SCENE

誰かの朝、誰かの夜。 すれ違う時間の中に、物語はひっそりと立ち上がる。 喜びや痛みが言葉になる前の、かすかな瞬間をすくい取るように。 これは、世界のどこかで息づく人々の、小さな「場面(シーン)」の記録です。by-魚住 陸 Riku Uozumi

SCENE#383 ちっとも狩りに行かない百獣の王 The Lion Who Forgot to Hunt


第一章:ニートな王様、本日も異常なし

 

 

 

 


地平線の果てまで乾いた大地が続く、アフリカのサバンナ。そこは、生き馬の目を抜く熾烈な生存競争の世界である。誰もが生きるために走り、牙を剥き、命を削っている。

 

 

 

 


――というのは、テレビの自然科学番組が作った、ただのイメージだった。

 

 

 


「ふわあ……あーあ、今日も風が気持ちいいな!」

 

 

 


立派な木陰の特等席で、一本の巨大なアカシアの木の根元にゴロリと横たわっているライオンがいた。彼の名前はレオ。周囲の動物たちから「百獣の王」と恐れられ、その見事な黒いたてがみは、大人の雄ライオンとしての威厳に満ちあふれていた。

 

 

 

 


しかし、現在の彼の状態を正確に表現するならば、「究極のニート」である。レオは、一日のうちおよそ20時間を寝て過ごす。残りの4時間は、寝返りを打つか、ハエを尻尾で追い払うか、あるいは遠くをぼんやりと眺めることに費やされていた。

 

 

 

 


「ちょっと、レオ。いい加減にその大きないびきを止めてくれない?」

 

 

 


トゲのある声で話しかけてきたのは、同じ群れの雌ライオンであり、実質的な現場監督でもあるキルザだった。彼女は、引き締まったしなやかな身体を持ち、その鋭い目は常に周囲の状況を警戒していた。

 

 

 

 


「ん? なんだい、キルザ。せっかく今、サバンナの平和について深い瞑想をしていたところなのになぁ…」

 

 

 


レオは片目だけを開け、実に面倒くさそうに前脚を動かした。

 

 

 


「瞑想じゃなくて、ただの爆睡でしょ!お腹が空いたからって、寝ながら口を開けて待つのをやめなさいよ。誰もあなたの口に肉を放り込んだりはしないわよ!」

 

 

 


キルザの正論に、レオはフッと鼻で笑った。

 

 

 


「君は分かっていないな。王がどっしりと構えているからこそ、この群れの秩序は保たれているんだ。もし、俺がバタバタと動き回ったら、それこそサバンナの生態系がパニックを起こしてしまうよ!」

 

 

 

 


「ただ動きたくないだけでしょ!本当に、この男はどうしようもないわね……」

 

 

 


キルザは大きなため息をつき、首を振った。レオの立派なたてがみは、今や木陰の枕として最高のクッションにしかなっていなかった。

 

 

 

 

 

 


第二章:働く妻たち、食いつなぐ夫

 

 

 

 


午後になり、太陽が真上から照りつけるようになると、いよいよ本格的な狩りの時間が近づいてきた。
ライオンの群れにおいて、食料を調達するのは伝統的に雌たちの役割である。キルザを中心とした優秀なハンターチームは、草むらに身を潜め、風下からゆっくりとシマウマの群れへと近づいていく。彼女たちの連携は完璧だった。一人が獲物を追い込み、もう一人が退路を断ち、一撃で仕留める。まさにプロフェッショナルな職人技だ。

 

 

 

 


一方、その頃、レオはというと…

 

 

 


「うーん、右側を下にして寝るのにも飽きたな。次は左側にしようか…」

 

 

 


彼は、地球の自転に合わせて、アカシアの木の影が移動するのに従い、自分の身体を少しずつズラしていた。日焼けを気にする都会の若者のように、彼は常に「完璧な日陰」をキープすることだけに全精力を注いでいた。

 

 

 


「ねぇ、レオ! 獲れたわよ! 早く来なさいよ!」

 

 

 

 


