかないよ…」

 

 

 

 


「クウ、しっかり目を開けなさい。わたしの背中を見るのです。ゴールは、まだずっと先ですよ!」

 

 

 

 


おかあさんの歩くスピードが、すこし早くなったように見えました。それは、お空の上のほうが悪天候になるのを心配したからでしたが、体力の尽きかけたクウにとっては、とても悲しいことでした。クウは最後のちからをふりしぼって、おかあさんの足あとに右手を伸ばしました。けれど、あと少しのところで、手が岩のうえをツルリと滑ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 


第三章:あおい空へ、さようなら

 

 

 

 


そのときは、なんの前ぶれもなく、とても静かにやってきました。クウが「よいしょ…」と足をのせた細い岩のすきまが、パキッと音を立てて割れてしまったのです。ボロボロと、ちいさな石ころが砂になって崩れていきます。一瞬のうちに、クウのからだは、ふわリと宙に浮きました。

 

 

 

 

 


「わっ――おかあさん!」

 

 

 

 


クウのちいさな口から、大きな叫びごえが飛びだしました。両手だけでぶら下がろうとしましたが、疲れきったクウの指には、もう岩をつかむ力は残っていませんでした。ツメが岩をカリカリとひっかいて、かなしい音を立てます。けれど、からだはそのまま、まっさかさまに落ちていってしまいました。

 

 

 

 


そのとき、おかあさんのエルダが、はじめてパッと後ろを振り返りました。おかあさんのどんぐりのような茶色い目が、びっくりした色に変わるのを、クウは見ました。おかあさんは、ものすごいスピードで大きな手をのばし、落ちていくクウをつかまえようとしました。

 

 

 

 

 


「クウ! わたしの手をしっかり掴みなさい!」

 

 

 

 


「とどかないよ、おかあさん! たすけて!」

 

 

 

 


二人の手と手は、あとほんのすこしで届くところまで近づきました。しかし、山の見えない力がお互いを引き離すように、クウのからだをどんどん下へと引っ張ります。おかあさんの大きなツメが、クウのふわふわした毛皮をかすめましたが、しっかり掴むことはできませんでした。

 

 

 

 


「クウ――ッ!」

 

 

 

 


おかあさんの悲しい叫びごえが、お山全体に響きわたりました。それは、おかあさんがこの旅のなかで、いちばん大きな声で叫んだ、愛のことばでした。しかし、その声も、どんどん遠くなっていきます。クウの目の前で、おかあさんの姿が、どんどん、どんどん小さくなっていきました。

 

 

 

 

 


「おかあさん……ごめんなさい……。ぼく、もういっしょに行けないよ……」

 

 

 

 


落っこちていく感覚は、なんだか不思議な気持ちでした。まわりの景色が、ものすごい速さで上の方へと流れていきます。しろい雲も、灰色のアタマのような岩肌も、遠くの青い山々も、みんなグルグルと回るおもちゃのようでした。クウは、じぶんの旅がここで終わることを、ちいさな胸のなかで分かっていました。

 

 

 

 


おかあさんは岩にしがみついたまま、ただ落ちていくクウを上から見つめることしかできませんでした。どんなに強いおかあさんクマでも、お山の掟には勝てなかったのです。

 

 

 

 


「ああ、わたしのたいせつなクウ……。どうして、届かなかったの……!」

 

 

 

 


クウは最後の瞬間まで、おかあさんの姿を見つめていようとしました。けれど、やがて目の前がまっしろな霧につつまれて、すべてが優しい光のなかに消えていきました。

 

 

 

 

 

 


第四章:しろい谷の底の、ちいさなねむり

 

 

 

 


深い深い谷の底。そこは、だれもやってこない、とても静かで冷たいお部屋のようでした。たくさん積もったフワフワの雪と、やわらかい枯れ木のお布団が、クウが落ちてきたときの衝撃を、やさしく受け止めてくれていました。しかし、クウのちいさなからだは、もうボロボロで、傷だらけになっていました。

 

 

 

 


クウは、深いねむりから、ゆっくりと目を覚ましました。からだじゅうがズキズキと痛んでいましたが、その痛みも、だんだんと遠くなっていきます。手と足の先から、ひんやりとした冷たさが、ゆっくりと登ってくるのが分かりました。

 

 

 

 


「ここは……どこ。ぼく、まだ生きているのかなぁ…」

 

 

 

 


まわりを見わたしても、お日さまの光は届きません。うすぐらくて、しめった谷の底でした。上を見上げても、さっきまで命がけで登っていた高い岩のかべは、しろい霧のむこうに隠れてしまって、なにも見えません。おかあさんの姿も、クウを呼ぶ優しい声も、なにも聞こえない、ひとりぼっちの世界でした。

 

 

 

 

 


「おかあさん、どこにいるの? いたいよ……。まっくらで、なにも見えないよ…」

 

 

 

 


クウがいっしょうけんめい呼んでも、だれも返事をしてくれません。ただ、冷たい風がヒュルルルと寂しそうに鳴くだけでした。動こうとしても、からだはちっとも動きません。手も足も、まるでじぶんのものではなくなってしまったみたいでした。クウは冷たい雪のうえに横たわったまま、静かにその時をまつしかありませんでした。

 

 

 

 

 


「さむいなぁ……。ぼくがもっと、強い子グマだったら、おかあさんと一緒にあの上の原っぱに行けたのかな…」

 

