
第1章:共鳴する夢の波長
西暦2050年。東京、宇宙科学研究機構の地下深くに位置する地球外知的生命体探査プロジェクト「アトラス」の研究棟は、外部の光が一切届かない、閉ざされた空間だった。若き天文学者アキオ・サクラギは、数十年にわたり蓄積された超深宇宙探査衛星「ケプラー」の膨大なアーカイブデータに埋もれていた。
彼の興味の焦点は、300光年彼方の赤色矮星「ケプラー1649」を周回する系外惑星「テラ・ノヴァ」(ケプラー1649c)だった。その惑星はサイズ、質量、そしてハビタブルゾーン内の位置が地球と驚くほど類似しており、「第二の地球」として知られていた。
しかし、アキオが検出したのは、従来の電波望遠鏡が捉えるノイズや人工的な信号ではなかった。それは、電磁スペクトルを逸脱した、極めて微弱なエネルギーのゆらぎだった。アキオはこれを「感情の波長」と仮に名付けたが、そのシグナルはまるで誰かの深い心の動きをトレースしているかのようだった。
このシグナルを受信し始めてから、アキオは日常的に不可解な夢を見るようになった。夢の中の風景は一貫して100年前の地球の風景、特に20世紀初頭のヨーロッパ風の都市だった。石畳の通りには、煤煙を吐く蒸気自動車や、優雅な翼を持つクラシックな飛行船が飛び交い、人々は地球の過去の服装に身を包んでいた。目覚めると、彼の脳裏には、夢で出会った人々の感情の残渣、聞いたことのない、酷く懐かしい響きを持つ言語の断片が焼き付いていた。
ある時、夢の中で彼は、テラ・ノヴァの空に浮かぶ二つの月を見た。地球には一つしかない月が、なぜかテラ・ノヴァには二つある。この矛盾が、この夢が単なる個人的な幻覚ではなく、テラ・ノヴァの現実の一部である可能性を示唆していた。アキオは、この「感情の波長」こそが、テラ・ノヴァの文明と彼の意識を同期させているのではないか、という、科学者としては受け入れがたい直感に突き動かされていた。
第2章:過去からの記憶の痕跡
アキオは、個人的な体験としての「夢」の記録を厳重に秘匿しつつ、観測データとしての「感情の波長」シグナルの解析を、データ科学者や信号処理の専門家からなるチームと共に進めた。このシグナルが持つ特性は、従来の信号処理理論では全く説明がつかなかったが、アキオはシグナルの強弱と、地球の過去の出来事を結びつけるという、統計学的に無謀な試みを実行した。
その結果は、誰もが息をのむものだった。テラ・ノヴァからの信号は、地球上で大規模な集団的感情のイベント、具体的には戦争の勃発、巨大な自然災害、世界的な芸術運動のピークといった時期に、驚くほどの相関性をもってエネルギーを増幅させていたのだ。
例えば、第二次世界大戦終結時の地球の「安堵と歓喜」の感情は、テラ・ノヴァからのシグナルを過去最高のレベルに押し上げていた。それはまるで、テラ・ノヴァが地球の歴史の「感情の影」を、時間をずらしてリアルタイムで追体験し、それを非物質的な媒体を通して宇宙に反射しているかのようだった。
チームの一員は、テラ・ノヴァの文明は、もはや物理的な実体ではなく、惑星規模の巨大な「集合意識体」として存在しており、彼らが「感じている」こと自体が、宇宙への信号になっているのではないか、という大胆な仮説を口にした。テラ・ノヴァは、地球から分離し、地球の失われた過去の可能性を、感情を核として再構築している、時空を隔てた地球の鏡像なのかもしれない。この発見は、単なる異星生命体の存在確認ではなく、宇宙論的なパラダイムシフトを意味していた。
第3章:アカシック・レコードの窓
この非物質的な現象の解明には、従来の宇宙物理学だけでは限界があった。そこでアキオは、異分野の権威、古文書学と数理言語学の世界的専門家であるエリカ・ブラウン博士に極秘裏に協力を依頼した。
エリカは、テラ・ノヴァのシグナルに内在する言語パターンと、地球の古代文明、特に紀元前の消滅した都市国家の粘土板や、ヒマラヤ山脈の密教文書に記された記述との間に、驚くほど精緻な数理的構造の共通性を発見した。これらの古代文書は、すべて「宇宙の始まりの記憶」「生命の種の拡散」、そして「運命の二つの流れ」について語っていた。
エリカが提唱したのは、単なる情報共有の仮説を超えた「アカシック・レコード理論」だった。彼女によれば、宇宙には、すべての存在の思考、感情、出来事が記録された情報結晶体のような非物質的な層があり、テラ・ノヴァの集合意識は、そのレコードに地球よりも容易に、そして深くアクセスする能力を持っている。テラ・ノヴァは、そのレコードから地球の記憶を抽出・再生し、それを彼らの惑星の現実として「生きている」のかもしれない。
エリカは、テラ・ノヴァの二つの月が、地球の過去の神話に登場する「破壊と再生を司る双子の星」と一致していることも指摘した。「私たちは、一つの宇宙的な魂が、異なる時間軸で見る「夢」と「現実」の関係にあるのかもしれない…」とエリカは結論付けた。もしそうなら、テラ・ノヴァの未来は、地球の避けられない未来の姿を示す予言書となる…
第4章:境界の侵食
テラ・ノヴァの信号との「共鳴」は、アキオの個人的な夢や研究室のデータ解析という枠を完全に超え、地球の現実そのものに干渉し始めた。ある夜、アキオは夢の中で、テラ・ノヴァの都市が突如として原因不明の砂嵐と崩壊現象に襲われ、その文明が急速に「風化」していく光景を、五感すべてで体験した。その夢は現実のシグナル解析結果と完全に一致し、テラ・ノヴァからの「感情の波長」は、もはや識別不可能な断末魔のような無秩序なノイズへと変貌していた。しかし、その崩壊と同期するように、地球上で不可解な物質の出現が始まった。