遠くからキルザの呼ぶ声が聞こえた。彼女たちは見事に大きなヌーを仕留めたらしい。その声を感知した瞬間、レオの動きは野生のそれへと変貌した。それまでの鈍重さが嘘のように、スクっと立ち上がり、たてがみをサッと一振りして、堂々たる足取りで獲物の元へと歩き出した。

 

 

 

 


そして、命懸けで戦った雌たちの前に到着すると、レオは「うむ、大儀であった…」とでも言いたげな顔で、一番乗りに肉に噛みついた。ライオンのルールでは、最初に食べる権利は雄にある。

 

 

 

 


「はぐ、はぐ……もぐ、もぐ……うん、今日の肉は少し硬いな。次はもう少し柔らかい肉にしてくれると嬉しいんだけど…」

 

 

 

 


「文句を言うなら、今度からは自分で狩りなさいよ!」

 

 

 


キルザたちの冷たい視線が突き刺さるが、レオはどこ吹く風で、一番美味しい部位を独占して食べ続けた。彼は、自分が一切の怪我をすることなく、最高の食事を手に入れることのできるこのシステムに、心から満足していた。

 

 

 

 

 

 


第三章:招かれざる「意識高い系」の若者たち

 

 

 


そんな平和(レオにとっての)な群れに、不穏な空気が漂い始めたのは、数日後のことだった。群れの境界線付近の草むらから、クスクスという不敵な笑い声と、挑発的な雄叫びが聞こえてきた。現れたのは、どこか別の地域から放浪してきたと思われる、二頭の若い雄ライオンのコンビだった。

 

 

 

 


彼らはレオに比べて若く、身体は筋肉質で引き締まり、たてがみはまだ短かったが、その目はギラギラとした野心に満ちていた。

 

 

 

 


「おいおい、見てみろよ。あの有名な百獣の王とやらの姿を!」

 

 

 


一頭の若い雄が、レオのたるんだお腹を見てせせら笑った。

 

 

 


「本当に百獣の王かよ? ただのサバンナの粗大ゴミの間違いじゃないのか。おい、おっさん。そんなに眠いなら、その場所と雌たちを俺たちに譲って、どっかの動物園にでも転職したらどうだい?」

 

 

 

 


彼らは、現代の成果主義を絵に描いたような、血気盛んな「意識高い系」の放浪ライオンだった。彼らにとって、寝てばかりで狩りもしないおじさんレオは、簡単に排除できる「過去の遺物」に過ぎなかった。

 

 

 

 


キルザたち雌ライオンは、一歩後ろに下がり、冷ややかな目で事の顛末を見守っている。

 

 

 

 


「さあ、レオ。あなたの存在価値を証明する時が来たわよ。それとも、本当にあの若い子たちに全部譲って、引退する?」

 

 

 


レオはゆっくりと立ち上がった。お腹はいっぱいで、本当は今すぐ二度寝をしたい気分だった。若い彼らの言う通り、自分はもう時代遅れなのかもしれない。戦うのは面倒だし、痛いのも嫌いだ。

 

 

 

 


「やれやれ……」

 

 

 

 


レオは小さく呟いた。彼の心の中の「どうしようもなさ」が、この緊迫した状況でも頭をもたげていた。しかし、彼には一つだけ、譲れないものがあった。それは、「この最高のアカシアの木陰」だ。

 

 

 

 

 

 

 


第四章:百獣の王、本気(マジ)になる

 

 

 

 


「おい、若けぇの…」

 

 

 

 


レオは、わざと大きなあくびをしながら、二頭の前に進み出た。

 

 

 


「俺の睡眠時間を邪魔した罪は重いぞ。お前たちのその短い髪型、俺がもう少しスマートに整えてやろうか?」

 

 

 

 


「うるさい、老害め! 死ぬといい!」

 

 

 


二頭の若い雄が、同時にレオに向かって飛びかかってきた。鋭い爪が空を裂き、牙が剥き出しになる。キルザたちの間に緊張が走った。その瞬間、レオの目の色が変わった。彼の中に眠っていた、何世代にもわたって受け継がれてきた「圧倒的な野生の遺伝子」が、一瞬で覚醒した。