 

 

 


ひとりぼっちの寂しさが、からだの痛みよりも、クウのむねをギューッと痛くさせました。あともうすこし頑張っていれば、という気持ちが涙になってこぼれそうになります。

 

 

 

 


しかし、それと同時に、なんだかホッとしたような、不思議な気持ちにもなっていました。もう、あのおそろしい岩のかべを登らなくてもいいのです。風と戦わなくてもいいのです。

 

 

 

 


「もう、がんばらなくても、いいんだよね。おかあさん、ぼく、ここで少しだけねむるね……」

 

 

 

 


谷の底にふく優しい風が、クウの耳もとで、子守唄をうたいだしました。クウはそっと目を閉じて、おかあさんのあったかいお腹のぬくもりを思い出しました。あのみどりの森で、いっしょに遊んだ楽しいまいにち。おかあさんの大きな手が、じぶんを抱きしめてくれたこと。それらはすべて、宝物のようにクウの心のなかに残っています。

 

 

 

 


空から、白い雪がヒラヒラと降ってきて、クウの黒い毛皮を優しくつつんでいきました。それはまるで、お山の神さまがくれた、あったかい毛布のようでした。

 

 

 

 


「さようなら、世界でいちばん大好きな、おかあさん……」

 

 

 

 


クウは静かに、さいごの息をすうっと吸って、はぁ、と吐き出しました。そして、小さくて優しいねむりのなかに、ゆっくりと落ちていきました。

 

 

 

 

 

 


第五章:お空のてっぺん、ひとりぼっちのあしあと

 

 

 

 

 


クウが落ちてしまった場所から、ずーっと高い岩のかべの途中。おかあさんのエルダは、石のように固まって、じっと下を見つめていました。ツメを岩に深く突きさしたまま、そこから一歩も動くことができなくなっていたのです。たいせつなクウを失った悲しみが、おかあさんの大きな胸をいっぱいに満たしていました。

 

 

 

 


「わたしの可愛いクウ……。どうして、どうしてあなたの手を、つかんであげられなかったの。この大きな手は、なんのためにあったというの…」

 

 

 

 


しかし、いじわるなお山の天気は、おかあさんが悲しむのをいつまでも待ってくれません。お空のうえから、まっ黒な雪雲がものすごい速さで近づいてきて、冷たい吹雪がビュオオオと吹き荒れはじめました。ここでいつまでも立ち止まっていれば、おかあさんまで凍りついて、死んでしまいます。

 

 

 

 


エルダは、クウが消えていった暗い谷の底にむかって、一生に一度だけの、かなしい大きな声で吠えました。

 

 

 

 


「クウ――ッ! あなたの命は、おかあさんがこの胸にだきしめて進みます! けっして、わすれたりしないからね――!」

 

 

 

 


その大きな声は、お山の中に響きわたって、谷の底でねむるクウの耳にも、届いたかもしれません。けれど、静かな谷からは、なんの返事も聞こえてきませんでした。

 

 

 

 


おかあさんは、涙を流しませんでした。強い大人のクマとして、前を向いて歩くしか、生きる道はないと知っていたからです。おかあさんは再び、つめたい岩にツメを立てました。

 

 

 

 


「わたしは登ります。クウ、あなたが見るはずだった世界を、わたしがこの目でしっかり見るために…」

 

 

 

 


ここからのおかあさんの登り方は、さっきまでとはまるで違っていました。危なくないようにゆっくり登るのではなく、まるで風や山と戦うように、ものすごい速さでガシガシと登っていきました。クウを助けられなかった悔しい気持ちが、おかあさんの手と足に、信じられないほどの強いちからを与えていたのです。

 

 

 

 


「こんなに冷たい風が、あなたを苦しめていたのね。気づいてあげられなくて、ごめんね、クウ…」

 

 

 

 


一歩のぼるたびに、おかあさんのあたまの中には、クウの可愛い笑顔が浮かんできました。はじめてよちよち歩いた日。あかい野イチゴを半分こして食べた日。そして、あの高い壁で、いっしょに一生懸命がんばって登っていた姿。おかあさんは、その思い出をむねの奥深くに大切にしまって、もう絶対に後ろを振り返りませんでした。

 

 

 

 

 


やがて、お空のてっぺんが、すぐそこに見えてきました。最後の大きな岩をぐっと掴んで、おかあさんは、ついに山のいちばん上にたどり着きました。
そこには、二人がずっと夢に見ていた、広くてあたたかい、新しい世界が広がっていました。遮るもののない、キラキラしたお日さまの光が、白い雪の原っぱを美しく、金色に照らしています。

 

 

 

 

 


しかし、そのまぶしい光の中に、いっしょに喜ぶはずの、だいすきなクウの姿はありません。

 

 

 

 


「ついたよ、クウ。ここが、わたしたちの目指していた場所だよ……。見てごらん、こんなに、こんなに綺麗な世界が広がっているよ…」

 

 

 

 


おかあさんは、新しい世界の優しい風に吹かれながら、一人でぽつんと立ち尽くしていました。長い旅は終わりましたが、おかあさんの心にできた寂しい傷は、これから先も、ずっと消えることはありません。

 

 

 

 


「お母さんは生きるわ。クウ、あなたがわたしにくれた、この命がある限り…」

 

 

 

 


おかあさんは静かに歩きはじめました。あたらしい森で、また一生懸命に生きていくために…