最初に報告されたのは、研究棟の厳重に管理されたサーバー室の隅に、地球上の元素周期表に存在しない同位体を含む、異常に硬い鉱石の破片が発見されたことだった。次に、アキオの自宅の庭に、彼の夢で見たテラ・ノヴァ特有の、濃い青紫色の奇妙な植物が、一夜にして広範囲に繁殖し始めた。
さらに恐ろしいのは、アトラス・チームの数人のメンバーが、解析中に突然、テラ・ノヴァの古代言語の断片を口走ったり、100年前の地球の服装をした幻影に憑りつかれたかのように錯乱状態に陥るケースが続出したことだ。アキオは、テラ・ノヴァの文明が崩壊する際に、その意識と物質の残渣が、時空の歪みを通り抜けて地球の現実に「浸出」しているのではないかと確信した。二つの世界の境界は、もはや維持できず、制御不能な形で一つに溶け合おうとしていた。
第5章:失われた「片割れ」の目的
地球への侵食が進行し、社会的な混乱が広がり始めた、まさにその瞬間、テラ・ノヴァからの「感情の波長」は、一瞬だけ、かつてないほどの統一された意識のメッセージを発信した。それは、一貫性のないノイズの集合ではなく、明確な「警告」と、どうしようもない「深い悲しみ」と「運命的な結合への切望」の感情が絡み合ったものだった。アキオとエリカは、人類の運命を左右するこの最後の信号を解析するため、チームを徹夜で稼働させた。
メッセージの核心は、テラ・ノヴァの生命体が、自分たちが地球から意図的に分離させられた「運命の片割れ」であることを自覚している、という驚愕の事実だった。彼らの文明は、宇宙の周期的な調整機構によって、地球の歴史が辿る可能性のあった「負の経路」、例えば核戦争や環境崩壊といった最悪のシナリオを、隔離された別次元でシミュレーションし、その経験を封じ込めるために生み出された鏡像だったというのだ。
そして、彼らの文明の崩壊、つまりテラ・ノヴァの「魂」の消滅は、宇宙的な目的を達成した後のプロセスであり、二つの惑星が一つに統合され、「魂」が完全な形で次なる進化へと進むための避けられない運命だと信じていた。しかし、彼らが吸収し、今まさに地球に放出しようとしている100年分の「負の過去の記憶」と、崩壊のエネルギーは、地球の現在の文明を確実に破滅させる。それゆえの「警告」と、運命的な結合への「招待」だったのだ。
第6章:運命の選択
テラ・ノヴァからの統合プロセスは、もはや不可避であり、地球時間でわずか数週間以内に完了すると予測された。統合が完了すれば、地球はテラ・ノヴァの混乱した過去の記憶と、崩壊寸前のエネルギーに飲み込まれ、人類の集合意識は破壊され、文明は終焉を迎える。アキオは、テラ・ノヴァを物理的に救うことは、300光年という距離を前にして不可能であることを悟った。残された選択肢は、「救済」ではなく「分離の維持」という、非情な、しかし地球のための唯一の道だった。
彼は、エリカの「アカシック・レコード理論」をさらに一歩進め、意識のエネルギーを逆手に取った最終計画を立案した。テラ・ノヴァの意識が地球の感情を読み取り、それを現実として反映しているのならば、地球からテラ・ノヴァの意識が処理できないほどの高周波で、純粋なポジティブな感情のエネルギーを「ノイズ」として送信すれば、彼らの意識を一時的に遮断し、統合のプロセスを強制的に中断させ、次元の境界を再構築できるかもしれない。
アキオは、世界中のネットワーク、SNS、エンターテインメントシステム、そして個人的なデバイスに秘密裏に侵入し、人類が持つ「愛」「希望」「共感」「創造性」といった強力なポジティブな感情の瞬間を捉え、それを増幅・電気信号に変換する巨大なプロジェクトを立ち上げた。この全人類の意識の奔流こそが、時空を超えて運命の片割れを切り離す、最終兵器となったのだ。
第7章:静寂と残された謎
アキオたちが、世界中の無数の情報源から集めた「希望のエネルギー」を、巨大なパラボラアンテナを通じてテラ・ノヴァに向けて一斉送信した。それは、人類の歴史が持つすべての喜び、優しさ、そして未来への無限の可能性が凝縮された、まばゆい光の静かな津波のようだった。エネルギーは、時空を超越するかのように300光年の距離を一瞬で駆け抜け、テラ・ノヴァの意識に到達した。
数時間の送信の後、テラ・ノヴァからの「感情の波長」は完全に消滅した。アキオの夢は途絶え、地球上に突如として現れた異質な鉱石や青紫色の植物も、まるで最初から存在しなかったかのように消え去った。すべてが元の、静かで秩序ある現実に収束したのだ。テラ・ノヴァが次元の狭間に封印されたのか、それとも地球の「負の記憶」の役割を終えて完全に消滅したのか、誰にも真実は分からない。
アキオは、人類の文明を救ったという安堵と同時に、運命の片割れを見捨てたという深い孤独と罪悪感を抱えていた。彼の胸に残ったのは、あの緑豊かな都市の、二つの月が浮かぶ夜空の、静かで懐かしい残像だけだった。二つの地球の運命は分かれたが、アキオは知っていた。宇宙のどこかで、その「片割れ」は今も、地球の夢を、無限の希望のノイズの中で、ひっそりと見続けているかもしれない、と。その希望のノイズこそが、二つの地球が再び一つになることのない、永遠の守りとなったのだ…