 

 

 

 


「ウオオオオオオオオオオッ!!」

 

 

 

 

 


地鳴りのような激しい雄叫びがサバンナに響き渡った。その声の圧力だけで、周囲にいた鳥たちは一斉に飛び立ち、若い雄たちは思わず圧倒されて足を止めた。

 

 

 

 


レオは、体重200キロを超える巨体を信じられないスピードで躍動させた。一頭の若い雄の顔面に、肉球のバーストを喰らわせる。その強烈な一撃で、若い雄は地面を何回転も転がった。

 

 

 

 


「な、なんだこの、すさまじいパワーは!?」

 

 

 

 


もう一頭が驚愕する間もなく、レオはその太い前脚で彼の首根っこを抑え込み、すかさず地面に叩きつけた。レオの鋭い牙が、若者の喉元の一センチ手前でピタリと止まった。

 

 

 

 


「いいか、若造よ…」

 

 

 


レオは、地獄の底から響くような声で囁いた。

 

 

 

 


「俺がなぜ20時間も寝ているか分かるか? ……残りの4時間で、お前たちのような、クソ生意気なガキをいつでも効率的に叩きのめすため、エネルギーを極限まで温存しているからだ…」

 

 

 

 


若い二頭は、恐怖で全身をガタガタと震わせた。彼らの持っていた薄っぺらな「成果主義」は、レオの持つ圧倒的な「野生の歴史」の前に、完膚なきまでに粉砕されたのだった。

 

 

 

 


「す、すいませんでしたー!」

 

 

 


彼らは尻尾を巻いて、来た道を猛スピードで逃げ去っていった。

 

 

 

 

 

 


第五章:そして、いつもの長いあくび

 

 

 

 


嵐のような戦闘は、わずか数分で幕を閉じた。レオは、逃げていく若者たちの後ろ姿を見送ると、ハァハァと荒い息を吐きながら、自分の身体を見回した。前脚に少し擦り傷ができており、自慢のたてがみに泥がついていた。

 

 

 

 


「あーあ、最悪だな。せっかくの美しい毛並みが台無しじゃないか…」

 

 

 

 


レオは不機嫌そうにブツブツと文句を言い始めた。
キルザをはじめとする雌ライオンたちが、ゆっくりと彼の元へ歩み寄ってくる。彼女たちの目には、さっきまでの冷ややかさはなく、少しだけ見直したような色が浮かんでいた。

 

 

 

 


「なかなかやるじゃない、レオ。伊達に毎日寝てばかりいたわけじゃないのね…」

 

 

 

 


キルザが、彼の泥のついたたてがみを、そっと毛づくろいしてやりながら言った。

 

 

 

 


「当然さ。王の仕事は、いつだってここぞ!という時の一撃なんだよ。……あー、それにしても動いたら急激にエネルギーが減ってきたなぁ…」

 

 

 

 


レオは、そう言うが早いか、再びあのアカシアの木の根元へと向かってフラフラと歩き出した。そして、一番お気に入りのへこみに合わせて、全く同じ姿勢でゴロリと横になった。

 

 

 

 


「キルザ!次の狩りの時は、絶対に柔らかいお肉にしてね。あと、ハエがうるさいからシッポを動かすのも疲れるんだ…」

 

 

 


「はいはい、分かったわよ…」

 

 

 


キルザは苦笑いしながら、再び目を閉じた王の姿を見つめた。レオは明日からも、相変わらず一日の大半を寝て過ごし、雌たちの獲物を横取りし、サバンナで一番、ものぐさなライオンとして生きていくだろう。彼の「どうしようもない」ニート生活は、何一つ変わらない。

 

 

 

 


しかし、この群れがいる限り、そしてあの美しい木陰がある限り、彼はその圧倒的な力で、すべてを守り続ける。

 

 

 

 


「ふわあ……」

 

 

 

 

 


レオは、今日一番の、最高に大きくて、最高にやる気のないあくびを一つした。サバンナの昼下がり、太陽の光に包まれながら、王様の長い長い昼寝が、再び静かに始まる…